「……知らない天井だ」
目が覚めると、見覚えない天井が祐一の前に広がっていた。 広がっている、といっても狭い部屋だ、寝ている祐一には天井しか見えないので、あたかも天井だけが世界を占めているように思うだけのこと。 天井だけの世界、そこは地面もなく、天井だけが延々と続いていく世界。天井の続くその先には地平線ならぬ「天井線」が見える……。 いや、まて。地平線とは地上と空の境目があるから見えるのであって、天井だけの世界には当然地面もなく、その境目も存在しないはず。ではその天井が続いていく先には何が見えるのだろうか。やはり線しか思い浮かばない。 そうか、天井しかない世界なのだから、天井のほかには何もない。では、その何もない空間と天井との境目が線に見えるのだ。 よって、天井線は存在する。証明終了。 待てよ、天井しかない世界でも天井は上に見えるのだろうか。何しろ天井は天井なのだから上にあるのは必然というものだ。しかし、天井しかない世界に上や下の概念があるのだろうか。そもそも、天井とは部屋にあるもので部屋の中に立って始めて天井は上にある、といえる。天井しかない世界は当然部屋もないわけで、部屋のない天井はもはや天井ではないのであり、上に見えるとも限らないのだ。 そう、たとえば上下がひっくり返った世界はどうだろう。雨も下から降ってくるわけで、天井も下にあるのではないだろうか。いや、全部ひっくり返ったなら、人間もひっくり返っているわけで、やはり天井は人間の頭の上にあることになりそうだ。 それは単に地球の裏側にすぎない。 「地球の裏側では、世界がひっくり返ってるんだな」 「突然、何を言い出すんですか」 「うむ、俺は画期的な発見をしてしまったのかもしれない。ノーベル哲学賞ものだな」 「ノーベル哲学賞は存在しません。有名な哲学者にラッセルがいますが、彼は文学賞を与えられました」 「そうか、物を書くのは苦手だな。世界はまた一人貴重な哲学者の希望を失わせた」 「寝ぼけ頭で考えたことに、それだけ自信をもてる相沢さんが不思議です」 「何を言う。お釈迦様だって寝転がって悟りを開いてるじゃないか」 「あれは釈迦入滅、つまり釈迦が死んだときの姿です。釈迦が肉体から解放されて仏陀となったと解されたことから、悟りの姿として代表的に描かれたり、像になったりしたのです。本当は釈迦は激しい苦行と断食の果てに悟りを開いたのですよ。こちらも菩提樹の木の下の姿として有名ですが」 「天野。お前って奴は……ちょっとそこまでいくと怖いぞ」 「失礼ですね。物腰が上品だといってください」 「いや、物腰関係ないし」 「まったく、突然押しかけて泊まっておいて、慣れない布団だから眠りに着くのも遅かっただろうと起こしにきた私にその言葉ですか、相沢さんももう少し人としてですね……」 「おお、そうだった。助かったよ天野」 「忘れていたのですか」 冷たい視線で見つめてくる美汐に、祐一はだんだん頭がはっきりしてきた。そうだ、昨日は美汐の家に泊めてもらったのだ。だから目がさめても見えるのは美汐の家の天井なわけで、美汐の家の天井などまじまじ見たことがあるはずもなく、結果的に知らない天井を見ることになったのだ。 「うむ、証明終了」 「自己完結しないでください。それに、早く起き上がってください。ご飯ができてます」 キュピーン、というやつだ。 「おはよう天野。今日も爽やかな朝だな。爽やかな朝にはうまい飯を食うというのが人間としての喜びだと思わないか」 「こちらです」 がばりと身を起こし、無意味に歯を光らせる祐一に美汐はため息をつくと、膝を突いた姿勢から立ち上がり祐一に背を向けた。 「朝はおはようだぞ、天野。朝の挨拶もできないようでは物腰上品女子高生としての道は遠いぞ」 「ご飯、いらないんですね」 「さあ、飯にしようか。何をしている天野。まさか朝の挨拶ごときを気にして足が進まないんじゃないんだろうな。元気を出せ。朝飯は君を待っている」 「……」 「さあいこう、今行こう」 足早に美汐を抜き去り、先を歩く祐一に美汐は一言だけいった。 「そちらは、洗面所です」 「……顔洗わないとな」 微妙にわかりづらい部屋にあったキッチン兼リビングにて、祐一は古きよき日本食であるご飯と味噌汁に舌鼓を打つ。それはもうがつがつとむさぼるように。 対面に座りこちらは行儀よく箸を動かしていた美汐は、眼前の醜態をできるだけ視界に納めないようにしながらも口を開いた。 「それで、また例によって例によったのですか」 「うむ、例によった」 味噌汁をずず〜っと吸いおわると人心地ついたのか、祐一は意外に礼儀正しく手を合わし、ごちそうさまと美汐を拝む。 「私を拝むのはやめてください。それで、今回はどのくらいですか」 「作った人に感謝を表すもんだろ。今回は、そうだな爪レベルかな」 「変なとこだけ礼儀正しいんですね。爪、ですか。それは随分と怒らせたのですね。何をしたんです」 「うむ。いつもどおり漫画を読んでやってたんだ」 「はい」 「あいつの好きなあの話だったんだ」 「好きですからね」 「俺は飽きてたんだ」 「そうでしょうね」 「で、面白くしようと思ったんだ」 「もう分かってきました」 「主人公に別の女がいたことにしたんだ」 「よりによって、ですか」 「で、この人と結婚するから、君とは結婚できないと」 「……」 「さらに主人公の女の子には突然連帯保証人の破産が」 「突然多額の借金を背負わされた少女は、逃げることもできず……」 「もう結構です」 「えっ、これから主人公の女の子の波乱と悲哀に満ちた物語が……」 「結構です」 「……裁判官、判決を」 「情状酌量はありません」 「ところで天野、地球の裏側では世界がひっくり返ってるんだぞ」 「現実逃避も許しません。それに地球の裏側は、それが反対側という意味なら、この地平に続く同じ地表に立っているに過ぎません。正確に裏というのは地中になります。よって反対側に生活している人の上下も私たちと同じく、それが私たちと逆というのは、鏡の右手を左手というのと同じように間違っています」 「え、鏡の右手は左手だろう」 「……」 ピンポーン ピンポーン ピンポンピンポン ピピピピピピンポーン 美汐が馬鹿につける薬を探していると、騒がしく玄関チャイムが鳴る。薬がきたようだ。近頃の薬局は配達までやっているらしい。 「来ましたね」 「あ、天野お慈悲を」 「情状酌量の余地なしといいました」 「天野〜」 騒ぐ祐一をよそに美汐は玄関に行き扉をあける。 「来てるわよね」 うなずく美汐を置き去りに、その少女は靴を脱ぎ散らかし入っていく。 「ゆ〜いち〜」 「ひえ〜、おたすけ〜」 なにやら騒がしい声を聞きながら美汐は彼女の靴をそろえる。 「朝はおはようですよ、真琴」そして祐一の顔には立てに四本の爪痕が残されたのだった。
彼らはそうして奇跡を繰り返す。
人はそれを「日常」と呼ぶようだ。
END
はい、初SS ですね。所要時間三時間という即席SSです。できはどうなんでしょう。5万ヒットのお祝いにはなるのかならないのか。ならないなら言っちゃえ。おめでとうございました。
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