それはまるで、誰も足を踏み入れぬ森の奥に佇む湖のようだった。
一歩店から外に出れば溢れかえる雑踏の海から、切り離されたかのような空間。
わずかに聞こえる外の雑踏すら、その静寂を際立たせるファクターとしかならない。
その静かな穏やかさゆえに、その場に居合わせたもの全てを落ち着かせる。
騒音の犇めく世界に疲れた者たちが集まる、都会の中で静かさを美味しい料理とともに楽しめる名店、『Clocks』
月刊誌『酒飲み読本 〜隠れた名店集〜』記事より抜粋
Clocks
相沢祐一、21歳。
両親は高校三年の春休みに帰郷の際搭乗した飛行機がエンジントラブルで墜落したことにより、死亡。
両親の遺産を元手に一人暮らしを始め、その後高校卒業と同時に実家の有る花鳴市へと帰郷し、酒場『Clocks』に就職。当時の店主が死亡した際に店を譲り受け、現在は店主として切り盛りを続けている。
長谷部彩、24歳。
両親とは現在別居中。両名ともに健在。
大学卒業後、就職のために花鳴市で一人暮らしを始める。現在は内装コーディネイターとして活動中。その和を基調とし、なおかつ実用性の高いレイアウトは、中高年層だけでなく若手層にも人気が高い。
その店を訪れたのは、全くの偶然だった。
新たなレイアウトの内容を考えながら、参考になるような建物を探していて、ドアを開けた瞬間…
思わず、目を見開いた。
自分が作り上げようとした理想。それに限りなく近い空間がそこには広がっていた。
そこにあるテーブルなどは、決して豪奢なものではなかった。それなりに値は張るが、市販で買えるものばかりが並んでいる。しかし、それらが見事に調和し、それぞれの存在を主張するような事はなく、しかしその存在感を確かに感じさせていて、年代もののアンティークのような風情を漂わせていた。
証明は青を基調とし、薄暗く調整されている。仄かに店内を照らしているそれは、陰鬱さなどは感じさせず、昔見た満月の明かりの元だけで見る世界に似ていて、心を安らがせた。
開けたままのドアから流れ込んでくる雑踏を静かに受け止め、それでもそれを騒音と思わせない、奇妙な静寂が横たわっていた。
「お一人様でしょうか?」
ドアを開けたまま呆然としている、自分と同年代くらいの女性に声をかけた。
店は、一応12時から開店しているが、昼間に客が来る事はめったに無い。店内には自分と女性以外、誰もいなかった。これが夜の9時を過ぎると、満席とまでいかなくとも、7〜8割りは席が埋まる。
女性は、少し驚いているようだった。もしかしたら、自分という存在に気づいていなかったのかもしれない。それくらい、彼女は何かに驚き絶句していた。
「あ、はい」
「それでは、カウンター席へどうぞ」
この静けさが支配する店内でなければ雑踏に消し飛ばされてしまいそうなほど細い声に、これは静かな良く通る声で答えた。
カウンター席に腰をかけ、頼んだミルクティとサンドウィッチが出てくるのを待ちながら、彼女はあらためて目の前で紅茶を入れる男性…マスターを眺めた。
自分より少し上だろうか。その落ち着いた雰囲気はもっと年上を思わせるが、顔立ちからすれば30には届いていないだろう。もしかしたら、若作りなだけかもしれないが。
そんなことを思いながら、今こうして目の前で動いているのに、それがこの店内の雰囲気と馴染みすぎて、思わず置物では無いだろうかと思ってしまう。時折立ち止まった時などは、なおさらだった。
そんな彼をぼんやりと眺める。気づいていないわけではないのだろうが、彼はその視線を気にするそぶりも見せずゆっくりと…いや、ゆっくりとしているように見えるだけで、その実機敏に動き続ける。
いつの間にか、眠いというわけでも無いのに、自然に瞼が落ちてることに気づいた。同時に、眠気にも似た感覚が心に広がっている事にも気づく。しかし、動揺が心を揺さぶることはなかった。まるで、心がこの静寂な空間に飲み込まれてしまったようにさえ感じた。
「ミルクティと、サンドウィッチです」
不意に声をかけられて、それまで開けようとしても開く事のなかった瞼が、スッと開いた。目の前には、素人目にもかなりの高級なのだとわかるティーカップと、皿が置かれていた。
「どうも…」
「ごゆっくりどうぞ」
小さく礼を言う。これは昔からの癖なのだが、今まで利用した飲食店では周りの話し声や雑踏にかき消され、まともに相手に届いた事は皆無だった。だが、この店の静けさの中では妙に大きく聞こえた。それに内心驚いていると、マスターは浮かべている微笑をほんのわずかだけ笑みを深くして、半ばお決まりの文句を言って彼女の向かいに座った。
それが余りに自然な身のこなしだったので、気にせずに紅茶を一口だけ含む。そして、この店に入ってから何度目になるのかわからない驚きを感じた。
「美味しいです…」
「気に入っていただけましたか?」
心から言っている事に気づいたのだろう。マスターがその声に少しだけ気色を混ぜて聞いた。それに短くはいと答えて、初対面でこうも落ち着いて話せる相手は今までいただろうかと、ふと考える。
元々が内向的な性格で、初対面の人と話すのは苦手なのだ。流石に仕事柄そうも言っていられないので昔に比べれば改善されているが、それでもまだ初対面の人と話す時は緊張していた。
不思議な人だ、と思う。いつの間にかするりと心に入り込んでいるのに、それを不快に感じない。
「そういえば、おいくつですか?」
自分の口から出た質問に、一番驚いたのは自分だった。
自分から会話を始める事は、家族相手でも殆ど無いことだったからだ。
「いくつに見えますか?」
質問に質問で返すというのは接客業としては問題なのだろうが、そういった批判的な意見が鎌首をもたげる事はなかった。だから素直に思ったことを、微笑を浮かべているマスターに言った。
「30ちょっと前…ですか?」
微笑に、少なくない苦笑の色が混ざった。どうしたのだろうと思って小さく首をかしげながら、まだ手をつけていないサンドウィッチに手を伸ばす。
マスターは、苦笑の色を収めてから静かに言った。
「一応、21歳です」
思わず、伸ばしていた手が止まった。
この『Clocks』、一応酒場と銘打っているがその実喫茶店に近く、飲み物や軽食はいうに及ばずケーキ類もかなりの数が揃っている。
味も彼女が今までの人生で食べた中で、5本の指に入る美味しさだった。値段もその味を考えると、かなり安いほうに部類されており、移動するだけの時間が取れる日は殆ど毎日食べに来ていた。その静かな雰囲気が気に入った事や、一人暮らしを始めてから、多分はじめての心を許せる人ができたというのが大きいだろう。
そうしているうちに、いつの間にか常連となっていった。
「こんにちは、祐一さん」
「こんにちは、彩さん」
最初にこの店を訪れてから、半年近くが経っていた。昼間は客が殆ど来ないということもあり、今ではすっかり名前で呼ぶようになっている。
彩が訪れると大抵、他の客の姿は無い。祐一がただ一人、いつものようにカウンターに立っているだけだ。
いつ行ってもカウンターで立って待っているので、いつもそうしているのかと聞いたことがあるが、彼はそんなことは無いと微笑を笑みに変えてそういっていた。しかし今まで彼女が入ってきた時に彼がカウンターでたって待っていなかった事が無いので、内心疑問に思っていたりする。
彼が言うには、「なんとなくわかる」ということらしい。彼の叔母もいつ行っても玄関前で立っていたとのことだ。「家系なんでしょうか?」と聞くと、笑って「そうかもしれません」と言っていた。
それはともかく、今日はいつもは入った瞬間から静まっているはずの心が鎮まらなかった。周りの空気は、いつもと同じで変わってはいない。祐一も、いつもの微笑を浮かべ、彼女を見ている。そして、自分もいつもの席に座り、いつものようにメニューを開き、そしていつものように氷水の入ったグラスが置かれる。その中で、ただ一つだけ自分の心だけがいつもと違い、漣立っている。
その理由は判りきっていた。
メニューをじっと見つめるふりをして、密かに祐一を盗み見る。彼はやはり微笑んでいて、その濁っていない。しかし澄み切ってその奥を覗かせる事は無い瞳で、彼女を見つめている。
小さく深呼吸を何度も…自分で数えた数は5回までで、実際何度したのかわからないくらいして、ようやく彼女は顔を上げて、言った。
「祐一さんを、お願いします」
彼女からすれば、相当な覚悟と決意が込められた言葉。それを言い終えた瞬間に色々な後悔がはじけた。
これじゃ変だなに言ってるの私もっといい言葉はなかったの、と高速で後悔文が作り上げられていく。
「…はい?」
それに返ってきたのは、多分初めて聞く呆けた声だった。当然の反応なのかもしれないが。
「で、ですから…」
その先を言おうとして、一気に自分の顔が高潮していくのがわかった。生まれて初めての告白。今までの人生で、自分とは全く縁がなかったその行為が、妙に恥ずかしくなった。
「ゆ、ゆういちさんを…」
声は尻すぼみに消えていき、最後のほうは殆ど口の中での言葉だった。
そんな彼女を見て、祐一はとりあえず
「ちょっと看板を変えてきますね」
そう言った。
看板を『開店中』から『一時取り込み中』へと変えてから戻ってきた祐一を見た瞬間、平成状態に戻りかけていた彩の顔は、再び真っ赤に染まった。
「それで、ええと…私をご注文、ですか?」
「いえあの変な意味じゃなくてでもそうじゃなくとも言えなくてなんていうかあのそのあぅぅ…」
盛大に身振り手振りを加えながら何とか前言を撤回しようとして、しかし半ば本心である事がそれを阻害し、すでにオーバーヒート気味な頭はまともな言葉を紡いではくれなかった。
それを見やり祐一は、「とりあえず落ち着いて…」と言い、水を飲むように促す。
殆ど一息にグラスを開けて、それで多少は落ち着いたのか、深々と深呼吸を始める。その様子を彼女の正面…カウンターの中に移動しながら観察し、大丈夫そうかなと結論付ける。
「落ち着きましたか?」
「は、はい…すみません…」
「いえいえ、それで、私をご注文とは?」
「そ、それは忘れてください!」
再び盛大に顔を赤くし、半ば悲鳴に近い声で言う。何とか体制がついたようだった。正直に忘れてしまいたいほど恥ずかしいが、しかしそれはできない相談でも有る。
それはともかく、再び深呼吸をして心を落ち着かせると、
「え〜と、その、あの…つ、付き合ってください」
そう言った。
「え〜と、その、あの…つ、付き合ってください」
そういわれた瞬間、とりあえず祐一の思考は停止した。
今までに恋愛に全く興味を持たずに人生を過ごしてきたため、こういったことに慣れが無いということもあるが、それより何よりその台詞を言ったのが彩であることが驚きだったのだ。
半年近い付き合いをし、彼女の性格はかなり理解していた。内向的と言うよりも内省的であり、人一倍羞恥心が強い。それが大まかでは有るが、彼女の性格だった。
譲れないところは譲らない、頑固ともいえる芯の強さなども持ち合わせてはいるものの、彼女が告白する、というのは全くの予想の範囲外だったのだ。
それゆえにいつも浮かべている微笑は消え、キョトンとした顔がそこにはあった。
その顔を彩は見れない。言い切った恥ずかしさから俯き、小さく縮こまっている。
そんな構図は5分ほど続き、ようやくいつもの微笑を浮かべる程度の余裕が復活した祐一は、いつものように静かな声で聞いた。
「なぜ、私を?」
自分は魅力的では無いと、彼は思っていた。常連の女性客からは何度もそういった類の言葉をかけられてきたが、酒の席の戯れだと思ってその全てを流してきた。
実際その言葉の半分程度は戯れではあったが、もう半分は本気交じりであった。その物腰や包容力に惹かれる女性は多いのだ。
「祐一さん、だからです」
小さく、しかしはっきりとそう言って、ますます小さくなる彼女に祐一は戸惑っていた。
好きか嫌いかで言えば、彼女は確かに好きだった。しかし、その好きは恋慕や愛情といったものなのか、それとも友人に対する好きなのか彼にはわからなかった。そもそも、そういうことを考えた事がなかった。恋愛は自分とは関係ないところで回っているものであり、自分に来る事は無い。そう結論付けていたのだ。
だから、戸惑う。自分の感情がはっきりとわからないから。
俺は彼女をどう思っているのか。この好意は恋愛感情なのか、それともそうでは無いのか。
そんな彼の内心に気づいたのだろう。相変わらず赤い顔のまま、彼女は立ち上がり
「へ、返事は今度でいいですから!」
そういって、逃げるように足早で店を出て行った。
それは余りにも速く、呼び止める事はできなかった。
「あ…」
思わず上げた左手をそのまま頭に持って行き、軽く頭をかいて
「これは…とりあえず今日は臨時休業かな…」
波立つ心をもてあましながら、そう呟いた。
そして――――――
相沢祐一、23歳。
両親は高校三年の春休みに帰郷の際搭乗した飛行機がエンジントラブルで墜落したことにより、死亡。
両親の遺産を元手に一人暮らしを始め、その後高校卒業と同時に実家の有る花鳴市へと帰郷し、酒場『Clocks』に就職。当時の店主が死亡した際に店を譲り受け、後に常連客の一人であった長谷部彩と結婚。現在も店主として切り盛りを続けている。
相沢彩、26歳。
両親とは現在別居中。両名ともに健在。
大学卒業後、就職のために花鳴市で一人暮らしを始める。その後内装コーディネイターとして活躍。その和を基調とし、なおかつ実用性の高いレイアウトは、中高年層だけでなく若手層にも人気が高かったが『Clocks』の店主である相沢祐一と結婚と同時に退職。その後は『Clocks』のウェイトレスとして活動中。旧姓は、長谷部。
あとがき
注意1:この作品はフィクションです。実在の団体、個人、地名、月刊誌とはなんらかかわりありません。
注意2:年上萌え?と聞かれるかもしれませんが。とりあえず年上萌えとしておいてください。お願いします。
注意3:相変わらず名前を変えれば完全オリキャラモノなのは言いっこなしです
はじめましての方、はじめまして
おはようございますの方、おはようございます。
こんにちはの方…以下は略でw(ぉ
それはともかく、海影です。姉御祀りへの投稿2作目となりました
完全に行き当たりばったりのアドリブのみで構成してみた作品です。
楽しいかどうかは…人それぞれとしか言いようが無いのが現状です。(当たり前か
でも、書いてる自分は結構楽しんでました。
後半、ちょっと無理やりかなぁと思ったりもするのですが、これ以外に思いつかないのでこのままにしておきます。あと、長谷部彩はこんなキャラだったっけ…?(ぉ
何はともあれ、マッタリとした雰囲気を感じていただければ幸いです。
ちなみに、タイトルの意味は特にありません。
タイトル考えてる時に時計が合ったのが原因だったりするのは秘密です。(ぉ