「………〜」

声が聞こえてくる。

俺をこの調和の取れた世界から引き離さんとする声だ。

「………って………だ」

俺は声に抵抗し、この心地よい世界にいたいがために無視する。

しかし、敵?もさるもの。声だけでは埒が明かぬと見たのか俺の身体に振動を加えてきやがった。それはまるで大型旅客船が嵐にあって沈みそうなほど、強く強くこっちを揺さぶってくる。

外との交流を排除するジェリコの壁は勝ち鬨の声に取り除かれ俺は冷たい外気に身を晒す事となる。冬の大気は断熱材無しではまるで好みに突き刺さるように錯覚させる。楽園から追い出されたアダムとイヴはこんな感じだったんだろうか。

たまらずに俺は浮上を始めた。素もぐりから帰還するが如く放たれた矢の如く鋭角的な意識の先端がこの世界をぶち抜こうとしていく。そしてゆらめくそこから現実に確かな感触を持つ場所へと俺は帰ってきた。意識が戻るにつれて声もはっきりと聞こえてきた。

「起きろって言ってるっす。姉さんさえもう学校に行ったのに士郎はお寝坊ちゃんでちゅか〜?」

などと偉く挑戦的に俺を挑発する言葉。だが、この身体の重みはいかんせんぬぐいがたく俺をがんじ絡みに縛り付けている。

なんとか返事を返そうと思って口を開けたら声にならない声が呻きのように漏れてきた。とても俺の声とは思えないほどかすれた声だ。

「あれ?そんな声を出すなんて…変だな。まったく節操がないんだから。…豆はなくとも玉はある、か。大きさは…まあまあかな」

もうそろそろ節分だ。南京玉簾では代わりにならない。玉と書いてあっても簾である。豆まきの準備をしておいた方がいいかも…ああでもちゃんと買ってきてたっけ。流石にそういう所はそつがない。

「ねぇそろそろ本当に起きてよね。僕もいいかげん眠いからさ。7時になったら起こして欲しいって言ったのは士郎だろう?」

そういえば、そんな事も言ったような気がする…。確か昨日ではなく、今日寝たのが4時ぐらいだったからもう3時間たったのか。分かっていたとはいえ、中途半端な睡眠時間はかえって身体の機能が低下しているように感じる。意識はぼんやり、身体はずんぐりとスローであると言わざるを得ない。

ぐらんぐらんと揺すられる。普通ならばここらで起きるのだろうがあいにくとここ連日の内に為って来た疲れが噴出したのか一向に動き出す気配を見せてくれない俺の身体。動かそうと言う思考がそもそも薄いせいだろう。

「しょうがないなぁ士郎は。僕もこれは言いたくなかったんだけど、相手が士郎だからいっか」

ああ、構わない。俺は自分の意志では現在起床不可能なほど脳との断絶が起きている。復調するには外部からの刺激が必要なのだ。

すると相手はなにやらごそごそと物音を立て始め、俺を起こすために儀式でもしようというのかブツブツと耳元でなにかを唱え出した。真言か?

「あのね、士郎…」

なにを言い出すつもりか。だが、並大抵の事ではこの領域から復帰するのは難しい。

「勃ってる」

「そういうことを言うなっ!!!」

恥も外聞もあったものじゃない!布団を引き寄せようとしても既に俺の手の届く範囲になかった!代わりに敷布団で隠した。

「具体的に言うなら、海綿体に血流が集中して陰茎が勃起していつでも膣に挿入できる状態になっている。つまり、スタンディンバ〜イ」

「事細かに言うなっ!!!」

ち、ちちち、膣とかそ、挿入とかアホかコイツは!いや、アホなのは分かっていたがまさかここまでアホだったとは!

「朝っぱらから色呆けた事言ってんじゃねー!!!」

「朝っぱらから色呆けになるのは一部分だけにしておいてね」

クソ、ああいえばこう言う。お前には慎みという物がないのか!

「はいはい睨まないの。元気なのは若い証拠ですからいいことですよ。いつでも子供作ってくれても私が面倒を見てさしあげます」

海よりも深く空よりも高く慈愛のこもった目で俺を見てくる。だがこの場面ではアホ丸出しの○○○○でしかない。

俺の男の尊厳がズタズタにされた事など歯牙にもかけずに部屋から出て行く。

「あ、最後に、お相手はどなた? 桜? セイバー? 凛さん? …それともまさか姉さん?」

「藤ねえのわけあるかー!!!」

灰色の虎猫は小気味よさげに含み笑いを残しながら去った。

同時に狂騒の原因が過ぎ去って行ったので部屋には朝の静寂が取り戻された。全くの無音は先ほどの出来事が嘘じゃなかったのかと錯覚させる。だが、この心に吹きすさぶ寒風が手裏剣のように四方八方からザクザク突き刺さる。これは紛れもなく現実だ。

「ぅぅ…」

まるで通り魔に会ったまま泣き寝入りする女子大生のように枕を涙に濡らしつつ着替え始める俺だった。

今日の始まりはとても寒かった。色んな意味で…。

新しく出された制服に着替えて廊下に出る。裾とか多少短いだろうと覚悟していたがちゃんと今の俺ように寸法が直されていた。こういうところは気が利くのだが…。

空気が寒いのも頷けるはずで外は牡丹雪が降っていた。俺が寝る前から降り続けていたのかもしれないが積もっている様子はない。静かに、ただ静かに灰色の雲から降り注いでいる。いつか見た、冬の景色と同じだ。

床が冷たく足の裏から熱を奪っていく。スリッパでも出しとけばよかったなどと思いつつ居間に向かう。キシキシと軋る足音が外の空気と同調しているよう。それは屋敷の中全体と同じで人の気配がないような静寂を感じさせる。そんな馬鹿なことと考えても最近ではこうした朝の静けさとは無縁だったと思い直す。

いつもなら藤ねえと綾がなにかしら騒ぎを作り出しているから、そんな事を思うのだ。もし、切嗣が死んでからの俺にあの二人がいなかったらということを仮にすると、背筋から全身の力が抜けていくような虚脱感、空虚感を感じる。

からっぽになった俺には生きていく理由になにかが必要で、あの二人は俺にとってかけがえのない理由をくれている。あの俺にとってはありふれた空間、いつもの日常を守らなければならない。聖杯戦争という裏側を知ってしまった今ではなおさらそう思う。意識してか無意識か、そのどちらでも感謝している事に変わりはない。

同時にそれは耐え難い罪悪感を胸の内に黒々とペンキでべったりと書き殴られていく。俺には分不相応な幸せな景色だと。お前には幸せを享受する資格などないと幼いままの自分自身が罪人のように責め立てる。

あの焔の中で。見捨ててきた声。眸。助けてくれと頼む手。それら全てを振り切って生きようとした俺は、彼らの分まで生きなければならない。しかし、彼らが受けるはずだった幸せは俺が奪い取ったようなものだから、決して夢見るような事はしてはいけないのだと。

綾が言っていることは正しい。誰かを守ったり救ったりするなんてことは簡単に言ってはいけないことだ。それは覚悟も何にも出来ていない現実を直視することもしてない愚かな人間の戯言だ。

守る?救う?その真実さえ分かっていない人間がよくもまあそんな事を言えるものだと思う。人を助けたり救ったりすること。身体の損傷を回避したり物事の諍いを仲裁すればそれが救いになるか?そんなモノにはなりはしない。ただ終わる。それだけだ。

時間がたてばまた新たな争いの種は蒔かれいずれ芽がでて再び争点となるだけだ。何度も繰り返してきて、何度も同じ事を見てきた。そのたびに俺はそれを何とかしようとする。そうして解ることは正義の味方なんて結局は事後処理しか出来ない事だ。事が発生した後でしか存在を定義できないモノ。

優れた名探偵には必ず対となる優れた犯人がいるのと同じこと。つまり、正義の味方を望む俺は、同時に反対の存在、絶対悪を望んでいるということ。業なんて言葉で片付けられない俺の罪。

こんな自分を最低だと思う。正義の味方を隠れ蓑にして、俺は正しく生きている。なんて事を思う自分は。こんな歪んだ存在はいない方がマシなんだと思うことは多々ある。けれども、生きるために他を切り捨てた俺にはそれも出来ない。それに、命を捨てることは許さない。誰よりも生きることを見せ付けられてきたから、それだけは許さない。どれだけ苦しくても、生きることを望んでいるやつがいるから、許せない。

…朝っぱらからなにを重たいこと考えているんだ俺は。雪が降ってるからって感傷に浸りすぎだ。綾は藤ねえがもう学校に行ったと言っていた。とうことは今日も学校があるということだ。

寝不足のせいで身体が重たい。これは授業中に寝てしまうかもしれないと考えて…そしたらセイバーに小言を受ける可能性大なんてことも考えた。セイバーの小言って結構長いんだよな。理屈っぽいし、感性の綾とは反対だ。

重たい身体を引きずりつつ居間の障子を開けた。

「おはようございます、シロウ」

「…ん、おはよう」

「元気がありませんね。それに身体の調子もよくなさそうだ。…今日は学校を休んではいかがですか?」

「そうしたいのも山々だが。昨日の今日で他の連中の様子も気になる。それに、藤ねえに無断で休んだら後でなにを言われるか分かったもんじゃない」

そして被害を受けるのは俺だけでなく、クラスや弓道部の連中にも及ぶだろう。

「藤ねえは?」

「大河ならば学校からの提携連絡が上手くいっていないからと言って朝早くここを出ました。リョウになにかしら言伝を頼んでいたようですが」

ふむ、なにを言ったのかは後で聞けばいいか。はぁとため息を吐く。このだるさはどうにかならないものか。

「…少し、横になってはどうでしょう。シロウの事ですから学校に行くなと言っても聞き入れてもらえないでしょう。でしたら少しでも休んで体力の回復に努めてもらいたい」

「ぅ〜…」

セイバーのいうことも解る。しかし、ここで横になって眠らない可能性はほぼゼロ。ここで醜態を晒してしまった日には恥ずかしくてセイバーと顔を合わせられなくなるじゃないか。疲れてても変わらない現象ってのはあるんだよ。男の子には。

「そういえば、さきほどは騒がしかったようですが、またリョウが何かしでかしたのですか?」

「うぅ…」

…それだけは思い出させないで欲しい。男として、兄として、なによりも人間としての矜持が打ち砕かれてしまったようなものだから。身体は恥ずかしさで暑くなるのに心はどんどん寒くなってくる。特に、セイバーみたいな女の子に言われてしまっては。際限なく落ち込んでいくことができるだろう。ブラックホールに吸い込まれて別次元に跳んで行きたい。

それにしてもセイバーは言うことに遠慮、というか、なんだろう壁のようなものがなくなって来ている。出会った頃の彼女なら『綾がしでかす』なんて言葉は絶対に使わないだろう。馴染んだ証拠か。

俺が答えに詰まっていると台所から味噌汁の匂いと一緒に別の声が聞こえてきた。

「膨張率に関してだよ」

「だから、そういう事を言うなって言ってるだろうがっ!!!」

ガッと立ち上がって復活。俺の突然の怒声に目をパチクリさせるセイバー。

「モノが温まればモノが膨らむということに関しての一考察。これがほんとのネツボウチョウ」

「…熱膨張、ですか?」

「そう、熱棒張」

セイバーが言ってるのは、言葉としては合っているが絶対違う。発音は同じだが文字が違うだろう。

「お前はどうしてそう、アホなことを言ってるんだ!?セイバーにまで変なこと吹き込むなっ!!!」

「士郎が起きてくれなかったからじゃなかったっけ?」

き〜と喧々諤々の闘争に陥ろうとしている俺と綾。その間にセイバーの言葉がポツリと落ちた。

「…なぜ、膨張率のことでシロウは怒っているのですか?特に、変なこととは思えないのですが」

ああそうだろうよ。言葉だけを聞いているとそう取れるだろう。だがしかし、こいつとセイバーの言うネツボウチョウは激しく意味合いが違う。その差異に、俺は怒っているのだ。

むぐ、と言葉に詰まる俺。まさか正面きって保健体育の授業をするわけにもいかず、二進も三進もいかない状態。純粋に疑問の解を聞いてるだけのセイバーの眸に激しく胸が痛くなる。清い芸人が先輩芸人にむりやり下世話なネタを振られたときみたいに。まさか俺が芸人役とは想像もしていなかったが。

「それはね「お前は口出しするな!」」

さらに場を混乱させようとする灰色の虎猫が一匹。口の端を吊り上げて実に楽しげだ。腹が立つ。

「あの、士郎…」

俺が綾の口を文字通り封じようと身を乗り出し、以外にも素早い身のこなしでかわす綾を追いかけ始めようとした時。

「ケーキ…のことについてではなかったのですか?」

なんて、穢れない眸で見詰められた日にゃもう。ああ、勘違いというステッカーがデカデカと脳内に張り付いていく。綾が今日にでもケーキを作るとかは昨日言っていた。だが寝起きにアレだ。俺が勝手に思い違いをしたのだといえばそうだが、思ってしまっても仕方がないだろう。

「そ、スポンジになにか混ぜようかって聞いたらいきなり怒り出してね。不純物を混ぜると膨張率が損なわれるとかなんとか…」

く…嵌められた。これじゃ勘違いした俺が、よほど変態みたいじゃないか。

ぺたり、と顔を押さえて二人から表情をみられないようにする。寝起きというのが原因じゃないが今にも泣きそうだった。

うう、汚れたっていうのは自分で自覚してしまうと本当、汚れてるなって思ってしまうものなのだということを、俺は実感していた。

「あは、ま、そんな事よりご飯にしましょう。今日はオーソドックスに和食。ご飯に味噌汁、鮭の塩焼きに付き物の大根おろしに茄子の味噌炒め、かぼちゃの煮つけ。あとお茶ね」

確かにオーソドックスだった。朝から豪快にステーキ出されるよりもよほどいいはずだ。

セイバーは既に臨戦態勢に入っていて端を手に獲物(食料)に向かって魚を狙う鷲の目である。佇まいは静かにそして鋭く、これから一騎打ちでもしようかという気概さえ見受けられる。その様まるで古の侍のよう。多少、表現が大きくなってしまったかもしれない…。

俺も新たに生まれた傷を引きずりつつ箸を手に取り手を合わせて口の中で小さく「いただきます」と言う。

ぱく、と白米を口に入れて味噌汁を飲む。

…む?なんじゃこりゃ?いつもとはまるで違う。泥臭いし、味付けがずさんだ。何より塩加減がなってない。なにより作りはじめた時と変わらないしつこいこのくどさ。

「おい、なんだこの味噌汁は。泥でも混ぜたのか?」

ぶっとセイバーが吹き出しそうになったが今日の味噌汁といつものとは偉く違う。いつもなら「今日もがんばって学校に行きましょう」な気分になれるのに「けっ、学校なんざ行ってられっか、だぼがぁ」な感じである。

「いや、地震のせいで取っておいた出汁がなくなっちゃってね。それで、仕方なく…レトルトに」

言うのが嫌だったのかレトルトの部分の声が小さくなっていた。俺だってレトルトを使うなんて嫌だからその気持ちは、分かる。

「妥協したのか。珍しい」

「掃除してたら忘れてた」

それもまた珍しい。ついでに聞いておこう。

「どれぐらい割れてた?」

「20は。あとは罅が入ってたり欠けたりしてるのもある」

そうか…。部屋の隅のダンボールに入っている割れた陶器の山は愛用していた皿の成れの果てか。ざっと居間を見渡してみると確かに地震の傷跡が残っているようだ。歩けるぐらいには片付けられていたが廊下もそれなりにモノが散乱していたし。

俺も学校から帰ったら片づけしないといけないな。幸い俺の部屋には壊れて困る物は置いていないので簡単に終わるだろうが倉とかは悲惨な状態になっているだろう。もともと物が散らばっている場所だったが、積み上げられていた品も崩れているはずだ。落下した衝撃で壊れていなければいいのだが。せっかく直したストーブとか。

そういえば、モノが散乱しているといえば―――。

「お前の部屋はどうなったんだ?」

「…………夢の島一丁目」

「そうか。パソコンとか壊れてたら俺が直せる範囲で直してやるから、気を落とすなよ」

「壊れてたまるもんですか。データとか跳んでたら泣くかもしれない。バックアップとってないし」

「あ〜。その場合、泣くのはお前じゃなくて夏美さんだろ?」

「ナッちんは泣いてもいいの。それに、隔月連載だから」

ひどい言い草である。

もともと綾の部屋はゴミが散らかり放題になっていた。さらに部屋にはこれでもかというぐらい物が押し込められていたので現在はどうにもこうにもならない状態であろう。藤ねえから押し付けられた人形やぬいぐるみ。三方を閉める本棚にぎっしりと敷き詰められた文庫など。揺らせば落ちるのが考えなくても分かる場所なので、片付けに掛かる時間も多いだろう。

ちなみに、夏美さんとは編集者さんのことだ。以前、とある奇怪な事件に遭遇したときに知り合った竜宮社という出版社の人である。怪奇小説や伝奇小説を主に売り出している会社で綾の付けている不定期日記に目を通した時に腰をぬかして驚いた。たしかに綾の日記は奇妙奇天列摩訶不思議素材の宝庫。それを基にして小説を書いてみないかといわれたのが切っ掛けで綾はこの年にして年収がそこらのサラリーより上なのだ。綾が書いた訳の分からないくせに勢いだけはあるへたくそな原作をプロのライターの人が書き直すのだ。

ちなみに、シリーズ物で現在三冊ほど出ている。そのいずれも綾が遭遇した怪奇事件を基にしている。あるお寺を舞台にした龍神伝説や地方都市の都市伝説を主題としたものなど。現在は京都で起きたヤクザ同士の血で血を洗う抗争に巻き込まれる内に、その裏で彼らを操る現代に生きる呪術者たちという神代の復古を企む集団が登場して実は主人公が天孫直系血筋の巫女であり彼らはそれを狙っているという変てこな大長編ストーリーになっている。ネタはあれで大々的アレンジがしてある。主人公は自然と心を通わす女子高生、絢。そして見逃してはいけないのが彼女に忠実な正義の愛犬、士狼である。名前から分かると思うがこのコンビは俺たちをモチーフにしている、らしい。両方とも夏美さんのお茶目で生まれたキャラである。…結構売れていて愛犬士狼の正義的日常という勧善懲悪の別シリーズも出たらしい。

「それより、地震の発生源って冬木市沖10kmだったらしいよ。震度は5だって。冬木断層とでも名づけましょうか?」

ざっくり無視する。不謹慎にも楽しげに笑みを浮かべていやがったからだ。

「てことは、連続的に余震が起きるかもしれないのか」

だとしたら、厄介なことになりそうだ。地震というのが人に与える恐怖は並大抵のものではない。人が地に足を付ける生物だというのなら、その大地が信用できなくなってしまったらどうする。いつ足元が崩れても可笑しくないなんて事も考える。実際に昨日はそう思ったし。

「なるべくガスや電気の使用とかも控えた方がいいってラジオで言ってた。それから、避難する場所とかの確認も」

「まあ、いきなりガス使ってドカンなんてないとは思うけど、確かにできる限りそうした方がいい。…電気って復旧したのか?」

「うん。でもこの辺りは被害が小さかったからね。新都の方はまだ治ってないみたい。それに、電話線とかも断線してて…。あ、姉さんは電話が繋がらない家庭があるから連絡が上手くいってないってさ。だから、みんなの無事を確認するために学校に来て欲しいだって。これからのこと学校側で話するとか言ってたよ。…忙しそうで大変そうだった」

「ふ〜ん。全校朝礼でもするのか?」

そうなんじゃないとどうでもよさげに相槌をうって綾は料理に取り掛かる。

あの地震によって様々な場所で色々なことが起きているようだ。例えば地震のせいで怪我してしまった人。例えば地震のせいで大切ななにかをなくしてしまった人。回避しようのない天災だということは分かっている。それでも、なんとかしたいと思うのは偽善なのか。

「…そういえばお前、身体は大丈夫なのか?」

綾はかちゃりと箸をおいて俺に向き直る。

「そうなんだよね。普通ならこうして起きて話するなんて出来ないのに。むしろ調子がいいといってもいい。いつもより」

「…新しい薬でも飲んだのか?」

「あれは抑えるための物であって治すためのものじゃないんだけどね」

じゃあ、なんでだろうか。

「お前、あの人のところ行って来い」

それがいいかもしれない。今は聖杯戦争だなんだと色々と忙しいし。しかも地震なんて物も起きてしまって綾に掛かる負担は普段の2倍じゃ聞かない。それに、悔しいが綾の状態は門外漢の俺には把握しきれない。どんなに状態が良くても次には悪くなってることもある。だから、あの人に預けた方がいい。性格云々は信頼の欠片も出来ないが、医者としてなら信じることもやぶさかではない。これは、前々から考えていたことだ。

「あ〜。それ無理」

「な、なんでだよっ!?」

「先生は奈良に出張中」

「あの人医者だろ。なんで出張なんかあるんだよ!?」

「さあ。お得意様なんじゃない?それにそもそも、交通手段が確立されてないしね」

「マジか?」

「マジだよ。バスはまだ復旧してないし、電車は通じてないものね。あの場所」

う…バスしか通じてない山奥。しかも隣県のさらに端っこ。だから片道だけで5時間は掛かる。子供の頃は遠くに出かけるようで行く度に楽しかったが高校生となり、医師の人となりを知ることによって今では寄り付きたくない場所のトップと化している。

「子供たちは大丈夫なのか。あんな辺鄙な場所で」

「大和がいるから。それに明日香も。あの子たち二人がしっかりしてるから平気」

告げる眸が、本当の微笑を持って柔らかくなっていた。

大和とはやぶ医者の所で世話になっている孤児の一人で中学三年生の男の子。明日香ちゃんも同じく中学三年生で女の子。子供たちの兄貴分であり姉貴分である。養い親が生活能力皆無で堕落をこよなく愛する人間だからとても15歳とは思えない利発さを持っている。…どこかで聞いたような話である。

その二人も、綾が来ると甘える。綾は年上であり付き合いも長い。あの二人が弱さを見せることが出来るのは綾しかいない。いつも下の子供たちの面倒を見ている二人にとって、綾はきっと、無条件で優しさをくれる唯一の人だから。俺は知らないけど、理由はそれだけではないはずだ。あの場所に引き取られる、とは複雑な事情があるはずだから。

俺も、桜も、藤ねえでさえ、弱さを見せることもある。俺が知らないだけで他にも多くの人たちが綾に弱さを見せることもあるのだろう。綾には人を優しくさせ、人を穏やかにさせる生来の資質がある。それは同時に強さを育ませる芽を植え付ける。本人が自覚しているのかしていないのかは分からないが。

けれどそれは、自分で歩き出そうと言う意思を持たなければただの依存なのだ。誰かに頼ることを覚えた人間は、誰かに頼ることによってしか自己を守れない。以前に、綾が言っていた『堕ちる』とはつまり、自分で自分も守れなくなってしまった人の事を言うのだろう。

俺が歪ませてしまわなければきっと、もっとたくさんの人たちの笑顔を守っていたはず。綾の周りには誰かしら人がいて、綾はなにをするでもなく、傍にいて歌でも歌ってその人が口を開くのを待つ。そんな光景が当たり前となっていたはずなのに。

だってのに、俺は安堵することもある。そんなに縋られてばかりでいたら、いつか潰れてしまうんじゃないかって。人の事ばかり気にして、自分が疲れているということも気づかずに、いつか潰れてしまうんじゃなかいと。綾にしてみたら、俺の事をこそ言いたいのだろうけど。

…感謝している。俺の弱さを、依存を受け入れてくれて、見守ってくれていることを。だから俺は、こいつが心配しないぐらいに強くなりたいと思うのだった。これ以上、俺のことで心配しないように、少しだけでも。そして、本来の自分を取り戻してくれる事を。

それは、聖杯やなんかで叶えるものではなく、地を這ってでも得ていく経験と言う成長。

「な、なに。気色の悪い顔で見て…」

「…べつに。味噌汁の塩が悪すぎるだけだ」

首をかしげながら、また造った笑みを浮かべる綾を見て、俺は決意を新たにするのだった。

登校である。

いつもと同じ時間帯。いつもと同じ玄関からの見送りの声。しかし、目の前の光景は決していつもと同じではありえない。

武家屋敷の軒並みは所々に壁の剥がれや欠け落ちた部分があって昨日までの整然とした佇まいはない。

加えて空は暗天であり雪がちらついていてどうにも町中が暗い雰囲気に満たされている。

通行人たちの顔も一様に暗く、これからいつ訪れるか分からない地震に怯えているように見える。

いつもならそろそろ学園の生徒たちに出会うはずなのだが…、いや、出会えたことは出会えたのだが数が少なく。それだけで昨日の地震の影響と分かる。

歩く姿は俯いていたり、友人と談笑していてもそこに笑顔が浮かぶものはあまりいない。話題の中心はやはり地震の事だと聞こえてくる。

その男子生徒は新都の方に家があるらしく、弟が崩れた箪笥に潰されて入院してしまったらしい。話を聞く生徒の方には頭に包帯が巻かれていた。

学園に続く坂道にはポツリポツリと生徒たちの姿が見られるが、その背に背負う雰囲気は重たく暗いものが多い。

地震の被害にあわなかった者もいるだろうが、被害にあったものの目の前であからさまにそれを喜ぶわけにもいかない。だから、重たく暗い。

校門をくぐる。

地震の爪痕は学園にもあるようで、塗装がはげかかった部分が所々に散見される。

どうにもやりきれない空気があたりに漂っている。

校舎の中に入り、階段を登り、教室に入る。

ガラリと戸を開けるとクラスのみんなの目が俺に集中する。

「おー衛宮、おはよう。お前ん所は無事だったか?」

「おはよう。特筆すべき被害はなし」

「これはこれは衛宮殿。ご健勝のほど何よりでござるな」

「いつもどおりみたいだな…」

あんなことがあってもうちのクラスは割と平常どおりに行っているようだ。担任の教育の成果か。

自分の席に鞄を掛けて座るり落ち着いて周りを見渡す。数こそ少ないものの教室の中はそれになりに賑わっていた。

登校してから急に不景気に陥った景色しか見てこなかったのでここの明るさはある種、見ていて嬉しいものと感じられる。

どれぐらいか、なんとなく教室の中を見ていたらガラリと後ろの扉から一成が相変わらずの冷静そうな顔で登校して来た。

俺は椅子から立ち上がって一成に近づく。一成も俺を認めたのか近寄ってくる。

「衛宮、大過はなかったか?」

「一成。朝会ったらまずは挨拶をするべきじゃないか?」

「…む。たしかに。このような時だからこそ礼節は忘れるべきではないな。ゴホン。衛宮。おはよう」

「ああ、おはよう」

その、変わらない態度に苦笑した。

「それより一成。昨日の地震のことで学校側からなにか通達があるんじゃないのか?」

「うむ。…俺もそのことでついさきほど職員室に行こうとしたのだが教師たちは会議の真っ最中でな。とても立ち入れる雰囲気ではなかった。聞いた話によると何人かは入院するほどの怪我をしたそうだ。天災による緊急会議は久しいからな、なにかと対応に不備があるようだ。このことを教訓に今後は柔軟で迅速な行動を取れるようにならなければ」

生徒会長という職務についている以上に一成自身の性格がそう言わせているのだろう。お寺の息子さんでもあるし。人にまで被害が出ては黙っていてはいられないのだ。

「…そのうち俺の方にも連絡が回ってくるはずだが、少なくとも朝礼が終わるあとになるだろう。事前に連絡はない」

不機嫌そうに断言する。知っておきたい事を知ることが出来ないことは一成でもいらいらするだろう。責任感の塊のようなヤツだから、生徒を代表する者として少しでも現状に対する今の立場を知っておきたいのだ。

そのままいくらか話していただろうか。唐突に話題が跳んだ。

「時に衛宮。あやつはどうなのだ?」

「あやつ?」

「俺とお前の間のあやつと言ったら衛宮綾のことしかないだろう」

一成は憮然として聞いてくる。

一成にとって衛宮綾の名は記憶中枢にデカデカと極太明朝フォントで銘記された決して拭いきれない名前なのだ。

実は、俺よりも前にこの二人は会っている。藤村雷画と柳同寺の住職、つまり一成の祖父さんがどういうわけか知り合いでそれなりの交流があるらしい。昔、雷画爺さんが茶の湯を飲みに柳同寺に綾を連れて行ったことがあるそうだ。寺というある種、神聖な空間には藤ねえは鬼門であり、代わりに連れて行かれたのが綾だそうだ。雷画曰く、辛気臭い寺に華を持ち込んだらしい。その頃の綾といえば、性格に難がなく、立ち居振る舞いは楚々として優雅。誠のお嬢さまと称しても可笑しくない完璧ぶりだったので適任だったのだ。こう言っちゃなんだが長話にも真面目に付き合ってくれるし…。

で、その時に出会ったらしいのだが。以下は一成が一生引き摺ることになるであろうトラウマなので、詳しい事は述べられないが…、現実とはいつも厳しいものだという事を認識させられたそうだ。

「…少し、な」

「またか。ならば見舞いの品でも持って今度行くか?次は冷凍蜜柑などどうか?」

「いや、今はもう全然元気なんだけど…」

人の尊厳を一殺するほど無駄すぎるぐらいにな。けど、それが逆に引っかかるというか。歯の隙間にすじ肉が挟まっているような、しっかり表現できないものだ。

「ふむ。なにやら表現不能の懊悩をしていると見える。衛宮はあれのことになると過保護だな」

「…む。過保護って何だよ。俺はあいつの自主性は尊重しているぞ」

「………気づかない振りをしている所が過保護だと言うのだ。戯けめ。あやつは周りから見れば幼いところも演じているようだが衛宮よりもよほどしっかりしている。自己管理の把握など最たるものだ」

…むむ。さすがは一成。痛いところをついてくるじゃないか。一成は綾とも付き合いが長いから、その本質、隠しきれない内面を見抜いているっぽい。

そう言ってくれるな一成よ。俺だって少し気にしすぎじゃないかと思うことはある。アイツが何も言わないことをいいことにして色々と面倒を見てやらなければと考える。それは、俺の原動力。誰かを守っているんだという道化の現実が、逃げ出してしまった俺を許容していると感じてしまうから。理性では分かっていても、本能的に動いてしまう。

そして、本来ならやらなくてもいい事を綾に科してしまった事に蓋をしてしまっていたから。気づかない振りをしていたから。俺が始めさせてしまったことだから、今はまだ…心地のよいぬるま湯に使っていて、依存から抜け出せないけれど、そのための強さを得たその時が…。

そのまま他愛もないことを話していたらいつのまにかクラスメイトのほとんどが来ていた。笑顔の者もいれば疲れている顔もいる。ガラリと教室の前の扉が開けられた。皆がそちらの方向に振り向く。

「は〜いみんな〜。元気なのはいいけど〜、もうホームルームの時間は過ぎてるんだから静かにしなくちゃ剣の錆にしちゃうぞ☆」

☆じゃあるまいに。だけどその脅し文句は皆の心胆に多大な負荷をかけたようで一瞬にして静かになった。ガタガタと物音立てるヤツは一撃一殺だぜ☆いや、俺も☆じゃないだろ…。

少しの混乱はあったものの、学園は無事に日常を送る事が出来そうだ。

「と、いうわけで、今日の授業は午前中のみ。部活もしちゃだめよ。なにがあっても慌てないように過ごしてください。地震が起きたら所定の場所に各自避難は速やかに」

あまりに端折りすぎて分からないというのなら説明しよう。今日の授業は地震の影響で休んでいる人が多いので彼らの都合に合わせて授業を短縮するという事。明日は平常らしいがそれも暫定的なのでどうなるか分からない。

既に時刻は昼。朝に申し渡しされたように授業は終わりだ。部活も厳禁らしい。俺は帰宅部なのでそれほど影響はないが、大会を控えていて部活を真面目に打ち込んでいる人たちにとっては手痛いダメージだろう。

だけど、誰も文句を言うことなどしない。怪我をしないだけ運がよかったのだから、そこで文句を言うヤツなんてわがままを通り越して愚かというべきなのだ。

朝よりも騒がしくなった校舎は普通に見える。だけどどこか活気がないのも確かなことだった。俺も机に提げた鞄を持って…中の重みを思い出した。

一成はすでに挨拶をして生徒会室に直行している。慎二は元から来ていないようだ。

さてと、俺はといえば気が進まないかといえばそうでもないが、やっぱり行くのに物怖じする場所に行かねばならない。

目標は…遠坂凛。

綾がリボンを貸してもらったお礼にとちゃんと洗ったそれと昨日作ったマシュマロもどきを遠坂に渡してくれと言ってきたのだ。

俺も軽い気持ちで受けたものの、いざこうして前にすると緊張するというかなんと言うかな。相手があの遠坂凛だし。いないならホッとすると思うけど、いてくれないと困る。

2−Aの教室にう〜むと唸りながら辿り着く。

「いざ、尋常に」

なにを尋常にすればいいのかわからないままにそんな事を口走る。

扉の入り口を指に引っ掛けて勢いよく横開きにする。滑りのよい扉は躓くことなくアッサリと開いた。

…そうして失敗したことを悟る。アレだけ勢いよく扉が開けば皆が何事かと思うのは当然のこと。教室にいるほとんどの視線が大根役者の俺に集中しまくり。

ちょっと嫌な汗をかきながら「なんでもございません」と示すために両手を少し挙げてNoサイン。なんだつまらないとでも言いたげに視線は霧散した。

はぁとため息を吐きつつ教室内を走査する。

目標は…いた。さっき俺がやったことを一人だけ気にも留めなかったお嬢様然としているニクイやつである。なにやら帰宅の準備をしているらしく、鞄をごそごそとしている。

遠坂の周りにはいつもと変わらずお嬢様オーラとでも呼ぶべき空間が張られていてとても近づいて話しかけられる雰囲気ではない。高嶺の花的存在なのである。学校での遠坂凛は。

幸か不幸か…俺は遠坂凛という少女の一側面を知ってしまったので、勇気を出せば話しかけられないこともない…はず。

落ち着け、遠坂に話しかけることぐらい、綾の怒りMAXよりもよほど簡単なはず。昨日の礼を言って品物を渡すだけだ。

だけどなぜか俺の胸はドキンバクンと緊張に震えていて手足の動きはギクシャクしていて…学校で遠坂に自分から話しかけるなんてしたことないからな。状況が違うだけでこうも焦るとは。考えてみれば俺って自分から女子に話しかけるなんてほとんどしたことないな。

なんて事を考えながら遠坂の机まで歩いて行くのだった。

遠坂が近づいてくる俺に気がついたのか顔を上げて一瞬だけ表情を「うげ」とでも言いたげに変えた。注視していなければ分からないほどの極一瞬だ。なんとなく流石という気がしてくる。

落ち着け、俺。礼を言うくらい幼稚園児の時にマスターしてるだろ。

「よ、よぉ、遠坂」

声が変に伸び上がった。く、くそっ、失敗した。

遠坂はまたも露骨に「なんなのよコイツ」な顔した後、完璧な0$スマイルを浮かべた。自分の感情を閉じ込めることなんて造作もないのだろう。またもや…流石…という気がしてくる。溜めの部分に感嘆レベルのアップを感じていただきたい。

「あら衛宮くん。こんな時にわざわざこちらのクラスまで来るなんていったいどんな風の吹き回しなのかしら?」

訂正。表情は完璧に隠しているのに声の音域の上下の幅、言葉の端々に棘棘が感じられる。…ちょっと怖い。だがここで逃げ出すわけには行かない。そんなことしてみろ。綾に一生チキン呼ばわりされるのは目に見えている。チキンなんて単語だけは当てはめられたくない。

「き、昨日世話になった礼だ。ろくに礼も出来なかったからな。だから、今日しにきたんだ」

うわ。台詞とちった。言う事ぐらいちゃんと覚えていろよ。なんだか文脈が変じゃないか?

「別に気にしないでもよかったのに。じゃあ、帰りながら話しましょう。お礼のことも含めて」

などと言いながら遠坂は席を立つ。ふいと鳥みたいに重さなど感じさせない足取りで教室を出て行くのだった。その軽やかな歩みに見惚れてぼうっとしていた俺も慌てて追いかけていくのであった。

―――俺たちが出て行った後、2−Aの教室からドッと歓声のような嬌声のような怒声のような声の集合体が沸いた。いったい何事と思いつつも遠坂の後をついていくのであった。

「遠坂。昇降口はそっちじゃないぞ」

帰ってくる返答はない。帰りながら礼の話をするんじゃなかったのかーと思いつつ無言で歩く遠坂についていくこと約3分。目の前には階段。上方向へ迷わずに進んでいく。

目指す地点が屋上なのかと推測しつつも俺も無言。なんか「ワタシイマフキゲンデス」的空気が漂っている遠坂さんちの空模様。理由はよくわからないのだが。

屋上に出る。扉を閉めると下の階とは切り離されたように感じる。喧騒は下界のものだと思えるし、空が一段近くなるからかもしれない。あいかわらず灰色の雲が空を覆っている。場所が場所のせいかビュンビュンと吹いてくる風が痛寒い。

そしてようやく遠坂凛は話し始めた。振り返った顔は教室で見たのが幻じゃないかってぐらいに怒っているっぽい。

「あんた、いったいどういうつもり…」

「どういうつもりもなにも、俺は礼をしにきただけだ」

「礼って…。昨日の事なら私が自分でしたことだから礼をされる謂れなんてないわよ。それよりも、なんで私に話しかけるのかな衛宮くんは。ほんとう、自分で進んで死にたがってるとしか思えない。なんども言ったけど、私と衛宮くんは敵同士。こんなことされても意味がないんだけど」

「意味ならある。感謝の印をするってのは俺も相手も気分がよくなるだろう?」

「私の気分はよくならないわよ。むしろすごい勢いで降下中。なんで敵からプレゼントもらって喜ばなくちゃならないのよ」

「ソレは違う。俺と遠坂は敵じゃない」

「敵よ。それ以外のどんな関係でもない。私にとって衛宮くんは排除するべき敵でしかない」

だろうな。そこまで強固に敵って言ってくるぐらいだから本当に敵なんだろう。他の誰でもない遠坂凛が言ったことだから。だけど―――。

「少なくとも敵じゃない。―――今は」

「は?」

「だって、一昨日…じゃなくて昨日言ってたじゃないか。俺と遠坂は学園のサーヴァントの問題が片付くまでは敵じゃないって。それまでは停戦だって」

これを言ったのも他でもない遠坂凛自身。

「遠坂は自分で言った事を中途半端に破るやつじゃない。だから、俺は安心安全。な、敵じゃないだろ」

「あんた本気でそんなこと言ってんの?」

「え、あれって嘘だったのか?」

もしかして、俺って今かなりヤバイのだろうか。

「―――む。ふん。嘘なんかじゃないわ。だいたい、衛宮くんに嘘ついたところで特になることなんか何にもないものね」

ぷいとそっぽを向いて、髪が揺れる。なんとなく遠坂らしい態度に笑ってしまう。

「礼の言葉は受け取っておくわ。それだけ?」

「ああいや。昨日お前が綾に貸してくれたリボンと、月見団子もどきだ」

俺のわけの分からない言葉に「はぁ?」とへんてこりんな顔になる遠坂凛。う〜む、やはり教室にいたときとの違いが如実に現れている。この豹変度は驚天動地の極みに達しているかもしれぬ。

とりあえず、手に持ったお礼の品を差し出して反応を見る。あれだけ敵だ何だと言っていたわりにわりかし素直に遠坂は受け取った。よし、ミッション終了。あとは前線から帰還し、任務達成の報を伝えるのみ。

で、遠坂は受け取ってはくれたものの難しそうな顔をしたまま何やら考え込んでいる。…ちょっと困った。目立った反応がないので俺もどう対応していいのやら。寒いし痛いしで屋上からの早急なる退避を提案したい所だ。

「衛宮くん」

「はいっ」

なぜか遠坂の声に背筋を伸ばして屹立する俺だった。

「食べましょう。こっち」

「はいっ」

遠坂は屋上から出て行く。俺もついていく。扉を閉める。遠坂は屋上に続く踊り場に座り込む。俺も続いて座り込む。例の団子を入れた箱が前に取り出されて…。

「あ、待て遠坂」

「…?」

懐から大きめのハンカチを出して床に敷く。

「遠坂はここだ」

「な、あ、あなたねいったいなに考えているのよ!?」

なぜか遠坂はがーっと咆哮してしまった。よくわからん。どうして怒鳴られなければならないのか。

「制服が汚れるだろ。だからだ」

「…衛宮くんがこんなことするなんて意外でしかないわ。誰かに仕込まれたの?」

なにやら怖い顔でそんな事を言ってくる。実際その通りなのだが…。

「あ、ああ。綾にこうするべしと小さい頃に叩き込まれた…」

「もしかして、誰にでもそんな事してるわけ?」

「ば、馬鹿言うなっ。こんな事、誰にだって出来るわけないだろ!実際にやるのだって初めてなんだからな!それに、遠坂だからしたんだ!」

さっきの事は全く意識しないでやってしまっていた。小さい頃の刷り込みって恐ろしいものだとつくづく実感。ということは脇に置いといて、素に返って見ると恥ずかしいのなんのって…顔から火が出てきて脳みそがグワンてして…。ちょっと待て、今俺なにげにすごいこと言わなかったか?

恐る恐る遠坂を見てみると…立ち竦んだまま絶句していた。少し顔が赤い。う…。そんな普通の女の子みたいな顔されるとこっちももっと恥ずかしくなってくる。

「と、とにかくここに座ってくれ。このままじゃハンカチを出した意味がないし」

強引に遠坂を座らせたのだった。

壁を背もたれにすると冷たくってすっと身体中の熱さが吸い取られていく。ふぅと大仕事をやり終えた後の達成感にも似た感慨を抱く。

「…………………………」

「…………………………」

そうして無言。気まずくて恥ずかしい。しかも、参った事にここは俺たち二人しかいない。現状を打破するにはどっちかがアクションを起こさなければならないわけで、こういう場合はどうしたらいいんだっけ。確か…確か…グチャグチャでなにをするか思い出せない。『侠と書いてオトコと読む』ではなく…、『据え膳貪れ』でもなく…。ああもうとにかく!こういう場合は男から行動を起こすものなんだろうが!?それで文句ないだろう!?

むんずと遠坂の膝の上に鎮座している一見弁当箱っぽい包みをこじ開ける。そうして宝箱の中には―――。

「…顔だ」

「え?」

「いや、顔が詰まってる」

「…ほんとね」

遠坂も包みの中を覗き込んでぼそりと同意した。顔が詰まっている。とても猟奇的だ…。

なにかのカリカチュアがここに爆誕していた。猫の顔。犬の顔。猿の顔。虎の顔。大河の顔。幼児が書くようなへなへなの線の顔。正月に見られる僅かに浮かんだおたふくの顔。往年のTaroOkamotoを思わせる大阪万博にでも登場しそうな芸術が爆発してアフロになったコントもの。まるでゴルゴ13のように痺れる顔立ちをなされた劇画タッチの渋み溢れる小父さま風味の顔…薄らと笑っている…怖。顔顔顔が…今から食われることを覚悟してかこちらを恨めしそうに見上げていて…シュールとしか言いようがなかった。

さっきとはまたえらく違った沈黙には恥ずかしさはないが…なんというか、二の句が告げない奇妙な沈黙だった。

えっと、こう言う時は…。

「俺、飲み物かってくる」

「わたし紅茶ね」

「あいよ」

などと緊張感もなんもかんもが全部吹っ飛んでしまっていて、当初の目的は…達成…しているのか?と疑問に思わずには入られない空間が出来上がっているのだった。

急いで食堂まで行って買ってくる。戻ってくるまでの所要時間は四分。なかなかの好タイムを叩き出した。ここ最近はアップダウンの激しい運動をしているので体力脚力が上昇したのだろうか。全身運動だしな。

戻ってくると遠坂は箱に蓋をしていて居心地がとても悪そうに顔の集合体から目をそむけていた。こう表現するとまるでモンスターみたいだが…。たしかにモンスターみたいだ。合体して巨大化したりしないだろうな、これ。

「先に食べててもよかったのに」

「これを一人で食べるなんて趣味はないわ。お礼は、受け取っているけど」

紅茶を渡して隣に座りなおす。

カパッと蓋を開けると顔がいっせいにグリンとこちらを向き、俺たちは恐れおののいて逃げ出した…。なんてことにはならずに変わらずに座して待っている。いや、なんか動き出しそうなほどリアリティ溢れるのもあるしさ。なんと言うか、生々しくて。食べる気が失せてしまう。

「「う…」」

再び封印を施される。俺はついでに風呂敷で包み込んで重複封印をかます。

…あれ? 食べるんじゃなかったっけ? どうして封印なんて物々しい単語をしてしまっているのか。

「これ、嫌がらせ?」

「…すまん。中身を確かめなかった俺のミスだ。なんとでも言ってくれ…」

口から出る言葉は重々しく、いかに俺が軽率だったかを知ってもらいたいと、これまで言ったことがないぐらいに厳粛だった。

遠坂はじ〜〜〜〜〜〜っと疑わしそうな顔して俺を見ている。ちくちくなんてレベルじゃなくてガスンガスンと作業用スパナ・ガンが打ち込まれてくるようだ。視線がとても痛い。

「…はぁ、確かにこれに込められた気持ちだけは本物だわ。こちらの迷惑を省みなくて自分の楽しみのために作られたようなものだけど。…気持ちを込めすぎて直線的にやり過ぎて作ってる途中から目的が手段に摩り替わったみたいね」

確かに、中にはひよこ饅頭のように愛らしいものもあったが…作業している間に趣味に走ったのか、それとも賛美歌13番でも歌っていたのかいつのまにやらゴルゴまでが生まれてしまっていた。

…ゴルゴ…。絶対に食べる気になれない。だって、えらく怖いじゃないか。笑ってるし…。

「ま、ありがとう」

「…え?」

「こんだけ盛大にやられたら礼もいいたくなるわよ。…皮肉じゃないわよ」

すまん。絶対に皮肉以外の何物でもないと思っていた。

カシュッと缶を開けると安物だが確かに紅茶の薫りがしてきた。寒い空間には缶の暖かさが学生の味方というのは基本なのだ。手に転がして暖を取ってから呑み始めるのもまた礼儀。

俺は一気に、遠坂は少しだけ傾け、同時に飲む。紅茶を飲むことによって精神が安定したのかなんとなく落ち着いてきた感じがする。今度の沈黙は別段そう悪いものじゃなかった。

「…そう言えば、遠坂。昨日の地震はどうだった?」

「…滅茶苦茶になったわね。要らない物ばかりがやたらと多いのよ遠坂の屋敷は。だからそこら中に散乱して大変な事になってるわ。結界も地異までは防げないようね」

「…ふぅん、そりゃ大変だな」

「…別に。アーチャーって外見からは想像もつかないぐらいに掃除が得意みたいだから」

…あいつがねぇ。意外な事実だ。そんな事しそうにないぐらい無礼な物言いをしてるからなあいつ。

「…ん?じゃあ今アイツいないのか?」

「ええ。屋敷の中を全て綺麗に片付けてって言ってるから」

「…ふぅん、そりゃ大変だな」

「…別に。アーチャーってそういうの好んでそうだから」

…あいつがねぇ。意外な事実だ。そんな事しそうにないぐらい居丈高にしてるからなあいつ。

…なんか、変な空間が作り上げられてしまっている。これはもしや綾効果なのか?こんな離れた場所にまで自分の影響を及ぼすとは…なんと恐ろしい。しかし、効果の程は良いと言ってもいいだろう。アレが出てくるまでなにを喋っていいのか解らなかったし。

「衛宮くんの家はどうなのよ。廊下にも色々と物が置いてあったけど?」

「うちはそれほどの被害はないな。皿が何枚か割れたぐらいで、遠坂んちみたいに高いものが置いてあるわけじゃないし」

「う…。簡単なものなら直せるけど、それでも損害が馬鹿になんないのよね」

遠坂は難しい顔をした後、うな垂れてブツブツと金額がどうのこうのとため息混じりに呟いている。

そうだろうなぁ。なんか遠坂の屋敷においてある調度品とかこりゃ物が違うなと思うものばっかりだったし。素人目に見ても一目で高いと思わせるものがズラリと…。うちとはそれこそ損害の規模も桁が違うのだろう。

「遠坂。昨日さ、公園でサーヴァント同士の戦いがあったって知ってるか?」

「当たり前じゃない。世間じゃ地震の所為で地下のガス管が破裂したんじゃないかって言われてるけど、そんなのあるわけないじゃない。あそこのガス管が爆発したんならもっと被害は大きくなってるわよ。跡形も残らないぐらいに」

「遠坂もあの場所にいたのか?」

「いいえ。私は柳同寺にいるサーヴァントを調査してたのよ。気に入らないことしてるしね。私の手で殺してやりたいの。色々とストレス溜まってるしね」

にやりと物騒な笑いを浮かべながらこっちを見る我が学園のアイドル的存在(俺の脳では既に崩壊)。いかにも俺がストレスの原因の一つだと言っているように見える。…別に遠坂のストレスを増幅させるつもりはないんだけど。

「え、柳同寺にもいるのか?その、敵のサーヴァントが?」

「なんだ、気づいてなかった。そっか、地震の速報にまぎれて霞んじゃったけど、最近になってなんの兆候も無しにいきなり昏睡に陥る現象。魔的な匂いがぷんぷんするわ」

「昏睡って…それ、すごくやばいじゃないかッ」

いきなり昏睡に陥る。なんの脈絡も無しに。そんなの…傍で見ている人間がどれだけ心配するか。気づく事も出来ずに倒れられてこっちは何も出来ない。そんな悔しい思いをさせるのは嫌だ。誰にもそんなの味わって欲しくない。ギリリ、と口の奥で歯をかみ鳴らす音がする。

「そうね。だけど柳同寺には結界が張ってあってサーヴァントは迂闊に入れない。正面から挑もうにも壁役が配置されていて攻め込む事も容易ではない。まさに要塞なの」

「壁ってサーヴァントなのか?」

遠坂は大げさにはぁとため息を零して肩を落とす。

「そう、そうなのよ。一つの場所にサーヴァントが二体。上手く門のサーヴァントをどうにかできても絶対に消耗している。中にいるサーヴァントだって検討はついているけど詳しいことは分からない。何も知らずに攻め込めばこっちがいいようにやられる」

「二体って協力してるってことか?」

「多分ね。門のサーヴァントは正直、やりあいたくないってアーチャーが言ってた。あいつがそんなこと言うぐらいだから、厄介きわまりないんだろうけど」

眉間を険しくしてそのサーヴァントたちを睨んでいるかのような遠坂。あのアーチャーが言ったのだから間違いないのだろう。嫌なやつだが、下らない嘘をつくとは思えない。

柳同寺に正体不明のサーヴァントが二人。相手は遠坂が攻め込めないほど。それは、相手が二人だから。アーチャーでも二人を同時に相対する事は出来ない。アーチャーの強さは知っている。ランサーの槍を悉く防ぎ、バーサーカーさえ怯ませる戦闘能力。それを持ってしても打倒するのは容易ではない。なら、相手が一人に減ったらどうなるのだろうか。

「遠坂」

「なによ」

不機嫌そうに、いや間違いなく自分で話したことに自分で不機嫌になっている。腕を組みながらむーと唸っている。

「今回限り、協力しないか?」

「はあ!?」

素っ頓狂な声を上げて驚いている。そんなに変な事を言ったのだろうか。

「あんたいったいなに考えてんの?」

「なにって…。遠坂は一人でどうにもできないから困ってんだろ。なら、俺と協力しないか。遠坂は柳同寺にいるマスターが気に入らない。俺は昏睡の症状を何とか止めたい。だけど、俺たちどっちも一人だけじゃ返り討ちにされる可能性が高い。なら、協力してやった方がいい。相手もそうなんだからこっちがしても変なことじゃない」

「む…まあそりゃそうだけど」

「遠坂は協力するのが嫌かもしれないけど、頼む。俺はそんな酷いことをする奴をどうしても許せないんだ」

頭を下げる。

どうしても、許せそうにないから。いきなり倒れられたままずっと眠り続ける人を見ていなければならない不安感と閉塞感は、味わった者しか解らない。出来るなら、そんなのは誰にも味わって欲しくないんだ。なのに、そんな事を考えもせずに、するやつがいるということは、許せない。

だから、俺は頼むと言った。

「ちょっと、頭なんか下げられても困るってば!」

「頼む、としか言えないが、頼む」

「だから、止めてってば。誰かが見たら変な誤解されそうじゃないの!」

「誤解はされてもいいけど酷い行いは止めなくちゃいけない。だから、頼む」

「私が困るの。わかった、わかったってば。私は衛宮くんと協力して柳同寺のサーヴァントを倒す!これでいい!?」

「ああ、ありがとう。遠坂が了解してくれたのなら、俺は全力で遠坂をサポートするよ」

「…あんた、そういう物言いは止めたほうがいいわよ。誰に誤解されるか分かったもんじゃないんだから。それに、私をサポートするのは士郎じゃなくてセイバーでしょうが」

う…。痛いところを付く。そうなんだよな。実質、俺はセイバーにおんぶ抱っこされているのが現状だ。この状態は、どうにかしたいと前から思っていた。けどな、いったいどうしたらいいんだろうか。日課の魔術訓練や体力作りはしているが…少しでも戦えるようになるためにはどうしたらいいのか。

…とりあえず、セイバーに指導してもらうように頼んでみようか…。少しでも戦いって物を知る事が出来ればいいんだけど。喧嘩とは全然、違うってことは頭では理解していても身体が付いてきてくれてないからな。俺。

「あ、これも返すよ。ありがとうございましただってさ」

ごそごそと鞄の中から遠坂が昨日つけていた黒いリボンを取り出す。

「―――あ」

遠坂は両手で大事に受け取るようにしてリボンを手にした。その様子は遠慮しているというか、ひどくうろたえているのを隠しているような、遠坂らしくないような気がする。なんとなくだけど、ぼんやりしていて…なんだろう。すごく…なにかに耐えているような。辛さや哀しさ…のようなものが見え隠れしている。

これも俺の知らない遠坂凛の一側面なのだろうか。そんな事を考えるとなにやら胸の奥あたりがもやもやとしてきて酷く変な気分になる。どうしてか場が湿っぽくなってしまったような気もしてしまって、何も言えなくなってしまった。

「―――衛宮くん」

「―――な、なんだ!?」

だから、遠坂の方から話しかけてくれたのは正直助かった。

「あの子…綾だったかしら。あの子と一緒にいるのはどんな感じ?」

急にそんな事を聞いてくるなんてどうしたんだろうか。質問してくるのはいいんだけど、これは遠坂にとってどんな意味のあるモノなんだろうか。聞いてくるってことは何らかの意味があるんだろうけど…。

それにこの質問は…現在の衛宮士郎を構成する最大重要因子の一つだ。下手な事は言えない。だって俺にとっての綾は複雑すぎて一概にこうだとは言える存在ではないわけだし。

「どんなって言われてもな。十年も前からほとんど一緒にいるようなもんだからな。そうだな、俺の中ではあいつの位置は重要な部分を占めている事に間違いはない。家族だしな」

「じゃあ、もしあなた達が離れていて全く関係がないもの同士として過ごしていても、あなた達は家族たり得るのかしら?」

その質問にはどうやっても応えられない。だって本来俺と綾はまったく関係のない他人同士のはずだった。だから、遠坂の言う仮定に沿って考える事は出来ない。俺と綾の関係は十年前のあの時から発生している。それ以前は赤の他人でしかない。そうやって共有の時間と経験を積み重ねて『家族であろう』としている今の俺たちがあるのだから。

反面、この遠坂の問いは大切なモノなのではとも思う。出来れば答えてやりたいけど、不確かで不透明な繋がりでしかない俺たちには答える術がない。

「…その質問は俺には解らない」

「どうして?」

知らないから遠坂は聞いてくるのだろう。そこには悪意なんてないし純粋に疑問として聞いているだけの色しか見られない。む…とこちらを見てきて回答を待っている。即断しがちな遠坂が粘って聞いてくるからにはやっぱり真面目な質問なんだろう。だから俺は本当のことを言う。

「…家族として始まるには絶対に縁がいるだろ。一番しっかりとしていて固いのは血縁だな。だけど俺たちには確かな縁がないんだ。二人とも養子だからな。俺たちはどれだけ一緒にいても非血縁の家族でしかない。そりゃ役所に行けば戸籍抄本に家族として記載されてるけどな。紙切れ一枚ではい家族ってわけにはやっぱりいかない。中学とかでも義理であることが職員の間で問題になったこともあるし」

この話をするとたいていの人は決まり悪く「悪い事を聞いた」「ごめん」とか自分で聞いておきながらそんなことを言ってお茶を濁すけど遠坂は違った。

「やっぱり一緒にいてこその家族ってものなの? 一緒に時間を過ごして、一緒に成長していって、一緒に記憶をしていく。それが、家族?」

一緒にいるだけで家族が成立するとは思えない。やっぱり当人同士の間に家族としての親愛がなければ空間は成り立たない。その中に暖かな感情のやり取りがあればこそ親兄弟としての認識が芽生えてくるのだから。血縁があったとしても冷たい感情しか与えられなければ家族は成立しない。具体的には孤児なんてその典型例だ。親からの愛情を与えられない子供は、世界に向かって反抗か隷従の意を取る。だけど、血縁がなければ家族としての土台が弱い。いつ、崩れてしまうか予測できないほど脆い時もある。それは、赤の他人同士だから。

「それにも答えられない。俺たちも『家族』ってものを探している最中だから」

「そう」

「だけどさ、一般論になるけど、相手理解しようとして大切だと思わなければ家族には絶対になれないと思う。だってそうだろ。血の繋がりがあっても感情のやり取りがなければ煩わしくなる事もあるし、赤の他人同士の生活で家族になるには自分を覆う垣根を取っ払って自分を曝け出さなきゃ理解してもらえない。その根底にあるのはやっぱり相手を知って好きになろうって姿勢だと思うから」

遠坂は何か考え込むように無言になる。

昔、俺たちが中学生だった頃。まだ、綾がありのままのあいつであった頃。親父が死ぬ前の話。思春期真っ盛りの多感な年頃の子供は他人に対して酷く攻撃的であり鈍感なものあり残酷なものであるので俺たちが本当の家族ではないことを言い触らされた事がある。当時は教師相手であっても喋る事も反応する事も稀だった綾は周囲から完全に浮き上がっていることで苛めの対象にあっていた。反抗どころか反応すら、意識に上っているのかも疑問に思える綾の態度は三年のいじめっ子たちにとっては自分たちのプライドにひどく癪に触るらしく、どうしたら綾が傷つくかを熱心に調べ上げて弱点と思われることを発見した。そうして血が繋がっていない事をわざわざ黒板に書いたり机に書いたりして囃し立てられた事がある。綾が始めて怒ったのはこの時だ。

確か…中学生なのに哲学書とか読み耽っていた綾だが…このころは感情を知る為にこういうものを読んでいた。其処に現れる複数人の苛めっ子どもがわざわざ目の前に出てきて俺と綾を捨て子だ他人だと大声で馬鹿にするように叫んでたんだっけ。俺はその声を聞きつけてかっとんで綾のクラスに行ったんだけど、あの眸を前にして動けなくなってしまったのだ。見透かし、見通し、人を暴き立てる目。

そして綾は…瑠璃色の目に宿らせる容赦のない冷え切った…怪異ですら紫電の眼光に恐れ戦いて道を譲らなければ魂が潮の柱になる。そんな物理的な高圧力を持った世界の最も底辺を嘲るように見下げ果てた眸を、大人だって自発的に身包み置いていって逃げ出す眸を、彼らに合わせる。その眼力はどこにでもいる中学生の尊厳を打ち砕くのに必要十分以上の威力を持っていてチラリと眺めるだけで身体が硬直してしまう。そして吐き出される低温極寒氷風の声音はちょっと前に小学を卒業したばかりの中学生の言葉ではなかった。

『あなた方…目端にも止まらないゴミのようなクズどもが…どれだけ高尚な趣味をお持ちだろうと、構いませんけれど…私と…兄の間柄を…人生において何の価値もない低能極まりない産業廃棄物以下の存在に口出ししてもらいたくは…ない』

まずはこの様な事を一言一言区切るようにゆっくりと、呪いが身体に浸透していくように言って。

『私が兄を理解しようとし…兄が私を理解しようとしている事は…。あなた方、普通の家庭に囲まれている人たちにとっては気づこうともしないことでしょうけれど…』

訥々とまるで神託を下されたように、一言一言に未分化で幼く拙いがそのぶん思いっきり直線的な感情を乗せて。

『私にとってはこの上ない喜び…私にとってはこの上ない幸せ…。それを…馬鹿にすることは、決して許せない…許さないから。…虚勢を張ることしか出来ない汚物が…何様のつもりですか…!!!』

こうして初めて自分の感情をはっきりと口にして、初めて怒りという感情をそれこそ腹の底から表して、初めて俺を兄と呼んだ。同時に俺は自分を恥じた。

正直、あの頃の俺は綾のことを全然理解できていなかったから。一番近くて一番遠い『他人そのもの』という表現が最も的確だろうか。無表情で、無反応で、無関心で、無口極まりない綾は動く人形という今では当時の自分を殴りつけてマットに沈めなければ気が治まらないぐらいに最悪に失礼な考えをしていたのだ。

あんな風に思ってくれているなんて想像もしていなかったから、どうしていいか分からなくなってしまっていたんだっけ。それで切嗣にどうやって綾と接していけばいいか聞いたら『あの子が言った事を覚えていてあげて、そして、いつも通りにしたらいいよ』と言われて…この時から本当に俺は綾に向き合い理解していこうとするようになったんだ。

人形なんてとんでもなかった。とんでもない冷たさの奥にとんでもない熱量を伴った言葉。あんなに俺の事を考えてくれていて、あんなに俺の事を考えてくれる人がいることが。とても大切なことに気づいたから。俺も綾と真正面から堂々と向き合いたくて、どんなことでもまず最初に理解して行こうって気持ちを持ち始めたんだっけ。

そうしたらぼろぼろと見えてくる見えてくる。綾の細やかな周囲に対する小さな感情の揺らぎや仕草の数々。中でも俺や切嗣や藤ねえに対するいっそ甘やかとも呼べるほどの細かい気遣いはなんで気づかないんだってぐらい。いかに俺が自分本位に正義の味方を目指していたか思い知った。恥ずかしい子供時分の話。俺は子供で。綾は大人だった。

「ん、なに笑ってるの?」

え、と遠坂の忠言に沿って口元に手を当ててみるとなるほど確かににやけている。困った。思い出し笑いをするほどいい思い出だというのが自分でもはっきり分かっているから。だから口元の笑みが戻らないってのに。

「ちょっと昔の事を思い出してな。若かったなって」

「あんたはいったいいくつなのよ…」

「ん〜。家族ってのは最初は手探りでやっていくものだよ。お互いが向き合って、お互いに行動し合わなきゃ、進まないものだなって思い返してた」

「………行動、か」

幼いままの自分なら気づかなかった事も、今なら気づいていけると思っている。分からないままの事を分からないからと言って放り出してしまっては変わる事もない。相手がなにを考え、なにを思い、なにを願っているかを模索しながら、なんとかやっていって、時間は進んでいく。ま、今でもなにを考えているのか全然分からないことあるけど。

「―――で、なんで遠坂はいきなりそんな事を聞いてきたんだ?」

「………………」

何の感情も読み取れない無表情になる。そうして呟くように言った。

「私、妹が一人いるの」

「――――――」

「今は離れていてそんなに話せる間でもない。だからあなた達の関係を聞いてみたの。どんなものなのかって」

遠坂に妹がいる…って。あれ、これは…昨日、たしか教会に行く途中で、綾が、仮定として言った事ではなかっただろうか。遠坂には妹かそれに近しい人がいると考えていた。本当に、いるとは思わなかったな…。

「でもよくその事を話したよな遠坂は」

「衛宮くんが自分の事情を話したからでしょ。それなら私も話さなきゃフェアじゃない」

なんでもないことのように、そう言った。なんというか、遠坂らしい物言いだと思う。借りを作るのは嫌いそうだ。貸しを作るのは好きそうだけど。

「衛宮くんて案外苦労してるのね。この歳でそれだけ家族のことについて真剣に考えているのはそうはいないわ。うん、感心感心」

なんて、にっこりと微笑んでそんな事を言ってくるもんだから、さっきまで話してたことがとても恥ずかしいもの、本当なら人に話して聞かせる類ではなかった事を思い出して…身体中の発汗作用が一斉起動して、ああもう熱い熱い。

バツが悪くなって遠坂から顔を背ける。誤魔化しついでに残りの紅茶を一気に飲んだ。どれぐらい話していたのか、中身はすっかり温くなっていた。

「こ、この話はもう終わりだ。遠坂、頼むから誰にも言わないでくれよ」

「言わないわよ。人それぞれの事情を得意になって話すような悪趣味は持ってないの。真面目な話、本当にえらいと思ったんだから」

「だ、だから偉いとか言うなって。俺は当然のことをしているだけなんだから」

「それが大切な事なんだって。…あ、恥ずかしいの?」

ぐぐ…と言葉に詰まる。当然、恥ずかしいに決まっている。それを解っていて遠坂はずけずけと言ってきているのだ。なんてやつだ。

「拗ねないでよね。私が人に感心するなんてほとんどないんだから」

拗ねてなんてないやい! 顔を見られるのが恥ずかしいだけだ! …駄目じゃんこれって!

なんだかむず痒い空気というか、とても居心地が悪くなったのでもはや居られないというか…。ここにいたら遠坂の追及をかわしきれそうにないとの戦術的見地からの撤退を俺は提案したい。

「じゃ、じゃあお礼は言ったからな。俺はもう帰る!」

ずざっと勢いよく立ち上がり、まるで実写戦隊物の悪役の捨て台詞っぽく言って去る。アデュー遠坂。お互い頑張ろうぜ。

そのまま下の階目指してGOGO!だが、颯爽そのものの歩みは―――。

「ちょっと待ちなさい」

なんて言うなんでもない一言と、グキッと絞まる制服の襟元によって阻まれた。勢いよく歩こうとしたため、急な実力行使による制動のせいで「クウェッ」とアヒルが潰れたような感じで咽かえる。

「な、なにしやがる…っ」

「止めたのよ。聞きたいことは聞いたけど、言いたいことを言ってないって。衛宮くん気づいてないかもだから」

いったい、なんに俺が気づいてないというか。要点を言ってくれ。襟を緩めて喉を押さえながらそんな事を考えた。

「あの子、やっぱりどう考えてもノウブルカラーよ」

「あの子?」

「そう、あの子」

あの子って…綾しかいないよな。え、なんで綾がノウブルカラーってものになってるんだ。…綾が? なんで?

遠坂と一緒にいるという状況で浮ついていた気持ちなんて冷水を浴びせられたように消えてしまった。綾が…ノウブルカラー?

「…混乱してるんじゃないわよ。そうたいした事じゃないんだから。霊的に優れていれば誰もが持ちえるようなものよ」

冷静に、大した事ではないと、言われたおかげでか、なんとか…落ち着いた。

ノウブルカラー。魔術協会において持って生まれた特殊な資質を有している者を指している。魅了や金縛り、色々な『能力』を有している彼らだがたいていにおいてその特徴は眸に現れるらしい。魔眼。淨眼。呼び名は数ある。文字通り通常ではありえない現象を視ることによって起こすことができる力を持つ眸。

で、でもなんでアイツが…。な、なにかそうだと思えるような徴候はあったか?そんな怪しい行動…いや、全部怪しい行動だからたしかに疑わしような気もしてきたが…。え、ノウブルカラー?魔眼?なに、それ???

ぐるんぐるんと蚊帳の外の単語が急に飛んできて、それもまったく、魔術とか神秘とかと関わりのないと思っていた綾にあると聞かされて…。ああ、やばい。こ、混乱している。

「落ち着きなさいって…。あの子の目を…ちょっと変わった色をしていたわよね」

「ああ…。薄青くて綺麗な目だ…。でもそれはあいつに外国の血が入ってるとばっかり思ってたから。そんなことちっとも考えてなかった」

「そういえば養子だったわね。うん、どおりで似てないと思った。…確かに外国の血が入ってそうな姿してるものね…。ん、親が分からないの?」

「親って…あいつ、10年以上前の記憶がほとんどないから…知らないんだ」

「ふぅ〜ん。なにか複雑な事情がまたありそうね。聞かないでおいてあげるわ。身の上を聞いても仕方がないもの。今はあの子がどんな能力を持っているかが大切よね」

ふらふらと…酔ったはいいが、川に落ちて死に物狂いで岸に上がったってこんな感じだろうか。寝耳に冷水。瓢箪から津波。

「だから落ち着きなさいってこのバカ兄。いい、あの子が持っている眼は『霊視』なの。こんなの探せばどこにでもいるの。そりゃ自身で知覚できるのはそうそういないけど、潜在的な霊視の持ち主は数多くいるからそれほど驚く事でもないの」

「…そ、そうなのか。でもなんで…?」

「私が衛宮くんの家に行った時、あの子はアーチャーの事が見えていた。霊体であったにも関わらず。アーチャーの特徴を言い当てたりもした。だからちょっと引っかかってたのよね。後でアーチャーにも聞いてみたけど、やっぱり視られてたみたい」

「あ、だから綾が幽霊を信じているかって変なことを聞いてきたのか…」

そう言えば、なんとなくだが確かにそれらしい側面はある、と思う。そもそも怪奇事件に遭遇した時だってそういう魔的ななにかがなければ起こりえない事象だってあったはず。修学旅行の時だって逃げ回っているときに愛宕山っていう場所をまるで知っているみたいに歩き回ることが出来たし。もしかして、幽霊に案内されてた…とか?

あ、なんかあいつの事だからありえそうな気がしてきた。常識の範疇ってやつの欠如が目立つから…。もしかしてあいつがトラブルを呼ぶのってそういう星の下に生まれた資質の他にも外的要因があるせいなのか。

「なあ遠坂。そういう因を持った人間は似たような因を持ったなにかと接触しやすいって本当なのか?」

「ん、そうね。そういう特別なヒトとは違うなにかを持った人は同じくヒトとはどこか違う人と惹きあうのは本当。その証拠にあの子は魔術師なんて人の所に引き取られているし。そんなのほとんどありえないわ」

「じゃ、じゃあ俺はどうなんだ。お世辞にも魔術の才能はないし魔眼なんて持ってないぞ」

「衛宮くんの場合は…偶然? そっちの方がありえないと思うんだけど。なにを思って士郎を引き取ったのかしら…?」

俺が今ここにいることをさらりと忘れて自分の考えに没頭していくのだった。

「…ん、でもこれって妙じゃないからしら。え、あれ。いったいどうして…?」

などと、こちらがえらく不安になる、まとまっていた考えが一気に崩壊していく言葉が出てきている。

さっきまでの澄ましていたか表情は見る見るうちに険しくなっていって、哲学者が解けない命題に遭遇したみたいになった。

「衛宮くん。ちょっと気になる事が出来たから帰るわ。ありがとうって言っておいて」

と、こちらを置いてけぼりにしたまま颯爽と歩み去っていくのだった。

遠坂の首を掴んで強引に止めるなんて大それた事の出来ない俺は得体のしれない不安に圧し掛かられたまま見送るのだった。

ただ―――。

「あの子、ただの霊視じゃないかもしれない」

そう言い残して足早に階段を下っていくのだった。

残された俺は、その意味することを考えようとしたのだが、上手くいかない。

綾に霊視が出来る事に驚いていた。たしかにそれはあるだろう。切嗣が綾を引き取ったのはその普通とは違う眼のせいなのか、とか。魔術師の家に引き取られるという事は、なにかしら理由がいるのか、とか。

「そうなのか。あいつ霊視なんて出来たんだ…」

ポツリと呟く言葉はどこか他人事じみていて実感がなかった。

学園から帰る途中の事は覚えていなかった。

いつのまにか靴を履き替えていつのまにか校門を抜けていつの間にか帰り道にいていつの間にか家についていた。

「ただいま」

機械的にこんな事を言っていた。けれどいつもならあるおかえりの返答がないことになんだか不安になって急いで中に上がる。

居間には誰もいない。台所には片付けられた湯飲みと茶請けがあった。急須の中にはぬるくなった茶が残っている。

急いで俺の部屋に行って鞄を放り出して他の部屋も見て回る。セイバーは部屋にいない。綾は部屋にいない。少しだけ片付けられた後が閑寂としている。

外の空気とあいまってまるで世界に人間が俺しかいなくなってしまった錯覚さえ覚える。とたん、足元がグラグラして視界が狭まって、どうしようもなく叫びたくなって―――。

そんなはずはない。綾だけならまだしもセイバーが何も言わずにいなくなるなんてありえない。頭を振ってそんなバカな考えを吹き飛ばした。まだ見て回っていない場所はたくさんあるのだから。

例えば庭、例えば別棟、例えば物置。例えば土蔵。例えば屋根裏。考えれば考えていくほどどこにもいそうな直感が働いてくる。絶対にいることは確実だ。少なくとも綾が屋敷にいることはなんとなく感じられる。

魔術の時のように目を閉じ、精神を集中していく。すると感じられてくる不思議な細い線の跡と―――見知った空気の持ち主。屋敷の中のそこしかこに漂っているのその残滓だ。発生源があるからこその流れの糸。辿り着く先には必ずあいつがいる―――。

果たして糸の先に其処にあいつは居た。目を瞑り舞いながら、どこか抑揚のない声で詩を歌っている。いや、これは祝詞だろうか。いつもののんびりとした表情がまったくない。神さまからの託宣を待つ厳粛な神子の顔だ。

「…………天と地に御働きを現し給う龍王は 大宇宙根源の…………」

思わず声を上げようとして、セイバーがこっちを見ながら指を一本口元に立てるジェスチャーをした。“音を立ててはいけません”と言っているのだろう。

「…………一二三四五六七八九十の十種の御寶を己が姿と変じ給いて…………」

音を立てないようにして板敷きの道場に入っていく。

「……………眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて 愚かなる…………」

衣裳には白の千早に金糸銀糸の精巧な刺繍が施され、麒麟と鳳凰だろうか。幻想の生物が織り込まれ今にも抜け出し飛び立ちそうだ。朱色の緋袴が白をさらに際立たせる。

「…………萬物の病災をも立所に祓い清め給い 萬世界も御祖のもとに治めさせしめ…………」

両手に持った大き目の扇はなにかの楽器のよう。振るわれるたびに風を切り、不思議な音韻を紗鈴紗鈴と道場に反響させていく。とんとんとんとん、と小さな四拍子を刻む足音だけがやけに現実感をもって聞こえる。

「…………大願を成就成さしめ給へと 恐み恐みも白す…………」

くるりと重力を感じさせない動き。両の手を巧みに動かし踊るさま。後ろに縛る髪の毛が龍の尾のように舞う。髪の流れに沿って汗が同じ動きをする。

そして最後にタン!と勢いよく足を踏み鳴らし、扇を大きく旋回させて顔を隠しながら神さまに頭を垂れるようにして一礼をする。

そのまま音もなく後ろに下がっていく様子だけ、なぜかエスカレーターみたいだと思わせた。

顔を上げる。そこにはいつものようにふにゃふにゃとした緩々の綾がいた。いつもの微笑み。それが、造り物だと分かっていても、誰をも安心させる物であるのは間違いない。

「どうだった?」

パチパチととなりで拍手が起きる。セイバーが穏やかな様子で綾の舞に返礼をしているみたいだ。

「…素晴らしい。戦に勝利を祈願する歌巫女の姿を思い出しました」

「お気に入れられたのならばなによりです」

ふぅと少し疲れたようなため息をして初めて俺がここにいたことに気づいたようだ。目をパチクリさせて見ている。

「さきほど、舞をしている間に帰ってきたのですよ」

などとセイバーが説明してくれている。

「お前、なにやってんだ?」

という俺の疑問は当然の物ではないだろうか。

「奉神の演舞」

「なんで?」

「頼まれたから」

「誰に?」

「先生に」

「どうして?」

「適役らしいから」

「あっそ…ってお前、そんなに動いて大丈夫なのか!?」

昨日、血を吐きながらのた打ち回っていたのはどこの誰だ。その次の日には例外なく一日中寝てただろうが。

「少しも動かないのはむしろ身体に悪い…」

「それは知ってるけどな。どうしてこれなんだよ?」

まあ、中学の頃にも見たことはあるが…なんでお前なのという疑念が払われることはない。

「6月にね。奉神の宴があるけんね。神前舞を頼まれっと。けっこう、バイト代もよかです」

いや、なんで博多弁なのかはこのさい突っ込みスルーの方向で。

「舞ったらあれだ。神社のお祭りなんかでメインになるアレだろ。神さまを敬い奉り感謝を捧げるってやつだ。だけどその前に一般の客もくるんじゃないのか?そんな中でお前できるのか?前回はフラフラになってたじゃないか。人の視線が気になるとか言って」

他人の視線なんぞどこ吹く風だとずっと思っていたのだが、百人分の熱気に包まれた視線はやはり嫌だと思ったらしい。俺だって嫌だ。

拝殿で踊るという事はつまり一般客にもろ見られるということだ。奏楽者もいるとは言え、大人数の前で注目されるのはやはり踊り手だ。多様の調べの中で踊る姿はやはり皆の心を掴む。それが、若い子であるのならなおさらだと…言っていたのはお前だろうが。

「うむ。この二の腕辺りの綾糸で編まれた隙間なぞに注目が集まったりするのだよ」

二の腕辺り…。確かに朱糸で隙間が開いていて真っ白な肌が覗いている。だがそんなことは聞いていない。

「巫女装束っていうのはやっぱり日本人に脈々と流れる大和魂を呼び覚ます効果があるのか清楚だが華やかであり雅やかな趣が琴線に触れるよね」

巫女装束…。巫女ってあたりが、男心をくすぐるのは間違いないだろう。それに衣裳の方も…。昔は巫女が着るものといえば木綿で出来た質素なものだったらしいが明治に入ったあたりからだんだん豪奢になってきたらしい。今では神さまを祀るのだからと金糸銀糸と見た目がよくなってきた。とは言え、どぎつい物ではなく目立ちすぎず控えめなので見栄えも良い。だが、そんなことは聞いていない。

「ちなみに、どこかのメディアでは巫女装束は禊で濡れると透けるのが浪漫ですが…。非常に残念な事に本物は透けません。薄い打掛なら…まあなんとか」

ああ、それは誠に遺憾ながら本当の巫女装束は透けないのだ。

…違う!!!透ける透けないはどうでもいい事だ。そんなことは聞いちょりゃせんのだ。聞いているのは人の視線の所為で踊れないという事態に陥りゃせんかということだ。

「大丈夫だよ。今回は祭りで舞うわけじゃないし。神社の奥の方、神室でひっそりと…こう、やるわけだよ」

くるりと一回転する。衣裳がなびいて広がる。

神室って…あれか。子供の時一回だけ覗いた事があるけど…。神の室と書いて字の如く。神が降りる聖域だ。

正直、俺は近づけば近づくだけ息苦しくなって終にはほうぼうの体で逃げ出すような清冽な魔力…いや、神気と呼ばれるものがあって、普通はなぜか居た堪れなくなって逃げ出すような場所だ。綾は…どうしてか普段よりも調子がよくなる。本人曰く空気が綺麗らしいが…それくらいで片付けられる事じゃない。神さびた域。というのか、世界が広くて自分が溶けて行ってしまうような、そんな場所である。

淨眼。この言葉が頭の中にパッと浮かんだ。

「神に捧げる舞というわけですか…。神霊に対する敬いを形にするというわけですね」

「そうだね。セイバーがいた場所ではあんまり馴染みがないかもしれないけど、日本は土着神…岩や川、森、大地や大空…自然の全てに神さまが宿っているって信じられていたからね。今はそんなでもないけど、昔ながらの儀式めいた奉拝がまだ残ってるのさ」

「感心ですね。それにしてもあなたが舞踏手とは意外です」

「む。下手くそだった?」

「あ、いえ。決してそんな事を言っているわけではないのです。ただ普段のあなたを見る限りではそのような厳粛な儀式には似合わないのではと思っただけですので」

「それ、あまりフォローになってないね」

「あ、いえ。ですから、決して綾が普段からおちゃらけているとかのんびりしていて踊りなど出来そうにないと言っているわけではないのですよ?」

「それ、とどめっすー」

げふーとかいいながら崩れ落ちる。

セイバーの言っていることは正しい。普段の態度からは舞なんて出来そうにないほどのアホっぷりを演じているから解らない。だけど、本当は、誰よりもその役が似合っているのではないかと思う。

ときおり見ることが出来る綾の顔は…とても深くてとても高くて、この世界に間違いで生まれてきたんじゃないかってぐらいに遠くなる。この世界より一つ高い所から落ちてきたような…、大地を見下ろすような雰囲気があるから。

「まあそう心配されるほどのものじゃないよ。僕は神さまよりも人間の視線の方が気になるね。あれは本当にキツイ」

俺が何も話さないのを心配しているのだと解釈している。心配には違いないのだが。

「一段高い場所から人を見るとね、みんなの目がこっちのほうを向くわけさ。舞は神さまに願いを伝える儀式でもあるから。宗教的熱狂というか、変性意識かな。それにみんなが毒されちゃってね。眼の中に色んな願いや望みって意識が色濃く宿る。それを僕は一方的に受信していなくちゃいけなかったからキツかったのさ。なにせ、見知らぬ人の見知らぬ意識が凝縮して一つの総体になっちゃってるから、大きくて圧倒的でグチャグチャしてて気味が悪くて…最高に、気持ちが悪い」

「気持ちが悪いとはいったいどういうことですか?」

「人って外見が綺麗でも内心はなにを願っているのか解ったもんじゃない。金が欲しい。地位が欲しい。女が欲しい。いろんな願いが集まってて統一性がない。そのくせ欲の強さだけは合体してるから手に負えない。そうだね、例えるなら…肥溜めの中にわいた蛆が発芽して食人花になって突然変異を起こして食べた人の顔を咲かせるような…そんで人の顔は眼が破裂しそうなほど充血して膵液をだらしなく垂れ流しながら実になってしても傲慢で強欲なの。自分の願いを叫び続ける」

そんな感じ?と首をかしげてにこやかに笑う。

微に入り細に入った描写が気持ち悪さを増幅させてくれる。思わず喉の奥からすっぱい胃液が出てきそうになる。セイバーは無表情だが…。やっぱり気持ち悪いのかもしれない。無表情ってところがそれっぽい。

綾は続ける。他人の願いについての話。

「欲事体を悪く言ってるわけじゃないんだ。欲は人が自分を維持向上させるのに絶対に必要なものだから。ただね、もう少しぐらい純粋な願いはないのかなって思うのさ。神様の前なんだから。真っ白で透明で清冽で、どうしても願いをかなえたいと思うような。小さくても雪みたいに儚くっても、貪欲で鋭くって尖ってて突き刺さるぐらい、それ以外なにも見えていなくて哀切を呼び起こされるような。死に物狂いの願いが…」

薄く笑う。どこか人から外れたような、遠い微笑。それこそが綾の本来の一つの側面。だけどそれはすぐに切り替わる。

「ま、僕に願いを叶えろって言われても困るんだけどね。そもそも僕は見知らぬ他人の願いを叶えるような無節操で傲慢な性格じゃないし。僕は僕の好きな人だけの願いを助ける偏狭な人間なのさ」

あははーと能天気に笑う。

さっきの言葉に遠坂の言葉を思い出す。『ただの霊視じゃないかもしれない』。そういう性格なんだと思っていた。そういう人間なんだと思っていた。自分が欠けたヒトだから、ヒトを知りたいがための察しだと思っていた。だけど、本当は…その眼に映るものは…。

そして今は、それを聞くことのできる絶好の機会なのだが。もし俺が考えていることが真実であるとしたのなら…俺なんかよりもよっぽどお前の方が自分を犠牲にしている。

けど、聞けなかった。口に出してしまえばなにかが終わるような気がして聞くことが出来なかった。

「で、なんでここに来たの士郎は」

「え、いやそれは…」

理由なんかない。お前を探していたらここに来たんだ。ここにいる事が分かったから。

けど、そんな事を言えばどうして綾を探していたのかを聞かれてしまうから、俺は他の事を言っていた。

「…セイバー、俺を鍛えてくれないか」

「士郎を…鍛える、ですか…」

「ああ。実質の俺ってセイバーにおんぶ抱っこされてる状態だろ。セイバーはサーヴァントとも戦わなきゃいけないし。そんな時に俺の事を守る余裕は考えない方が良いんだ。だけど俺は戦闘なんてしたことがないからどう行動していいのか判断できない。だからセイバーに教えて欲しいんだ」

ふむ、とセイバーは瞳を閉じて考えている。

「そうですね。いつかのバーサーカーの時は運良く助かりましたが、今度もそんな事をされては困る。あなたはマスターであり私はサーヴァント。マスターを守るのは私の役目だ。しかし、マスターの不慮の行動に対しては対応が遅れるのも否めません」

じろり、と俺を睨んでくる。たしかに軽率な行動だったけど、頭で考えるより先に身体が行動を起こしてしまったのだから。それに必死だったし。

「シロウは私になにを望むのですか?」

「一番いいのは俺でもサーヴァントと戦えるようになる事なんだけど…」

ギロリ、と俺を睨んでくる。ああそうだよな。こんなこと言ったらセイバーは怒るに決まってるじゃないか。

「は、どう考えても反対されるから、どうやったら相対しても生き残る事が出来るかだ」

聖杯戦争の始まり。俺がランサーに襲われた時。あの時はランサーが俺に油断をしていてなんとか凌ぐ事が出来たけど、今度は本気で向かってくるだろう。なにせ、宝具を使ってまでも俺たちを殺そうとしてきた相手だ。次は油断なんて微塵もないはず。

「私から離れない事ですね」

と、セイバーは単純明快な事を自信満々に仰られたのだった。

「そりゃ分かってるけど、もし、セイバーが傍にいなかった時の話だ」

「そんな仮定はありえません。誰がのこのこと夜に外に出歩きますか。たとえシロウであってもそのような軽挙妄動はしないでしょう」

…軽挙妄動ってひどいことをサラリと言うね、セイバーは。

「だから、俺が言っているのは、戦闘になったらセイバーはサーヴァントと戦うだろ。その間、俺を狙ってくるマスターに対してどう対処したらいいのかってこと」

すると、セイバーはむむと表情を変えた。

たぶん彼女は俺がサーヴァントと戦う事に固執しているとでも考えていたのだろう。そりゃまあ、セイバーの手を借りずに倒す事が出来るのなら一番いいんだけど。生憎、俺には其処までの魔術行使が出来ない。出来るのは最善の行動をしようとするだけ。

「なるほど。一考すべき課題ですね。相手のサーヴァントが何者であってもサーヴァントである限り、私もすぐには駆けつける事が出来ません。その間、シロウは自身で己を守らなければならない」

「だから最低限の身の守りを身に着けるぐらいはしておかないと、駄目なんだ」

「では、私がシロウを鍛えて伝える事は危機感知とソレの対処ですね」

「そう。それそれ。一石二鳥で身に付くものじゃないけど、やっておかなければ後悔すると思うんだ」

分かりました…と、セイバーは頷いてくれた。よし、少なくともセイバーの負担になるような現状に甘えていてはいけないんだから。小さくてもなにか出来る事をやっていく。できる事から始めていく。そうしたら、いつか、小さなナニかが大きくなって帰ってくると思うから。

「では、いつから始めますか?」

ギラーンと眼の輝きが違うセイバー。きっと遠慮無しにやってくれるだろう。俺も気合が入るってモノだが…その前にやるべき事があるから…。

「取りあえず、今日の晩御飯の材料買ってきてからにしようか」

「…そうですね。そうしましょう」

ギラーンと眼の輝きが増すセイバー。きっと献立について思いを膨らませているのだろう。セイバーが食いしん坊なのはもう俺にだって解っているのだから。

そうと決まれば部屋に戻って制服から着替えて急いで買出しにいかなければ。

道場からぱっと駆け出して部屋に戻る俺だった。
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