私が先輩と初めて会ったのは、確か初めての生徒会の会合でのこと。
 遅れるまいと10分前に到着した生徒会会議室前で、先輩はドアを解錠している所だった。
「あら」と少しばかりの驚嘆の声を漏らしてから、先輩は、
「早いわね。まだ10分前よ?」
 柔らかく微笑みながら、問いかけるように小首を傾げる仕草を見せた。
 季節は初夏の兆しが見え始める頃だった。


 Please call me...


 当時生徒会書記の立場にあった先輩は、学内でも有名な才女だった。
 落ち着いた物腰。常に保たれている柔らかな雰囲気。
 おっとりしているのとは違う。可憐な草花というよりは、慎ましく花をつける木のような。
 可愛いと評するには大人すぎ、綺麗と評するにはまだ早いような。そんな女性。
 お嬢様という言葉は先輩の為にあるのだと、当時の私は半ば本気で思っていたものだ。
 しかし、見た目のみで人を判断してはいけない。
 先輩の成績は、模試全国上位レベル。かなりの切れ者で、運動もかなりこなす方だった。
 病弱ではないかとさえ思わせる程に白い肌とは対照的に、健康的に締まった体の持ち主。
 実際に体育祭で先輩の運動する姿を見たときには、そっくりの別人ではないかと思った。
 それほど、運動する先輩からは普段とは何かが違う印象を強く受けた

 そしてそれが私の初めて見た先輩の運動するであり………最後になった。

 私が二年生になった年の夏休み明け。学校に先輩の姿はなかった。
 先輩は退学していた。

  ※  ※  ※

 週末の金曜日。学校に携帯電話を忘れてきていることに気がついた時には、もう手遅れだった。
 生徒会の資料を検討したお陰で、学校を出た時には既に夕刻も終わりにさしかかろうという時間。
 市内の書店に頼んでおいた参考書を受け取りにいくため、私は溜息を押し殺して電車に乗り込んだ。
 学校から3駅。市内の賑やかな駅に降りた際、私は家に遅くなる旨を伝えようと携帯電話を探した。
 日は既に半分以上落ちている。駅前に立っていた電話ボックス脇で、携帯を探す。
 いつも無造作に放り込んでいる通学鞄。その何処を漁っても、見慣れたプラスティックの外観は見つからない。
 そう広くはない通学鞄の中。大して探す場所もないその中を丁寧に捜索した後、私は置き忘れという結論に至った。
 どこだ。どこで忘れてきた?
 落としたという選択肢はあり得ない。無造作に扱ってはいるが、落としてしまうほど無下にはしていない。
 従って、何処かで置き忘れたということを前提に記憶の糸を探る。すぐにヒットした。
 そういえば………生徒会室に資料を置きに行った際、途中で電話が掛かってきたのだった。
 掛けてきたのは、友人の北川潤。どこかに遊びに行こうという用件だったが、断った。
 その後、携帯を手にしたまま生徒会室に入り、長机の上に資料を置く。携帯も置く。
 資料を元あった棚や書庫にしまった後………通学鞄の他は何も持たずに部屋を出て鍵を閉めた。
 チッ。
 我知らず、らしくもない舌打ちを鳴らした。
 うかつだった。いつも通学鞄に入っていると安心していた為、携帯の存在を失念していた。
 らしくもない、と自嘲気味に笑う。
 寒空の中、一人苦笑する男。以前の自分なら、そんな些細なことでは落胆もしなかったはずなのに。
 やはり、先日の件が自分の中で渦巻いているせいだろうか。
 まさか。馬鹿馬鹿しい。
 自分で自分の思考を一蹴する。それでやっと、いつもの『久瀬生徒会長』に戻ることが出来た。
 皮肉屋にして打算的。冷血漢の切れ者、久瀬生徒会長。
 私が意図的に纏った生徒会長としてのペルソナは、昔では考えられないほどに強固である。
 それは、いつしか私自身をその中に閉じこめることが出来る程までになっていた。

 私は考える。いつからこうなったのだろうかと。
 私は答える。自分でそう望んだ瞬間からだと。

 電話ボックスに入り、テレフォンカードを挿入。家の番号をプッシュする。
 呼び出し音が鳴る受話器を耳に当てながら、冷たいガラスに背を預けた。
 そして考える。だからこそ、私は学内で起きたあの一件に対して、あのような行動を取ったのだろう。
 単調な呼び出し音は、保留にしていた思考にまでその食指をざわめかせ、捉えようとしていた。
 あの時の自分の行動。今顧みても、目に余る行動であると思える。
 猪突猛進。まるで自分を隠そうともしない相沢祐一に、私はかわそうともせずに衝突した。
 否。かわさなかったのではない。かわせなかったのだ。
 私の纏う仮面。冷たく凍ったペルソナは、今やアイアンメイデンのように私の全身を覆っている。
 元々は内開きだったこの拘束具は、肥大しきった自分によってその出口を塞がれてしまっていた。
 しかも鍵がどこにあるかもわからず、鍵穴すら見当たらない。
 重く、硬く、動きにくいことこの上ない。だからこそ、私はあの突進をかわせなかった。
 敗北感は、なぜか無かった。代わりに、言いようのない焦燥感が偶に感じられる時がある。
 それは、このひび割れた拘束具から自分が漏れ出していると感じられる瞬間。
 そしてそのひびを入れたのは、勿論………

 こんこん

 私の耳が、呼び出し音とは全く別の異音を捉えた。
 はっと、自分の状況を思い出す。らしくもなく――そう、らしくもなく――深い思考に陥っていた。
 前面のガラスには自分ともう一人、ボックスの外に立つ、電話待ちの女性が見て取れる。
 自分を軽く叱責しながら、未だ呼び出し音のみを未練がましく垂れ流し続ける受話器をフックに掛ける。
「失礼、お待たせしました」
 軽く会釈し、顔を上げずにボックスを出る。待っていたのは白く上品なコートを羽織った女性だった。
 赤いインナーを着ているが、決して派手にはなっていない。足下には雪国にありがちなブーツ。
 唯一、白いニーストッキングと対照的な黒いスカートが目に焼き付くほど艶めかしい。
 失礼とは思いつつもすれ違いざま、ちらりと女性の顔を窺った。

 ドクンッ

 心臓が、跳ねた。比喩ではなく電気が走ったかのように思えた。
 間違いない。間違いない。
 彼女だ。先輩だ。私が見間違える筈があるか。そのような馬鹿なことが有るわけがない。
 私は自分の心が激しく波立つのを感じ――逆に、それに流されまいとしていた。
 拘束具が、私を締め付ける。
――関係のないことだ。今の彼女と、今の私。お互いから見て、何の関係がある?
――成程、確かに昔のよしみで、喋ることぐらいは出来ない。だが、ただそれだけだ。
――間違っても、その先は期待するような展開は待っていない。
 理性が喚く。耳元で喚く。鼓膜より聴神経より内側で発せられたそれは、瞬時に私を拘束してしまった。
 光速よりも尚早い次元の思考が終わり、女性を窺った場面から時は流れ出す。
 以前の私ならそのままだった。全くそのままの様子で、平然と歩き出した事だろう。
 だが、今の私は『ひび割れ』だ。だから、
「ぁ………」
 喉から掠れたような声が漏れそうになり――それ以上は『拘束具』が許しはしなかった。
 そして、それで十分だった。
「あら……」
 ボックスの扉に手を掛けた女性が、声を上げる。
 背中越しに聞いた声だけで、私には相手の表情を含めた全てが見えた。
「久瀬…君?」
 声を掛けられなければ素知らぬ振りで通り過ぎるつもりだった。
 歩き出そうとしていた両足が、KOパンチを食らったボクサーのように力を失うのを感じた。
 ゆっくりと振り返る。ここは驚いた表情が必要な場面だ。私は、ちゃんと驚いているだろうか?
「先輩?」
 問いかけるように、確認するように言葉を吐く。
 馬鹿馬鹿しい。確認する必要など、ないというのに。
「先輩ですか?」
「ええ、そうよ」
 阿呆のように繰り返す私に、先輩は昔のままの笑顔で応えた。
「久しぶりね、元気してた?」
 まだ治らないんですね。柔らかく、問いかけるように小首を傾げる癖。
 先輩の質問とは全く違う思考をしながら、私は――
「ええ。久しぶりです、先輩」
 脊椎反射にも似た行動で頷いた。

  ※  ※  ※

 しばらく後。先輩と私は近くの喫茶店に入って軽い夕食をとり、近況や昔話に花を咲かせていた。
 とは言っても、笑うのは殆ど先輩に任せきり。自分はせいぜい苦笑する程度が関の山だった。
 時刻は午後8時。朝方テーブルの上に書き置きしてきた帰宅時間を、既に2時間はオーバーしている。
 生徒会の仕事をしていたという言い訳は、おそらくもう通用しないだろう。
 だが、別に構わなかった。どちらにしろ、このまま帰ったところで家には誰もいない可能性が高い。
 うろ覚えではあるが週末の今日、母の勤務予定は定時退社だった筈だ。
 先ほど連絡を入れた時間に誰もいないということは、今夜もかかりっきりになる仕事にかまけているということだろう。
「でも、久瀬君って変わっちゃったわね」
 不意に思考がクリアになるのを感じた。
 雨しか降ってこないと思っていた空から、ボーリングの球が落ちてきたような感覚がした。
「昔から礼儀正しくて固い感じはあったけど――今は何だか違うような気がするわ」
「確かに最近は少々老けていると言われますがね。私だって少しは変わりますよ。生徒会長にもなりましたし」
 それで成長しない方が人間として不出来でしょう、と続けた。
 先輩は困った顔をして、小さく首を振った。
 さらさらのセミロング。決して長くないそれは、先輩の動きに合わせて静かに音を立てる。
 整った顔立ちの中で一際目立つはっきりとした目に、憂いとも戸惑いとも知れぬ微かな色。
「ううん、変わったっていうのは、そんなことじゃないの。それは、成長なんかじゃない。もっと別の何か」
 それが何かは判らないけどね、と。先輩は苦笑して話を締めくくった。
 それきり、会話が止まる。私はテーブルからブラックを持ち上げ、傾けようとして――止めた。
 これ以上、苦い味は必要ないだろう。
 カチャリ、とソーサーの上に戻す。それが合図だった。
「さて、そろそろ出ましょうか?」
 出来るだけ明るく聞いたのだろう。先輩が私の目をまっすぐに見ている。
 私は直感した。期待するような展開がないなら、自分が作ればいいと。
 そのチャンスは、おそらくこの一度きりしかないのだと。
 しかし――
「ええ、そうですね」
 『拘束具』。私の口をついて出たのは、チャンスを刈り取ってしまうその一言だけだった。
 その瞬間、私は確かに先輩の瞳に失望が浮かんだように見えた。
 だが…それも一瞬後には、表面だけの笑顔に埋没する。
 気軽に伝票を取り上げた先輩は、私が払っておくから先に出ててねと言い残してレジへ。
 私は全財産を注ぎ込んだ宝くじが大外れしたかのような虚脱感を引き摺り、店外へ出た。



 外の気温は、思っていた以上に冷たかった。
 店内で火照った体には心地よかったが、その心地よさが消えるのも時間の問題だろう。
 体が冷えていくのを感じながら、私はコートを羽織った背中を丸めるように身じろぎした。
 それは、理解できない焦燥感からか。それとも、純粋に寒さによるものだったのか。
 確かなのは、その何気ない動作がスイッチになったことだ。
 どうしてそれがスイッチになったのかは判らない。らしくないことだが…判らなくてもいいと思えた。
 肩の力が抜ける。同時に口をついて出た吐息は、諦観からの溜息とは若干違った色合いを見せた。
 こんな時、北川ならこう言うのだろう。
『腹は決まったぜ』

 からん

 ドアベルの音。おまたせと言いながら、店から先輩が出てきた。
 そちらに振り返り、先輩を見つめる。つい先ほど見せた瞳の色は、既に欠片ほども見せてはいない。
 ほんの少しの動揺が体を突き抜ける。
 もし自分の勘違いだったら?もし自分の思い過ごしだったら?
 拒絶を恐れての自衛思考。だがしかし、私はらしくもなく反論する。
 だったらそれでも構わない。『腹はきまってる』。
 だから私は『拘束具』を目一杯こじ開け、隙間から精一杯の声を発した。
「先輩。少し歩きませんか?」
 先輩が驚いたように立ち止まる。
 拒絶。その二文字が頭に浮かんだ途端、拘束具が私を力の限り縛り付ける。
 それは私を外部に漏らさないためではなく、外部を私に触れさせないための拘束。
 フィルタを通して受け取る世界を『久瀬生徒会長』として処理するための拘束だった。
 しかし――――先輩は柔らかく微笑んだ。
 拘束が、緩む。
「久瀬君って、やっぱり老けてるのかもね」
 誘い方が若者らしくないわよ、と。先輩は笑いながら話す。
 ここは憮然とした表情をする場面だ。だが、その表情は――らしくないことに――自然と表れていた。
「じゃあ、喜んで。エスコートして下さるかしら?」
 そう言って微笑み続ける先輩の瞳には、安堵が浮かんでいるような気がした。
 それはきっと、私の思い過ごしだろう。なぜなら、それに近い感情を抱いているのは他ならぬ私なのだから。
『やったぜ!』
 北川が手を叩いてガッツポーズを取る姿が脳裏に浮かぶ。
 ああ。やってやったとも。私もそれに応えて、らしくもないガッツポーズを返した。

  ※  ※  ※

 どこに行く、といった会話は無かった。
 それどころか、歩き出してから二言三言話した後は、会話自体が途絶えてしまっている。
 それでも、私には不思議と息苦しいとは感じられなかった。
 会話のない二人。取りあえず、足の向くまま気の向くままに歩き続ける。
 申し合わせたかのように私達の足は駅前から遠ざかり、辺りはマンション等が多くなっていった。
 いや、厳密には違った。私は先輩に併せて歩いていた。追従していたと言ってもいい。
 ただ私達の歩調があまりにも揃っていたため、同じ目的地へ向かっているような感覚があったのだ。
 エスコートして下さるかしら、と言ったにも関わらず、先輩は自ら私を先導して歩いていた。
 特に異論はない。私自ら誘ったものの、どうするつもりとも考えていなかったからだ。
 らしくもない。本当に、私らしくない行動が続いている。
 ふと気がつくと、コートの左袖の辺りに違和感を感じた。
 ポケットに入れている左手の袖が引っ張られている。
 左隣を歩く先輩が、いつのまにか私の袖を小さく摘んでいた。
 私がそのことを疑問に思う間もなく、先輩はくいっと袖を引っ張って私を停止させる。
「ここ。私のマンションなの」
 先輩らしくもない、生徒会役員だった頃にさえ見せなかった程の真剣味を帯びた表情で、短く告げる。
 心なしかその表情は固い。緊張とは違う、一種の怯えさえも含んだ表情で先輩は言葉を続けた。
「あがってって」
 命令形とも勧誘とも取れる言葉。やはりその表情は変わらない。
 もし――と考える。
 自問。もしここで断ったらどうなるのだろうかと。
 自答。終わるだけだ。
 そう、終わる。比喩でも推測でもなく、私と先輩の関係は終わりを告げる。
 そこまで考えて、私は笑い出したくなった。
 私と先輩の関係?まだ何も関係など持っていないというのに。
 だが、いつも柔らかい微笑みをたたえていた先輩らしくもない行動は、私を動揺させるに十分だった。
 思ったよりも小さく見える、可憐と言って申し分ない手が摘んでいる私の袖。
 そこには、何かの決意と――先輩らしくもないことだが――懇願が垣間見えた気がした。
 視線を先輩に据える。先輩は未だに先ほどの表情のままだ。
 先輩らしくもないが、今の先輩の表情と共にある瞳は、いつもの何倍もの透明度を感じられた。
 視線をそのままに、静かに、しかしはっきりそれと分かるよう頷く。
 先輩は若干頬をゆるめたが、依然としてその表情のままに私の袖を引っ張り誘導を開始した。



 先輩の部屋はマンションの3階にあった。番号は305号室。
 住み始めて新しいのか、くすんだ感のあるネームプレートは、埃を拭えば新品同様になるように見える。
 先輩は無言でポケットからキーホルダーを取り出し、鍵を開けた。
 天使の人形がついたキーホルダー。先輩らしいと思う気持ちと、らしくないと思う気持ちが湧き上がった。
 ガチャッ
「入って」
 少し固めの声で、先輩が促す。私は失礼しますと言いながら部屋に入った。
 廊下の蛍光灯が生む無機質な明かりが、驚くほど質素な玄関先を照らす。
 生活感の無い匂い。一瞬、ここは本当に先輩の部屋なのだろうかと疑ってしまう。
 先輩の部屋はもっとこう、暖かなものを想像していたものだから。

 ガッ チャン

 後ろで扉が閉まる。違和感を感じるその音は、一緒に鍵も閉めたからだろう。
 光源が無くなった部屋の中は暗い。玄関先は明かりも何も無く、ただ真っ暗なだけだ。
 奥のほうが少し明るいのは、おそらくカーテンが開いて外の街灯の明かりを取り込んでいるためだろう。
「先輩――」
 明かりはどこですか、と聞こうとした私の口は、しかし開かれることはなかった。
 ぼすっ、と。ぶつかるように先輩が私に抱きついてきたからだ。
 動揺した。もちろん、このような展開を期待していなかったと言えば嘘になる。
 だが、何分いきなりすぎた。
 無言。私も、おそらく先輩も、何を言っていいのかわからないのだろう。

 だから、私は自ら行動を起こすことにした。

 靴を脱ぎ、部屋に上がる。少し止まって、先輩が靴を脱ぐまで待った。
 そのまま奥へ。窓際にあるベッドに近寄る。カーテンを閉めたのは、眩しかったからだ。閉めた後で自分に言い訳をした。
 私は先輩の様子を窺った。少し息が荒く感じるのは、部屋が静かなせいか。それとも――。
 腰に回されている先輩の手を離そうとするが、先輩は離してくれなかった。
 まるで子供がイヤイヤをするように、頭を私の背中につけたまま首を振る。
 それでようやく、私は自分のとるべき行動を了解した。
「先輩」
 肩越しに話しかける。先輩の肩が小さく震える。
「拒んだりしませんから」
 何をとも、どうしてとも。文法的に明らかな不備を持つと分かっている言葉を発する。
 その声は、驚くほど柔らかなものだった。このような声も出来るのだと、私は初めて知った。
 先輩はその声を聞くと、傍目からも分かるほど体の緊張を解いた。
 鞄を床に落とし、体を反転させて先輩と向き合う。
 未だに私に抱きつき胸に顔をうずめている先輩は、泣くのを必死にこらえているようにも見えた。
「先輩」
 何度目になるかもわからない呼びかけ。それでも先輩は無言で、顔をあげようとはしなかった。
 先輩に聞こえないように、ひそかに嘆息する。呆れたのではない。緊張を取ろうとして失敗したのだ。

 これから自分がしようとしていること。
 それは、もしかしたら一時の昂ぶりのまま、先輩を汚す行為なのかもしれない。
 残念ながら朴念仁ではない私には、女性が男性を部屋に通す意味を想像出来てしまっていた。
 貞操観念に縛られる訳ではないが、私にはその行為がひどく刹那的なものに思えた。
 相手がこちらをどう思っているかは、この際問題ではない。
 どうやら私は、このような事にさえ論理的な説明が欲しいらしい。
 思考が混乱する。
 私は生まれて初めて自分が立たされた立場に困惑し、決断を下すことが出来なかった。

 その時。胸の辺りが暖かくなったことで、先輩が大きく息を吐くのがわかった。
 先輩の重心が突然崩れる。私の方に向かって倒れこむように。
 急なことに戸惑いながらも、私の足は後ろへ下が――れない。ベッドの淵に当たった。

 ギシッ、と音を立てて、勢いよくベッドに腰掛ける形になった。

 それきり動かない。
 カーテンに弱められた薄青の光。永遠に続くような静寂。
 だが、それは長くは続かなかった。
 先輩が顔を上げる。
 その顔は、考えていたような表情を浮かべてはいなかった。
 涙に瞳が潤むこともなく、興奮に頬が染まることもなく。
 私の中で、獣欲が霧散していく。

 先輩の顔は、捨てられた子供のような不安に染まっていた。

 私は馬鹿だ。
 こんなにも不安そうな表情で私を見る先輩に、私は何をしようとしていた?
 ここにいるのは先輩じゃない。頼るものを探して彷徨う一人の少女だ。
 そして先輩は、私を頼ろうとしてくれているのだ。
 先輩を苦しめる存在が何なのか、私は知らない。知る必要もないだろう。
 とにかく先輩は、今にもそれ押しつぶされようとしていた。
 私は先輩を見てさえいなかったことに気づく。私が見ていたのは、自分の中に作った『先輩』だ。
 先輩らしくない行動だと?阿呆にも程がある。
 先輩はこんなにも私に近寄ってくれていたのに。助けを求めていたのに。
 それなのに私は、自分に都合のいい展開を望んでいるだけだった。

 捨ててしまおう。今この時だけは。自分を歪めてしまう『拘束具』など、私が信じる行動を取るには邪魔なだけだ。
 膨れ上がった自分を戒めていたはずの拘束具は、驚くほど簡単に私を解放するした。
 何のことは無い。私は、自分で自分を歪めていただけなのだから。鍵穴は目の前に、鍵はここにあった。
 先輩の両肩に手を置き、少し引き寄せる。
 目を閉じた暗闇の中で、自分の唇にひどく柔らかな感触。
 周囲の空間は全く把握できないのに、何故か先輩と自分。そして唇の感触だけが強烈に際立って存在する。
 どれくらいそうしていただろうか。先輩が唇を離したのを合図に、寄せていた顔を戻して目を開けた。
 先輩の顔は、今度は概ね予想通りだった。
 今までの私なら『らしくない』と一蹴したであろうその表情。だがそれこそが先輩の素顔。
 私はもう一度先輩の唇を求め、顔を寄せる。頭の片隅に、拒まれるかもしれないという不安が掠めた。
 そんな不安をよそに、先輩の方から重ねられる唇。
 再び触れ合う唇。肩に乗せる手に力を入れて、先輩を引き寄せた。
 三文小説かソープドラマのような展開。だが、それも当人たちにとってはどうでもいいことだ。
 今、この場には私と先輩。二人しか存在しないのだから。




  ※  ※  ※




 夢。

 夢を見ている。

 今は過ぎ去った、過去の夢だ。

 今となっては教室よりも見慣れた生徒会室に、私と先輩はいた。

 夏休み前。初夏というにはいささか暑すぎた日。

『じゃあ、私はこれで』

 各種の調整を終え、そう言って立ち上がる私に先輩はこう声をかけた。

『久瀬君、帰りにどこかへ寄っていかない?』

 初めて受ける誘い。しかし、

『いえ、今日は塾がありますので』

 一言で切り捨ててしまう過去の私。先輩らしくもない言動だ、と思いながら。

『そっか』

 それほど残念そうでもなく、にこりと微笑む先輩を残して私は生徒会室を出た。

 その表情の裏にある感情には、私は――『先輩』しか見ていない私は、目もくれなかった。




  ※  ※  ※




 目が覚める。外はまだ暗く、時刻は早朝にもなっていなかった。
 カーテンからは相変わらず街灯の灯りが漏れ出し、部屋を薄青に染めている。
 何も着ていない肩が寒い。触ってみると、恐ろしく冷えているのを感じた。
「久瀬君?」
「すみません、起こしてしまいましたか」
 私の動きを感じたのだろう。隣に寝ていた先輩が目を覚まし、私に顔を向けた。
 裸の肩口まで隠す厚手の布団から、こちらを窺うように見ている。
 先輩の髪の毛に手を伸ばし、安心させるように撫でる。
 まるで恋人がするような仕草だ。そう思いながら、心の中で苦笑する。
「先輩」
「なに?」
「どうして、学校を辞めたりしたんですか」
「………」
 言葉に詰まる先輩。しかし、その顔は先ほどまでのような不安を浮かべてはいない。
 話そうかどうしようか、躊躇っているような。
「…私はね。本当は、行きたい高校が別にあったのよ」
 そう言って、その高校の名前を挙げる。
 知っている名前だった。確か、今の高校より少しレベルは低いが、部活に力を入れている所だったと思う。
 先輩の学力なら入学は勿論のこと、あの体育祭で見せた運動能力なら、確実に活躍できただろう。
「そこには、中学の頃に憧れてた先輩がいたの。すごく綺麗で、部員の憧れの的だったわ」
「その先輩について行こうと思って、そこを?」
 話の腰を折るのを覚悟で口を挟む。
 先輩は少し考えて首を振った。
「多分そうじゃないでしょうね。私は、その先輩のようになりたかったんだと思うから」
 同じ意味とも取れる言葉で否定する。
 しかし、何となく理解できた。その存在について行くことと近づくことは、必ずしも同義ではない。
「でも、親がそれを許してくれなかったわ。偏差値と体面ばかり気にして…結局私は違う高校に入った」
「先輩ならもっと上に行けたと思いますが」
「違うの。ほら、あそこの生徒会って社会に出る上でのコネを作りやすいって言うでしょ?だからよ」
「ああ、それで…」
 それでやっと得心がいった。事実、過去の生徒会は少々変則的だった。
 毎年一定の割合で入学する地元有力者の子息子女を受け入れ、半ばそのために存在しているような節があったからだ。
 今ではそのようなことも少なくなり、ほとんど噂程度の話でしかないのだが…
 先輩の親はどこかで聞き及んだその話に乗ろうとしたのだろう。
 その行動は浅はかという他無いが、先日起こした私の行動を振り返れば、私も同類項で括られる。
「私はね。昔から、親の言うことは何でもはいはいって聞いていたの。自分では良い子でいたかったからなんだけど」
 いつのまにか、都合の良い子になっていたのね。息苦しくなっちゃったの。そう言って先輩は苦笑した。
 その笑い方は、完璧すぎる程に先輩の感情を押し殺してしまっている。
 見慣れた笑い方。あの日あの時あの場所で、私が最後に見た先輩の微笑み。
 あれはSOSだったのかもしれない。
 気づかれたくない思いと気づいて欲しい思い。相反する二つの感情が作り出す、温度のない微笑。
 私は遅ればせながら、先輩の傍に立つことができたのだ。
 ごく自然に、私は先輩の手を握った。小さな手。強く握ると、先輩は安心したように息を吐いた。
「でもね。結局私は、小さなことから親と喧嘩して、家を出ることにしたの。この部屋は祖父が用意してくれたわ」
「その人は?」
「私の味方になってくれた。元々、親の押し付けがましい教育には反対だったみたいだから」
「いい人、ですね」
 その人は、おそらく祖父として、社会人としては失格だ。だが、私は何故か好感を覚えた。
 きっと、それ以外にも複雑なやり取りがあったに違いない。
 そう簡単に家を出られるほど単純なら、こんなことにはならなかっただろう。先輩が追い詰められ、頼る者を必要とするほど傷つくことなど。
 それでもあえて孫娘の気持ちを優先し、立場を崩さない姿勢。強いな、と思った。
「気持ちの良さそうな人です」
「そうね。凄く気持ちいい人よ。会ってみれば、きっと久瀬君も好きになれる人。今度紹介するわね」
「え…」
 予期せぬ方向に流れた話に、一瞬絶句する。
 鳩がボウガンを食らったような顔をする私に向かって先輩は、冗談よと屈託の無い笑みを浮かべた。
「先輩の冗談は、冗談に聞こえません」
「あら、それってどういう意味かしら?」
「言葉どおりですよ」
「ふふ、別に私は本気でもいいんだけどね」
「先輩…」
 軽く眉根を寄せて先輩を見る。
 暖かな笑みを浮かべる先輩。そこには、先ほどまであった温度の感じられない笑顔など微塵も見えない。
「本気にしますよ?」
「ええ、どうぞ」
 軽くいなされ、唸りながら言葉に詰まってしまう。
『男が女に勝てるわけねーだろ』
 そんな北川の声が聞こえる。どこまでも私を馬鹿にする奴だ。
「でも、そうなったら私を先輩って呼ぶのはよしてよね。もっと相応しい呼び方があるでしょ?」
「それは…そうですが」
 また話が別方向に飛んだ。先輩は理論立てて話す方だと思っていたが、これが先輩の素の姿らしい。
 今日は色々な先輩を発見する日だ。
「ちゃんと名前で呼びますよ」
「当然ね。もちろん、ファーストネームよ?」
「わかってます」
「じゃ、呼んでみて」
「…」
 言葉に詰まる。失語症にでもなったのだろうか、私は。
 泰然自若を自負していたあの頃がどうにも懐かしい。
「わかりました」
 降参の白旗をあげると、私は先輩を抱き寄せ耳元に口を近づけた。
「………」
 静かな部屋にあっても先輩にしか聞こえない声で、私は先輩のファーストネームを呼んだ。
 しばらくそのままで固まる。
「50点」
「厳しい評価ですね」
「私は辛口だからね。こういうのは相手の目を見て言うものよ」
 体を離し、笑いながら先輩は私を見つめる。
 面と向かって言えというのは、まだ勘弁して欲しい。今の私には少々酷に過ぎる話だ。
「まあ、今後に期待してあげる」
「善処しますよ。…ところで」
「ん?」
「先輩は、呼んでくれないんですか?」
「あら、呼んで欲しいの?」
「――ええ」
 少し考えて、答えた。
「呼んで下さい」
 呼んで欲しい。私の名前を、この人に。
「わかった」
 優しく微笑むと、先輩は私がしたように抱きついて耳に口を近づけた。

「………」

 先輩の口から、私の名前が呼ばれる。
 それが最後に残っていた拘束を溶かしていくのを、私は心地よく感じていた。
 再び体を離した先輩が、意外にも恥ずかしそうにしながら私を見つめる。
「どう?」
「…80点、といったところですか」
「あら、満点はくれないのね?」
「私も辛口なんですよ」
「残念ね。完璧だと思ったんだけど」
 さして残念そうでも無く笑う。
 先輩はもう恥ずかしそうにすることもなく、余裕をもって私を相手にしていた。
 そんな先輩に、少しばかり一矢むくいてやろうという思い付きが頭をもたげる。
「今だから言いますがね」
「ん、何かな?」
 無防備に聞き返してくる。
「一目ぼれだったんですからね」
 先輩を見つめて、言った。完璧な不意打ち。
 だが――
「あら、私もよ」
「え――」
 今度こそ、本当に言葉を失った。
 思考停止。ホワイトアウトした脳味噌は完全にフリーズする。
「ふふ」
 数時間前には見ることも適わなかった笑顔を私に向けて、先輩が笑う。
 勝ち誇った笑み。またしても、か。
「やはり敵いませんね」
 ため息をつき、憮然とした表情を天井に顔を向ける。
「らしくもないことするからよ」
 くすくすと笑いながら先輩が言う。
 らしくない。確かにそうかもしれない。だが、今ではそれが普通になりつつあるのを、私は感じていた。
「それに、私は本当に一目惚れだったんだから」
「いいですよ、もう」
「そう?まあ、どう取ってもらっても構わないんだけど」
 先輩が私の頭を胸元に抱き寄せる。
 ほっそりとした腕とは対照的な二つの母性が、私の頭部を刺激した。
「………、………」
 耳元で囁かれる、告白の言葉と私の名前。
「…満点です」
「辛口じゃなかったのかしら?」
「それでも満点ですよ」
 反則的なまでに攻撃力のある組み合わせだ。
「ならよかった。それで、返事はどうなの?」
 先輩が笑いながら問いかける。
「もちろん、決まってますよ」
 そう言って、先輩の懐から脱出して逆に抱きしめる。

 肌を重ねたのは一度。昨日までは関係の無い人だった。
 だが、そんなことは関係ない。互いが互いを必要としているのだから。

 私は先輩の待つ言葉を口にするために、息を吸って先輩の耳元に口を近づけた。









 私が先輩と初めて会ったのは、確か初めての生徒会の会合でのこと。
 遅れるまいと10分前に到着した生徒会会議室前で、先輩はドアを解錠している所だった。
「あら」と少しばかりの驚嘆の声を漏らしてから、先輩は、
「早いわね。まだ10分前よ?」
 柔らかく微笑みながら、問いかけるように小首を傾げる仕草を見せた。
 季節は初夏の兆しが見え始める頃だった。
 さらさらと流れるセミロングの髪。そして柔らかなその笑顔に目を奪われた。

 先輩。私だって、本当だったんですよ。



※  あとがき  ※
萌えないとかって言葉は瞬殺です(何様)
やあどうも。初めまして、むしまると申します。
此度は祀りに参加(乱入と読む)させて頂いて、真に恐縮の至りでございます。
えーっと、えーっと。とりあえず長くてごめんなさい(ぺこぺこ)
いや、書きたいこと満載したらこうなった次第でありまして。
冗長に過ぎるとかそういった感は否めないとは思いますが、許して頂けると幸いでございます。

で。軽く解説(言い訳)ですが。
ご存知久瀬君の青春ラブストーリー(死語)であります。
別にKanonでなくてもいーじゃん!って感じですが、そこはそれ。
ゲーム中の久瀬は完全に悪役然としている上に、どこか薄い奴として描かれています。
が、しかし。私としては「そんなの久瀬っちじゃないやい!」と思って、別の久瀬を用意してしまいました。
それが本編で登場する『久瀬(本名不詳)』なのです。
とにかく理性的。皮肉大好きで、なんでもかんでも分析しなければ気のすまない男。
それでいて自分に素直になれず、自ら作った檻に閉じ込められている…そんな奴です。
あまりにも作中イメージが変わっているために最早オリジナルとも言えそうですが(滝汗)
ちなみに、高校を離れて久しい私ですので、学校関係の考証はあまりなされていません。
ぶっちゃけテケトーな感じですので、あまり気にしないで頂けると嬉しいかと…
『考えるんじゃない!感じろ!』って勢いで(汗)

最後に、祀り主催者である柊様に最大級の感謝を。
では、また。

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