「―――さん」 ……ん? 「……いちさん、起きてください」 …………。 その「……いちさん」ってのは俺のことか? …………いや。違うな。 ウチにはこんな口調の人はおろか、そんな優しい声で起こしてくれる人間なんか存在しないし。 「…ういちさん」 ほらな。 俺の名前に「う」の字なんてひとつも含まれてない。 ……ってことは、これはいつもの"ユメ"か? 珍しい奴もいたもんだな。起こされる夢を見るなんて。 ……難儀な奴だ。同情する。 ともかく、呼ばれてる名前が俺のじゃない限り、これは他人の"ユメ"だ。 「純一」 そうそう、俺の名前は純一であって「…ういち」ではない。 「……純一。さっさと起きないと鉄拳制裁が降り注ぐが、いいのか?」 そして、あんなに優しい声で「起きてください」なんて殊勝な心がけを持った人は俺の周りにはいない。 一人ばかり心当たりがあったりもするが、あの人が俺を起こすなんてことはほとんどないし。 しかも実際、こんな風に物騒な台詞を吐き出してるし――― 「―――って、え?」 「 制 裁 」 「うぼぁっ!!」 陽射しと共に射し込む衝撃。 それは臓物を抉り、弾け飛ぶように。 そして順調に転がり廻る俺、滑稽。 ―――っていうか。 「いきなりなにすんだよ姉貴!?」 「ん? 断わりは入れたはずだが?」 そう言って眼鏡を押し上げて俺を見下ろしてるのは俺の姉貴、白河暦。 性格はいたって攻撃的。とは言っても、暴力的ではなく、理論武装で相手をネチネチといたぶるのが得意なタイプ。 なので、今回のような物理的制裁は稀有……なわけもなく、俺にはその隠された牙をいかんなく発揮なされている。 しかも、一歩外へ出れば人当たりのとても良い、美人で気立ての良い完璧人間になっちゃうわけで。 つまり、この攻撃的な白河暦を知ってるのは弟の俺ただ一人ということになる。 ……神様って不公平だね。 「それに、お前は同意した」 ……ぐっ、なんかそんな会話も交した気が。 「とにかく、どんな形であれ、起こしてもらってるという事実をありがたく思っていろ」 「……はい」 ……どうにも、有無を言わせぬあの口調には参る。 口で勝とうなんて無謀なこと思ってはいないが、せめてちょっとした反論ぐらいできるようになりたい。 白河純一、17歳の春のことであった―――。 「ところで純一、彼女の一人や二人できたか?」 「…………」 時は流れて朝食の席。 食パンをもしゃもしゃと頬張る俺に、姉貴の唐突すぎる問い。 思わず俺、唖然。 まさか、姉貴からそんな言葉が出てくるとは。 「何だよ、急に。今までそんなこと一度も訊いたりしてこなかったのに」 「いや、保護者としてはそろそろ心配でな」 両親は海外で働いているので、社会人の姉貴が実質保護者となっている。 この間、親父から急に「こっちに永住したい」とかいうふざけたメールが来た。 なんて自由奔放な親なんでしょうか。 一応、俺らへの誘いもあったが、俺はここを離れる気はないので断ったが。 「で、どうなんだ?」 「……別にいないけど」 「そうか。まあお前は顔だけはいいからな、黙ってても女は寄ってくるだろうし心配するな」 別にしてねーけど。 ……つーか顔だけは、って。 「そういう姉貴はどうなんだよ」 「私か?」 「ああ。思えば姉貴の彼氏なんか見たことないんだけど」 大方、家に連れてくる前に姉貴について来れなくなったのが多数なんだろうが。 あの性格さえ克服すれば、姉貴はホントに完璧ないい女なんだけど。 「私は―――まあ、純一がいればそれで充分だ」 ……そんな超素敵な笑顔で言われても俺、困るし照れるんですけど。 「んじゃ、いってきます」 「ああ、苦しんで勉強してこい」 「…………」 いやまあ、そうっちゃそうなんだけど……。 「おはよう白河っ!」 「ぶっ」 どうして今日はこうも殴られることが多いんだろうか。 ……厄日か? 「こーら白河。朝ぐらいシャンとしなさいよ」 「誰の所為だよ……」 朝から暴力的で清々しい挨拶をぶっ放してきたのは、向かいの家に住んでる水越眞子。 幼馴染という関係から、最も互いのことを理解し合ってる仲だろう。 ちなみにこんなナリでもお嬢様。俺はそんなこと気にしたことないが。 っていうか、眞子がお嬢様だってことが未だに信じ難いから意図的にその設定を排除してるってのが正解。 「それにしても、相変わらず遅い出ね」 「うるさいな。つーか、別に待ってなくてもいいのに」 「別にいいでしょ。こんな可愛い子と一緒に登校できるんだから」 「……まあ、悪くない」 眞子とは、今年初めて違うクラスになったくらいの腐れ縁だが、今までずっとこうして二人で登校してきた。 最早これは日常と化しているので、今止めたらそれはそれでなんか気持ち悪いのだが。 「ねえ、白河」 「……なあ」 「……何よ」 「お前、いつまで俺のこと苗字で呼ぶつもりだ?」 「え?」 「なんか気持ち悪いんだよな、凄い他人みたいで」 「それは……」 さっきも言ったように、俺たちには他人行儀の欠片も存在しないので、そこだけなんか妙な感覚が生じる。 もう慣れてたから気にも留めなかったけど、やっぱ変だとは思う。 「しかも、昔は普通に名前で呼んでただろ?」 「うるさいわね。中高生になると昔みたいに名前で呼ぶことに恥じらいを感じ始めたりするの!」 「……毎日一緒に登校してる時点でそんなものない気がするんだけど」 「ぐっ」 ……まあ、眞子にとってそれが一番呼びやすい呼び方ならそれでいいんだけど。 「わかったわよ昔のように呼ぶわよあたしだってホントはそう呼びたかったわよ!」 「……何その逆ギレ」 「うるさい黙って歩く! モタモタして遅刻したらあんたの所為だからね! 行くわよ純一!」 「はいはい」 ……朝から眞子は元気だなあ。 少しは見習うべきか。 「それじゃね、純一」 「おう」 教室が真逆の方向にあるので、昇降口で眞子と別れる。 今までずっと一緒の教室だったから、何か妙な気分だ。 去っていく眞子の後姿を見ながら、そんな風に思う。 「―――ああ、眞子!」 「何?」 「愛してるぞーっ!」 「……っ!」 ……超蹴られましたよ? 既に空いていた数メートルの距離を物ともせず一瞬で詰めてのミサイルキック。 あの華奢な体のどこにそんなポテンシャルが? 「……おはよう、白河君」 「あちゃー、今日はまた随分と派手にやられたねー」 「……おう」 そんな凄惨な暴行現場を一部始終傍観した後、悠々と声を掛けてくるオナゴ二人。 まだ若干退き気味に挨拶してきたのが佐伯加奈子。通称みっくん。 そして随分軽い口調で言葉とは裏腹に心配してなさそうなのが森川智子。通称ともちゃん。 二人はいつもつるんでいて、俺とは高校入ってからずっと同じクラスのせいか、トリオ扱いされることが多い。心外だ。 まあ尤も、昔からの知り合いだと俺は眞子とコンビ扱いされることのが多いが。 ……なんだ、ヒトをまとめて扱わないと気が済まないのかコノヤロー。 「あんまり無茶しないでね、白河君。いくら白河君でも、水越さん相手だと壊れちゃうから」 「ああっ、心配してくれるのはカナコだけだっ。―――それに比べて森川ときたら」 「何その扱いの違い。自業自得なんだからしょうがないじゃない」 「……うむ、正論であるな」 「でしょ? それなのにみっくんだけ贔屓されても」 「何だ森川。お前も贔屓されたいのか」 「いや全然」 まあ関係としてはこんなさっぱりとしたいい感じの関係。 それにしても眞子、お前の評価が凄いんだが……。 「……二人とも仲良いね」 「いやいやそんなことは」 「全然ないって」 「……やっぱり仲良いね」 「…………」 「…………」 何このツンデレキャラとのシチュエーションみたいなの。 か、勘違いしないでよねっ! 森川なんてなんとも思ってなんかいないだからっ! 「あれ? どうしたの純一。今日は部活の活動はないよ?」 「うん、知ってる」 「じゃあどうしたの?」 「ことりさんが居ると思ったから」 「私が?」 「うん、ことりさんと放課後を過ごすのも悪くないかな、って」 「……しょうがないなぁ。お供しましょう」 放課後、活動日でないため、本来なら誰も居ないはずの部室に行くと、案の定一人の美女が居た。 ―――白河ことり。俺より一つ年上の従姉にあたるが、ずっと近くで過ごしてきたので姉も同然。 何より、姉貴とは本当の姉妹のように仲が異常に良い。 昔姉貴とことりさんが結託して俺を陥れるという凄惨な事件があったことを、俺は忘れない。 ……あ、なんか泣きそう。 「よく私がここに居るってわかったね」 「まあ、ことりさんは家帰ってもやることがない暇人だからね、楽勝」 「……純一、殴ってあげようか?」 「いや結構」 そんな命をドブに投げ捨てるような真似するもんか。 こんな可憐な外見とは裏腹に、超武闘派な君。 おそらく眞子と組んだら俺の命なんてペラいもんですよ。 ……あ、なんか泣けるー。 「それにしても、いつまでキミは私のことさん付けで呼ぶのかなぁ?」 「ダメ?」 「別にダメじゃないけど、私の気持ちも汲んで欲しいというか」 「うーん……でも、この"さん"が実は重要なんだよ」 「そうかなぁ? 私にはわかんないけど……」 「ことりさん、ちょっと馬鹿だからねー」 「―――アハハ、明日の朝日が拝めるといいね」 げふっ。 「別にいいじゃない、家族なんだから。家族にさん付けするのも変じゃない?」 「家族でも俺は、姉"さん"って付けてるけど」 「…………」 「…………」 「……はぁ、屁理屈だけは達者になっていくね、純一は」 「お褒めに預かり光栄です」 「でも、純一は暦姉さんのこと姉貴って呼んでるから、さん付けしてないけどね」 「ちっ、バレたか」 「私をやり込めるなんて甘い甘い」 「けど、ことりさんも姉貴のこと暦姉"さん"ってさん付けしてるから問題ないよ」 「―――揚げ足取らないっ!」 げふっ。 自分だってさっき揚げ足取ったくせに……酷いやことりさんっ! 「ただいまー」 「おかえり、純一」 家に帰ると、いつものように姉貴が出迎えてくれる。 ……しかし、この時間にはいつも家に居るが、姉貴はちゃんと仕事してるんだろうか。 そもそも、何の仕事してるんだろうか。 訊いても教えてくれない辺り、非常に怪しいのだが。 「純一、彼女になってくれそうな娘はいたか?」 「え、何突然。朝の続き?」 「まあな。姉として、やはり弟の恋路は気になるものだからな」 ……姉貴はそういう普通の姉に当てはまらないもんだと思ってたんだが。 「朝も言ったけど、俺のことなんか心配する前に、自分のこと心配しろよ」 「それこそ朝言っただろう、私はお前がいればそれで充分だと―――」 「だから、もういい年なんだから俺の世話なんて焼かずに自分のことなんとかしろって言ってんの!」 俺と姉貴は割とサバサバとした関係ではあるが、実のところかなり依存しあってるとこがある。 だから、こういうことは早めになんとかしておかないと、後々まずいことになるかもしれない。 「―――お前は私に世話を焼かれるのが嫌か?」 「……別に嫌なわけじゃないけど」 ただ、なんとかしないとまずいな、と思ってるだけで。 「ならいいじゃないか」 「は?」 「私はお前がいれば充分。お前はそれが嫌ではない。―――なら、問題はないだろう?」 「…………」 ……うぐ、姉貴に口で勝とうなどとは思ってなかったが、こうもあっさり返されるとは。 俺は姉貴に勝つことなど一生無理なんじゃないか? ……切ねぇ。 「なに、一生などとは言ってない。お前にそういう相手ができたなら私は何もしない」 「…………」 「だから、それまでは純一。―――お前は私のモノでいてくれればいい」 「……姉貴」 「さて、もうこんな時間だ。理解したなら夕飯にしよう」 そう言うと、姉貴は踵を返し、キッチンへ向かっていく。 俺はその後姿を眺めながら、 「―――姉貴の理不尽な玩具じゃなければな!」 「……バレたか」 叫んだ。 |
何も言う事はありません。どう見てもただの妄想です。 |
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