「雲の莫迦やろう…」

後ろから追いかけてくる風に乗って言葉が流れた。つられて上空を見ると相も変わらずにビョウビョウと強風が雲を押し流している。どんよりと曇った空模様には海の向こうから山の反対側まで薄暗い。

たしかに冬木市はここ最近、いやここ数年ないぐらいの寒波みたいだがさすがに2月の中旬に雪が降る事はあまりないはず。冬木の地はもともと冬は暖かく、夏は涼しい土地だから、真冬でも雪が降る事は珍しいのだ。

駅前パークから教会前行きのバスに乗り換えた俺たちはいままさに教会に続く坂道を登っている所だった。坂の中頃まで来たのだがそこからなら海まで望むことが出来るのでさらに風当たりも強くて寒い。だからそんな事を言ったのだろう。

「お前な、いくら寒いのが嫌いだからって天候に当たるなよ。だいたい文句言う前にもっと何か着込んだらいいだろうが。俺を見てみろ。長袖シャツに上着を羽織っただけだぞ。セイバーだって薄着なんだ。それに、ついて来るって言ったのはお前だ」

「健康優良児の士郎と比べないで。寒空の下、長袖シャツ一枚で闊歩するような人と一緒にして欲しくないです。それと、セイバー。女の子は身体を冷やしちゃいけませんよ。あかムグムグ…」

「お前はちょっと黙ってろ」

口元を押さえ込むと外そうともがいた。おそらくやや破廉恥的単語が出てくるところだったので。

「私はあまり寒いとは感じませんが…」

「セイバーって寒いの大丈夫なのか?」

「ええ、私もシロウと同じで健康には自信がある。この程度の寒さで音をあげるほど軟弱な鍛え方はしていません。極寒の大地を馬で駆け抜けたこともあった。あれに比べればなんともありません」

そ、そうなのか。極寒てことはアレかな、セイバーって北欧の人かな。いや、ヨーロッパ系なのは間違いないけど。アメリカには騎士ってのはいないからな。衛兵ならいたけど。

なんてことを言い合いながらまずは俺の用事を済ませるべく、教会広場へと足を勧めるのだが、どうにも気が抜けていて仕方がない。しかもセイバーまでも。まあ今は昼過ぎでいきなり襲われるなんて事はなさそうだけど。いいのか、こんなに緊張感がなくて。

いや、緊張感がないというのは一見、いつ如何なる時も自然体で何事にもそつなく対応できてよさそうだが実際にはおたつくことの方が多い。適度な緊張感を持つ方のはやっぱり覚悟が出来る。そもそも緊張感を持つということは周囲に対する警戒を自己に働きかける事だ。なにかが起こるかも、なにかがあるかも。そんないざという時のために心構えをしておくのが緊張感なのだ。

「よく生きてるよね。ほんと二人とも元気」

誉めているのか皮肉っているのか微妙だが、とりあえず綾は寒さに弱い。寒さにも弱いが暑さにも滅法弱い。ついでに寒いのは嫌いだが冬は好きだという訳の分からん選り好みをしている。わがままである。一般的に冬は寒いから冬だと認識されているものだし。

「こうまで寒いとやっぱりあれだね。雪降るかもね」

「え、本当か?」

さっきとは一転して嬉しそうに空を見上げる。

寒さは嫌なのに雪は好きだというあんぽんたんではあるが、雪は日本人的情緒の心をくすぐるものがあるという意見には一理あると思う。まあ、衛宮ではその情緒を理解せず目の前に出された数々の料理をぬくぬくとガーッと頂いてしまうのもいるが。

綾だけでは疑わしいのでセイバーに目配せするとコクリと頷いた。恐らく俺が着替えている間に天気予報でも見たのだろう。セイバーが本当だというのなら信用できる。それなら気をつけるに越した事はないか。寒さのせいで風邪でも引いたら目も当てられないし。

雲は舞台劇の緞帳のように奥に存在するはずの太陽を隠している。陽光が遮られ、強風にあおられるせいで熱が地面に留まらないために気温が上がる事がない。筵下がる一方かもしれない。

「で、お前はなにをしているんだ?」

「忍法風除けでござるよ、にんにん」

俺は無言で後頭部をどついた。勝手に俺を壁にするんじゃない。

なにがにんにんか。そんな古いアニメネタは使うんじゃない。アニメネタはCMネタと並んで風化が激しいから解ってくれる人は解ってくれるが解らない人には一生わからない。ましてや現物など言わずもがなだ。

「ニンニン…。聞いた事のない言葉ですね。それはこの国古来の言葉なのですか?」

セイバーもまじボケをかまさないように。いや、もしや天然なのだろうか。だとすると俺の周りにはほとんど天然しかいないことになってしまうぞ。

「コイツの言う戯言を真に受けなくてもよろしい。綾もセイバーに変な知識を教えるんじゃない」

半ば睨みながら綾に説教をしようとしたのだが、よくないことだと解っているのだろう。薄く笑みを浮かべてはいはいとゆっくり頷いた。

そのままたわいのないことを話しながら歩いていると、二日前の戦いの後が色濃く残る外人墓所を見る事が出来る場所までやって来た。

墓石はあの時のままに放置され、すり鉢上のクレーターも、巻き上げられた粉塵こそないが土や岩石は、あの時の惨状をまざまざと蘇らせる。入り口には立ち入り禁止を示すテープが縦横無尽にべったり張り付けられていて奥の方をうかがわせる事はできない。きっと言峰あたりが手を回したのだろう。

この光景を生み出したのが、あの巨人と、そのマスターであるあの少女、たしか、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとかなんとか言うやたら長い名前の小さな女の子がやったなんて信じられないし、なんとなくやりきれない感じがしてくる。

「どうかしたのですか、シロウ?」

ぼうっと墓場の方を見ながら立っていた俺を訝しがってセイバーが立ち止まった。自然と綾も立ち止まる事になる。

「ひど、なにあれ。ウル○ラマン並みの破壊活動だ」

あの時に起こった事を知らないから綾が疑問に思うのも当然だが台詞はアレだ。どうしてこうマニアックな方向に進みたがるのだろうか。やはり情操教育、感情萌芽の一環として色々な映像を見せる時に出版物の選択がどこか間違っていたのだろう。

本や絵よりも動きのある映像の方がリアリティがあるので結局はテレビ、ビデオの方が妥当かという適当な、もちろんいい加減な意味の方の判断でネジが曲がったとしか思えない。

綾の発言にいちいち気を取られていたら気疲れするので真面目に受け取らない。

「ウルト○マンとはなんですか?」

あ、セイバーなに聞いてるんだ。

すると綾はクスクスと悪巧みをたくらんでいるという表現がしっくり来るように含み笑いをもらすと口元に手を当てて言った。

「フフフのフ。ウル○ラマンっていうのはね。自称悪の手から国を守る正義の味方。だけれどその実態はなんと、国に友好を求めてきた外の国を正義の力を持って一方的に悪と決め付けて徹底的に圧殺抹殺瞬獄殺。しまいには向こうが住んでる国まで侵略して破壊してしまうアルティメットジェノサイダー。しかも何代も続いている王朝で同胞がやられると一対多でボコボコにしてしまう裏組織じみた面まで持ってる。自分が正義だって勘違いしてるサイコヤローの集まりなのさ」

「そんな、友好を求めてきた他国を話し合いもせずに殲滅するとは、その国の王はなにを考えているのか。さぞかし臣や民は迷惑をしているでしょう。そのような蛮行を以って是とする王などとんでもありません。国に平安と安寧をもたらすのが王たる者の務めだ」

「………………………」

「人民に意思なんてない。王によって意識統制されてるからね。けれどその意識統制で迷惑をするのはこっちなのさ。彼らが正義というお題目で戦うたびに被害は国家予算に匹敵するほどだよ。家屋の倒壊は当たり前、自然破壊もなんのその、生態系の破滅も蚊帳の外。満足するだけ暴れたら後のことはほったらかし。基本的に後のことなんて考えていない刹那的快楽主義者の集団だよ」

「…は、信じられません。あまりのことに意識が遠くなりかけました。戦争を行うのは簡単だ。徴兵し軍備を整え、戦略、戦術を考え抜き、いくつもの過程を経た末に仕掛ければよいだけのことなのだから。最も大変なのはその後だ。飢餓に苦しむ民草は住むべき家を失い、養い手を失い。それでも戦力補充再編のための超過徴税を払わねばならない。執政者がするべきは戦争の後始末だというのに」

「………………………」

「だよね。彼らは完全にそれを放棄しているから。なのに自分を正義だって勘違いしている所が手におえないのさ」

「国の軍務をつかさどるものとして、いえ、人としての威厳さえありませんね」

うわ。調子に乗ってほんとに洒落にならない事言ってるよ。誤解と偏見、理解の欠片もない悪い面だけを抽出したような説明だ。しかもセイバーがそれを信じてしまっているからこっちだって手におえない。ああ、俺はいったいどうしたらいいのか…。止めるべきか、止めざるべきか。どちらにしても被害を免れない。

「で、リョウ。どこなのです。その恥知らずな蛮族の国は。民を守るべき騎士として、いえ、なによりも人として許せない」

おいおい、聞いてどうすんだよセイバー。まさか特攻を掛けるなんて言わないよな。そもそもそんな国なんてどこにもないんだぞ。あ、いや、一応空の上が国になるのか?

「実は彼らには国はない。けれど確かに国はあるんだ。彼らには長がいてね、それが王なんだけど。彼の指令を受けているのは世界中に散らばっている同胞なんだ。その同胞は色々な国の中枢にまで浸透していてさりげなく彼らにとって利になるように行動を誘導しているからね。いずれ世界は彼らの信者で埋まってしまうかもしれないんだ」

「まさか、そのような宗教国家、いえ、宗教集団のような一面もあったとは…。恐るべき相手です。生半な覚悟ではこちらがやられてしまう」

おいおい、本気で信じちゃってるよセイバー。まさか一戦やらかすなんて言わないよな。

「しかし、私も誇りある騎士だ。そのような蛮行、聞いたからには捨て置けない」

捨てるも何も、拾えるものじゃないのに。セイバーは悲壮な顔で何やら決意してきっと前を見据えた。その表情はあの巨人、バーサーカーと対峙していた時と同じく凛々しく清流の眸が輝いているのだが、いかんせん話題が話題だから、ちょっと変だ。

このままでは際限なく話が広がってしまう。ああ、やっぱりあの時止めておくべきだった。なんかセイバーかなり拡大解釈して勘違いしてるっぽいし。

俺はこれからなにが起きるか分からない未来予想図を出来るだけ考えないようにしながら腹に気合を入れて、闘志を燻らせるセイバーに近づいた。

「あのですね。セイバーさん…」

「なんでしょう、マスター。この地にもその危険思想集団が存在しているのでしょうか。もしやとは思いますがこの聖杯戦争に横槍を入れてくるかもしれません。えてして宗教的集団とは己の権勢と力を誇示するためにそういったものを欲す。であればこそ、私たちも彼らの標的となりうるかもしれない…」

俺をマスターと呼ぶということはかなり本気なのか…。あ、なんか頭痛くなってきた。

「落ち着いて、聞いて欲しいんだ。なにがあっても取り乱さず、この話を聞いてくれ」

「む、わかりました」

俺のごく真面目な表情にセイバーも気を入れなおした。べつに入れなおさなくてもいいのだが。むしろ気を抜いてくれた方がいいのだ。

「実はな…」

「はい」

静寂の、間。

刹那の、風。

「あれは嘘だ」

「…え?」

「あれは嘘だ」

「…うそ?」

「そう、うそ」

あ、逆から読んでも同じだ。

「そ、そんな…」

セイバーは予想外の言葉にうろたえてウソの発生源を見た。ソイツはにっこりといつもよりも2割増ぐらいに微笑んでいる。実に嬉しそうにいい笑顔なのがまた憎たらしい。

「ごめんねセイバー。セイバーって何でも言う事信じちゃうからさ。ついつい、話が大きくなってきちゃって」

それは言い訳なのだろうか。どの角度から聞いても、どの方面から見ても挑発しているとしか思えない文面なのだが。ほら、セイバーを見てみろ。ブルブルと握った拳が震えていて溜め込んだ怒りが爆発しそうじゃないか。

君子危うきに近寄らずというが、これは近寄らなくても余波だけで神経が千切られそうな8000メートル級の大爆発にもなりそうな予感がしてくる。

「あ、あ、あ…」

ここら一帯だけ肌を切る寒さからぐつぐつと沸騰する前の粘性の高い湯にうだるみたいな気がしているのは勘違いではない。

ザワザワと風がセイバーの感情に呼応しているみたいにざわめき始めた。さきほどよりも勢いはなくなっているが、代わりにセイバーを中心点にして渦巻いている。だって、これ、魔力のざわめきなんだから。恐ろしい事この上ない。

「あ、あ、あ…」

ゆうらり、とセイバーが一歩、綾の方に進み始めた。なんだか地面がゴシャッと潰れたような気もしたが俺は何も見てないし、見れないからそんな現象はありえないのだ。

その歩み、まさに幽鬼の如く。バーサーカーの時よりも恐ろしく見えるのは気のせいか。いや、目の前で起きている事は間違いなく現実なので気のせいではありえない。セイバーの顔はセイバーにあるまじきどす黒い闇に染まった感じで滅茶苦茶恐ろしい。だってのに、綾は変わらぬ笑顔でにこにこと見ているのだからやはり神経が焼ききれているとしか思えない。

「あ・な・た・と言う・ヒ・ト・は〜」

一言一句、強調してまるで地獄のそこから響いてくるように腹にズシンとボディブローが入ったみたいな強烈な呪詛めいた言葉だった。

「うん、なに。セイバー?」

こてん、と鳩みたいに首をかしげた。その表情にはこれから自分に何が起きるなどと考えているようなことは塵一つもない。心の底から楽しかったななどと思っているのだろう。

世界のどこかで、スッパーン、と魂から脳髄の端から端まで、人を構成する大切な線が鋭利な剣で薩摩次元流上段唐竹割一刀両断豪快一本斬する音が聞こえた。

おお、南無阿弥陀仏…。色即是空、空即是色。

「あなたとっ、いう人はっ、なにをっ、考えているのですかっ!!!言うに事欠いて、あのような虚言妄言などっ!!!」

むにゅ〜よりもぐぎにゃ〜って腹のそこから脳の中身全部がよじれるような擬音が合ってる感じでセイバーは綾の頬を引っ張り出した。

「ひたーーーーーっ!!!ひたたたたたっ、離ひて離ひて。ほんほにひたっ!!!ほれ、いはい。さけるさける、出血するって!!!」

なんて単語を叫んでるんだお前は。恥ずかしくないのか。俺は公道の真ん中でそんな事を叫ぶ人間と係わり合いがあるのが恥ずかしいことこの上なくて距離をとるために急いで坂を駆け上がって墓地の中に身を隠した。

「なかなか余裕があるようではありませんか。ほう、よく伸びる頬ですね。こけているというわけでもなく、かといって無駄な贅肉は一片もありはしない。肌は滑るように滑らかで弄ぶにはまさに最高の頬です」

「ほれいほうはふりっ!ほうやめへっへいっへる!!!」

それにしてもセイバーの言ってる通りにノビロ〜ンとばかりによく伸びる頬だ。

なんだか横や上に引っ張ったりしているうちにセイバーは悦に入ってる気がしなくもない。

全くの観客的視点から見るとなぜか同性であるはずの美少女二人がなぜか痴話げんかじみた事をなぜか公道のど真ん中でなぜか真昼間からなぜか堂々としてるとしか見えない。しかも聞きようによってはかなりアレな会話のやり取りだ。だから、俺はこっそりとその場から離脱したのだが。

しばらく離れた所でじっと見ていると急にセイバーは我に返った。その理由はいわずもがな人々の視線である。いくら人通りが少ないといってもあれだけ騒いでいれば嫌でも目に付くし耳に入る。加えて綾の声は空気に透けてずっと遠くまで届くのだ。それが大声で痛いだの裂けるだの出血するだのやめてなど叫ぶなんてただ事じゃありえない。ありていに言えば、まあ、その、あ〜つまり、ご、ごご、ええい、強姦にでも襲われているかのような言葉ばっかりで、こちらとしても頭を押さえざるを得ないのだが、とにかく聞いたら駆けつけなければと思わせるものばかり。

が、声に導かれて来てみれば、そこには未だ女、というよりも女の子という形容が相応しい少女が二人。一方が頬をつまんで一方がそれに耐えているというなんとも想像違いの現場に出くわしてしまった。というわけなのだが。

想像違いは想像違いであっても金髪碧眼美少女と黒髪白肌美少女が絡み合ってるように見えるソレは事情を全く知らなければかなり倒錯じみた世界を形成しているように見えて、小父さん小母さんに暇な大学生や訪問販売のサラリーマンやOLなど、皆が皆、一様に食い入るように真剣な目付きで覗いている。

「あ……」

はっとした時にはもう遅く、既に衆人観衆にさらされているセイバーはパッと綾の頬から手を離したがその後の綾の台詞がいけなかった。頬を押さえながら、涙目で、恨みがましく。

「うう、傷ものにされた。責任取ってよね…」

いっきにドヨッと波乗りウェーブが立つ。ひそひそと隣の人と「この子たちはどんな関係なのかしら」とかまっとうな物から「公開レズビアンプレイ」とか発禁なもの、「眼福也」とか言って頷いてるものとか「シスターと巫女の禁断の関係」など洋と和の混交など多岐に渡っていて、ぐらんぐらんとサラダボウルで混ぜられたみたいに場が揺れている。

瞬間的に沸騰した顔をうつむく事で隠してセイバーは綾の手を取って教会に向かって全速力で駆け出し始めた。俺はいま出て行けばさらなる話題の種となる事確実なのでそれを黙って見送っていた。

すまん、セイバー。その話題にだけは入りたくないんだ。

「最低です…」

「は、へ、ふ、ぅぇ、も、もう、走れま、せん…」

「………………………」

最低ですとはセイバーが先に起こった騒動を省みてかなりの自己嫌悪に落ち込んでいるということ。走れないというのは綾がセイバーに手を引かれてここ数年は確実にした事がないであろう全力疾走に音をあげているという事。そして俺はそんな二人を当分に見ている。感情が動かないのはきっと呆れを通り越しているからだろう。綾はともかく、セイバーまで。

ず〜ん、と頭に雲がかかったみたいなセイバーは俯いてさっきの記憶を消そうとしてるのか、なにやらブツブツと独り言を繰り返している。

う〜ん、セイバーって一見冷静そうに見えるけど実は熱くなりやすい性格みたいだな。まあ、あんなアホな嘘を吐かれたら普通は怒るだろう。信じてしまうのも問題があると思うけど。

反対に綾は膝に手をついて呼吸を整えている。セイバーが本気で走っていたらむしろコイツは浮くのだがそうしなかった当たり、無意識にセイバーは加減をしていたのだろう。いつもふざけているヤツだから、今みたいにマジなのは貴重だ。

どうしてあんな騒ぎになったんだっけ?思い出してみよう。

始まりは2日前のバーサーカーとの戦闘を思い出したことによる。あの時、バーサーカーのマスターである少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって名前の少女を見た時、どこかで見た事があると思ったんだ。けれど、どうしても誰とも重ならなくってずっと引っかかってたんだっけ。でも、答えが目の前にあるのなら別だ。あまりに身近すぎたから、かえって分からなくなってしまっていたんだ。だけど―――。

ちら、と視線をやるとそこには狂騒が過ぎ去ってなんだかお疲れ気味のセイバーと綾がうだっていた。

やっぱり気のせいか。気のせいに決まっている。あの子と綾が似ているだなんて一瞬でも思った俺が愚かしかったんだ。世俗に塗れた綾とあの子ではその純粋さが全然違いそうだものな。

気になるのはあの子は俺がマスターになる事を予め知っていたみたいだったってこと。学校から屋敷に帰る途中で唐突に声を掛けられたんだ。「早く呼ばないと死んじゃうよ」って。そんな台詞は俺がマスターになる事を知っていなければ言う事は出来ない。

言峰はマスターになる人間がどういう仕組みで決められるのかは分からないといっていたが、あの子は聖杯を手に入れるのは義務だって言っていた。これはどういうことだろうか。まるでマスターになるのは決められていたみたいな言い方だけど。

と―――。

「…痛すぎる」

「…自業自得です。私が何も知らないと思ってあのような虚言を吐くなど言語道断」

はぁ。現実に立ち返ればこんなものが目に入ってくる当たり、本当に俺は聖杯戦争なんてものの真っ只中に居るのだろうか。なんだか普段と同じ、いやそれ以上の騒ぎが起きているだけのような気がしてくる。

「素直な人が好きなだけ。そういう人を見ると楽しんでもらって楽しまなきゃって感じになる」

「楽しくなど欠片もありません。ただたんにからかわれただけではないですか。いいですか、今後、あのような事をしでかせばただでは済みません。私はいたずらが嫌いですので」

どうただでは済まないのか聞いてみたかった気もするが、その割にはセイバーはあんまり怒っていないように見える。

「あと残ってない?」

綾がこっちによってきた。頬を指差していてそこにはジンジンと自家発熱してそうなほど赤い痕があった。肌が蝋人形みたいだからよく目立つ。うむ、と頷く。

「どうしてくれるのさ。こんな痕つけて歩くなんて恥ずかしすぎて死ねるよ。あやまってよね。セイバー」

「え、そ、それは、もうしわけ…は、なぜ私が謝らなくてはならないのですか。むしろ私の方が謝罪してもらいたい」

「そんな、セイバーは僕にこんな暴行の爪痕をはっきりつけて市民の目に晒されろっての?あ、それとも僕を奴隷に見立てて所有権を主張してる?僕は高いよ?」

「そ、そのようなこと、あるわけないでしょう!!!」

なんていう会話だろうか。

ガキーンと耳にくるセイバーの怒声。ガーッどころかガオーッて、なにやら百獣の王さまを連想させる。

しかし、ノッてるな、綾は。コイツがここまで地を出しているというのは相当にセイバーを気に入っているという証拠だがさすがにセイバーには辛いだろう。慣れてるわけないし慣れそうにもない。つか、慣れたらおかしい。

「そこまでにしとけ」

俺はギャンギャンニャンニャンワンワンガオーッと猛獣っぽい二入の間にさしずめ魔物使いのように割って入った。どうでもいいが某有名RPGの五作目の主人公は半ズボン以上に短い腰巻一枚でよく捕まらないなと思ったことがある。最近は着替えたみたいだが。

「お前、調子に乗りすぎ。だいたいお前がついてきたのは色々買いたいものがあるからだろ。セイバーを困らせるために来たわけじゃないよな。それができないなら今すぐ帰れ」

なんか小さい子供を躾けてるみたいだが概ねそれで合ってる。

「調子に乗ったって言うか、止められない止まれないなのさ。それがかっ○海老せん」

「帰れ」

「走り出したら止まらない。それがキ○ヌ・リーブスのスピードです」

「帰れ」

「む、小粋なジョークなのに。士郎ってば僕と姉さんには言うこといつも酷いよね。たまには優しくしてもいいんじゃない?」

止めろ。そんなこと言うな。思わず想像してしまったじゃないか。

「で、どう思った?」

「脊髄が氷と入れ代わったあとに氷精機でサラサラに砕かれて真っ赤なイチゴ味風味にされてしまった感じだ」

あとに残るは累々と続く血の流れ。

うん、今のは我ながらなかなかに上手い表現だった。とくに真っ赤なイチゴ風味の当たり。一度誉めると際限なく調子づく虎の系譜には初めから適度に相手して適当にあしらうのが一番効果的だ。

やっぱひどいとぼやく綾を尻目に俺は教会に向かって足を前進させるのだった。なんで歩くだけなのにこんなに時間がかかるのかは全く以って謎加減が高いと思うのだがどうか。

「ね、セイバー。ちょっと髪の毛持っててよ」

「…なにをするつもりですか?」

だいたい、綾と外を出歩くと必ずと言っていいほど何かしらの騒ぎが起きるんだ。意識してるのは規模が小さいからまだいいのだが、無意識に騒動に巻き込まれるのはなんかの呪いかと思うときがある。

「警戒しない。ちょちょいと髪の毛をいじってこの痕を隠そうって訳だよ」

「む…分かりました。そういうことであれば、協力します。傍目から見てもソレはよく目立つ」

いや、アレは巻き込まれてるって言うか、綾の周りで起きた騒動とまったく無関係の第三の騒動が複雑に絡み合う事があって社会的にも見過ごす事が出来ないほどの騒ぎになるんだ。

「とりあえずリボンはずして、みつあみほどいて…と」

「…………………む、これは」

『京都大抗争の変〜夕闇に沈む千年の都』はまあ、狂騒の金字塔に燦然と輝いているが、あれは桁違いの別格として。他にも『深山の怪〜揺らめく陽炎』や『柳同寺に消える白影〜階の空にナニを見る』など。

「こうして、シャギーみたくしてから、右に片寄らして…」

「柔らかい髪質なのですね…」

冬木市にいるだけでも両手の指だけじゃ全然足りてないというのに、これから先も増えるとなると一体どんな事が起きるのか。先行きが不安になってもくるじゃないか。ああ、だからコイツは聖杯戦争にも巻き込まれてるのかもしれないぞ。いや、それは違うか。俺が魔術を習わなかったらそんな事はなかったのだし。

「あ〜、セイバーちょっとリボン交換ね」

「え、ちょっと待ってくださ…」

そうそう先を考えて暗くなっても仕方がないだろう。衛宮士郎。今はこの馬鹿げた戦争を乗り越えなきゃいけないんだから。せめてコイツだけは傷つかないようにしなきゃいけない。それが、俺のするべきことのはず。

そう結論を下して、俯き加減だった顔を上げて前を見るとなぜかそこには桜がいた。

「え?」

「ふふ、どうしたんですか先輩?」

さくら、と不覚にも思わず零れそうになった言葉はかろうじて漏れ出すのを防ぐ事が出来た。髪型が桜みたいになっていてご丁寧にもセイバーのリボンを借りていたので一瞬だけ桜の面影をみたのだ。けど落ち着いてみればすぐに綾だって分かる。だいたい桜は綾ほど背が高くないし、こんな風に邪な笑顔はしない。一見晴れやかで能天気そうだがその奥ではどんな事を考えているのやら。あ、でも捻られた痕がいい具合に髪の毛で隠されている。

はぁとため息をするとこの軽い頭痛も一緒に出て行かないかなと期待したがやっぱり上手くいくものじゃない。額に手を当ててふるふるとかぶりを振る。

全くなにを考えているのやら。大方楽しそうだからとかのだろうけど。

「いつのまに変態したんだお前は」

「士郎がこれから先の人生について深い哲学的思考についての一考察を重ねていた時だよ」

変態とは形体が変わることだから間違ってはいない。ツッコミされる覚悟で言ったのだがスルーされてしまった。なんだか無性に悔しい気がするのは結構末期なのかもしれない。

綾の後ろでは強引にリボンを取り替えられたセイバーがいい感じに困っている。黄金の髪には変わりに遠坂のリボンが風に揺れてた。

「でさ、本当に行くわけ、教会に。その倒れた人って士郎に関係ない人でしょ。ケセラセラで気にしないのが吉。だいたい聞きに行く理由がないじゃん」

じゃんは止めろ。ここまで着といて今更なにを言っているのやら。大方面倒くさい事は早く済まして買い物に行きたいのだろうが。

「莫迦。関係なくはない。同じ学校の同じ生徒だぞ。しかも魔術師に襲われたんだ。俺はその時いたってのに何もすることが出来なかったんだからな。これぐらいのことは当然だろ」

と言うとなぜだか決まって綾は良い顔をしないのだが。今もムッと目元に力を入れて睨んできている。

「なにが当然なんだか。僕にはどうして当然なのかが昔っから全然わかんないんだけど。あ、この話題はいつまでたっても平行線だから止めにして、と。行くなら行くで手早く行ってパパッと済ませましょう」

「…………………………」

そう、綾は何かしら俺が人から頼まれごとを引き受けるのにいい顔をしないのだ。真正面から士郎がしていることは余計なお世話だって言われたことさえある。そういわれると俺はいつも反論して口論になるのが常だったのだが、それが嫌なのか最近ではあまり文句を言うこともなくなってきたのだ。

善行を積む、何か手助けをするってのは良い事であるのは間違いないのに綾はそれを快く思っていない。それが何故なのかは「堕落するから」だそうだ。端的すぎて意味が読み取れない上に不可解すぎて訳が分からない。

口出ししたいのを我慢してもう目の前に見えてきた教会へと進む俺たちだった。

真正面から見る教会はそこだけシンと静まり返って人の気配など感じ取れない。扉はがっちり閉じられていて来訪者の訪れを頑なに拒んでいるかのようでもある。俺はそれらを無視して扉に手を掛けて中へと入って行った。

内部は閑散としていて静けさが教会を支配していた。外からの強風にも音一つたてることなく静寂のみ。歩を進めるたびに無機質な冷たい音が響く。そしてそれはどこかしら、背筋が寒くなる心象を与えるものでもあった。

「言峰」

大きくもないが小さくもない声だったがそれでも響くには十分すぎた。礼拝堂にいないのであれば聞こえなくとも仕方がないがいるのであれば呼びかけには答える事が出来る筈。

少しの間、言峰が姿を表さすのを待っていたがどこからもあの神父が出てくる様子はない。もしかしたら奥方にいるのかもしれない。そう思ってドアノブに手をかけたときだった。

ガチャン、と重々しく入り口の扉が軋みながら両開きに開かれた。風は強く、礼拝堂の中を逆巻いて出口を求めている。音に反応して思わず振り返った俺は風に煽られて目をつぶった。

再びガチャンと鉄と木が噛み合う。

閉じた目を開くとそこにはセイバーと外で待っているはずだった綾がいた。

「なにやってんだお前は。楽しそうじゃないから外で待ってるとか言ってなかったか?」

「寒い」

返事は簡潔だったがそれだけで理由は分かった。確かに外は寒いからなかに入ってきても変じゃない。

綾は備え付けられた木椅子にどかーと座ると中を見回した。話には聞いた事はあるが実際に内部を見るのは初めてなのだろう。物珍しげにステンドグラスや祭壇を見ている。

「セイバーは?」

「外で待ってる」

それだけ言って後は無言のままに両手をさすって暖を取っている。

それを尻目にどうしたものかと考える。

言峰がいないとなればここに来た意味もまるっきり無駄ってことになってしまう。運ばれた生徒のことも気になるが、あのバーサーカーのマスターである少女のことも気にかかる。

どうしてこんなに気になるのかは置いといて。あの少女、アインツベルンは聖杯を手にするのが義務。それはいったい如何なる理由か。あんな年端も行かない少女にいったいなにを教えているのか。

他にも桜。何日か前から調子が悪いってのは知っていたけど、会えないぐらいにひどい風邪だって言うのは予想もしていなかった。衛宮家には桜がいて当然の雰囲気があるから、それが欠けてしまうとやっぱり寂しくもなる。

ライダーのマスター。学校の関係者である事は間違いないと思うけど、俺を狙う理由はなんなのか。同じマスターである遠坂ではなく、俺を指定して嬲るように殺す理由。

う…、なんだか頭の中の糸が複雑に絡み合ってグチャグチャにさえなってきた感じ。考える事がありすぎてなにを考えていけば良いのか、なにから考えていかなければならないのか。

「…なんか、悩んでるっぽいね」

「…悩んでいると言えば、悩んでいるが、なにを悩んでいるのか自分でもよく分からない」

「大変だね」

それっきり後は黙った。

それから何分かたったけど言峰は表れない。からぶりしたかもしれない。言峰がいないのならもう帰るべきか。表で待たせているセイバーにも悪いし。

そうして悶々と考えているとガタッと綾が椅子から立ち上がって、まるで舞台にいるかのように両手を広げながら歌いだした。

虚空を見上げながら瑠璃の眸がここではないどこかを見詰めていて、まるで夢を見ているように。

「Agnus Dei, qui tolis peccata mundi, Miserere nobis.

Agnus Dei, qui tolis peccata mundi, Miserere nobis.

Agnus Dei, qui tolis peccata mundi, dona nobis pacem.」

「――――――――――」

祭壇の前まで行くつくと神に傅く聖者みたいに両手を握り締め、祈りの言の葉を紡ぎながら。

その姿に、驚きながら息を呑むことも出来ずに見惚れていた。まるで背中に翼でも生えているかのような錯覚。ユルユルとだが穏やかに歌うその様は、まるで本当に神の使いかとさえ思えるほどに、荘厳で侵しがたい雰囲気に包まれていた。話しかけることさえ戸惑ってしまう。

けれど―――振り返ったその顔は。

「教会にきたら一回は聖歌を歌ってみたかった」

やっぱりいつもの綾で、さっきの表情はなんだったんだーと抗議したいほどに変わりなかった。

「士郎が似合わない事この上ないぐらいに悩んでいるからね。その様子を歌にして表現してみました。自分でもなかなかに合っていたと思うんだけど」

「悩むのが似合わなくって悪かったな」

ふんと、顔を背ける。俺のその様子にアハハと綾は笑っている。

「それで、今のはなんて云う―――「神の子羊だ」」

俺がその歌の意味を尋ねようとしたら奥のほうから重々しい威圧を感じさせる声を沈ませながら神父がやってきた。

厳しい顔つきは前に来た時と変わらずこっちを見下しているかのようでもある。慇懃な口調はそれだけでなんだか腹の底にズシンと重石を乗せられた感じで、知らず知らず身体中の力を入れてしまう。

「アニュス・デイ。ラテン語で『神の子羊』と云う意味だ。そうして教会でうなだれている姿を見ると、まさしく神に捧げられ、ありもしない奇蹟を祈る子羊のようだぞ、衛宮士郎」

確かに俺は椅子に座ったまま両肘を膝の上に着いて手を組んでいるが、そうやってこの男に言われるとなんだかカチンとくる。

「…あんた、今までなにしてたんだ。こっちはずっと待ってたんだぞ。探したけどいなかったけどな」

「ふむ、待っていたのはお前の勝手だろう。私は奥で後始末の処理をしていたのだ。お前を相手するほど暇ではない」

待っていたのは俺の勝手だがこうも神経を逆なでにされるような言い方だとまた、カチンと頭にくる。

「後始末って何だよ?」

「サーヴァント同士による戦いを外部に漏らさないために色々と忙しい。言っただろう。私はこの戦争の監督役だと。聖杯戦争はあくまで秘密裏に行わなければならない。異常性を一般社会に察知されてしまえば聖杯は下らぬ理由で教会に奪い取られるだろう。それは私にとっても面白くない。で、なにようでここに来たのか。まさか早々にリタイヤでもするつもりか?」

「そんなわけあるか、俺は別にリタイヤなんてするつもりはないし、教会に守ってもらうつもりもない。ましてやあんたになんか会いたくもない」

「そう思うのならば手短に用件を済ませろ。言ったはず。私は色々と忙しい」

再びむか、と来たけど確かにこの神父からみれば俺は邪魔をしに来たとしか捉えられない。言ったところでなんか嫌味を言われ続ける不毛なやり取りになりそうな気がするし。口に出そうになる反論を我慢して言った。

「っ―――、じゃあ、聞くぞ。昨日、ここに俺と同じ学校の生徒が連れてこられたはずだ。その子は今どうなってるんだ。遠坂は心配はいらないって言ってたけど、後遺症が残るかもしれないとも言ってた」

「そんな事を聞きにわざわざここに来るとはな。結論から言ってお前がここにまで来る必要などないことだ。すでに一般の病棟に移されているだろう。足りない血液など他から補えばいいだけだ。凛の応急処置が間に合ったのだな。私がすることなどほとんどなかった」

その言葉を聞いて、少しだけ胸の中のしこりが小さくなった。

よかった。目の前で誰かが苦しんでいるってのに、俺はその時いたにも拘らずにただ見ているだけで何も出来ずに、突っ立っているだけだったから。苦しんでいる人がいるのに何も出来ないのは、辛い。なにが辛いってどうしようもなく、辛くなるんだ。

「それで、それだけのためにここに来たのではあるまい。そのような些事で私の手を煩わしたいと思ったわけでもないだろう。なにが聞きたい。それとも、何かしてほしい事でもあるのか?」

え、え〜と。

「実はそれだけだったり」

「ちょっとお前は黙ってろ」

いつのまにか俺の横に来ていた綾を黙らせるとさっきまで取りとめもなく考えていたことを思い浮かべた。

しかし、一体なにから考えればいいのか。一体なにから口に出せばいいのか。く、このまま黙っていたらあの神父から苦言にたっぷりのった嫌味が来る事は確実だ。それを黙って聞いているなんて嫌だ。

「む、衛宮士郎。隣の娘はなんだ。聖杯戦争に巻き込まれた娘を保護でもしたのか?」

「あ、いやこいつは…」

話がややこしくなるじゃないか。ただでさえややこしい人間であるというのに。

「衛宮綾と申します。初めまして」

なんて綾が自己紹介したら言峰は厳つい顔をさらに厳めしくして綾を見た。その様子は始めて俺の名前を聞いた時と似通ってはいるが微妙に違っていた。例えて云うなら、在りえないものを見たようなものか。重たげな表情をさらに重たくして綾を見ている。

「…切嗣の娘だと。アインツベルンの娘は一つではないのか?」

「ちょ、ちょっと待て、今お前なんて言った?!親父のこと知ってるのか?なんであんたが知ってるんだよっ!!!」

おまけに銀色の少女と同じ名をコイツは言った。

それはようするに、切嗣とあの少女にはなにか繋がりがあるということではないのか。いったいどうして親父となんて関係があるのか。

だが神父は俺のうろたえなどよそに少しだけ見せた動揺を失くすと冷然とした態度で話し始めるのだった。

「私が衛宮切嗣という男を知っているのは当然だ。私は前回の聖杯戦争の参加者でありヤツもまたマスターの一人であったのだからな」

「―――――――っ」

親父が、聖杯戦争のマスターだって!?そんなこと、親父は全然言っていない。いや、言ってないというのなら親父は自分がどんな魔術師でどんなことをしてきたのかを詳しく語った事がない。

切れ切れに話していた、人々を助けたい。皆が幸せであればいい。ただそれだけが、衛宮士郎の中の衛宮切嗣という魔術師だった。

「お前の父は優れた魔術師ゆえに聖杯を得るための切り札として魔術の大家に雇われた男だった。ヤツもまた自身の願いのために聖杯を求め、雇い主も己が宿願を切嗣に賭けた。そうしてこの地へとやって来たのだ。己が力ではどうやっても叶う事のない奇跡と理想。それは聖杯以外に叶え得るモノはないと断じた末にな」

「―――、あんた、前にマスターに俺が選ばれたのは偶然だって言ってたな。本当にそうなのか?」

「なぜそう思う?」

「親父がマスターの一人だって言うのは分かった。だけどあんた、さっきアインツベルンの娘って言っただろ。俺は2日前にあの娘に襲われた時、聖杯をもらうのは義務だってあの子が言っているのを聞いているんだ。それは、どういうことなんだ?」

俺の口からアインツベルンの言葉が口に出た途端、慇懃に、だが楽しそうに音を立てずに口の端を吊り上げながら笑う。

「どうやら、お前は切嗣から何も聞いてはいないようだな。それも当然か。ヤツとてあの大火を起こした人間の一人であったのだから話すはずもない。ましてや自らが助けた子ら、救いの対象にはな」

大火。

脳裏には今も赤々と空を燃え上がる不吉な紅がはっきりと思い浮かべる事が出来る。その景色、その匂い、その有様。わけもなく、目の前で起きてしまう感覚さえ沸き起こってきそう

けれど、持ちこたえなければならない。だってグラリと揺れる視界の隅、俺のことを心の底から気遣う瑠璃色の視線がある。なら俺は、震えるわけには、揺れるわけにはいかないんだから。俺は大丈夫なんだって。

だから、口から飛び出しそうになる怒声を我慢して、そのまま話を聞いた。

「…親父があの火事を起こしたってどういうことだ。マスターの一人として戦っていても、親父は親父として戦っていたはずだ。火事なんて望んで起こすはずがない」

「なにか勘違いをしているようだが、切嗣が火事を起こしたわけではない。ヤツが相対していた相手が望んだことによって起きたのだ。直接関わった当事者の一人である事に変わりはないがな」

く、なら始めからそう言えってんだ。いちいち回りくどい言い方しやがって。

「そして、衛宮切嗣をマスターとして選んだのがアインツベルンという魔道の大家だ。切嗣は与えられた役割を忠実にこなし、聖杯を得た暁には正式にアインツベルンの一人として席を受けるはずだった。アインツベルンは聖杯戦争の原因とも言える閉塞した血族だ。1000年の彼方より脈々と受け継がれてきた純粋な魔術師の血筋ゆえに切嗣に対する待遇は破格でありどれほどやつを信頼していたかも知れよう」

1000年。考えるだけで気の遠くなるような年月だ。いや、考える事なんて出来るはずがない。1000年の昔だなんて話に聞いただけに過ぎず、想像する事さえ無意味だ。

…そんな魔術師に雇われたっていうのか、親父は。

「だが、ヤツは全てを裏切った」

淡々と、だが初めて神父は己の感情を自ら乗せた。

「裏切ったってどういうことだよ」

「そのままの意味だ。切嗣は己自身とアインツベルンを裏切った。争いのない世界。ありえないものを夢見ていた男は初めて自分自身を裏切ったのだ。周りが幸せであればよいなどと理想を追い求め続けた男がだ。目の前に顕現した聖杯を完膚なきまでに破壊したのだ」

「――――――っ」

親父が、聖杯を破壊した!?

自分の願いをかなえるものは聖杯しかないと考えたのに?

「いったい、どうして…?」

「お前が聞いたところで意味のないことだ。お前は切嗣に似ているが切嗣ではないのだからな。それに、やつがなにを思い、なにを見出したのかは私のあずかり知る所ではない」

…まあそうかもしれないけれど、言峰の言葉の端々には親父のことをよく知っている、とでもいう風な感じがあったから、何となく聞いただけだ。

「切嗣とアインツベルンの関係はそれが全てだ。裏切った者と裏切られた者という関係だ。そもそも、アインツベルンは聖杯戦争の原因を作り出した一族の一つだったのだ。今も既に聖杯の器を創りあげるだけの一族に過ぎないがな。だから切嗣を雇った。彼らの魔術は戦闘に向いていない。速やかに聖杯を勝ち取るためには戦闘に特化した魔術師が必要だったのだ。招きよせられた切嗣とアインツベルンの血が交わる事により、選りすぐれた魔術回路も都合できたしな」

魔術回路を都合できた?切嗣とアインツベルンの血が交わる事によって…?それってつまり…。

「おい、まさか親父は…」

言峰は表面上穏やかに見えるが胡散臭い事この上ない笑みで俺たちを見た。確かめるまでもなく、それはつまり、俺の予測が当たっているという事だ。

その、アインツベルンという家には、親父の血を受け継いだ本当の子供がいるという事か。

なのに、親父はそれを裏切った。なのに、親父は俺たちを助けた。どこぞの誰とも知れない、切嗣とは全く無関係の人間を。実の子供を見捨ててまで。

「なに、気にすることはない。たとえ切嗣がなにをしようとお前には関係のないことだからな。だが、その一方でお前は切嗣の息子という縁がある。さて、困ったものだな。お前には関係のないところで罪が生じてしまっている」

神父は俺と切嗣に繋がりがあることを罪だという。子を見捨てた親。親に見捨てられた子供。あの親父がそんな事をしたとは信じられないけど、そうだとしたら、イリヤスフィールって子が俺を狙ってきたのも納得がいく。捨てられてその子が切嗣を恨んでいないはずがない。親という存在は子供にとってあって当然なのだ。なのにそれがいなくなったというのはどんな気持ちになるのだろう。どうしようもなくて奪われたわけでもなく、親の意志で消えてしまったというのは。

そうして何も言い返すことが出来ずに蹲る俺に目もくれずに神父はさらに続ける。

「聖杯となる基盤を創造したのはアインツベルンだがそれだけが全てではない。彼らはこの地の霊脈に歪みを見つけることが出来たが干渉することは出来なかった。この地を管理しているのは遠坂だからな。彼らの協力無しには聖杯は完成しない。それでも完成に至らず、マキリという家に協力を仰ぎ、そうして完成したのが冬木の聖杯だ。聖杯戦争の発端となった三つの魔術師の家系だが、どれもこれも私たちには想像することも許さぬ歴史を持っている。特にアインツベルンは千年の過去から現在までその願いを過たずに続けてきた魔の領域さえ凌駕している狂人の血だ。それを裏切ったというのだから切嗣も業が深い」

切嗣は裏切った。実の子さえなした魔術師たちを敵に回して、そうまでして聖杯を壊した理由はいったいなんだっていうんだ。切嗣は子供を見捨てたりはしないと信じたい。けれど、神父の言ってることはぐさりと突き刺さってくる鋭利な針みたいで全てが真実だと告げている。だから、なにか理由があるはずなんだ。切嗣が自分さえ裏切ったっていう理由が。だってそうだろう。叶わない願い。見果てぬ理想。その全てを犠牲にしてまで聖杯を破壊したなんて、何かがなければおかしいじゃないか。

「どうして親父は、聖杯を壊したりしたんだ。親父にそんな事をさせる聖杯っていったいなんなんだ!?」

「どんな願いでも叶えることの出来る願望機が聖杯と呼ばれるものだ。聖杯を造り上げ、英霊を行使する令呪を作り上げ、世界に孔を穿つ秘術を作り上げられた末に完成したもの。言ったはず、衛宮切嗣がなにを思い、なにを見出したとて、今のお前には関係がない」

「関係がないはずがあるかっ!どうして親父がそんな事をしたのか、どうしてあんな火事が起こったのか、俺には、俺たちには知る義務があるだろうっ!」

聞いても言峰には答えられないのは分かっている。それでも俺は言わずにはいられないかった。答えが知りたいというのなら、衛宮切嗣のようになるのなら最低でも、その時、その場所で、同じ状況と同じ体験をしなければならないのだから。

俺を静かに見下ろす言峰は、言外にそれを知りたいのなら聖杯を手にしたのなら、知ることが出来るかもしれないと告げている。

「おい綾行くぞ。もう聞きたい事はない」

「ん…」

「衛宮士郎」

去ろうとして扉の前まで来たその時、背後から訝しがる言峰の声が届いた。

「その娘。本当にアインツベルンとは無関係なのだろうな?」

そんなのは当たり前だ。綾は俺と同じで、あの日、あの時、あの場所に偶然いた無関係の子供の一人に過ぎない。だから、アインツベルンなんて家とは無関係に決まっている。

「…そんなの、当たり前だ」

だが、それなら何故俺はあの時、綾とあの娘を重ならせたのだろう。顔が似ているというわけでもない、背格好だって全然違う。だけどどうして俺はだぶらせたのだろうか。月を背にした少女とコイツが、ひどく似通っているなんて。

その答えは俺には分かるはずもなく、ただ、まるで自分に言い聞かせるように、当然だと言うだけだった。だってそんなはずがない。いくら切嗣がアインツベルンと関係があったとしても、コイツまであるなんて考えられるはずもなかったから。

そうして無言でいる言峰を最後に振り返って一瞥してから教会を出て行った。

教会に来る時とは正反対の重い気分は間違いなくこの聖杯戦争にまつわる切嗣や魔術師たちの話を聞いたからだ。

叶うはずのない願い、叶うはずのない理想。自分自身を裏切った衛宮切嗣。

1000年という時の流れでさえ意志を曲げることの出来なかったアインツベルン。

その全部が聖杯なんてモノがあったから起こったのだ。なら、それを終わらせた親父はやっぱり俺が憧れた正義の味方のままなのだろうか。そうでありたいと思う。だけど、親父は自分の子供を裏切った事にもなる。それは、正義なわけがあるはずがない。

結局、正義なんてものは明確な境界が定まる事のない絶対の一のないものなのか。個を捨て全体を取るか、全体を捨てて個を取るか。その違いでしかないのだろうか。

「話は終わったのですね、シロウ」

「……………………」

「シロウ?」

セイバーは教会の影にいたのか俺たちが出てくると姿を表した。

けれどすまない。今の俺にはどうやって声を返したらいいのか分からないんだ。セイバーは聖杯を求めて召喚されたと言った。だけど親父は何らかの理由で聖杯を壊した。正直、どうやってこれから先やっていけばいいのか判断がつかない。親父を目指すのなら俺は、どうしたらいいのか。どうするべきなのか。

「な、なにかあったのですね。この動揺ぶりはただ事ではない。く、あの神父。なにを唆しのかは知らないがやはり行かせるべきではなかった。いったいなにをされたのですかシロウは。こうまで変わっている所を見ると魔術かなにかの類か。おのれ、許してはおけません」

「あの、セイバーちゃん?」

「リョウ。あなたもあなたです。一緒にいながらなにも異変を感じなかったというのですか。まさか、あなたにまで毒牙を伸ばしたのでは…」

「いや、僕は何もされていないと思うけど…」

「なにを馬鹿な。そう思うように思い込まされているだけに決まっている。あの神父は決して油断してはいけない不吉な相手だ。なにか不用意に近づいたりはしていませんね?それだけで魔術の範囲に入ったということも考えられる。シロウは魔術師であってもあなたは一般人と変わりはない。あれほど神父に近づいてはいけないと言ったではないですか。リョウもリョウですが、シロウもシロウです。理由はどうであれあなたはマスターの一人なのです。この教会であろうとも襲われる可能性はあるのです。ですから、何かあったのなら私を呼んでくださいとあれほど言ったのではないですか」

「…おちつきなさい、セイバー!!!」

「は、はいっ!」

…なんか、毒気を抜かれたって感じだ。セイバーがこうまで取り乱すなんてそれほど俺は異常に見えたのか。ああうん、それは自分でもよく分かっている。聖杯戦争にまつわる絵宮の家との意外な関係。切嗣が裏切ったアインツベルン。それらを聞かされて混乱していないといったら嘘になるけれど、こうしてセイバーが俺たちを心配して待っていてくれたって事が、胸にジンと来る。

なにより、こうも取り乱したセイバーが、それも自分から取り乱してくれたって事は、それほどに俺たちを思っていてくれたって事で、やっぱりセイバーは戦うためだけに呼び出されたサーヴァントじゃないんだって思える事が出来て、それが嬉しい。

気づけば少しだけ笑っている俺がいた。

「シ、シロウはなぜ笑っているのですかっ。まさか私をからかっているのですか。それならばこちらにも考えがありますが」

なんて怖い事を言ってくる。

あ、やばい。もう駄目かもしれない。

「いや違うんだ。からかっているわけじゃなくて、セイバーが自分から地を見せたというか、それで綾に窘められたりした所とか」

逆の場面がなんかつぼに嵌ったみたいで。

「そ、それはですね。あなたがは二人とも無防備すぎる。あの神父は見るからに心を許してはいけない相手だと分かるでしょう。だというのに二人ともまるで子供のように近づいていくからです」

「でもそれってつまり心配してくれたってことだろ?」

「な、それは、ですね…」

ちょっと赤くなって焦る所とかって、そういうセイバーだってちょっと無防備じゃないか。ああうんでも。

「今のセイバーすっごくいいと思うぞ。サーヴァントっていってもやっぱり女の子なんだってことが解るから。ああいや、セイバーは見ただけで女の子って分かるけどやっぱり無表情でいるよりも今みたいに怒ったり焦ったりする方がいいと思う」

「な…!」

ズザー、と物凄い勢いで後ずさるセイバー。一気に五メートルぐらい離れたのではないだろうか。それがまた口元をにやけさせる。

「こ、この身はサーヴァントです。性別などというものは意味のないものです。敵を討つのがサーヴァントの在り方だ」

自分で言ってるじゃないか。サーヴァントの在り方って言うのは敵を討つ事だって。だけどセイバーは俺だけでなく綾のことも心配していた。それはつまり、サーヴァントから離れたセイバー自身の感情に他ならない。戦うだけの存在だというのならそんな余分な事はしないだろうから。

「セイバーがサーヴァントっていうのは分かってるけど、セイバーのことはまだ分かってなかったから、それを少しだけ知る事が出来て嬉しいんだ」

またズザザーと今度は飛び退くセイバー。アレはかなり焦っているみたいな反応だけど、そこまで焦るものだろうか。

「お、おかしなことを言いますねあなたは。まったく、これでは私が呼び出されたのは何のためかと思ってしまう」

腰に手を当てて怒ってきてもやっぱりなんだか俺の口元はにやけたままだった。

「士郎って天然…?」

そんな声が聞こえてきた。普段ならどういう意味だと詰め寄る所だが今は気分がいいからお咎めなしにしてやった。

「じゃ、次は僕の用事を済ませる番」

にこーと他意のありまくりな笑顔を浮かべつつこれからの事に想いを馳せていた。

そうして俺は夜の街をセイバーと共に歩いている。

目的はもちろんマスターを探すため。こうして俺が人気の途切れた町に出歩いていれば敵のマスターも表れるだろう。

特に、ライダーのマスターはなぜか俺を狙っているというのだから、少なくとも他の連中よりも遭遇する確率は高いだろう。

俺は今、俺の家を中心とした一帯で我が身を囮にして、歩いていた。

昼間にあった大騒ぎは精神的に辛いものがあったので語りたくはない。またいずれ機会がくることもあるだろう。

その成果とは俺の横にいるセイバーを見れば一目瞭然。

バスケットシューズをはいて膝丈までのジーンズ。ちょっと着崩れたシャツの上に冬使用のボア付きの短めのコートを羽織っていて全体的にボーイッシュな感じにしてみましたとか言っていた。

セイバーも動きやすさならスカートよりもこちらの方が上だと言っていたから着替えたんだそうだ。端で見る限りどうやら嫌ではないらしく、ちょっと機嫌よさげな雰囲気さえある。

昼間は簡単に説明するのなら食料とセイバーの服飾全般に渡って買い物をしてきた。

セイバーという大成功の例が出来てご満悦だった綾は俺にもがんばっているでしょうとか訳の分からない賞を着たきり雀の俺にまで服を買い与えやがった。なんか嫌だったので結局は俺も買うことになったのだが。

大変だったのはセイバーの方で、素材がいいから考えうる限りの服は全て試したいとか際限なく時間を取られそうだったので泣く泣く厳選したモノを選んだらしい。それでもシスター服やアニメなんかのキャラの服が混じっている当たり、どんな店に行ったのか想像に難くない。華やかなる王宮でのプリンセスセイバーやら暇を弄ぶ妖しい団地若妻セイバーとか耳打ちしてきた時はどうしてやろうかと思ったが結果は良好だったらしい。落差が激しい。

「ですが良かったのですか。あんなに私に服を与えてもらっても着る機会がないと思うのですが…」

「いや、アイツと俺の金だから。たいして気にしなくていい」

俺もここで金額を口にするほど阿呆ではない。

「しかし…」

「いいって言ってるだろ。お金は使うべきときには使って使わないときには使わないものなんだから。今日は使うべきだって判断しただけだ。俺も綾も」

こうしてセイバーを見るとお金を払った意味も価値もある。歳相応の女の子でやっぱりそうしている方がいいと思うのだ。

「そういうことではないのです。シロウには話しておこうと思ったことがあるのですが…。教会に行く前に話そうと思っていたのです」

なんでかセイバーはさっきまでの機嫌はどこへ行ったのやら両手を胸の前で組んで口にしようとした言葉を引っ込めている。

「話そう話そうとは思っていたのですが、何と言いましょうか。あなた方の持つ雰囲気がそれをさせてはくれない、と言いましょうか…」

ごにょごにょと聞き取りがたい小さな声。いったい、なにを言いたいのだろうか。

「その、どうにも、あなた方には話し辛く…」

「なんだよセイバー。そんな風にして語尾を曖昧にするなんてらしくないと思うぞ。何かいいたいことがあればはっきり言ってくれ。ここには綾もいないし『こっち側』の話なら都合がいいぞ」

綾なら今頃はもう寝ているだろう。体力もないくせに昼間っから騒ぎまくっていて、帰るときなんかすごい疲れた顔してたもんな。いつもどおりに青白くなって、ちゃんと休み休みで回ったはずなんだけどな。

屋敷で寝ているわけではない。多分、深山町なら、いや、冬木市で一番と言っていいぐらいに安全で、そして同時に恐ろしい所で爆睡中のはず。

「はい。そう、ですね。教会でのあなたの様子から推測するにあなたの父、衛宮切嗣。この男が前回の聖杯戦争のマスターだった事を神父から告げられたはず」

「――――――――」

「そして、私は切嗣のサーヴァントだったのです」

「――――――――」

驚かなかった、といえば嘘になる。けれど、あまり衝撃はなかった。

多分、理由はそれがあまり重要な事だと思わないからだろう。

だけどどうして思わないのだろうか。う〜む、と考えて思い出すのはやっぱり綾のこと。

教会で一緒に聞いたのだから、どう思ったのかを聞いたのだ。

そうしたらなんでも『どんな大仰な言葉も、どんなご大層なご演説にもこんな素敵な言葉を送ってあげる』とか言って、どんな言葉が飛び出すのかと思いきや。

俺は予想しながら待っていたんだっけ。そしたら『で?』とか言いやがって。俺は開いた口を塞ぐ事もせずに横顔をぼや〜っと見ていた。

綾的には『切嗣は切嗣。士郎は士郎。大切なのは、自分がどう思うかだけ』とかある意味開き直りみたいな、唯我独尊っぽくもある。本当に自分が一番大切を地で行っている。

「お、驚かないのですか?」

どんな風に俺が思っているかなどわからないセイバーは予想外の反応に戸惑っている。

いや、驚いてはいるんだけど、どうにも驚ききれないというか、まあ、そういうこともあるのかなって。

だって、魔術師なんて者がいるのなら、サーヴァントなんて者がいるのなら、この世のどんなモノだって確率的にはゼロではありえないはずだし。

「あ〜、言葉に詰まるって言うか、確かにあんまり驚いてないかな。それに、セイバーが切嗣のことを知ってるんじゃないかって思えたこともあったし」

セイバーにはここに初めて来たとは思えない言動がいくらかあった。うちの屋敷の事もなぜか知っている風な所もあったし。なによりセイバーは言峰の事を知っていた。あの神父、と言う台詞は知っていなければ使えない。

「そ、そうだったのですか…。ではなぜ、私に聞かなかったのですか?」

「え、聞かなかったって、セイバーはいまこうして話してくれてるじゃないか。セイバーは切嗣のこと知ってるかもとは思ったけど、それが本当ならセイバーのほうから話してくれると思ったし」

「……………………」

口を開けてぽかんとした表情になる。なんかセイバーどんどん表情を見せてくれるようになった。素直にそれは嬉しい事だ。

「む、でもそうなるとやっぱり俺と切嗣が同じサーヴァントのセイバーを呼び出したのはなんか繋がりがあるのかな」

「…分からない。切嗣は私を呼び出すのにあるモノを使ったようですが、士郎には譲られていないようですし…」

じゃあやっぱり偶然なのか。

俺と切嗣が同じ聖杯戦争に同じサーヴァントであるセイバーと契約した事になにか因果を感じるのだが。

まあでも、大切なのは、それを追求して謎を解くことではないと思う。

だいたい、謎を解明したところでそれがいったい何になる。セイバーとの因果関係を証明したら利になることでもあるのか?

そんな事は全てどうでもいいことのはず。大切なのは、セイバーと出会えたってことじゃないのか。

「あ〜、それはどうでもいいことだったな。すまん、忘れてくれ」

「…なにか、リョウのような事を言いますね。あの子ほど割り切ってはいないようですが」

げ。それって俺がアイツに似てるってことか?なんか、ちょっと嫌だな。

「よく分かってるなぁセイバー。あいつは自分にとってなにが大切かそうでないかをはっきりさせるやつだから。興味のないことはばっさり割り切っていく」

それよりも―――。

「なんでセイバーは綾のことをあの子って言うんだ?」

「え、それは、幼いからではないでしょうか。外見的には大人びているのですが、どうにも行動の方は子供じみたことが多いと思う反面、冷静に物事に対処しているような気もする。その、上手くは言えないのですが、子供と大人が極端に同居している」

「それは…」

きっと、本当に子供だからだろう。比喩表現でもなんでもなく、冗談でもなく子供であるからだ。だから、興味のないことには目もくれないし、あっさりと割り切っていく。だけどその逆であるのなら無邪気に近寄っていく。危うい感情だと思う。

「ですから、どうにも調子が崩されます。ああして、素直なのだか天邪鬼なのだか解らない感情を表現されると反応に…」

プチポチとどうにも表現しがたい綾への対応を零すセイバーだった。そういうところは見ていて素直に微笑ましい。もっとこういう風に普通にしていてくれると俺も嬉しい。綾も嬉しい。万々歳になるなのだが。

まあ、それは屋敷に帰ってからの課題とするとして今は見回りの最中だから、気の抜けたことをしてはいられない。

「でさ、セイバーなにか感じるか?」

俺がマスターに立ち返ったのを察して凛とした表情になるセイバー。

今は緊張感を持って行動するべきだと思い出したのだろう。普通はセイバーこそが俺に注意するのだろうが思わぬところで綾効果が表れていた。ようするに、お莫迦な雰囲気が俺たちにぐるぐる〜と渦巻いているのだ。セイバーさえ色を強引に変えられてしまっている。

…なんか想像するとちょっと嫌だな。

「いえ、特に気配は感じません。マスターがサーヴァントを実体化させるのはほとんど戦闘時のみですから。私のようなのは例外です」

そういえば、セイバーは霊体になれないって言ってたけど、その場合はいつも気配を放っているのだろうか。

だとしたら、俺の屋敷って深山で一番危険なスポットじゃなかろうか。

「シロウ、既に1時間以上この辺り一帯を徘徊していますが一向に敵が表れる気配がない。どうしますか、まだこの辺りを探しますか?」

そうなんだよな。セイバーの言うとおりでわざわざ人通りのなさそうな裏道や人気のない広場を通っているのにマスターやサーヴァントの気配なんて全然感じられない。だからこそあんな気の抜けた会話が出来ていたわけだが。

「そうだな。もしかしたら新都の方にいるのかもしれない」

けど新都はこの時間帯でも人が何人も出歩いていたりする。家に帰らない少年少女。仕事帰りのサラリーマンやOL。探してみればホームレスの人も居るかもしれない。そんな中で戦いを起こそうとするなんて考えられな―――。

いや、そんなことはなかった。少なくともライダーのマスターは学校の生徒を襲わせている。無関係な人間を、それこそ無差別に襲わせるような危険なマスターが一人はいる。

今この時もそんなヤツがどこかの誰かの隣を何食わぬ顔をして歩き回っているかもしれないと思うと、胸に焦燥が沸いてくる。どんな些細な事がきっかけで、急に気まぐれを起こしてみたり、理由もなく人を襲ってみたいなんて思ったりしたら。それが、焦りの原因。

血を吸われて倒れていた生徒が誰かの姿に重なる。それは、10年前の炎の中に取り残された人間かそれとも―――。

「……ウ。シロウ。それで、どうするのです?こちら側から向こう側へと移動しますか?」

「…ああ。そうだな。そっちの方に、いるのかもしれないな」

そのためにはまず学校と柳同寺とに繋がる交差点まで行かなければ。

夕方に歩いた道を今度は深夜になってからもう一度歩いていくなんてこんな事でもなければなかっただろう。

シンと静まり返った夜の道。冷たい風が道路を走り去っていく。空を見上げても月は望めず、真っ暗な雲が今にも泣き出しそうになっている。

それにしても寒い。やっぱり厚着してきて正解だった。少し嵩張っていても身体が冷えていて動けないんじゃ本末転倒。肝心なのは体温の加減なんだよな。

会話もなく進んでいくと交差点に出た。柳同寺方面はさらに暗く、来るものを拒むかのようだ。

けどあちらの方には用はないので、俺たちが向かうのはそれとは別の道だ。迷う事もなく新都へ向かう方向へ進んでいく。

道を照らす月はなくただただ真っ暗な道路を歩いていると、考えない事まで考え込んでしまう。迷ってはいけないことまで考えて迷ってしまう。

今俺が進もうとしている道は果たして本当に正しいのか。俺が聖杯戦争に関わりを持ったのは本当に正しい事だったのか。

…いや、正しいはずだ。

だってセイバーは聖杯を求めているからこうしてサーヴァントになったわけだし、出来る事なら願いをかなえる手助けをしてやりたい。そう考えるのは悪い事じゃない。当たり前の極自然な感情。

それにもし聖杯が悪を実行する事をなんとも思わないような人間に渡ってしまったらそれこそ大変な事になる。あの焦熱する空を思い出してみろ。あんな光景は二度と作り出してはいけないのだ。それだけはなにがあっても正しい事のはず。

…けれど、聖杯を手に入れる。ひいては聖杯戦争に勝ち残るということはあの子、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。妖精を幻視させる少女と否応なく戦わなければならなくなる。

俺は、嫌だ。そんなのは嫌だ。訳も分からないままに戦って傷つけあうなんて絶対にしたくない。それが、あの子ならなおさら。

これは引け目なのだろうか。あの子が親父の実の子でないとしても兄弟姉妹がいるというのは絶対だから。助けられた俺たちと、見捨てられた兄弟姉妹なのかもしれない子供。

あの子が親父の子供だと言うのなら俺は、いったいどうしたらいいのだろうか。目の前で土下座でもして許しを請うのか?それともやっぱり死をもって親父の罪を償うのか?なにが一番良くて、そして衛宮切嗣の息子である俺はなにをするべきなのか。

…それが、分からない。こんな状態のままあの子に出会ってしまったら俺はどうなる。あの巨躯の鬼神に有無を言わされないままに殺される事になるかもしれない。そうだとしても、俺はまだ死ねない。それだけは、絶対に確かな事。

俺を殺そうとするあの子と、あの子を傷つける事を拒む俺。出会えば殺しあう事を定められた聖杯戦争。結局、俺はどうするべきなのかが分からないまま、判断できていないままにこうしているんだ。

親父がなにを考えて、なにを思い、どうして聖杯を壊したのかも分からないままに、ただ戦っていくことしかできない。

衛宮士郎は衛宮切嗣を目指して魔術師になったというのに、なに一つとして親父のようにはなれていない。魔術師としての技量も、信念を貫かんとする覚悟も、あるがままを受け入れる強さも。俺には、いったいなにが―――。

「―――ウ。シロウッ!」

声に気がつけばセイバーが俺をじっと睨んでいた。

「―――あ、すまん。どうしたんだセイバー?」

「どうしたんだ、ではありません。先程からずっと呼びかけていたというのに心ここにあらずといった風情で歩きどうしだった。今は周りに脅威となるものはありませんが、他の魔術師やサーヴァントも必ず行動しているのは確実です。ですから、周囲には常に気を配っていてもらいたい。私とてむざむざシロウを危険に晒すつもりはありませんが、不意の襲撃には対応が遅れる事も考えられる」

う、お小言を受けてしまった。

考えに集中しすぎて周囲に気を配るのを忘れていたから言い訳はない。

気がつけば俺は冬木大橋。つまり深山町と新都を繋ぐ架け橋まで歩いていたと言う事だ。考えに没頭するのも考え物だってことを実感。こんなに風が強くて小さい子供なら吹っ飛ばされそうなのに気がつかなかったとは。

「どうですか、あなたは魔力の流れを感じられますか?」

「…いや、俺にはまだなにも」

「そうですか。私にもなにも―――。いえ、そういうわけではなさそうです。ここら多少距離はありますが、そう遠くはない場所で二つの大きな魔力がぶつかり合っている」

それは、きっとマスターとサーヴァント同士の戦い。

「マスター、指示を」

「――――――――」

考える時間はほんの一瞬。どうするか迷ったのかも一瞬。どうこう考えようと、後のことは後のこと。この先どんな事が起こったとしても未来を知る術のない俺たちは現実で足掻くしかない。全知全能でもないし万能でもない俺は、目の前の事を片付けて行く事しか出来ないんだから。

「行くぞ。そこでどんなサーヴァントが争っているのか様子を見る。危険なマスターやサーヴァントなら俺たちが叩く」

「―――はい」

簡単に一度だけ頷いて、俺たちは闘争が起きているであろう場所へ向かって走り出した。

月明かりの一つもなく、ぼんやり広がる暗闇。空は黒く黒く覆いかぶさる黒雲。ビョウビョウと叩きつける風のみが耳に聞こえていた。

その場所は、人の営みの中に組み込まれていながら人の訪れる場所ではなかったのだ。

その土地に巣食う怨念妄念の類はたかが十年程度の歳月では癒されることもなく浄化されることもなく、ただただ無念のみが浮遊していたはず。

霊感。それが鋭利に発達して鋭い者はここに訪れただけで全身に取り憑こうとする暗い想念に精神を蝕まれていたかもしれない。

事実、その場所で呆然と目の前で展開される理解できない、いや、正確に表現するのなら理解したくない殺し合いが彼、間桐慎二を縛り付けていた。

サーヴァントなる化け物を手に入れてからこっち、自分に出来ない事はなに一つとしてないと思っていたことが尽く崩れ去っていく。

前日に彼の気に入らない少年をサーヴァントで殺す寸前まで痛めつけてやってから腹をよじる愉快な思いが忘れられずに彼を戦いへと駆り立てて行ったはずなのに。

這い蹲り死から逃れたがために決死の抵抗をする少年の姿は気に入らなかったが、その無様な格好を聞くことによって幾分か溜飲は下がり、こんな事ならもっと早くやるのだったと後悔さえした。

自分に出来ない事などない。自分はもともと『こちら側』に立つべき人間なのだ。他の人間とは違う優れた存在なのだ。それがなぜ正当な権利を剥奪されてあんな立場に甘んじていなければならなかったのか。今までの時間を無駄に過ごしてきたということが彼の中に芽生えるのに時間は掛からなかった。

これほどまでに痛快な思いを経験する事はなく。自分が持つ絶対の権威を振りかざすのは力を持つ者として当然の行為。だから、無駄な時間を過ごしてきた分を取り戻そうとするのは極自然な事。

夜に町を歩き回り、索敵するのが魔術師としての常識と知ってはいたがいざそれを実行してみるとそれは同時に自らを夜の絶対者と錯覚させた。

ただ歩くだけで今まで見えていた世界とは全く様変わりしてしまったかのような感覚。それこそがただの人間を超越した魔術師としての高みだと彼は信じていた。

人間の顔はどれもこれも代わり映えがなく、こんな深夜になにが楽しいのかヘラヘラと赤ら顔に愛想笑いを浮かべて歩いているサラリーマン。深夜に不倫相手を逢おうと携帯片手にのべつまくなし喋り捲るOL。暇を弄び深夜の徘徊こそが彼らの本分になってしまった大学生。

つまらなくて下らない人間たちはみんながみんな自分よりも格下の存在であり、つまりは自分に搾取されても文句は言えないのだと。

くくく、とくぐもった笑い声が自分のものであることがひどく愉快で愉快でたまらない。

端的に云うのなら、彼は今までの自分がいた境遇からの脱却によって、憧れて焦がれて憎悪さえしていた魔術師になったのだと信じていた。信じきっていた。それだけに酔っていた。自分の存在が他よりも優れていると常々思っていたことが証明されたのだ。こんな良いことが起こっているのだからなにか、なにかお祝いをしてもいいはずだ。いや、しなければいけないだろう。

そう、例えば。例えばだ。

自分の気に入らない人間を、一人残らず自分の足元に芯の芯から屈服させていったらどうだろうか?例えば正当な魔術師として育った凛然とした少女。例えば自分のものを掠め取ろうとする少年。例えば自分を価値もないとして見た存在。

自分の足元に泣きながら許しを懇願する遠坂凛の姿を想像することを禁じえなかった。傍らにはぼろくずのように打ち捨てられた衛宮士郎。その側には―――。

乱雑な脳内思考の中で、自分から全ての権利を奪い取った少女が浮かんだが吐き捨てるようにしてその考えを捨てた。

なぜなら既に少女は自分のモノとなってから久しく。今では定期的に抱いてやらなければ精神を保てないほどに汚れきっているのだから。

けれど、それなら何故、あの少女は自分を憐れなモノを見る目で見るのだろうか。そんなのは決まっている。あの日あの時あの場所で『ゴメンナサイ』などと自分こそが憐れまれていた事を知ったからこそ自分は壊れていったのだ。

謝罪をして欲しいなど誰が言った。誰が哀れんで欲しいと言った。

謝罪をする必要などなかったし、少女が哀れむことは無残なほどに彼の矜持を傷つけた。

あいつが、あいつこそが、自分から全てを奪い取って言った元凶。その元凶をこれ以上はないほどに壊してやったらさぞ爽快だろうが今はまだ駄目だ。目障りな爺の目もある。それを排除してからでなければならない。

頭の中で思い描かれる光景はいずれも彼の暗い人格側面が生み出すのに相応しく、捩れて拉げて歪んでいた。

その思考。強者であればなにをしても許されるのが彼の論理であるのなら。それが自らに適応されたとしても、当然のことと気づくこともなく間桐慎二は自らの足で本物の魔術師を知ることとなった。

ガチガチと小刻みに噛み合う歯音は耳障りと感じられない。

ガクガクと痙攣する足と手は自分の思うように動いてくれない。

ザワザワと脊髄を駆け上る悪寒を止める事など全精神力を用いても不可能だ。

それもそのはず、絶対と信じた己のサーヴァントは無謀な突撃を繰り返し、主である自分を護ろうとするも黒い鋼と見間違える巨躯にはかすり傷一つとして与えられていない。

反対に鬼神の振るう斧剣は一つ一つごとに確実に彼のサーヴァントを致死に追いやる威力を秘めいている。

ライダーの神々さえも羨んだとされる長い髪の毛が悲惨に切り刻まれていく。

速度を身上とし、武器とするライダーだが圧倒的な破壊力と防衛力を備えた鉄の城を前にしては意味がない。そんなモノは城壁に槍一つで突撃する歩兵と変わりはしない。

「…く!!!」

また一つ、はらりと髪が切り落とされた。

はぁはぁと荒い息を繰り返すライダーには余裕の影など微塵も見られない。ライダーとて悟っているのだ。このサーヴァントを打倒するには自分だけでは不可能だということを。

彼女の前に仁王立ちする巨躯の異様は戦闘すらしていない。ただ目前で跳ね回る障害物を取り除こうとするだけである。

「………ぁ、な…を…」

なにをしているんだ!!!と間桐慎二は喉が壊れてもいいから叫びたかった。希望を持つのがおこがましいほどに濃厚な死の気配がすぐそこまで迫っていた。だからこそ、叫ぶ事で一時でもいいからこの気配を霧散させたかった。

だが、実際に出たのは掠れて自分でも判別できない呻きでしかなく、死を払拭させるにはあまりにも小さく、そして弱すぎた。

黒の鬼神バーサーカーは未だその狂性を見せてはいない。

仮にもバーサーカーというクラスを名乗るのならばその本性は意志よりも本能よりも優先して破壊を撒き散らす本物の破壊神だからだ。

吼え猛ることもなく、周囲に破壊を齎しているわけでもないサーヴァントの姿はつまりは本気で戦うまでもないことを意味している。

それが分かっていて、それを分かっていたからこそライダーは思考する。

この化け物を打倒するには自らの持つ宝具の中で最大最高の威力を持つ“騎英の手綱”しかありえないことは見ただけで判断できた。いや、魔力不足のこの身で放ったとしても威力は半減しているだろう。それでこの鬼神を倒せるかだろうかと問われれば答えは沈黙するしかない。なによりこのサーヴァントは桁が違いすぎた。己が本来の力を取り戻していたとしても倒せないほどの最高純度の、これ以上ないほどの英霊なのだから。

それでもライダーに残された有効な手段はそれしか残されていない。そうやすやすと撃たせてくれるような相手ではない事は百も承知だ。向こうのマスターにはこちらがライダーのサーヴァントである事を仮初の主の失策により知られている。

マスターの不甲斐無さに苛立ちを隠しえない。黙っていてくれさえしたならどうにか逃れる策も考える事が出来たかもしれないが既に泡沫と消えた。こちらの正体が不明であればこその策だ。相手は魔術師として比べ物にならないほど優れている。その慎重さを利用できたかもしれないその場しのぎの策であったとしてもだ。

ライダーのクラスは技能や宝具で戦い抜く技巧タイプのサーヴァント。奥の手がもう宝具にしか残されていない事は察知されている。

だが、いつその瞬間を作り出せるか。恐らく相手もそれだけは警戒しているはず。どんな宝具か分からないからこそ警戒し、止めを刺せない。だがこうしていてもいずれ終わりの時が訪れるのは必定。ならばいかようにしてその隙を生み出せるのか。

一瞬だけでいいのだ。例え一秒に満たない時間であろうとそれだけあればことは足りるのだから。

そうして判断を決めるとライダーはザッと地面を蹴って再び直線的に突撃する。

手に持った短刀は刃がないからこそあの鋼の巨体を前に持ったのだ。あの身体能力の前では生半な武装など簡単に破壊され破砕する。

単調な突撃を繰り返されるバーサーカーは人間の大人並に太い腕を無造作に振るい、単調な突撃を繰り返すライダーは渾身の力を込めて軌道を変え後退する。

その激突はライダーに多大な精神力と筋力の酷使を要求する。いくらサーヴァントであろうとも人間型である限り動き自体は人間とさほど変わりがない。0コンマ以下の間に全力で前傾の重力を後退の重力に変え、バーサーカーの致死の一撃を避ける。

そうして数十回と反復した後にライダーは勝負に出た。これまで以上の速さを持ってバーサーカーに肉薄し、初めて横軸に移動する。予測していようがいまいがこの速度で唐突に横方向に移動されればバーサーカーの腕を振り払う速度はライダーの反応に間に合わない。

そうして剣を振らせて一つの隙を作った後、ライダーはもう一つの拘束を用意する。

神域とされる石化の魔眼を用いてもアレの前にはそれほど効果がなかった。要求されるのは物理的な拘束だ。そしてそれは、古来より咎人を繋ぐために使われた刑具とされる鎖に他ならない。

片側を投げつけると鎖同士が咬みあうように音を立てる。鎖はライダーの意思を反映してまるで蛇のようにバーサーカーの身体を駆けずり這い回り、そうしてその巨体を拘束した。

もちろん、この程度の束縛などこの化け物の膂力を持ってすれば引き千切る事など造作もない。

だがそれでも、拘束を破壊するために用いた時間は戦いに置いて必滅とされる空白の時間であり、無防備なバーサーカーの背中が晒される。

この瞬間、ライダーは大きく跳躍し、格好の的に向かって己が切り札である宝具を放つ。

「騎英の―――」

一瞬の内に顕現される天馬幻想の影はライダーに重なり彼女の力となりそして―――

「―――手綱!!!」

―――底なしの暗闇に包まれる広場を白熱する光が焼きあげていく―――

カッと目を焼くほどの白光が道をひた走る俺たちの前で爆発した。

まるでそこだけ超極小の太陽が炸裂したような、耳を劈き眸を焼き焦がすソレは人々が寝静まった夜だって強制的に昼に塗り替えていく。

目指す場所はあの十年前の災害の中心地にして俺たちが切嗣に助けられ、切嗣が俺たちを助ける事になった深海みたいなべったりとした空間。

なにか用がなければあまりよりつきたくない場所だ。つい数時間前にも足を運んだというのに一日の内にもう一度行く事になるなんて考えてもいなかった。

あの場所は市が慰霊地として祈祷を行い。被災者たちの霊を鎮めるためになんかの儀式を年に一度は行っているらしいが本当にそれに効果があるのか疑わしいほどに空気が淀んでいるような気がするのだ。

足を踏み入れればぬかるんだ泥に捕まって足が進みにくくなるし、夜になれば本物の幽霊が出てくるんじゃない勝手ぐらいに暗い雰囲気が今なお漂っている。

「セイバー! あの光と爆発音は!?」

「…どのクラスかは分かりませんがおそらく宝具。ここまで魔力の余波が来るとはよほどの宝具ですね」

「宝具って、ランサーのは、あんな爆発は起きなかったぞ!」

「ランサーの宝具は対人ですから。あくまで人に対するための宝具。ですがあの光は対軍に値する。相手はかなりのサーヴァントのようですが」

「それは、分かったけどっ。あの周り、に、人とか、いなかった、んだろうな!」

「それは私にも分かりません。いずれにせよあれほどの規模の爆発では人間たちにも観測されているでしょう。サーヴァント同士の戦いとはつまるところ宝具の衝突ですから、既に決着はついたと予測してもいい」

「…………っ……っ!!!」

決着が着いていようがいまいが、そこに巻き込まれたかもしれない人がいるかもしれないのなら、俺はこのまま走り続けるだけだ!!!

そう、走り続けるだけ!!!なのだが、ね!!! うぎ〜〜〜〜〜〜!!!

セイバー…!!!…速すぎ!!!

橋からこっちまで多少の距離しかないって言ってもその行程は百メートル走のように走る事なんて不可能。肺が酸素を欲し、脳にまで回す酸素は余裕がなくなっていき。セイバーの言葉の意味が読み取れなくなってきた。

体力には自信があるがそれが適用されるのは素人が普通にマラソンをするぐらいの速度での話しだ。こんなオリンピック選手並みの馬鹿みたいな速さで走り続けるなんて体育祭でもしたことがないぞ!!!

身体はとっくのとうに足を動かす事だけに限定されている。思考は朦朧としていて周りの景色さえぼやけて見えてきた。目を移すこともなく、通り過ぎていく景色は灰色に統一され、まるで水墨画になったみたい。

ようやくとか、やっととか、ついに、などの時間の概念がすっぽりと抜け落ちたまま俺はあの爆発の中心地、ようするに、あの公園に来ているわけなのだが…。

「どうやら戦闘は終わり、魔術師達も姿を消したようですね」

とのセイバーの言葉どおりに魔術師やサーヴァントの姿は影も形もなかった。

影も形もなかったとはつまり、この惨状を前にしてはいなくなっても当然、いる方がおかしいのだという感想だった。

目の前に広がる光景はそれこそ十年前を再現したように辺り中が跡形もなく吹き飛んでいた。

ただ、変わっていないものもある。いや、変わったといえば変わったのだろうが…。この雰囲気。身体中に圧し掛かってくる奇妙な圧力は…昼にここに来たときの比ではない。空気は重く沈殿して酷く息苦しい。

まるで、まるで…なんだろう。長年換気もしなかった土蔵を開けたときと同じ、寒々しいが生々しく寄り付きたくない空気と呼ばれるものが、いっせいに逃げ場を求めて飛び出したような感じだ。

崩れて、陥没した地面と飛び散った土や石の欠片。粉々に砕かれて立っているのがこっけいに見える枯れた木々。整地されていたはずの小道はがたがたに変形し、辺りを照らし出す外灯はへし折られ、疲れを取るために利用される木製のベンチは木っ端と化している。

中でもこれはと思うのは公園の中央部。平坦で何もなかったそこは見事なまでに大穴が開いている。地面を貫きあれは水道管かなにかだろうか水が溢れてきている。地面に走っていた電線だろうそれは水に濡れてショートしている。これではこの公園を中心とする一帯の送電は明日になっても回復する見込みはないだろう。ポツポツと灯っているはずの電気の光は欠片も探しえない。

まるで重爆撃機がそこら中に爆弾を落として言った後に掃除するために機銃掃射でもして言ったかのような有様はそのままサーヴァント同士の戦いに直結している。

直前に行われていた戦闘が誰によるものかは分からなくてもこの光景を見るだけでとんでもないと言うのもおこがましい壮絶な殺し合いがあったことは否が応でも理解に叩き込まれてくる。

不幸中の幸いにして付近に負傷した人はいないようで、少しだけ良かったと思うことが出来た。どんなに悪い状況になっても不幸を探して比較して喜ぶような真似はごめんだ。良かった事を探した方がいいに決まっている。

さすがにこれほどの規模の爆発となると隠しきれるものではなく、外回りからは警察か消防か救急のサイレンがどんどんと鳴り響いてくる。交通の信号も電気が伝わっていないのでやはり混乱しているのかここに来るのが遅く思える。

「シロウ、これ以上ここにいてはこの気配に押しつぶされてしまう。早くここを離れましょう」

「…ああ」

確かに、ここにて警察かなにかに見つかってしまえば事情聴取をされるに決まっている。それ以上に、俺は早くここを離れたい。なにか得体の知れないものにそこらじゅうから見張られているような気がして気を抜けば足が崩れてしまいそうだからだ。

こんな深夜に高校生がなにをしていたのかなどと聞かれても深夜徘徊としか答えられない。俺はいいにしてもセイバーはそうはいかない。

色々と厄介なことになる前に早々と来て早々に俺たちは公園を去ることになった。

「…これは。シロウ、待ってください」

驚いて踏み出そうとしていた足を止めた。

セイバーは焼き焦げた紙片のようなものを拾い上げていた。それが一体なんなのだろうか。新聞の焼け残りでもないみたいだし、なにかの雑誌にしては特徴がない。大きさで言うなら文庫が適当だが、それにしては欠かれている文字が見覚えのない奇妙な物だ。

「これがどうしたんだ? 見たところ別になんでもない本みたいだけど…?」

「極微弱、注意しなければ感じ取れないほどの魔力の残滓があります。なんらかの術の媒体ではないかと思うのですが。詳細までは分かりません」

「謝んなくたっていい。そういう領分は本当は俺がすることなんだから」

けど、やっぱりマスターたちの戦いによって使われ物なんだろう。おそらく、敗北してしまった方のマスターの。

…魔術師同士の戦いは殺し殺されるものだって事は分かってる。相手を殺そうとする以上自分だって殺されかもしれないのは覚悟の上のはず。その考えならあとに残るものなんてなんにもなくて綺麗さっぱり整然としている筈だから、この景色も生み出されて当然のこと。

だけど、どこか、俺には納得しきれていない部分があるのを感じずに入られなかった。本当に俺たちはなにがなんでも殺しあうしかないのだろうか。聖杯を求めることがこの争いの原因ならばやっぱり聖杯を壊した切嗣のしたことは正しい事なのか。

「…あ」

ふと、想像してしまった。

イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという銀の少女を。

もしかしたら彼女がこの光景を作り出したのか。彼女のサーヴァントである狂戦士が負けるとは思えないが、俺の考える貧困な頭では補えないほどに強力なサーヴァントがいたとしたなら、イリヤスフィールはどうなった?

一端考え始めると、後はもう悪い方向へ傾いていくばかりだった。

「シロウ。早くここを離れましょう。そろそろ人目が集まってくる頃です」

「あ、ああ」

二人して人目から逃れるようにして公園から立ち去ろうとしたその途中。

異変に気づいたのはやはりセイバーが先立った。

「む…?」

「どうしたセイバー?」

「いえ、なにかを感じたような気がしたのですが…?」

そういうセイバー自身も自分の言っていることが分かっていないような口ぶりだった。

直後、足元がなんだか覚束なくなっていき、耳の平衡感覚が走りっぱなしで変になったのかと間抜けなことを思ったその瞬間。

ガァーン!!!というまるで地中に埋まっていた地雷を大量に炸裂させたみたいな凄まじい轟音。周囲のものがいっせいに生物に生まれ変わったように動き始めて誕生の産声を上げたのかと錯覚させるこの現象。脳は攪拌され目の前のセイバーの声も姿も二重に残像して見える。

「こ、これは!!!」

「ゆ、ゆれ、揺れてる!!!」

こ、こんな地震は冬木市にずっといる俺でも体験した事がない。震度に換算すれば5か6はいってるんじゃないのかってぐらいの揺れに感じた。

電信柱がグニャグニャと蒟蒻みたいに伸びたり縮んだり、電線が鞭のようにしなったり音を立てて切ったり。マンホールが地中から竹の子みたいに生えてきたり、アスファルトの地面にひび割れが走ってサバンナの旱魃の光景みたくなったり。

とてもじゃないけど立ったままじゃいられなくて地面に手をついた。それさえもいきなり地面が割れたりしないかと不安を煽る行為だとしてもつけずにはいられない。それぐらいにひどい揺れなのだ。

人気の薄い新都近郊だってあくまで薄いだけだから当然人はいる。その人たちがこの地震に気づかないはずがない。あちこちから悲鳴じみた声が聞こえてきた。それはまるで、10年前の大火のように。

そのまましばらく地面に手をついて揺れが治まるのをやり過ごした。あんな地震は体験した事がなかったからか心臓がばくばくと早鐘を打っていて地に足がついていない感じがする。

まだ揺れが続いているような感覚が頭に残っているが時間が過ぎれば元に戻るだろう。ほんの10秒程度の出来事だったのになんだかすごく長い時間が立っている気さえしてきた。

「シロウ、怪我はありませんか?」

「大丈夫だ。それよりもセイバーこそ大丈夫だったか?」

「はい、私のほうもなにも」

セイバーは流石に動じていないように見える。こっちはまだ地震の後の奇妙な興奮と昂揚が抜けていないのに泰然自若としている。

この後にするべき事を考えてまず取り出したのは携帯電話だった。俺がまず第一に安否を気遣わなくてはならないのは綾だからだ。それは俺がするべき第一の優先事項。俺がしなければならないことだから。

決して多くない着信履歴からいつもの番号を呼び出してボタンを押す。耳に当ててしばらく待っても繋がる様子はない。少ししてから回線が通じたと思ったら向き質なアナウンスの声が流れてきた。内容は回線が混線しているからしばらくしてから掛けなおせだとさ。

俺は乱暴に携帯を切ってからポケットに入れなおした。こんな時だからこそ活用されるべき携帯電話が使えないなんてお話にもならない。電話会社に文句を並べ立てつつも俺は深山町の方向に向かって走り始めた。

「シロウ、どこへ?」

着いてくるセイバーがそう問うた。

「藤ねえの家だ!!!」

そこがアイツが今いる場所だった。

衛宮邸からほんの少し離れた坂の下に藤村邸、別名藤村組総本山にして本拠地が存在している。

事務所はこことは違う場所にあるのだが、うちの屋敷と比べてもさらにでかい屋敷は深山町でおそらくもっとも恐ろしくかつ中の人間にとってはここほど安全な場所はないだろう。

まずセキュリティがすごいし、なんと右手の静脈をセンサーに走査させて識別が合わないと組の構成員、つまりは強面の屈強な体躯をした外人さんたちが出てきてウェルカムトゥヘヴンなのである。ちなみに彼らはSASだとかGBだとかの正式訓練を受けて合格してしまったりしている人たちだ。そんな人たちの影響を受けて藤ねえはインターナショナルな才女になるんだと英語を勉強したんだから変わってるとしか言いようがない。剣道をしてたのもトラディショナルな人間じゃないと国際的に通用しないとかなんだとか。

組長は今もってあの藤村雷画であるが、国際的なマフィアならぬヤクザを組織しようと志し、義理人情に厚い侠気の大和魂をゲーコクのチン○ス野郎どもに見せびらかしてやろうじゃないかとその構成員は一地方に治まるにはちょっと無理があるなと最近では思い始めた。アメリケ、ブラジリアン、スカンジナビア、アラブ、ザイール、コンゴ…etc、etc…。

中に入っても赤外線スコープから狙われていたりして正直、機械が暴走したらこっちが危ない。今は停電だからそれはないだろうと思うのは浅はかでちゃんと自家発電完備で何年も場かばか溜め込んだ電力を一気に開放しているだろうからちゃんと100%稼動中でもし今、他の組から乗り込まれでもしたら蜂の巣は免れない。明日の新聞に読○新聞だの○日新聞だのの全国紙で一面トップを飾る事は間違いない。

街の一角を確実に占める広大な土地を丸ごと買い取った雷画じいさんはその広さに似合わぬこんじまりとした純和風建築の屋敷を作り上げ、森と見間違うほどのでかい庭を防銃林と称して色んなトラップを仕掛けているらしい。多分致死性のデストラップである。

そんな所で育てられたから藤ねえがあれほど真っ直ぐなんだか枝分かれしてるんだか分からない性格になってしまったのかもしれない。

閑話休題。

俺たちの屋敷がある付近一帯は昔ながらの武家屋敷でもちろん藤村邸もその例に漏れずに武家屋敷だがその規模は段違いだ。白漆喰の塀がずっと先まで続いていて内側からしか開けられないが所々に火縄銃でも撃つためなのか奇妙な穴を開ける仕掛けがある。本当に何のためなんだろうか…?

その、長城を思わせる外敵の侵入を防ぐための長い塀の切れ目に藤村組組長の縄張りであり、住処である巨大な門が見えてくる。

セイバーは疑問に思っているような顔だが説明するのはこの上なく面倒だし不毛だからだ。

この門の前に来るとゴクリと思わず唾を飲み込まずにはいられない圧迫と重量がのしかかってくる。10年間これは変わらない。いや、子供の頃は怖いものなんてなかったからあの頃よりも現実にここが本当に怖い場所なんだって自覚してからはさらに重たくなっている。

だが、ここに綾は寝泊りしているのだ。ここだったらどんなマスターだって来ないだろうという綾の発案によって。

聖杯戦争、ひいては魔術師同士の戦いは表側に流出してはまずいのが魔術師社会の通年だ。だから目撃されたりすると記憶を消したり、目撃者を殺さなければならない。綾はばっちり目撃してしまったし、完全に巻き込まれてしまっているからいつまたランサーが命を狙いにこないのか分かったものじゃない。

だから、この厳重な見回り体勢にある藤村邸の方が俺たちが出払っている時は安全だと、綾は言った。全く持ってその通りなのだが、納得しきれないものを感じないでもない。

そもそも、藤ねえたちを巻き込むなんて考えてもいないし、綾だってそんなことは分かっているはずなのになんでここに来たのかがよく分からない。たしかに俺たちがいない間に襲われでもしたらかなりどころか、確実にまずいのだが。

夜に出かけるのをやめるとなると、もしかしたら他の魔術師に無関係な人が襲われるかもしれないし、綾にその事を言えば絶対に夜の見回りを優先させるだろうし、あっちを立てればこっちが立たずのにっちもさっちも行かない状態とはこのことだ。

とかなんとか考えている内に藤村組と猛々しく荒々しく墨で書かれたでかい看板が掛けられている門まで来た。こんな時間だがさすが藤村邸。ちゃんと門の番が寝ずの番をしている。こんな時だからこそ警戒は厳重だ。

インターホンを鳴らすと誰かが出てきた。

「どちらさまですかい?」

声帯も腹筋も鍛え抜かれているのだろうその声には張りが合ってドスもあった。そして俺は声の持ち主を知っている。この藤村組の古株にして番頭みたいな人で重さんという。本名は、誰も知らない。

「あ、士郎です。夜分遅くにすみません。うちの綾が今日はそちらに泊まるとの事でしたが、突然の地震とかありましたから心配になりまして。どうしているかと窺いました」

「アヤのお嬢ですかい?」

重さんは一緒にいる多分、若衆の人に「おい、誰か小お嬢の様子を見てこいや。ただし、寝顔を見ること禁止じゃ。音たてるのも禁止じゃ。起こすのなんぞエンコもんじゃ。ぶちくらわすぞ」とか言っていた。インターフォン越しだがはきっりと明瞭。「アヤのお嬢ならさっき屋敷の様子が気になるとかで帰りましたぜ」と若衆。「あ〜?誰ぞついていったんじゃろうな?」「いえ、着いて来なくていいと断られました」「クソ莫迦野郎がっ!!!」ガヅン、となにかが殴られたような音。ついで、ガシャンとなにかが壊れる音。「かち割られたいんか!ああっ!お嬢になにかあったらてめぇの汚ぇ指程度で責任取れるかってんだタコがぁ!もちっと頭使えやこら!!!ああ?内蔵輸出もんじゃぞ!!!」「す、すいませんでした!!!」「てめぇの始末は後にするとして…」で、重さんはこっちに向き直ったみたいだ。

「すいやせん。うちの若いもんは昔っからお嬢には言いなりでさぁ。お一人でお帰りなすったようです」

「そ、そうですか…」

相変わらず、綾は人気者なんだな。

「着いて来なくていいと言われても影から見守るってのが藤村組の遣り方。こいつには教育をし直さなきゃなりませんぜ」

「そ、そうですか…」

なんというか、藤村組の遣り方って影からというよりも、世界を救う救世主ネオでもないのに分裂を繰り返すエージェントスミスにわらわらと囲まれているような感じなのだが。

「お嬢は少し前に出て行ったみたいですからすぐに追いかけてくだせえ。よろしかったらこの重もついていきやすぜ」

「あ、いえ。それは、遠慮しておきます。…その、重さん?」

「なんですかい?」

「ほ、ほどほどにね」

若衆の安全を祈る事しか俺には出来ない。

ガチャンとインターフォンが切れるとなんだか嫌な汗が背中にびっしりと浮いていた。切り際に「ヤッパで」とかなんとか聞こえたが非常にあとが気になる。ちなみにヤッパとは刃物の事である。重さんは日本刀を持ち出すこともあるが、持っているのは大抵が長ドスだ。組員さんたちは気のいい人ばっかりなんだけど、とんがって生きるなら半端はなしって人が多いから、話をするだけでもちょっと緊張する。

「シ、シロウ? 話は終わったのですか?」

セイバーもちょっと戸惑い気味だ。恐らくこういう日本独特のヤクザ感覚は理解できないのだ。俺も理解は出来ないと思うけど…。ちょっと毒されているのは否定できないかな。キャラが濃いからな、あそこ。

「綾は家に帰ってるってさ。地震でどうなったか分からないから」

「え、それは、危険ではないですか? その、あの子は少し危なっかしい所もありますし…。なにより、一人になるなど危険を招き寄せることでしかない」

「う…」

やることにはたいていそつはないんだけど、あいつの場合はどこに大穴があいているか分からないからな。

セイバーの言う通りなので俺たちは足早に藤村邸を辞した。ちなみに、藤ねえは一度は綾に起こされたらしいが最近寝不足だったので起動はしても回路が働かなくてじぃっと突っ立ったままだったとさ。

たかたかと無言のままにややはや歩きの俺たち。正直、最近は走りっぱなしでもはやフルマラソンの距離を超えたんじゃないかと思う今日この頃。

「それにしても先ほどの地震は一体なんだったのでしょうね」

「そうだな。俺はずっとここにいるけどあんな地震なんて知らなかった。観測されないぐらいの地震ならなんどかあったけど、あれ程の大きさはなかったな」

冬木市にずっと住んでる俺が言うんだから間違いない。

冬木の売りはお年寄りだって安全に暮らしていける快適老後年金生活を標榜しているんだから、市のホームページにだって書かれていた。

なのに、お年寄りの健康にはなはだ悪い地震なんて災害が起こったんだから今頃冬木市長は大慌てで対策チームを組んでいるに違いない。少子化が進む昨今、お年寄りの増加は上昇するしかないので冬木市の人口比も老人が多くなっているはずだし。まさに冬木市の売り文句が買い叩かれたのだ。

快適な老後生活とやらはもろくも崩れ去ったがこれからは何になるんだろうとかいらん事を考えていた。

「では、以前にあのような規模の地震は観測されたことがなかったのですか?」

「ああ。ここ数年ではそうだな」

「…そうですか」

なんだろう?セイバーはなにか気になっているようだけど。

「なにか気になる事があるのか?」

「いえ、特に気になるというわけではありません。ただのこじつけです。聖杯戦争が始まってから突如発生した地震。なんらかの関連性でもあるのかと考えていたのです」

へぇ、そんな事を考えていたのか。俺は全然そんな事考えていなかった。

「ですが、そのようなことがあるはずもありません。大地を鳴動させるほどの魔術となると大規模魔方陣を敷いた上で複数の、それもアデプトクラスが幾日も掛けて詠唱を加えていかなければならないでしょうから。そもそも、そんなことをしても得られるメリットが全くないのでは実行する意味がありません」

まあ、確かにそうだな。地震を起こした所で停電とかにはなったけど、あたりを見回してみたらそうひどいものではなかったらしい。道路に罅も入ってなければ電信柱だって歪んでないし。多分、あの公園はサーヴァント同士の戦いで地盤が脆くなっていたのだろう。見るからにボコボコだったし。

それにしても、なんだか聖杯戦争が始まってから俺の周囲がいつにもまして慌しくなってきた。桜は風邪を引いてしまうし、遠坂が実は魔術師だったり、親父の過去が明らかになったり。その、イリヤスフィールとかいう子のことも。

どれもこれもが気になりすぎてて、どれから対処していけばいいか、迷う。…こんな時、親父ならどうしたんだろうか。自分のするべき事をちゃんと決めて、確実にそれをやり遂げただろうか。けれど、親父がするだろう事と俺のするべき事は本当に同じなんだろうか。俺が衛宮切嗣のように正義の味方になると決めたのなら、俺は…。

悶々と答えの出ない問題を考えていたら屋敷の前まで着いた。門はちゃんと閂で閉められていて開かない。戸口から中に入っても電気がついている様子はない。まだ送電が復旧していないのだろう。にしても懐中電灯の明かりぐらい点いていてもいいと思うのだが。

玄関まで辿り着く、鍵は、掛かっていなかった。重さんの言った通りに帰ってきているのだろう。ガラリと開けると靴とかは整理されていたが下駄箱とか飾ってあった花瓶とかはそのままにグッチャングッチャンになっている。比較的モノが少ない玄関でこうなら居間とかはどうなっているだろうかと思うと気がめいる。ちょっと前に整理したばかりなのに。

靴を脱いで土間に上がる。セイバーも靴を脱いで土間に上がる。

「おい綾ー?いないのかー?」

そんなわけないと思うんだけど。ちゃんとあいつの下駄もあったし。

あいつが一番いそうな居間に行ったら、さっきまで後片付けの途中だったと思わせる箒とちり取りに割れた皿なんかの欠片があった。あいつめ、眠いだろうに掃除なんかしてる場合かってんだ。もっと自分を労われっての。

「シロウ…。これを…」

「どうしたセイバー?」

セイバーが指差していた先には、真っ赤な真っ赤な、花咲くように、筆を散らばしたように赤よりも紅い血の跡が…。

くらり―――と頭の中の血が逆さまに下っていったかと思ったら俺は床を蹴ってあの、黒くて暗い部屋に走って行った。

あの馬鹿はまた無理をして!!!

廊下に散らかっているゴミやら何やらを蹴散らしてこの屋敷で一番奥にある部屋に駆け込んで、その前で止まる。一度だけ深呼吸をして手を掛け、ふすまを開けようとする。その前に、あの恐怖すら覚える光景が耳に入ってくる。

それはひどく、心魂が薄ら寒くなってくる冷たい息遣いだった。

死神に魅入られた人間だけが発することの出来る凍土よりもなお冷たく激しい、生と死の狭間でしか感じ取れない峻厳な戦いだ。

意を決してふすまを開けるとそいつはそこにいた。

長い髪の毛がバラバラと畳に散らばり血を振りまく。夜闇の中で爛爛と輝きを発する瑠璃色の眸がこちらを睨みつける様は虚ろを遥かに通り越した幽玄。鬼気さえ発しているのかと思うほど厳しく荒々しく猛々しい。

ボウと暗闇に浮かび上がるのは青白く透き通った白純の肌。白い長襦袢には点々と染み付いた血。傍らには飲み散らかした水と散乱する粉末状の薬。

俺の姿を捉えたのか眸の光はいつものように、柔らかく退行しようとしても今の状態ではそんな事が出来るはずがない。顔を伏せて自分の表情を、苦しそうな顔を見せまいとするのが精一杯なのだ。

身体を蝕んでいく病巣を食い止めるための薬は既に飲んでいる。あとは効果が表れるまでの時間を耐え凌ぐだけ。その時間とは苦しさと別れるための空白ではなく、戦って決別するのだという悲壮な覚悟さえ目に見えて取れる時間だ。そして目の前で繰り広げられている光景はまさしく命のやり取りに他ならない。

いつも浮かべている笑顔の裏に隠した透徹した狂気にも似た激しさ厳しさも本当のこいつ。

俺は、小さい頃からずっとそれを見ていることしか出来なかった。目の前で苦しんでいる人がいるというのに、俺はそれを助けなければならないのに、何も出来ないこの焦燥と悔しさは。何度も何度も俺を打ちのめし、絶望させる。

だけど、何も出来なくっても、その戦いを、この目で見ていることは出来るから。見ていなくてはならないから。俺は、俺がどれだけ辛くても、本当に辛いのは綾の方なんだから、逃げ出すのだけは絶対にごめんだから、ここでこうして見ている。

口元を押さえる。

「…ん……!」

つう、と手のひらの隙間から零れ落ちてくる鮮血の匂いはこの部屋にもう10年も堆積していて極小の世界そのものを形成している。

咽かえるほどの濃厚な鉄血の香りはここにおいてのみ、現世から切り離されて戦い続ける修羅界に変貌したかのようだ。

だん、と拳を打ちつけ、暴れ出す胸を押さえつける。

「ぐ…っ………!!!」

苦鳴の声は稲妻のように辺りを切り裂いて、俺の精神さえもズタズタにしていく雷刃だ。

「あ……ず…はっ…………うぎっ…が!!!」

病魔の胎動に連動して背中が盛り上がるようにしていき、最後にこんな時でもガラス片が一瞬にして水に変わってしまうような綺麗に聞こえてしまう声を残して闘争は終わった。

俺は備え付けられているポットから水を注ぐと綾に差し出した。震える手でそれを受け取って口の中に含むと中で一通り混ぜ終え、吐き出す。綺麗な薄紅色に染まった水が洗面器の中に吐き出された。俯き、激しく肩で息をする。

「平気か?」

平気なわけなんてないのに聞いてしまうのは繰り返されるこの戦いを閉める言葉だ。そうすると綾はどんなに痛くてもどんなに苦しくても決まってこう言う。

「…最悪」

ふ、と全然大丈夫そうに不敵に笑いながらだ。

「…うえ〜…きんもちわる〜…」

「水飲むか?」

「カルキ入り水道水は嫌だ。それよりも髪の毛、洗いたい…」

ぐったり疲れきっていてすぐにでも寝たいだろうに身体は血と汗だらけで綾にはそれが許せないのだと、いつも言っている。

うちは電気式だがちゃんとこんな時のためにガスも使っている。滅多に本当の我が侭を言わない綾が言った本音だ。だからガス会社とも契約している。

「わかった。少し待ってろ」

俺は綾に乾いたタオルを渡すと風呂場に向かって歩き出した。

いつからいたのかふすまの向こう側ではセイバーが瞬きもせずに呆然として立っていた。綾の狂態が信じられないのだろうが今はセイバーよりも綾を優先させてもらうから。

「セイバー、ちょっと綾のこと頼みたいんだけど」

「…え、あ、はい…」

言葉尻にも覇気が感じられずに不思議に思ったがそのまま風呂場に向かった。

湯を張り終えて家の中を半ば機械的に片付けた後、俺は縁側でぼーっとしていた。そうする他にすることがなかったからだ。

相変わらずの曇り空だがかすかに薄くなった幕間から薄い月明かりが射し込みそうだ。

そのまま空を見上げていると、薄黒い幕からはよく目立つ白いナニかがちらほらと一時に過ぎない儚い姿を現し始める。

「…雪だ」

真白い雪が、空から降り注ぎ始めていた。綾が言っていた通り、雪が降り始めたわけだ。夜気は寒く冷たく肌に突き刺さり、先ほどから燻り続ける体内の焦熱を醒ましていくようだ。

ほんのわずかな月明かりの下。縁側でなにをするでもなくただ空を眺めて座っていると、いつかの過去を思い出す。それは、親父がまだ生きていたあの寒くて寒くて、なにもかもが真っ白に移り変わっていくような情景だった。

年がら年中外国を飛び回っていた親父が、冬木に帰ってきてもどこかへふらっと出かけることの多かったあの親父が、その冬に限ってどこにも行かず、どこにでもいる父親みたいに俺たちと遊んで、俺たちと話をして、俺たちと一緒にいた。

どこにも行かないで一日中家の中でごろごろと昼寝したりテレビを見たり将棋をしたりしていることが多くなっていた。子供心に変だと思っていた。切嗣はそんな俺の思っていたことを正確に感じ取ったのかこんなことを言ってきた。

『本当の父親みたいだろう』―――と。

だから俺は素直に頷いたんだ。『うん』―――と。

俺にとって、切嗣は親父である前に正義の味方であり憧れでありいつかあるべき目標でもあったから。再生の時そのままに。その言葉に、どんな意味があるのかも知らないままに。

『僕はね、人間としてはよく生きたつもりだよ。自分の信じてきたことをしてきたつもりだし、歩いてきた道が間違いじゃないって思ってる。だけど、一人の父親としての衛宮切嗣は果たして父親と呼べたのだろうかってね。たまに思うことがあるんだ』

『じいさんの言ってることはよく分からないけど、正義の味方をずっとしてきたんだろ?なら、俺は親父の息子になって嬉しいと思うぞ』

『ありがとう。でもね士郎。正義の味方が助けられるのは助けると決めた者だけなんだ。どうやってもそこには零れ落ちてしまう人がいる。僕はそれをなんとかしたくて色々してきたけど、結局みんなが平穏に幸せに暮らせる場所なんてどこにもなかったよ』

幼い俺は、そんな切嗣の言うことがどうしても許せなかった。誰もが幸せになれない世界なんて嘘だ。誰もが平穏無事に暮らしていける世界がなければ幸せはどこにあると。小さな頃の俺の世界はこの屋敷ぐらいのものだったから。そう思えた。

『子供の士郎の世界は有限の無限で、大人の僕の世界は無限の有限になった。自分ではどうしても出来ない事があるって分かってしまった。僕はそれが許せなかった。許せなかったからどうにかしようとして、色んな事をしてきた。けどね、その道のりで僕は大きななにかを救って、そして小さななにかを切り捨てた』

そうして切嗣は大きく言葉を区切った。その沈黙の意味があの時は分からなかった。続く言葉の意味も。

『たまに思うことがあるんだ。多くの人たちを助けたいとがんばってきたけど、助けるべき人たちを僕は助けたのだろうかってね』

頭上に冴え冴えと冷たく輝く月を、じっと見上げながら、ポツリと呟くように。そんな切嗣の姿は見たくなかった。

『俺たちはじーさんに助けられたから生きてるんだぜ。そんな弱気なこというなよ』

『あはは。そうだね、僕はあの炎の中で二人を助ける事が出来た。それは、本当に嬉しかったよ』

『そうだ。俺だって綾だって切嗣がいたからここにいるんだ』

『…士郎。綾は僕に助けられる事を望んでいたのかな? 綾はきっとこのさきいっぱい苦しみながら生きていかねばならないんだ。あの子の病気はね、他に類を見ない病気で治療の方法が分かってないんだ。似てる病気ならあるけどそのどれもが違う。だから、あの病気と綾は一生、付き合っていかなければならない。あの苦しみを、あの子は憎んでいないかな。助けた僕を、嫌ってはいないかな』

…綾の病気がどんなもので、どうしたら治るかなんて話はどこに行っても聞かなかった。ただ、病院の医者たちは未発見の病だとかなんだとかで驚きながらも嬉しそうにしていた。俺が覚えている中で切嗣が本気で怒声を発したのはその時だけ。綾を実験台として病気の解明に乗り出すとか勝手なことを言う嫌な人間たち向かって。

自分勝手な理屈で子供を振り回し犠牲にしていく大人。けどそれは、切嗣も同じ事をした。彼らの中に、自分の姿を見て、その、あまりの醜悪さに切嗣は心底嫌悪したんじゃないだろうか。だからこんな話をしたんじゃないのか。

『あいつ普段からなに考えてるかさっぱり分からない。いつも人の輪から外れて黙ってるし、人になにか言われても全然気にしないんだぜ。この前も学校で上級生に苛められててさ。あ、けど安心しろ。俺が助けてやったからさ』

『あ〜。それはなんと言うか。あの子らしいよね。笑えばすごく可愛いんだけどなぁ。たまにしか笑わないからあの子は』

『そうそうそれだよそれ。あいつ学校じゃ笑わないけど家じゃ笑うんだ。だから切嗣が嫌いとか全然そんな事はない。人の前で笑うって事はその人が好きって事じゃないのか?』

子供ゆえの単純明快な理論構図。だけど切嗣はとても楽しそうに笑った。『うん。そうだと、いいな』と―――。自らを振り返り悔いるように。悲しそうに。

『それより親父。あいつが苛められた原因は格好の所為だぞ。学校に行く時も振袖みたいなんじゃ苛められて当然だ。なんとかしろよな』

『あ〜いやでもほら。綾も和服を着てると落ち着くとか言ってたし。やっぱり人は自分の好きな格好をしているべきだと思うよ。あの子になにかあれば士郎が助けてあげるんだろう。それに、とても可愛らしいじゃないか』

基本的に駄目な大人だった。

『そんなの、俺は兄貴なんだから当然だろ』

助ける、と言っても本当は苛めている方が全く相手にされていなくて泣き出しそうだったんだけどな。綾が他人とは違う雰囲気を持っていたのは子供だって簡単に分かる事。いま思い返してみればそれは多分、好きな子いじめみたいなものじゃないかと思うのだが。あいつを苛めてたやつらはまっとうな道に戻れたのだろうか。

『うん。そうだね。士郎はお兄ちゃんなんだから、あの子を助けてあげないとね』

それを、本気の本気で受け取ってしまった俺は、勝手に自分の役目を決めて、勝手にそうするべきなのだと、助けられる本人の言葉を一つも聞かないで。それが自分の押し付けだということも気がつかずに。

そうしてその想いは、親父が俺たちの前からいなくなったときに、絶対真理の正義となってしまったのだ。

「シロウ…」

「…どうしたセイバー…って、聞きたい事なんか一つしかないよな」

考えるまでもなく、綾のこと。

「そう言えば、セイバー妙にぼうっとしてるけど大丈夫か?血の匂いにでも中てられたのか?」

「そう、なのかもしれない。あの血は、そう、とても、綺麗で純粋な色を、しすぎていた」

…平気なのか?いや、こんな危なさそうな言葉をセイバーが言うわけないし。なんか心ここにあらずでらしくない。本当に血の匂いに中てられたのか?

正気を確かめるべく顔の前で両手をふるふると振ってみたが反応はあんまりよくない。まるで寝起きの綾の目みたいに焦点が合ってなくてどこを見ているのかよく分からない。

…ううむ、こうなってはしかたがない。決して他意はないんだぞ。セイバーを正気に戻さなきゃいけないからな。不順な目的なんて全然ないからな。って、誰に言い分けしてるんだ俺は。

「セイバー。しっかりしろって。確かにあの部屋はかなり血の匂いが濃いけど、外の空気に触れたらよくなるだろ?」

ゆりゆりとセイバーの肩を揺すって元に戻ってもらおうとしたのだ。

…それにしても、小さくて細い肩だよな。こんな女の子が剣を振り回して戦うだなんて現実に見なければ想像も出来ない。

こんなに小さいのに女の子に俺は守られている。それは、嫌だった。だけど俺はセイバーに守られているのがどうしようもない現実。このまま俺が足手まといになっていれば必ず取り返しのつかない迷惑をかけることは分かっている。それだけは、絶対にごめんだ。今だって十二分に迷惑をかけているのに。

それを止めるにはどうしたらいいのか。簡単だ。俺が強くなればいい。サーヴァントを倒すなんて望まない。俺に出来る精一杯をやるしかない。でも俺にあって出来ることと言ったら、人並み以上に頑丈な身体と半端な強化の魔術だけだ。ここからどうやって組み立てていけばセイバーの役に立てるだろうか。

あ、今はそのことを考えている時じゃなかった。とりあえずセイバーをはっきりさせないと…。

「あ、し、シロウ?」

「お、戻ってきたか。すっごく危険な人っぽかったからかなり心配したぞ」

「う…。確かに先ほどの台詞は我が事ながら、信じられない言葉でした。以後は気をつけます」

気をつけることでもないと思うのだが。ま、セイバーが元に戻ってくれたので良し。

「それでシロウ。リョウは一体どのような病なのです。表層的な部分に腫瘍があるような箇所は見受けられない。先の苦しみようは内部病巣の侵攻といった感じを受けましたが」

「…分からない。子供の頃に少し聞いたけど、あいつには人間としての遺伝子的欠陥があるらしいんだ。ヒトを構成する四つの塩基配列の組み合わせに奇妙な瑕があるらしくて、それがどんなものでどうしてそうなったのか、現代医学じゃ解析不能なんだってさ。医者がじきじきに言ってきたらしい。だからこそこれからの医学の発展のために臨床被検体として協力してくれだとさ。謝礼金も出すし生活の保障もするから是非にお願いだと。はっ、なんだよそれ。遺伝子欠陥に検体とか。あいつは人形でもモノでもなんでもなく一人の人間なんだ。そんなことは絶対にさせたくなかった。…親父が本気で起こったところを見たのはあの時が最初で最後だった」

病院に忍び込んで記録されているデータやらバックアップやらを根こそぎ破壊した後、医者達の記憶を完膚なきまでになくして知り合いの信用できる人間に綾のことを託した。あのときの親父の表情は激情を奥に仕舞い込んだ魔術師らしからぬ顔だった。

「命が助かったと思ったら今度はいいように調べまわされる。そりゃ、病気が解明されれば人にとっても綾にとってもいいこと尽くしだ。だけどその間の時間はどうなる?病気がいったいどんなものなのか、先天的なものか、後天的なものか、どうして発症したのか、どんな症状が起きるのか、それらに対する有効な対処法は、それを実行に移せる時間、確実になるまでの時間。そしてそれらを見つけるための時間。一年や二年じゃきかない。とてもじゃないけど人間の一生を使っても解明できないと切嗣が言っていた。あいつの命は、犠牲になるためにあるんじゃない。自分のためにあるはずなんだ」

病気が宿ったのが俺だったら良かったのに。これじゃ守ることも出来ない。

「あいつ、唯我独尊のくせに行動の端々はいつも他人のことばっかりだ。変と思わないか。自分が一番大事だと公言してるくせにやってることは誰かのためなんだ」

俺にはもっと自分の事を考えろと言うくせに、本人の事は全部後回しなんて納得できない。

「フフ…」

けしからん事にセイバーが笑った。しかも声に出して。

「セイバー。人が真面目な話をしているのに笑うのは、よくない趣味だぞ」

「いえ、士郎の話を笑ったわけでは決してありません。ただ、よく似た話を少し前に聞いたばかりですから…」

と言って、とても穏やかな表情と、眩しそうな目で俺を見る。よく似た話を聞いたばかりって…いつどこで誰からとかいう疑問が出てくるものだけど。この笑顔の前ではそんな事は瑣末な事だと思われる。

「…あなた方二人は、似ているのですね。シロウがリョウをとても大切にしているのと同様に、リョウもシロウをとても大切にしている。あなたがあの子を心配して、あの子があなたを心配している。お互いがお互いを、当たり前のように真剣に考えようとしようとしている姿が、微笑ましいと思ったのです」

と、心底本気の口調で告げてくるものだから、こっちとしてはセイバーが大切な事を言ったような気がしても耳に入った途端に鼻から出て行く感じが…。う〜ん、頬が熱い。血が昇る。誤魔化すために上を向いたらほんの少しだけ、空の切れ目に月が覗いていた。

「リョウも、あなたを心配していましたよ。シロウはいつも人のことばかりだからもっと自分のことを考えろと…。言葉は違えどもその意は同じ。性別も性格も反対のあなた方がそう思えることは、見ていてとても心地よい」

「は!?ちょっと待てセ「そんな風に思われていたなんて恥ずかしいよね〜」イバー…」

イバー、とは遥か南アメリカは神秘の宝庫アマゾンの秘境中の秘境。バイー族の指導者階級シャーマンが神と交信するために用いる神代の語。その意味はバイー族いいとこ一度はおいで…ではもちろんない。

言葉の中頃、つまりもっとも重要な場所である単語を遠慮無しにぶった切られた俺なのだが。抗議しようにも頭の上にのしかかってくる人体の重みが許してくれなかったりする。人間の首は人間の体重を支えるようには普通出来ていない。両手を用いてぶん投げようと思ったが、病身なので止めてやった。

「シロウも恥ずかしい科白平気で言っちゃう人だけど、セイバーもおんなじだったとはね〜」

一人うんうんと頷いて納得している。が、こちらは納得していない。

恥ずかしい事を平気で言う人という同類項で括られたセイバーは真っ赤になって俯いている。吹雪になってもそこだけ溶けていきそうだ。

「俺のど「知らぬは本人ばかりなり、と」なんだ」

今度は言葉すら発音できずに切断された。間髪いれずにぬぅと目の前に差し出されてきたのは皿だった。上には白くて丸い物体がピラミッド状に乗せられていた。まさかこんな時に団子でも食えと言うのか?

「ほれ食いねぇ。悩める若人よ。セイバーも、ね」

団子かと思いきやそれは…?

「マシュマロ…?」

だった。とりあえず、言われたとおりに食べる。

ふわっとしたマシュマロ本来の食感に続いて、これは…。少し苦味のある適度な甘さが口の中に蕩けてきた。チョコレート…。次いで、なにやら頭の先から鼻にかけてくらんと、咽の焼ける感覚。ぶっちゃけアルコールである。思い返してみれば綾はチョコレートを馬鹿買いしていたっけか。

「中にチョコレートが入ってる。今回は当たり外れを加えてみました。セイバー、どう。美味しい?」

セイバーは無表情で口をもごもごさせているが、注視してみればそれはただ真剣な顔であることに気づく。いままでのセイバーの食に対する行動から、何かしらのこだわりを持っているようだ。…かなり。

「てか、お前はなんでこんな物を作っとるんだ」

「それはバレンタインが近いからだよ。きっと組の皆楽しみにしてるだろうし、ご近所の皆さんにも配らなきゃいけないし。ガトーショコラでも良かったんだけど。それは明日作ろうと思ってたんだけど…」

齢17にもかかわらず、相変わらずご近所づきあいも上手くやっていることを誉めるべきか不憫だとするのか、微妙だ。

「それに、士郎が疲れてるんじゃないかと思って甘いものを作ってみたのです。糖分を摂取して疲労回復」

などと臆面も無く言ってくるのだから…。これだから子供は手に負えない。こっちは素直に礼を言える歳じゃない。特にコイツを相手にすると。だから黙ってしまう。

むぐぅと喉の奥に詰まった言葉が形を成さないままにそこで止まったままでいるのでマシュマロを掴んで呑み込む。…味はなかなか美味かった。

奇妙な沈黙が心にむずがゆい。いつもなら綾がいらんことばっかし喋り捲るからこんなことはあまりない。けれど、それが本来あるべき姿で、あるべき空間だってことを俺は知っている。幼い頃そのままに。

いつのまにか乱れていた心は落ち着いて、クシャクシャになっていた頭の中も綺麗に整理整頓されていた。

「…で、お前はなにを言いたいんだ」

「…あのね、さっきの話なんだけどさ、士郎は僕がやっていることは他人のためとか言ってたけど、それは違うよ。僕がやっていることは僕がしたいことでしかないから。だから、他人のためなんかじゃなくて、自分のためでしかない」

ぱくり、と満月みたいなマシュマロを食べながら。

「ちょっと苦かったかな…。どこにいるかもしれない他人のために動いているのは士郎の方だよ。いつもいつも人から頼まれ事されたり厄介事頼まれてさ。割に合ってない。損、してばっかり。僕は、士郎が誰とも知らない人のためにひーこら汗水たらしてるのは、見たくない。男の子なんだからもっと毅然としようよ」

ひーこら汗水たらすって、お前はどういう表現を使っているんだ。でも、言いたいことは解る。俺だって綾や桜がどこの誰とも知らない他人に厄介事頼まれてたりしてたら見たくないし、変わってやりたいと思う。

「…俺は、さ。解ってるだろうけど、あの火事で助けられてから、誰かのためにならなきゃいけない、誰かのために生きなきゃいけないって…思ってるんだ。だってそうだろう。俺は、あの日あの時あの場所で、助けを求める声を聞かない振りして、そこら中に広がってる死を無理矢理無視して自分が助かるために生き延びようとしたんだ。だから、彼らは俺を恨んでいなければおかしいと思ってる。だから、彼らを見捨ててここに生きているのなら、この身は誰かのためにならなければならないって…」

「志が高いのはいいんだけどねぇ。誰かを助けようと思うのが悪い事であるはずが無いけれど、そこまでして士郎が身を粉にする理由もない。彼らが死んだのは運が悪かったから。僕たちが助かったのは運がよかったから。そのこと自体は理解しているのでしょう?」

当たり前だ。あの時、子供であった俺になにかが出来るはずも無く、誰かを助けようとしたのなら小さな焼死体がもう一つ出来上がるだけで。

「でも感情はそうはいかない。植え付けられた感情は容易く理論の壁を突き破り、時として異常な行動を己に容認する。理解できていても抗えない混沌衝動…ほど厄介になるんだよねぇ」

まったくだと頷き、もう一つ団子だかマシュマロだかの丸い物体を口に放り込む。…今度はかなり甘かった。中に入れているチョコレートに種類があるのだろう。これがあたりはずれなのだろうか…。

「俺はお前が羨ましい、とときどき思う。俺はお前みたいに自分勝手にはやれないからな」

いつも建前を押し出して本音に気づかない振りをして。格好悪い。

「あはは。ま、それが性分ってヤツですよ。それに、士郎が自分に気づいているのならそれでいい。変わろうと変わるまいと士郎は士郎。変革を望むのも停滞を望むのも士郎の好きにしたらいいこと。なにより未来は士郎の物だから」

そうなのだろうか。彼らの声が俺を解放することなど来る事があるのだろうか。考えるだけで暗く陰鬱で凄惨な思いに囚われるこの俺に、そんな救いなんかが訪れてもいいのだろうか。人として歪な形をしているこの俺が、どこにいるかもしれない、不特定多数のためでなく、決まった誰かのために生きるなんて。

昔願った正義の味方。親父のようになるのだと決めたあのころ。だけど俺は親父ではなく、また親父の代わりになることを望まれているわけでもない。それを願ったのは俺自身。綺麗だったから憧れたあの姿。子供ゆえの無知と憧憬。けれどそれは俺から生じたものではなく、ただ闇雲に後を追おうとするだけで。

ただ、ハッキリしているのは、こう考える事が出来るぐらいは先に進んでいるという事なのだろう。

「ほんと、ままならないものだね、人生ってヤツは…」

「お前は一体、何歳なんだ…」

呆れつつ、そんな言葉を出す。それに対しての返答は口の端をゆがめて肩を竦める、アメリケ風のシニカル返事。さてはアメリカのホームコメディでも見たな。

もう早朝と呼んでもいい時間帯だ。明日、ではなく今日は学校があるかどうか、ま、藤ねえが来たら聞けばいいか。

「セイバー、お前はもう寝てもいいぞ」

と、ほったらかしにしていた彼女を見ると、なぜか悶絶していた。口元を押さえて九の字に身体を丸めている。

「全部食べたの?」

綾が目を丸くしてセイバーを見た。それもそのはず、ピラミッド状と評したのはそれが紛れもなくピラミッドだったからだ。積み重ねられた球状の三角錐は芸術にも等しく。だが今はそれが見る影もなく、皿のそこさえ見ている。つまりは全部食ったということ。

「お前、なに入れた?」

「納豆とねりがらしと塩胡椒に唐辛子に脂身ににぼし」

「水…もってきたほうがいいか」

「早くね」

…なんかセイバー。とんでもないギャグキャラになってないだろうか。初めて会ったときには想像もつかない姿だった。それがいい事か悪い事かは…セイバーの判断に任せよう。

とんでもなく季節外れのとんでもない雪見月。金髪少女が悶絶し黒髪苦笑し俺腰上げる。そんなシュールな光景に包まれて…。今日も今日とていつもどおりの大馬鹿騒ぎ。

けれどその馬鹿騒ぎがきっと、今日の活力にもなるのだろう。現れた非日常の中で続けられる日常ほど、得がたいものはないのだろうから。

少女の背中をさすりこっちを見上げる子供の眸が、かすかに瑠璃に偏光する。…楽しげに、惜しむように、大切に。
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