円卓の騎士とは、英雄アーサーを王に頂き、13人の名騎士によって構成される名高い騎士団の事である。

西洋の魔術師の代名詞、マーリンによって提唱された円卓の騎士たちは王、ひいては国の守護者である。

長い間続く事によって戦によって死んだり代替わりする席もあれば最古参の騎士たちもいた。

彼ら円卓の騎士は王を補佐し、国を存続させるための要であったのだ。

代表的な騎士を上げるとするならば、最も知られているのは円卓騎士中、最強の騎士としての名が高い湖の騎士にしてバン王の子“ランスロット”。

誰よりもアーサー王に忠誠を誓い常に国を憂い民を憂いた優れた騎士ロト王の子“ガウェイン”。

アーサーの側近としてその最後を看取り、聖剣を湖に返還した乳兄弟“ベディヴィエール”。

王国の副王にして宰相や文官として国を支えていたアーサーの兄“ケイ”。

王国崩壊の最も大きな原因の一つとなった運命の子にして災厄の子“モードレット”。

王に聖杯探求を任せられた使命を持つ騎士として、その朴訥な性格が好まれた“パーシヴァル”。

ボールス王の子にしてランスロットとは従兄弟同士であった“ボールス”。

その強さはランスロットに匹敵し、悲しい誕生を意味する名を持つ“トリストラム”。

動物と心を通わす事が出来た元々は敵であった獅子の騎士“オワイン”。

勇猛な騎士として戦ったが、乱暴な言動が他の騎士とはいささか趣が異なる“ベイリン”。

有名な騎士は数多くいたが、皆、勇猛に戦い、壮絶に散っていった。

円卓の座でかの騎士に紹介されたとき、彼はまだ騎士として叙任を受けたばかりの最年少の15歳の少年であった。

それは奇しくも自らが剣を取ったのと、同じ年だったのだから。

始めて会ったときはまだ彼が赤子だったというのに、時の流れ止まった彼女にとっては早いとも遅いとも感じられなかった。

ただ“彼も国を護り、民を護り、人を殺す年齢になってしまったのだな”と思うだけだった。

そしてその通り、彼は年齢など問題にしないほどの備わった才気で並み居る敵を打ち負かした。

それこそ、徹底的に、完膚なきまでに。

慈悲、などという言葉すら生ぬるい殲滅戦だった。

彼が采配を振るった戦場の跡は夥しい腐乱死体と、その死肉を求めて飛び回る死を運ぶ黒いカラスの群に埋め尽くされ、立ち入るだけで並みの者なら死霊に魂を食われるほどに。

それこそが、円卓の騎士、始まって以来の“危難の座”に座る事が許されたものにとって必要だったのだから。

“危難の座”とは王国に降りかかる災厄を全て取り除くためにあるとされる恐怖と畏敬の席であり、どんな困難に襲われようとも完璧に打ち勝たなければならない義務を持ち、円卓最強の騎士、ランスロットさえ座する事が出来なかった異端の席である。

そこに、未だ年端も行かない少年が座る事になったというのはどんな気まぐれか、神の采配か。

しかし、一度戦場を離れ、騎士としての仮面を取り払えば少年はまったくの歳相応でしかなかった。

休日にはベディヴィエールと馬で遠乗りに出かけたり、ガウェインに剣の稽古をつけてもらい、トリストラムに竪琴を教えてもらったり、お目付け役であるボールスをからかい、あのモードレッドさえ年が近いという理由で仲良くしていたようだ。

いずれの騎士も皆が少年よりも年が上だというのに、そこには虚栄心も猜疑心もなく。

いつも楽しそうに、つらいことなど何もないのだと証明するように微笑を浮かべていた少年の周りにはいつだって、誰かしら人が側にいた。

それは、彼の周りにいることで、自らが癒されていくのを感じる事が出来たからだ。

尽きる事のない他国からの侵略、疑心暗鬼に明け暮れる政権闘争、最も忌まわしいのは同国の中での争い。

皆、疲れていた。

身も心も震え、怯え、いつ終わるかもしれない数々の闘争に疲れ果てていたのだ。

そんな中で、側に居るだけで癒しを施してくれる人物が近くに居るというのは、どれほどの幸運だっただろう。

国王であるアーサーと、少年の実の父親であるランスロットを除けばの話だ。

完璧な王であるアーサーには騎士として完璧に機能している限りは少年のことなど問題はなかったし、話しかけられることもあったがあくまで王と騎士としてだった。

ランスロットにとっては少年は罪の証でしかなかったのだから、可能な限り顔をあわせるのは避けていた。

事実、ランスロットは彼が成人するまで何一つ父親らしい事などせずに、王妃であるギネヴィアとの不義の逢瀬を重ねるだけだった。

ランスロットには少年はその点でも不誠実の産物であった。

故に少年は実の父親を全く知らずに育ったといっても言い。

彼の実母であるカーボネック城のエレインとその父、ペレス王は狂信的と呼んでも構わないほどのランスロットの支持者で、彼の気持ちなど考える事もなく、父のように完璧な騎士であれと少年に教え込んだ。

もともと聡明であった少年にはそんな虚飾に濡れきった言葉など意味は持たなかった。

そうして偽りと空疎で妄信的な愛情を注がれて歪まなかったのは奇蹟と呼んでも構わないのではないだろうか。

だがそれでも、母と祖父は育ての親であり、なによりも家族であったのだ。

加えて、アリマテアのヨセフの血の流れの集大成である少年に、見捨てるなどと、そんな道義に外れた行為が出来るはずもなかった。

そうして彼はただ周りの人間の望みを叶えるように、願いの理想の形として己のないままに過ごす事となった。

彼女、アーサーがそれを見る事が出来たのは、なんのこともないただの偶然だ。

Fate/Sword&Grail

夢を見た。

誰かの夢を見た。

ひどく現実感に溢れていて、ひどく空疎な夢だった。

手を伸ばしても隙間から零れ落ちるように不確かで曖昧。

覚えている事は、なんて味気ない、なんて無意味な夢だったのだろうか。

たったそれだけだ。

耳元で眠りから覚めるようにと急かす音が聞こえてくる。

しかし、まだ眠いのだ。

目蓋はほんの少ししか開かないし、ベッドのぬくもりの誘惑は自分を捕らえて離さないし、加えて隙間から見えた現在の時刻は未だ九時にしかなってないではないか。

きっと睡眠に落ちる直前にセットしたのだろうそれを、今となっては涙が出るほどの懐かしい技、モンゴリアンチョップで活動不能に陥れると満足したのか再びベッドの中にもぐりこむ。

断って言っておくと、昔、モンゴリアンチョップで有名だったキラー・カーンはモンゴル人でも中国人でもなく新潟県人である。ん、秋田県人だったけ?

多少手が痛むがこの程度、耐えられないわけがない。これぐらいの痛みなんて魔術を習得していく上では当たり前のように感じるぐらいだし。

そう考えて、彼女は再び眠りの世界に飛び出そうとしたところで、思い出した。

今、聖杯戦争の最中だった。

常の自分にはありえない緩みぶりにわれながら驚く。いかに眠りに着くのが遅かったとはいえ、眠気に負けるなどとあってはならない言語道断な事態なのである。

一瞬でも敗退しそうになった自分に活を入れるべくぐわっと布団を跳ね上げると猫柄のパジャマが露わになった。

知っている人なんて居ないけど、実はお気に入りの品なのだ。自分のイメージではないと知りつつも買ったのは単に柄に篭絡されてしまったからだ。

やっぱり猫って言うのは、心の琴線に触れてくるものがあるじゃない、肉球とか。特に子猫であるときなどは。

とりあえず、今日は遅刻する気満々であるので制服に着替えて鏡台の前で髪の毛を梳かす。

黒くて長い髪はまあ、自分でもかなり上質ではないかと思っているのだが、こう長いと毎朝の手入れが大変なのだ。

一見柔らかそうな髪の毛は実は少々硬い所があるのでクセになってしまったら形を整えるのが容易でなくなる。

どうやら今日は寝相が少し悪かったらしく、盛大な寝癖がついている。

どうせ遅刻するのだから、別にどれぐらいだって時間は掛かっても構わないだろう。

ひたすらブラシを掛ける事、数分。

鏡の中の自分は普段の自分を取り戻した。

寝起きの顔を覗けば。

いつだって寝起きは不機嫌で、表情もそれに準じる事になるのだがあまり人に見せたいものではない。

速く顔を洗ってしゃきっとしようと一息つくと部屋から出た。

扉を開けるときに気づいたのだがなにかしら今日はいつもと雰囲気が違う。

普段感じられるこの洋館は無遠慮に、そして無意味にご近所に威圧を振りまいていておせじにも『新婚さんいらっしゃ〜い』な感じとは言えない。

魔術師の拠点であるのでそれはそれで致し方ないし、自分も特に忌避などしていないし、むしろ気に入っている。

それでもなんだか今日は一味違ってどこかしら人情味みたいなのが、少々見え隠れしているような。

「む…」

やはり寝ぼけているのか。彼女は自分で考えて苦笑した。あまりの突飛のなさに。

そりゃまあ一応、優等生である自分が遅刻なんてものをするのだから違う気分にもなるだろうが。これはちょっといきすぎだ。

いまいち動作不良な頭の回転にはやはり文句を付けたくもなるが、これが自分というハードに接続された自分というソフトなので我慢しなければならない。

多分一生ものだと思うけど、割り切って行く事の方が建設的だ。

彼女らしく、雑多ではないけれど、考えられたものの並びがあって、蛇口を捻ると冬に水に相応しい温度の水が流れてきた。

勢い良く流れる水に手をつけると染み入るような感触がしてくる。

掬い上げ、いっそ叩きつける感じで顔を洗う。過度の刺激は毒になるが、適度な刺激は肌にとっても良いのだ。

「む…」

が、やはり寝ぼけているらしくタオルの用意をするのを忘れていた。

たしか、そこら当たりに置いていたと思うのだが。

適当に手をまさぐっていてると突如として、タオルが手のひらの中に収められた。まるで差し出されたように。

深く考えるでもなく彼女はタオルで拭いていく。朝の爽快感はやはりいい。眠気を引きずって学校に行くなど優雅ではない行為だ。そんな姿、他人には見せられない。

そうして一気に目が覚めた。

タオルをかごの中に入れると足取りは軽く、軽快に歩く様子はすでに彼女のものだった。

リビングに続く扉まで近づいた所で彼女はある異変に気づいた。

自分の家ははたして自動で朝食の準備をしてくれる使い魔などいただろうか。

加えてここは中世の城か何かだったか綺麗な歌声まで聞こえてきたりする。

隙間から香ってくる匂いはどうやら卵か何か焼いているらしく、ベーコンの焼ける音が少しだけ漏れてきている。

確かに昨日の夜から何も食べていないため、時間に換算すると約18時間は何も食べていない事になる。何も食べていない。意識しだすと身体は正直なもので食料をよこせと騒ぎ立ててきそうな所を優雅ではないのでみっともないとなんとか自制した。

がちゃり、と音を立てて開け放つ。テーブルの上には簡単な朝食が既に出来上がって食べられるのを待っているようにも見える。

「おはようございます凛さん」

「おはようございます、凛」

「起きたか、凛」

やはり寝ぼけているのかあまり聞きなれない声がしたが、それよりも今は速く朝食を食べたかった。

実物を見た事によって身体の変調が先程よりも激しくなってきたため、自制するのにももはや精神力をすり減らす。

「もう食べても良いのですか?」

「あとは士郎だけだね」

「一人寝こけているヤツなど、捨て置いても良かろう。加えて、昨日負った疲れを癒しているのだ。ここで起こせば中途半端に疲れが残ろう」

そんな会話を尻目に何かがおかしいと思いつつも席に着いた。

せっかく席に着いたというのにお預けとはどういうことか、賛同できない、納得できない、了承できない。

民主主義にのっとって、三つの原則がそろって反対の声を叫んだので考える間も無く、目の前の朝食を口にした。

「…食べちゃった」

「私も食べてよいですか?」

「ここは凛の家だ。彼女が家主だから客分もそれに応じる行動を取っても構わないだろう」

目の前の使い魔たちが何か話しているが、気にしない、聞こえない。

パンに塗られた蜂蜜はカロリーの面で賛成しかねるものがあったが、空腹を満たさねば沽券に関わる事態が起きるかもしれないのでこの際無視する。

なに、過剰分はあとで削ぎ落とせばいいのだから。幸い、すぐさま太るような体質ではないし。

「どうですか?」

「ふむ、まあまあだな。多少は素材の扱いを心得ているようだが、まだ粗いな。が、君の年齢でここまで出来るのはたいしたものだ。誇ってもいいだろう」

「私にはこのベーコンエッグのカリカリ感がなんともいえぬ、旨味をかもし出していると思うのですが」

パンを終えたらベーコンエッグに取り掛かる。

ベーコンエッグと呼ぶからには焼けたベーコンが物を言うもの。確かに言われたとおり、このベーコンエッグのカリカリ感はそんじょそこらでは食べられない焼き加減で、かなり上質。

素材も結構いいのを使っているのだろう。スーパーで200円なんて安物じゃない味が染み出している。

うん、合格。

「セイバー、パンはどうする?」

「もう一枚ほど焼いてください。次は苺ジャムを試してみようと思います」

「セイバーよ、食べられるときに食べておくのも戦士の務めだが、もう一枚などと言い出さぬだろうな?」

こうして動物性たんぱく質を補給し終えたのならつぎはやはり野菜があるべきだ。

サラダボウルに乗せられた色彩豊かな野菜は瑞々しく、まるでさっき採って来たみたいで喜ばしい。

この感じからするときっと無農薬有機栽培のはず。

「し、失礼な。アーチャー、あなたは私が食べすぎで動けなくなるとでも?」

「まさか、ただ食べすぎで動けぬサーヴァントなど、どこを探しても見当たらぬのでな、もしかしたら前例が出来るかと思ってね」

「あまり見くびらないでいただきたい。私がこれぐらいで動けなくなるはずがないでしょう」

「…………………」

「二人とも喧嘩しないの。あ、セイバー、ジャム零れそう」

果物はフルーツポンチになっていて朝から豪華。

それなりの種類があればそれなりの値段はするだろうが、朝っぱらからお金の事など考えたくない。

最近は全国的に不作なので果物に掛かる消費だって馬鹿に出来ない。

小さな経済だって積み重なれば大きな経済になっていくのだし。こうして経済社会は運営されていくのよ。

苺に林檎に蜜柑に…………………………………………………。

一体何種類あるのかしら、これ。

「この紅茶の銘柄はクイーンエリザベスといってイギリス王室御用達のモノだってさ。ちなみにセカンドフラッシュ。女王様の名前を関してるんだから当然かな」

「イ、イギリス、ですか…」

「どうした。やはり戦いに明け暮れる剣士では上質な味わいは口にし慣れていないのか?」

「ムッ…!勝手な憶測はやめにしていただきたい。私とて紅茶ならば飲んだことぐらいはある」

これ、家にあるやつじゃない。どこから持ってきたのかしらね、これ。

遠坂の家はコーヒーよりも紅茶を主流にしてるから、この銘柄は家にはことがすぐに解る。

とすると、私以外のナニかが買ってきたものだろうけど、お金を渡した覚えはないのよね。

変だ。

変な感じ。

何か変なのに、それを変と感じていないのか一番変なのよね。

なんだかまだ寝てるみたいに思考が上手く働いてくれない。意識はハッキリしてるのに、どうしてかしら。ヒュプノスでも夢枕に表れたっけ?

「凛、どうした?先程から黙っているなどと君らしくないが。君ならば料理についての酷評など泉から涌き出るように出てくるだろう?」

「あまりひどい事は言わないで下さいね。これでも少しは自信持ってるんですから」

「まさか、リョウの料理はどれも素晴らしく繊細かつ緻密だが大胆でもあって芸術と呼ぶに相応しい。これらを侮辱するなど、神に逆らうものだ」

お腹も満たされて満足した所で、現状把握に努めよう。

まず、私は朝の9時に目が覚めて今日は学校へは堂々と遅刻するつもりだったから、時間にも余裕があるわけだ。

顔を洗いに行ったらタオルを忘れたらしく、いつのまにか触る範囲においてあった。使い魔だろう。

「「凛?」」

「凛…か」

次、私はお腹が減っていて、目の前に用意されていた食事を食べた。

これによって私は生き恥をさらさずに済んだ。付け加えると、料理の方は味も種類も、庶民的でありながらどことなく気品の感じられる調理の仕方で不覚にもお代わりしたいなんて思ってしまった。だから、合格。作ったのは、使い魔なのだろう。

その、使い魔はどこに?

「凛て名前さ、なんかパンダ五人姉妹みたいにならない?ほら、ランラン、リンリン、ルンルン、レンレン、ロンロン」

「「…………………」」

目の前に三人ほど見える?

三人?

「歌も作れそう。ランラン(ランラン)、リンリン(リンリン)、パンダさんだよ〜。ルンルン(ルンルン)、レンレン(レンレン)。目玉を抉られた〜」

「「…………………」」

それ、おかしくない?だって私にはひねたアーチャーが一人だものね。

だとすると、残りの二人は、何?

「あ、一匹あぶれてる。かわいそうだ」

「「…………………」」

「突っ込みどころ満載でどこに突っ込んでいいのか解らないわよっ!!!」

なんで私の名前がパンダになるのか。

なんで歌のリズムがサルなのか。

目の隈に特徴があるからってなんで目玉を抉られるのか。

なにより、なんで衛宮の住人とセイバーがここにいるのよ。

「やっと気がついたか。先程からぼうとしていて心ここにあらずと言った有様だったのでな。なにかの魔術にでも掛かったのかと邪推していたぞ」

「って、アーチャー、あんた説明しなさい。どうしてこんな状況になっているのかも」

「説明も何も。君が負傷した衛宮士郎をここに担ぎこんだのでセイバーも、彼女と一緒にいたのも連れて来ることになったのではないか。そもそもだ。許可を下したのは君だぞ、凛。私は単に命令に従っただけだ。責められるのは不当な気もするがね」

そ、そうだった。昨日は怪我塗れの士郎を運び込んだんだっけ。私もそう命じたわよね。

確かにアーチャーを責める道理なんてない。ね、寝起きは本当に頭の回転が悪くなって困るわね。

「この朝食、あんたも食べたのよね?」

「見れば分かるだろう。荒削りだがなかなかの逸材だぞ」

「それは、認めないでもないけど…」

ちろり、と若年シェフに目をやると楽しそうに微笑んでいる。

「むしろ聞きたいのはなんであんたが実体化してまでそんな事をしているかって事よッ」

「ふむ、朝っぱらからあのような大声で何度も何度も呼ばれるのはかなわんのでな。止むに止まれずと言うやつだ。調理道具の配置も知らなかったそうなのでね、勝手に触ったら君が怒るかもしれないと思ったのだ」

…む、確かにそれは、なんだかありそうな気がする。

自分のものに手を出されるのって好きじゃないし。なんとなく癪に触るじゃない。

「大声で呼んだって、どうやって?」

するとアーチャーはなんだか顔を顰めて、セイバーは形容しがたい表情で、呼んだ本人といえばさっきよりも楽しそうに。

綾は立ち上がるとなんとなく自信ありげに右手を掲げたかと思ったらやおらこんな事を言った。

「来てくださ〜い。アーチャーさ〜ん!!!」

良く通っていて、微妙に少年っぽい勇壮そうな声でそんな事を言って欲しくないのだけど、言い終わると最後に指をぱちんと鳴らして満足げに微笑んだ。

は、激しく頭痛いわ。

これを何度も繰り返したら確かに、正直いや過ぎる。防音は完璧だったはずだけど。この声だったら突き破ってしまうかもしれない。

この辺一体が遠坂の私有地だといっても、側を通りがかった近所の人が聞いてないってこともないだろうし、これでまた怖い魔女の館の異名が浸透してきたかもしれない。

「かっこいいですよね。ガ○ダムみたいで」

ガ○ダムってのが格好いいかどうか知らないけれど、すごく、この子は変な気がする。

藤村先生の純粋培養って言ってたから、やっぱりどこかずれてるんだって思ってたけど、これはちょっと予想外よ。

昨夜のシリアスは一体どこに消え去ったの?

真面目な顔してたらほんと、すごく美人で大学生でも通用するぐらいなのに。

「あ、もしかしてこっちの方が良かったですか?はわわ、助けてくださ〜い、アーチャーさ〜ん」

なんて、程よく困っていて、それでいて女の子の可愛さを含んだ声は、正直に可愛いと思うけど。

あ、やっぱ駄目。激しく頭痛いわ。

見ればアーチャーも眉を顰める以外にどんな表情を作ればいいのか解らないみたいだし、セイバーにいたっては完全に理解不能よね。

衛宮くん。

藤村先生とダブルパンチで来るって言ってたけど、これはさぞかし大変でしょうね。

でも、こんな朝は私の人生で生まれて初めてのことなので、ちょっと新鮮でもあったのだ。

それに、つまらないなんてことはないし、誰かと会話して食べるのも、悪くないかな、なんて思ったりもして―――、

「多少古いですけど、今のはメイドロボの原点を再現してみました。枯淡の境地です」

あ、やっぱいいわ。

王は、無敗だった。

13の騎士を従え、もはや恐れる外敵などいないに等しかった。

それでも王は王として、さらに国を磐石にし民の苦を少しでも減らせるようにと一つの伝承を再び求めた。

それは、王の悲願であり、使命を受けた騎士は円卓騎士筆頭のランスロット、パーシヴァル、ボールス。

いずれも名のある3騎士が、白都キャメロットより消え去ったどのような願いでもかなえることが出来る救世主の血を受けた杯を探し出そうと方々に旅に出た。

長い年月がかかるのも承知だった。

あれは、資格持つものを待っている意思のあるものだからだ。

どのようにしても資格は前提から決まっているものであるし、どの騎士たちも資格があったのだから選ばれたのだ。

しかし―――、

ランスロットは妖精からも認められつつも不貞の穢れで聖杯には至らなかった。

パーシヴァルはあとほんのわすかで聖杯に手が届きそうながらも、聖杯自身に認められなかった。

ボールスは聖杯探求の途中で子を作ることによって聖杯を得る資格を失った。

ここまでかと、誰もが思い至ったときにそれは突如現れた。

13の議席のうちの一つ、常に空席だった“危難の座”に少年が座る事によって失われた杯と槍が顕れたのだから。

それは、あの少年が聖杯を得る資格を持った最も相応しい血と人格を持っていたからに他ならない。

完璧な騎士として育てられた少年騎士は、実の父親さえ凌ぐ完璧な騎士として、選ばれるに足る器だったのだ。

例え少年が、己の事をどう思っていようとも。

何故、彼らの前に再び顕れたのか。

それが議題となるのに時間は掛からず、少年が任を受けるのは当然の事だった。

誰もが彼ならば聖杯と聖槍を手に入れて戻ってくる事を確信していた。

何故ならば、少年は“危難の座”の主にして万難を排するためだけに存在する至高の騎士だからだ。

王さえ、彼ならば“当然”やってくれると信じていた。

いつも、どのような不利な状況からでも、神からの守護を承っているように、いつもの穏やかな微笑みを持って帰還してきた少年だからだ。

騎士のみならず、少年は遥かに身分が下の民とさえ、微笑を交わす。誰からでも愛し愛されるそんな性格だったから。

だから、誰も見抜けなかった。

少年が、自らの運命に憎悪さえしていることになど。

彼女がそれに触れたのはちょっとした偶然と偶然が積み重なった結果に過ぎなかった。

「今の―――」

変な夢を見た。

飛びっきり変な夢でどんな夢だかはっきりは思い出せないが、とにかく変な夢だった。

何だか良くわかんないけど、誰かの夢を劇場から眺めているみたいな。

覚えている事は一つだけ。それはあの少年が―――。

ここ数日、聖杯戦争なんてものに関わってしまった所為か、意味不明の映像が良く出てくるようになった。

まあ、あの火事を思い出すよりもよっぽどいいのだが。

頭を振って眠気を吹き飛ばすとなぜか俺は見慣れぬ部屋で寝ていた。今の時間を示すものは置いてなかったが何時かは解る。

9時30分。

遅刻確定だ………。

なんてことをボケッと考えていたら、昨日の事が急にはっきりと蘇ってきて身体の方も少々筋肉が突っ張る感じだが、致命的なものはない。

あったらえらいことだが。

ってか、ここ遠坂の家だったっけ?!

ぐわっとベッドから身体を起こしても肉体行動に支障はない。

うん、これなら学校に行くことぐらいは全然大丈夫だ。

そうと思ったのなら早く飛び出して準備を始めなきゃいけないんだけど…。ここは遠坂の家で、俺は昨日怪我してしまったから泊まることになった。セイバーも綾も一緒に泊まることになって、今あいつらはどこにいる?

ベッドから降りると椅子に俺の制服の上着が掛けられていたのだが、見るも無残にあちこちに穴があいていたり裂けていたりで、一度家に帰ってから替えの制服を着なければならない。

制服だって上下をそろえると結構掛かるのだが、まあそれぐらいは大目に見てもらえるだろう。

とりあえず、穴だらけのそれを着て、宛がわれていた部屋を出て行った。

う〜ん、女の子の家を勝手に出歩くのもなんだか悪いような気もするのだが、今は状況が状況だから、遠坂が怒ったら謝る事にして折り合いをつけると心のざわめきが少し収まってくれた。

確か2階の一室にいたのだから、1階に下りなければいけないんだけど、なんか、やっぱり赤いよな。

遠坂の家は内装がもう全体的に赤系統の色彩で埋められていて、統一されているといえばされているけど、なんとなく落ち着かない。

赤という色は熱や停止信号などに使われていて、それから連想されるように危険っぽい感じがする。

決して嫌いというわけではないけど、衛宮ではあまり見かけないからか新鮮だがそわそわする。新しいバイト先に着たみたいに。

1階に下りると話し声が聞こえてきた。

騒がしい声はまあ想像通りに綾だろう。大声で話してるところなんて見た事ないけど不思議と通るのだ。

リビングかどこかに繋がる扉をガチャリと開けるとこっちに顔を向けられるのだが、都合8つの目がいっせいに見てくるというのは引くものがあると思うのだがどうか。

「おはようございます、士郎。怪我のほうはよいのですか?」

「特に支障をきたす所はないな。これならマスターを捜す事も出来るぞ」

なんて言うとセイバーは本当に安心してくれたようでほぅと小さな息をついてくれた。

こう、心配してくれるのはやはり嬉しいものがある。

「え、士郎あれだけの怪我が全部治ってるの…、興味深いわね。やっぱり一度解剖したいわね」

遠坂、割と本気っぽいその言い方は、心臓に悪いからぜひともやめて欲しい。

「…………………」

「…………………」

アーチャーが実体化しているのは考えてもいなかったが、声を掛けてくる様子もない。

ふん、お前に声を掛けられるなんてこっちだってお断りだけどな。

なんだかアーチャーからは嫌な視線がきているが、そんな視線で見られる覚えはないのでこっちも黙って睨み返した。

と―――。

「はいはい、朝から男同士で見詰め合うなんて不健全なことはやめましょう」

なんて横合いから出てきた声が俺とアーチャーの視戦をピタリと止めた。

俺には綾の言う不健全な趣味はないし、アーチャーにもないのだろう。あったらその時こそ卒倒すると思うけど。

その声の持ち主はアーチャーの隣にいて、いつものように、いつもと変わらない笑顔を浮かべて近づいてくる。

「おはよう」

「あ、ああうん、おはようだ」

昨日あれだけ怒っていたから今日も起こっているかと思ってちょっと腰が引けていた。

けど、笑顔をみるとそんな事はないみたいで一安心。

思い返してみれば、怒った次の日にはもうその事忘れてるみたいだから、今も同じなのだろう。

ケロッとしていて良かった。綾の単純な前向きさがこのときは上手い具合に働いている。さすが子虎。精神構造がよく似ている。影響力は絶大だ。

「怪我は平気?」

「ああ、もう全然大丈夫だ」

にこやかにこっちを気遣ってさえくる様子に昨日の事を引きずっている感じは全くない。

よかったよかったなんて頷いている。

「じゃ、遠慮なくできる」

「なに―――」

なにを、といいかけた所でそれはきた。

大きく掲げられた繊手は刀を持ったことがあるのが信じられないほど細く、俺が思いっきり握ってしまったら折れてしまいそう。

そういえば、日の光を浴びても一向に染まらない雪の白さと変わらない腕は中学の同級生の女子を羨ましがらせてたっけ。

男子に触らせてくれというやつがいたけど笑顔のままにぶっ飛ばされてたっけか。

あの瞬間、確かに俺はそれを見ていた。

セイバーが口にしようと楊枝に刺していた林檎がポロリと落ちて、遠坂が腰に手を当てたままあんぐりと口を開けて、アーチャーは悪い夢を見たかのように信じられぬと。

筋力はないくせに瞬発力だけは鬼のようにあるそれは―――。

ポーン、と。

まるでバレーボールになってしまったような感覚は俺が空中を浮遊しているから。正しくは、浮遊よりも横倒れになっている途中。

頬を張られた。しかも思いっきり肘から先のスナップを十分に効かせ、その速度は自分の筋力とバネを総動員させた一級品。

長い髪が、黒い影を残して揺れた。

「ブ……ッ!!!」

今、俺は、人類でも数少ない水平飛行を体験している。

この一瞬はそれこそ秒にするなら2秒も掛かっていないけれど、俺的内時間に変換するとかなり長い。

バタン、と盛大に床にひっくり返った俺を、なにを考えているのか手を差し伸べて引き上げようとしている。

??????

脳内混乱状況は極大。

神経伝達される微電流は回路がショートを起こしたみたいで上手く流れてはくれなくて。

わけも解らぬままに、手を出したら前を同じように冷たくて信じられないほど柔らかい。

「お、お、おま…」

言語中枢が一時的麻痺を起こしたのか、それとも舌が壊れてしまったのか明瞭を得ない言葉の羅列。

「士郎、その先を言うにはこの場所は危険」

また下らない事を思いついたのか、俺の理解能力も壊れてしまったのか展開が読めない台詞。

「おま、おま…」

「だから危険だって言ってる」

危険なのはお前のほうだと言いたかったのだが、筋組織も運動不全を起こしてしまっている。

「おま、おま、おま…」

「○○○○?」

「なにを抜かしとるんじゃ、貴様はッ!!!」

こ、っこここ、ここには遠坂もセイバーもいるんだぞッ!なにを、そんな危険な言葉を口走ってやがるのか、こいつはっ!!俺を陥れたいのか、そうなのかッ、そうなんだなッ!?

さっきの言葉が遠坂とセイバーの二人に聞こえないように急いで口を塞いだ。

「むぅ?」

目を白黒させようがしまいが、その仕草が余人が見れば可愛かろうがなんだろうが、今の言葉だけは誰にも聞かせるわけにはいかない。

絶対にいかないったらいかないのだ、衛宮の尊厳に掛けて。俺の尊厳に掛けて。

ぬぐぐ、どうしてなんでいつこんな性格になってしまったのか、昔はあれほどまでに素直でひねたところなんて一つもなくて、変な知識なんて一片も知らなかったのに。

原因なんて分かりきってる。

くくく、親父はなんであんな知り合いを持ってしまったいたのか。でもいなければいないで綾はどうにかなっていたかもしれないんだから、いてくれて助かったというのが事実なんだけど。

だけど―――、

あのいい歳こいてるくせに幼くていたいけな少年少女を日々ムサボリ食っている変態極まりない軟体にして奇妙奇天烈摩訶不思議で表向きは人類にとって有害でしかない、それでいて腹が立つのが医者として滅茶苦茶に腕が良くて綾もその中の一人で、しかも早くからの患者だから助手めいた事までやっていて社会的にも賛同されるためか孤児院なんてのも経営していて子供たちに好かれているってのがまた、それはそれで本当に子供たちが幸せそうだし綾もあれで馬鹿みたいに子供好きだから神社から帰ってきたときはにじみ出るオーラがどことなく幸せっぽいのはいいのだが、クッキーとか作ってあげたらすごく喜んでもらえたなんて言ったときはほんとによかったなって思ってたけど、あの人の教育が役に立つ事なんてこの先あるのかってぐらいに無駄知識満載な、あの究極変人生物で神社の神主も兼任している、伯家神社の巽先生のせいだッ。

たちの悪い事に綾本人はそれは些細な事だと断じていて先生を悪く言う事がない。少なくとも俺は見た事がない。

一般的社会常識に照らし合わせてみても絶対に些細な事じゃない。

それを「本人同士が幸せそうならいいじゃない。周囲に迷惑を掛けてもいないみたいだし」とかぬかすのはどうかしているとしか思えない。

綾に言わせるなら社会や道徳の規範に縛られて一方的に悪いと決め付けるほうが良くないというのだが。

俺にだって解っている。

たとえ社会全体の考えに反しても貫きたい想いってのがあるのは。

だけど、アレは客観的に見て想いっていうなにか、綺麗な言葉じゃない気がするのだが…。

ああ、ほんと、どうしたものか。

「でさ、朝ご飯食べるの?」

どんな神経をしているのかさっきの事をまるでなかったみたいに聞いてくる。

俺としては朝からなぜか疲れきっていてものを食べたいという欲求があまりない。

作ってくれたのはありがたいが―――、

「いや、俺は―――」

「ほう、昨日無様にも倒れて事情を知らなかった者は言う事が違うな?」

なんてアーチャーの皮肉げな言葉がかかってくるまでは。

無意識的に目が細くなってアーチャーを睨みつける感じになってしまっていた。

言葉には力が宿ると言ったのはあの不良医師だ。

それに習ってさっきの言葉を振り返ってみるとまぎれもなく嘲笑の類があった。

訳もなく腹が立った。

どうしてかこいつの言葉には無視できない力があって俺を引き寄せる効果があるとでも?

「なに「アーチャー」」

遠坂と言葉が重なった。

遠坂の視線はそれ以上を言わせるのを許さないもので、アーチャーも目を閉じると一笑した。

先程の自分を嘲笑っているようにも見えた気がするのは気のせいなのか。

一体何を言いたかったのか。一体何を言うつもりだったのか。

それが悪意に塗れたものなのか。悪意の先に何かを警告したのか。それは今ではもう解らない。

「そうだね。昨日食べてなくてもそういうこともあるね」

ただ、綾がアーチャーに頭を下げたようにしたことで全部解った。

それでも皆が何も言わないという事はきっと黙っていて欲しかったから。そうしてほしいと頼んだからだろう。

他の誰に知られても俺は知られたくなかった事のはずなのだから。

ここで気を使っても変わらずいつもの笑顔をするだろう。それとも困ったように微笑むだろうか。本当の顔で。

だから―――、

「いや、やっぱ食べる。お前が昨日も食べてなかったなんて言ったから腹が減ってきたじゃないか」

気づいただろうか。いや、きっと気づいているだろう。人の感情に対して鋭すぎるから。

明るさを演じているのは偽りの仮面。弱さが歪めてしまった嘘の表情は、下手くそな演技は知らず知らずのままにそうするのが誰にとっても一番なのだと。

ああ、やっぱり。どこか明るく笑っていても、そこには拭いきれない違和感が付きまとっていて。

「そう……」

寂しそうだけど、穏やかに微笑む表情こそがお前なんだって、自分で知っているのか?歪めてしまった本人が言うべき台詞じゃないけど、それは、苦しい事なんじゃないのか?

そうやって、周囲の期待を、本当の自分を歪めてまで演じてしまうのは、きっと、悲しいことのはずだ。俺には解らないけど、そんな気がする。

「士郎はセイバーが来ることが解ってたみたいだけど…」

解らないと首を傾げて言うのは遠坂だった。

その問いは俺がライダーに襲われてから防戦一方にされたときの事だ。

俺は初めからセイバーがくることが分かっていたし、だからライダーと戦うことをすんなり承諾したのだ。

少しだけ耐えれば必ずセイバーが来てくれると知っていたから、真っ向勝負が出来たのだ。

令呪を使ったわけじゃないのに何故セイバーを呼べたのかを遠坂は疑問に思っているのだろう。

だけど、俺には何でそんな事が解らないのかが疑問だ。

遠坂ならそんな風におかしく思うようなことじゃないと思うんだけど。

「当たり前だろ。前もって連絡しておいたんだから」

「衛宮くん。強化のほかにも魔術なんて使えたの?方向性を持った思念を遠く離れた特定の相手に飛ばすなんて高等魔術の類よ。いくら霊的に繋がってるからって、そんなのあなたには不可能でしょ」

ああ〜、なんとなく遠坂には解らない理由が俺には解ってきた。

遠坂は考え方の基盤がそもそも間違っているという事に気づいていない。

「ちがうちがう。遠坂、あれは魔術なんかじゃなくて現代文明の利器を活用しただけだ」

活用したなんてたいそうなものじゃないけど。

遠坂は生粋の魔術師だろうから考えが及ばなかったのかもしれない。

持ってないんだろうきっと。ここ圏外かもしれないし。

「これだこれ」

そういってズボンのポケットから取り出しのたのは孤独な都市社会には必須のアイテム。

誰もが持ってる携帯電話である。ちなみに家族割り。

は?と目を丸くして俺の手の中にあるシルバーメタリックのボディに釘付けだ。

「遠坂は携帯もってないのか?あれば割と便利だぞ」

バイト先からの急な連絡とかあるし。

「…む、衛宮くん。仮にも魔術師なんだから、こんな反則みたいなの使ってもいいと思ってるの?」

遠坂は予想もしていなかったのか現代文明の登場に納得していないみたいで難しい顔をしている。

「なに言ってんだ。魔術師だって科学の利便さがなきゃ楽に生きていけないぞ」

むむ、と言いよどむ遠坂凛。

ずっと火を出し続けるのとか疲れるんじゃないだろうか。ほら、料理とかするときにさ。風呂だって湯を沸かすのにガス使ってるし。

…もしかしてこの家ガス管とか電気とか全部自前なのか?それだったら遠坂が考えなかったのも頷けるが。

「…普通の魔術師の家って現代文明反対派?」

「そんなわけないでしょ。確かに魔術でも代用できるかもしれないけど、機械を使ってやったほうがよっほど効率がいいもの。ふぅ、それにしても盲点だったなぁ。そんな方法は思いもつかなかった」

「携帯もってないのか遠坂。なんだか持っててそうなイメージがあったけどな」

こう、携帯片手に身体が沈むくらいの革張りの椅子に座って優雅に足組みながら他の魔術師とかと討論していそうな。そんな風な絵があったのだが。

もちろんその前には校長室で使われているみたいな馬鹿でかいデスクがあってうずたかく積まれた魔術理論の本がこれでもかというぐらいにあるのだが、誇りも塵も一つもない綺麗なままの状態で、紅茶の薫りを尻目にパラパラと本をめくりながら。

腕を組んでなんでか自分に呆れているみたいな表情をしている。

「ううん。私ってなぜだか機械が苦手みたいなのよね。現代文明を扱ってるとどうにも頭の中がこんがらがってきちゃって」

魔術なら全然大丈夫なのにと呟く遠坂凛。

「…テレビの接続とか、ビデオの設置とか。あとはオーディオ機器とかの録音?他にも…」

自分でも分かっていないのか次々と思い出した例を挙げていく。

その膨大な数だが、指摘するならそれは一般家庭のレベルに留まるものばかりでもしかしらも何もなく、遠坂って間違いなく機械が苦手なのだと直感した。

「…………………」

なにも喋らないでいたらポコポコ出てくる出てくる遠坂の失敗談。

なんとわなしに、同じ現代社会に生きるものとしてこの先大丈夫なのかなんていらぬ心配までしてしまうじゃないか。

この胸の奥の熱いものはなんだろう。

ああ、もしかしたらこれは哀しいのだろうか。俺は今、哀しいのかもしれない。

「って、なんで私はこんな事喋ってるのよッ」

自分で勝手に喋ってきたくせに俺のほうに向かって突っかかってくる。

「って、なんで士郎はそんな目で私を見てるのよッ」

俺はどんな目をしているのか。

自分でも興味があったが鏡がないので見れない事が残念だ。

でもきっと、哀しいとか憐れそうなカテゴリーに属する目で見ているんだろうなきっと。

「誘導尋問なんて卑怯よッ」

いや、なにも言ってませんから、俺。

しまった、とばかりに手のひらで顔を覆う。

「遠坂」

「なによ」

腕を組んでむむーと唸ってくる。

その、頬が高潮しているのは恥ずかしさゆえだろう。

「いや、なにか判らないことがあったら俺に聞け。多分、力になれるから」

「…あ、ありがとう」

複雑そうな顔ながら俺の提案が心の底からの善意からと知っているのか渋々お礼を述べた。

よし、これで遠坂が現代文明の前に敗退してしまうような可能性は少なくなった。

「で、どうしてこんな話になったのよ?」

「確か話の発端はどうしてセイバーが令呪も使わないでこっちに来れたかって事だよな」

それからどうしてあんな話になったのかは遠坂が以外にも携帯を持ってなかったからだ。

そこから遠坂の暴露話が勝手に始まったんだ。うむ、俺が責められるいわれはどこにもないぞ。

「綾だ。何かあったときのためにあいつも携帯持ってるからな。昨日の朝にセイバーに綾と一緒にいてくれって頼んだから、電話したらきっと来てくれるなって思ったんだ」

なるほどね〜なんて妙に感心している。もしかして携帯欲しくなったのだろうか。

でも一人だと料金とか割引にならないぞ。家は綾とついでに藤ねえがいたから結構割引が利いたけど。

基本料金とかが積み重なって毎月固定出費があるんだよな。通話料金とかも計算しながら家計をやりくりしてるけど、まあ俺たちのバイト代金でなんとかなるからいいけど。

週1でもバイトに出ていれば十分払える金額だし、それになるべく親父が残した金は使いたくない。

あれは何かあったときに使うべき物であって、どうでもいいときに使っていいお金じゃないから。きっと、親父もそれを望んでくれているだろう。

「疑問が解けてすっきりしたわ。もう時間も頃合だし、そろそろ学校に行くわ」

む、もうそんな時間か。

携帯の時間表示を見てみてももう10時30分に指しかかろうとしている。もう2時間目が始まってるから3時間目からの登校を狙っているのか。

「そうか。俺は制服がこんなだから今日は休むけど」

「そうした方がいいわね。替えの制服があってもまだ身体の方が完璧に治ってないでしょうし」

替えの制服はある。

あるにはあるが、高校入学のときに予備として買ったやつだから多少小さくなっているかもしれない。押入れの奥から引っ張り出さなければと思い出した。

やっぱり一着新調した方がいいだろうか。

まあそこは家の経済大臣と相談して決める事だけど。

「綾、セイバー。そろそろ行くぞーッ」

はーい、なんて素直でよろしい返事が屋敷のどこからか聞こえてきた。

セイバーには綾が勝手なことして迷い込んだりしないようについていてもらった方がいいと遠坂も言っていたので。

「衛宮くん。あの子はほんとに魔術習ってないの?」

「はぁ?」

寝耳に水とはこのことなのか、遠坂は変な事を聞いてきた。

あの子、とは綾のことだろう。それが魔術を習ってないかと聞いてきたのだ。

俺が変な顔をしても仕方のないことだろう。

「それって、どういうことだ?」

「衛宮くんならとっくに知ってると思うけどあの子、声がとてもいいのよ」

うん、それは知ってる。家族っていう贔屓目を除いても声はかなりいいって親父も言ってたし。

どこかどういいって上手くは言えないけど、なにか心地いいんだよな。

鈴が鳴るとか転がるとかの表現がよくあるけど、きっとそういう感じの声だ。

たくさんのざわめきの中でも飛びぬけて聞き取れる声みたいな、音色なのか水みたいな風みたいな気づけばするりと入り込んでくるというか。

聞いてるだけで落ち着いてくる声なんだよな。

「もったいないわね。あれだけの声の持ち主が魔力を持ってないなんて。正式な魔術として習えばかなりいいせん行ったんじゃないかしら」

「…それってどういう事だ?」

「士郎は言霊って知ってる?魔術詠唱も言霊の一種になるんだけど、印や舞と並んで簡易的な術式の一つね。世界で一番初めの呪法でもあるけれど。言葉にはすべからく意味が宿るものなのよ。例えて言うなら名前なんてその代表例よね。私は遠坂凛であるから遠坂凛以外の何者でもないし、あなたは衛宮士郎という呪に縛られているから衛宮士郎以外の何者でもないの。この場合、名前はその人を表す一番強い力と呪になるわね。名がなければ存在の定義が出来ないもの」

「…悪いけど、遠坂の言葉は良く解らない。ようするに、言葉が形をなすってことなのか?」

「厳密には違うんだけど、大まかな所ではそんなもの。言霊は西洋よりも日本や東洋魔術の領域だから専門的なことはあまり知らないけど」

「あいつには魔術の才能があるのか?その、言霊の」

確かによくしゃべってよく歌うけどさ。

いや、これがまたべらぼうに上手いんだよな。

歌っているのを聞いてる時は藤ねえだって静かに聞き手になってるし。

「それとこれとは全然別の話。前提としてあの子には言葉に乗せる魔力がないの。だからもったいないって言ったのよ」

「つまり、今のアイツは…」

「ただの一般人と変わらないわ。具体的に言えば、有名な歌手になる前の卵みたいなものよ」

なるほど、それは上手い例えかもしれないな。どんなに上手に歌えても在野に埋もれていたらそれも日の目を見ない。

言わせて貰うならアイツの方がよっぽど上手いと思うけどな。歌唱法とかじゃなくて、なんていうのか、クセが強いっていうのか?

透明度が高いくせに細くもなく太くもなくて、女性とも男性ともつかない声は変幻自在というか伸びやかなのか?

うむ、自分でも言ってて良く解らないけど。

オペラだのアリアだの専門的な用語は良く知らないが、とにかく聞いていて気分が良くなるのだ。

藤ねえなんかはファンであると公言してはばからない。

俺だってあいつが調子に乗るといけないから口に出しては言わないけど歌声を黙って聞くことが嬉しいと思う。

だってそれは、あいつ自身が選んだ最初の選択だろうから。

がちゃり、と扉が開いて綾を伴ったセイバーが歩いてきた。

なぜかセイバーが綾の保護者みたいな位置づけにしてしまっているがあまり気にしてないみたいで良かった。

あとで礼を言っておこう。

「すみません、おまたせしました。少し準備に手間取りまして」



なにか、セイバーは良く分からない事を口にした。

準備っていっても持ってきたものは何もないし、昨日のうちに綾が買ってきた食材はもう使ってしまっているから手で持っていくようなものは何もない。

なんだか困ったような口調のセイバーだったけど一体なにがあったのかと言うのか。

ただ、原因なら分かりきっている。いつだって問題なのはアイツの方。そして俺はそれを止める役。

セイバーが困ったような口調になったというのは珍しく、そんな口調をさせたほうを誉めるべきなのか。

「なにかあったのか?」

とりあえず、起こったことを把握するべく聞いた。

「ううん、なにも」

けれど答えた声はけろけろしていて本当になにもありませんでしたと告げてくる。

「本当に?」

「ええ、まあ」

真偽を確かめるべくセイバーにも聞いてみたがなにもなかったと言った。

少し歯切れが悪かったのが気になるがたいしたことじゃないみたいだし、本当に問題ならセイバーも言ってくれるだろうからそのままにしておいた。

綾もいやがることを無理矢理するほど悪趣味じゃないし。

「それじゃ行くぞ」

「その前にこれ着てちょうだい。そんなボロボロの服で外に出たらあらぬ噂を立てられかねないでしょう」

ぽいっと放り投げられたのは俺の制服の成れの果てでいつのまにかクラスアップしていて制服(仮)ぐらいに修繕されていた。

さすがにでかい穴の部分はパッチとか当てなきゃいけないが細かいのは全部塞がれていて何もしないよりもずいぶんましなぐらいに直されている。

遠見ぐらいでは多分、見分けがつかないだろう。糸とか穴に当てている部分も同色を使っているし。これが白とか緑とかだったらかなり目立つだろう。気まぐれでそんなことをされる事もあるので普通でよかった。

準備が掛かったのはこれのことだったのだろうか。

「サンキュ」

「お代は3000円」

金取るのかよ。

「冗談」

よかった。

「ありがとうございました」

遠坂に向き直ってペコリと頭を下げた。裁縫道具を借りた事に対してだろう。

綾は遠坂よりも背が高いから勢いよくすると髪の毛が散らばってしまうのだが今回は静々とした。

「別にいいわよ。それより行くわよ。あんまりのんびりして3時間目にも遅れたら目も当てられないわ」

一連の出来事をじっと見ていたらしい遠坂が腰に手を当てながら呆れたような目でこっちを見てきた。

遠坂が考えている事は何となく分かるぞ。

きっと妹にそんな事までやらしているのとか考えているのだろうが、それは大いに間違えている。思考の基盤からして間違えているのだから。

それに、俺だって裁縫はそこそこ出来るし、いつもあいつにやらせているわけではないのだ。勝手にやられたと言えば言葉は悪いが事実なのだし。

基本的に綾は世話好きだ。

…いささか限定に傾くという言葉はつくが。

綾という人間は長く付き合っていくとわりあい分かりやすい性格をしている反面、付き合いの浅い人間にはどうにも二面性があるように思えてならないのだと言われている。

簡単に述べると好き、嫌い、どうでもいいの3つの対人態度をとりやすい。

まるで子供みたいな分類だがそれは単純であるが故に嫌いやどうでもいいの印象を持たれてしまうと絶対の境界を作られて極端な排除や無関心になってしまう。

反面、好きの印象を持たれるとそれこそなにくれとなく世話やいてくれたり気遣ってくれたりといつも見ているような頭の中は常春の国に永住中みたいな感じになる。

それから判断すると遠坂やセイバーはきっと気に入られたのだろう。

よかった。

二人が綾に嫌われでもしたりしていたらきっと俺の胃には穴が開くだけじゃすまなくて腫瘍の一つや二つ出来てしまうだろうから。

想像しただけで胃酸のすっぱさが口内ににじみ出てくるように感じられてそれが現実のものにならなくて一安心。

遠坂家の扉が何だか西洋風の音をガッコンと連想させて重々しく開いたような感じがした。

その途端、思わず目を瞑ってしまうほどの強い風が顔を打ち付けてきた。風に混じって吹きつける匂いは遠く潮の薫りまで運んでくるようだがそれはどこか冷たく鋭く、身体に突き刺すように冬の風だった。

反射的にぶるりと震わせるととりあえず渡された制服の上着を着た。防寒具としてはあまり役に立たないかもしれないがないよりも幾分かましだろう。

見上げる空はどんよりとした暗雲が垂れ込めていて舞台劇の緞帳みたいに空と大地を切り離していて青空を望むことは不可能。

明確な境界線で区切られた冬木市一帯はどこかしら暗い雰囲気が漂っているみたいでさっきいたリヴィングと比べると雲泥の差だ。

ため息をつきたくなるほどに雲は重たく感じ、強い風に流される様はまるで荒れた海と同じみたいだった。

「寒いわね」

ポツリと遠坂が何気なく呟いた言葉は小さく風に掻き消される。

「そうだな」

そのまま終わってしまえば俺たちまで外の風景にどうかされてしまいそうだったから何気なく相槌を打っただけだ。

「ちょっと早く出てよ、後がつかえてるんだから」

ぐいと、背中を押し出される感覚は冷たくさせる感傷を忘れさせてくれた。

もっとも、それは俺が力を入れて踏ん張ればどうという事もないほどのものだったが。

せかされる声に逆らう理由も抗う必要もありはしなかったので素直にどいてやる。

その直後、さっきとは比べ物にならないぐらいに強い風がいっそ叩きつけるという表現がピッタリ。

俺だって身体が飛ばされそうになるなんて瞬間最大風速30メートルぐらいの体感風圧。

「およっ!?」

ぐらり、と細身の身体がかしいで、倒れるかな、なんてことをぼうっと思っていたのだがそうなることはなかった。

「大丈夫ですか?」

「ああうん、ありがとう」

多分、セイバーが綾を支えたのだろう。

普通は背の高い綾がセイバーを支えるのが一般的だろうがこの二人はその立場が逆転している。

ススと音もなく出てきたセイバーが開口一番にそんな事を言った。

う〜ん、なんかほんと保護者っぽいな。もちろん、被保護者は綾なのだが。

ぞろぞろと列を成して玄関から出て行った後、遠坂はぶつぶつとドイツ語か何か呟いていた。耳元でビュンビュン飛び回る風の音のせいでどんな言葉を言っていたのかまでは明瞭には聞き取れなかったけど。

詠唱が終わると遠坂邸が薄い膜に掛かったような、そんなちょっとした威圧感が俺を覆った。もちろんそれはセイバーにも分かっているのだろう。遠坂邸の外観を観察しているみたいな目で見ていたからだ。

「遠坂、あれって結界みたいなものか?」

「どころか結界そのもの。私の家と外界を切り離して隔離させるような感覚があるでしょう。この家には近づくなって暗示にも似ていてそれに反すると身体の方が勝手に拒否反応を起こすはずだけど?」

ようするに、令呪の簡易版みたいなものなのか。

なんでもないことみたいに言うけど俺からしてみればそれはとんでもない事なのだ。

こんな馬鹿にでかい屋敷だけでなくここの一帯を包んでしまうなんてそんじょそこらの魔術師で出来るものなのだろうか?

比較対照を可能とするのが切嗣だけなので判断は難しい。その切嗣にしたってそういう結界系の魔術を使っているのは見たことがないのでどっちにしろ無理だし。

吹きつける風に髪の毛を乱されながらも遠坂はなにか変なこと言った?という表情をしている。

う〜む、こんな時だってのになんだって俺は、その、髪の毛を押さえる遠坂がすごく綺麗に見えてしまっているのか。

いや、だって、流れる髪の毛を軽く押さえるのって絵的に男心をくすぐるじゃないか。うん。

髪の毛の匂いだろうか、風に乗って薫ってくるのがまたな、うん。

…は、まて、落ち着け。衛宮士郎。

俺はなにを考えているのか。心頭滅却。火もまた涼しで煩悩退散。行住坐臥で行こうぜ。

「ちなみに、行住坐臥とは変わらない日常や日々の行いという意味を持っていてこの場合はあまり適当じゃないよ」

「な、何で解る?」

俺の問いかけに綾はフと薄く笑うだけだった。

なんておそろしい。俺の考えは筒抜けだったというのか。

「行きましょ。ここで時間を捕られるとほんとに遅れるかもしれない」

ふぅとなぜかため息をついた遠坂が歩き出した後を俺たちも慌てて追いかけるのであった。

「空を見上げ君と歩く やさしいじかん 小さなひととき―――」

遠坂邸は古くから冬木の土地に移住してきた人間たちが造った西洋風の建物の一番頂点に存在している。

長い下り坂はずっと続いていてその途中に桜の家がある。

一昨日にも行ったばかりだが外から見る限りそれほどの違いはあまりなさそうだ。あいかわらず不気味な佇まいで来るものを萎縮させるような威圧感がじっとりと肌に粘つく空気が建物全体から流れてくるみたいだ。

「ちょっと、ここに用なんてないでしょ。早く行くわよ」

「用はある。俺たちの知り合いがこの屋敷の住人なんだ。なんだか風邪で寝込んでいるらしくてな。何回かお見舞いに行かせて貰ってるけど具合が悪いらしくて会わせてくれないんだよな。アレもなんだかんだで心配してるし。俺も気になる」

アレとは綾のことだ。なにが楽しいのかときおりクルクル回りながら歌を歌っていてセイバーがそれを呆れて見ているみたいな感じだ

俺と遠坂の背後で空を見上げながら、向かい風にも負けないで陽気な歌声が宅急便みたいに届いてくる。

それをBGMにして間桐邸の前に立つとなんとも形容しがたい頓珍漢な雰囲気になってしまうのだからヒアリング効果って偉大だなとか訳の解らない事を考えていた。

「きっといつか別れ来るけれど 大切な思い出は消えることは―――」

「ふ〜ん、それはお優しい事ね。でも、見る限りでは誰かがいそうな気配なんてないみたいだけど。衛宮くんは訊ねてみるっていうの?」

「いや、今はまあ、聖杯戦争なんて物騒なことしてる最中だし、出来るだけ桜には会わないほうがいいと思うんだよな。桜まで巻き込むのは絶対に嫌だし、そんな目には遭わせるわけにはいかない。それに、遠坂が3時間目に遅れるってうるさそうだしな」

「君といた季節 どこまでも透明なあの青に―――」

「べ、別にそんなこと言わないわよ。なに、士郎の中では私はそんな細かい事まで気にするような人間だってことなの?」

「そんな事は言ってない。遠坂は一度言ったことはきっちりするタイプだって思ってるだけだって。だからさらに学校に遅れるのは嫌なんじゃないかなって思っただけだ」

「私の夢 私の希望 私の記憶 どこまでも続くあの空に―――」

「む…」

「桜には悪いけど、聖杯戦争が終わるまでは家にも来てもらうのはよしたほうがいいかな…」

「いつか還しにいくよ きっと還しにいくよ―――。二人ともなに話してる、青春の話?」

歌い終わったのかきりのいいところでこっちに早足で近づいてきた。セイバーはトコトコと俺たちの後を歩いている。その表情は昨日みたいに無表情ではなく、そこはかとなく疲れが滲んでいるようにも見える。真面目そうなセイバーにはあんまり予測のつかない綾の行動には適応するのに苦労するだろう。

でも俺はそんなセイバーもいいんじゃないかなって思う。

いつも無表情で無愛想でいるよりもあんなふうに感情を表してくれるほうが嬉しいし話しやすい。

昨日一日でずいぶんと様子が変わっていて、きっと綾とお馬鹿なやり取りをした所為なのだろうと思うけど。

でも口に出してはいわない。調子に乗ってさらに頭の中身は春爛漫みたいになるから。

「別になんでもない。それよりお前、セイバーに迷惑かけてないだろうな?セイバーにそうやって聞いても絶対にありませんて言うだろうからな」

「…本当に嫌がることはしていないと思うけど、多分」

じゃあ、ちょっと嫌がるようなことはしたんだな。う〜むと考え込むその姿は予想通りといえばその通りなのだが、度を過ぎてセイバーが不機嫌になるのを想像すると心胆から寒くなってくる。

こそこそっとセイバーに近づいてそれとなく聞いてみた。

「なあ、セイバー。あいつ迷惑かけてないかな。いや、きっとなかったって言うんだろうけどこういう事ははっきりさせた方がいいからな。本当に何にもなかっただろうな?」

ふむ、と少しだけ記憶を辿るように考え込んでからセイバーは微笑んだ。

それは出会った直後では想像できないぐらいに柔らかくて、控えめだがどことなく華やかで、これが彼女本来の微笑なのかなと思えた。

「はい、綾は人が本当に嫌がることは決してしませんでしたから。近隣の人たちとの接し方一つ見ても礼儀と礼節をわきまえていてとても感心しました。初対面である私に対しても親切にしてくれた。…一つ一つを見てみたら些細な事ですが、その些細な事の積み重ねを大切にしているようにも見えます」

へぇ、そんな風に思っていたのか。

確かに礼儀正しいというか、初対面の人には先入観を持たないで接していくけど。強面のお兄さんだって優しい人はいるし、逆にやさ顔のあんちゃんの方が怖い事だってある。とういうか、そっちの方が遥かに多い。

こうした事はまあ事務所とかにも何度か行ったことがあるのでよく分かっている。幾度か正月会に出席したときにはそれこそ思わず後ずさりしそうなお兄さん方がずらりと勢ぞろいしていた事もあるし。

人は外見で判断すべきでないというのが行動理念なのだろう、きっと。

けれどそんな理想を現実に踏襲するのは難しい。

言葉だけならどうとでも言えるが実際に実行できるかはその人間の心という曖昧なものに縋るしかない。人は外見で人を判断してしまうのを容易には止めることは出来ない。人の意識の中には常識という観念がしっかりと根付いていて、常識から人間の姿形を捉えるために固定の考えをすっぱりと捨てきってしまう事は簡単には出来ないのだ。

綾がそうあろうとしているように、俺もそうでありたいとしているのだが、どうも俺は魔術師なのに常識に囚われる事が多いようだ。綾や藤ねえ風に言うのなら、固いなのか。

実生活ではその方がいいのだけど。二人みたいに緩いのもどうかと思うのだがどうか。

セイバーの話はそれで終わりではなかった。

「…ただ、リョウは少し悪戯を好むと言いましょうか、ときおり途方にくれさせるような事をします。私はサーヴァントであるのに掃除をしたり、まるで散歩に出かけているように扱われるのです。どうにも危機感が足らないように思えるのですが」

あー、それは、個性って事で、納得してくれると簡単なのだが。

生真面目なセイバーにとってはあんまりに考えなしな行動はちょっと看過できないものがあるのだろう。

けど、それも含めて全部、迷惑だったわけじゃないだろ?

「けど、嫌じゃなかったんだろ?」

「そう、ですね。嫌、ではありませんでした」

だって、昨日までと全然表情が違っていて、すごく柔らかくなっているのだから。

こんな何気ない会話のときに微笑さえ浮かべているのはきっと綾のおかげなのだろうから。

聖杯戦争が終わるまでずっと緊張しっぱなしというのは最後まで持たないと思う。

適度な緊張感は心地よく身体に馴染むけれど、それも過ぎれば毒となって大事なときに身体が動かなくなってしまう。

「シロウ」

「なんだよ」

「私のようなサーヴァントやあなたのような魔術師といった超越者にとって、あの子のような得がたい存在は貴重です。それを分かっていて、あなたは聖杯戦争に参加する事を決めたのですか?」

「…………………」

セイバーの言葉は、ざくんと剣が胸に突き刺さったように感じた。

俺にとって、綾の存在は10年前のあの時から常に隣にあるようなものだから、セイバーが言うようなことは、正直、実感しにくい。

ただの高校生、衛宮士郎としても、魔術使い衛宮士郎としても。

だけれど、青緑の眸が峻厳なまでの輝きでこちらを見詰めてきているので、これのことが重たい真実のみを伝えてきているのは鈍い俺にも理解できた。

考えなかったわけがあるはずがない。

親父と俺が魔術師だろうと、綾本人はやや特殊な生い立ちではあるものの一般人と違いはない。

魔術を習った俺や遠坂、サーヴァントというセイバーとは根本的な所で立つ場所が違っているのだから。

いわば俺が巻き込んだと同じ事なのだ。

だからセイバーは俺に聞いてきたのだろう。巻き込んでしまってもよかったのかと。

簡潔に答えるならそれはNOだ。

俺も好き好んで綾を魔術師同士の戦いなんかに巻き込みたくないし、危険な目になんて絶対に遭わせたくないし遭ってほしくない。

もともと病弱が服を着ているような人間だし、基本的には穏やかな性格をしているのだから。

俺も直接ライダーと戦うまではもっと甘く考えていた事もあって、無関係の一般人を進んで巻き込む事は頭の中だけで理解出来ていたことでしかなかったのだ。それが現実になるとすぐに立ち直れたとはいえ、信じたくないなんてことも思っていた。

「私が聞いていいことではありませんが、本当に良かったのですか?」

あなたは、あの子が犠牲になる事まで想定して、考えた末で聖杯戦争なんてものに参戦したのか?と。

犠牲、そう、犠牲になるかもしれないんだ。

学校での戦闘から考えると敵が綾を狙ってくる事も十分に考えられる。いや、目撃者を逃したランサーからしたらいつまた襲ってきても可笑しくない。聖杯戦争はあくまで裏側で行われるものであるから異常が外部に漏れる事を潔しとしない。敵のマスターだって魔術師である以上そう思っているだろう。

それでも守れるんじゃないかと思っていたのはなんて思い上がりだったのだろうか。自分ひとり守れない人間が、他の誰かを守るなんてよくも思えたものだ。魔術を習っていても出来ない事なんてこの世の中に数え切れないほどあるのは承知していたはずだったのに。

「申し訳ありません。私は、私の願いのために、あなたたちを犠牲にしようとしている。日常と平穏に満ちているあの家を乱したのはほかでもないこの私に他なりません」

セイバーは見てるこっちが申し訳なるほどに顔色を沈めている。

聖杯を求めるセイバーにはなんとしても叶えなければならない願いがあるのは知っている。

「セイバー、俺もさ、一つだけ叶えたい願いがあるんだ」

ポツリ、と呟いた言葉は俺にも聞こえないぐらいだ。それぐらい、力のない言葉だ。

こっちを訝しげに見てくるセイバーの眸はそれはどういうことなのかと尋ねてきている。

「だけど、聖杯に頼って叶えてしまえばそれは嘘になってしまうと思うんだ」

「嘘になる…?」

「色んな事がな。結構前の話なんだけど、なんでも願いが叶うなんて夢物語を話したことがあるんだ。当然、そいつの願いは決まっていると思ったんだ。だって、ずっとそのせいで苦しんできたんだし、色んなものを犠牲にしてきたんだから。友達は多いくせにさ、皆が外で遊びまわっているのにいつも家で本を読んでたり歌を聞いてたり。俺はそれを見るのが嫌だったんだ。どうしていつもアイツだけがそうしていなければならないのか。どうしていつもいつもアイツだけが仲間はずれにならなきゃいけないのかってずっと思ってたから。だから、ソイツの願いは決まってるって、そうじゃなきゃ変だろうって」

「…………………」

「だけど、俺の願いとソイツの願いは一緒じゃなかった。なんでだって聞いたらなんて答えたと思う?」

「え…、そ、そうですね。その人物は私の想像でいいのでしょうか?」

「たぶん想像通りだと思うぞ。俺とセイバーの共通の知り合いなんて数えるほどしかいないからな」

しかも、俺が言った条件で絞り込めるし。

「…解りません。普通の受け答えもすると思いますし、なにか突飛な答えもありうるかもしれませんし」

そうだろうな。本人は気まぐれだし。大真面目な答えもあるかもしれないし大ボケな言葉も想像できる。

「ソイツはな、普段の態度からは考えられないぐらいに我が強いんだ。モノに執着が薄い分欲しいものは欲しいとはっきりしていて、それは、病気でさえ例外じゃなかった。自分が今まで苦しんできたのは他の誰でもない自分が持って生まれたものだから、他の誰かに横取りされてパッと消えるなんて許せないし認められない。この病気は恋人みたいなものだから、自分以外の誰かに寝取られて三行半突きつけられたら腸がひっくり返って思わず内蔵掻き出したくなるんだとさ」

実際にはもうちょっと過激な台詞を言っていたが。

「どうかしてると思わないか。よりによって自分を苦しめてる病気を恋人に例えるなんてさ」

セイバーをチラッと見るとかなり難しい顔をしている。

具体的に例えるなら奥歯と前歯の間に筋肉が挟まった状態で舌を使って何とか取り除こうとしたけど出来なくて爪楊枝か何かを探してるんだけどどこを見渡しても見つからない。そんな状態だ。

その視線はなんでか遠坂の隣でジッとしている綾に向けられていて今までのイメージを改竄しているのかもしれない。どこか遠い視線がそれを証明しているようだし。

どんなイメージで綾を見ていたのかはこれまでの過去の出来事から推測するにきっと明るくていつも楽しそうとか思っていたのだろうが、それが大いなる間違いであり、実は十字軍も顔負けぐらいの過激派である事実は俺がよく知っている。普段の性格と儚げな容姿とのギャップに頭がくらくらすることもないではない。

「あいつ、俺に気にされすぎる事をよく思っていない。あいつはちょっと度が過ぎてると思うけど、それは昔から今も続いている事で。あいつに巻き込んでごめんなんて言ったらそれこそギラリと閃く包丁さばきで内蔵掻きだされるかもしれないんだ。だから、セイバーも犠牲だとかなんだとか気にしなくていいんだ。俺の願いは俺じゃ叶えられない事だけど、セイバーにはセイバーの願いがあるんなら、叶えたいと思うのは当然だから、気にしなくていい」

「ですが…」

セイバーって結構悩むタイプなのかな。

やっぱり気にしなくていいって言ったら気にしてしまう方なのだろうか。

「あとさ、俺はセイバーに感謝している」

この言葉は予想外だったのだろう。セイバーはぽかんとしてこっちを見ている。

彼女の中では自分は迷惑を掛けていることになっているので感謝をされる事に心当たりがないのだろうか。

けれど俺は本当に感謝している。セイバーが気づいてなくってもこれだけはどうやっても礼を言わなくちゃ気がすまないことだから。

「綾さ、平日とかいつも一人だからずっと心配だった。けどセイバーがいてくれたら絶対安心だって思えたから、感謝してる」

ぺこり、と頭を下げるとセイバーは慌てたみたいになった。ちょっと頬が赤く染まってるのは正直に歳相応に可愛らしいくて微笑ましい。

「そんな、私はなにも。ただリョウと一緒にいただけだ」

それだけでいいんだ。それが一番大切なことだと思うから。俺にとっても、アイツにとっても。

俺は笑ってセイバーの視線を受け流した。

「ところで話は変わるけど、あいつ、なにしてた?平日は学校行ってるから細かいことまで知らないんだ。どんな風に過ごしてた?変な人間とか尋ねてこなかったか?」

「は?そ、そうですね。普通に過ごしていたのではないでしょうか。掃除をしていたり、昼にはサンドウィッチを作っていただきました。具もたくさん使われていて、とてもよかった。カラシを使っているのと使っていないので刺激と優しさが交互に味わえた。食パンを10斤は使っていましたが同じ具は使われていなくて大変ありがたかった」

そういうことを聞いているのではないのだが。なんだかセイバーのはお昼の感想に終始していて聞きたいことは掃除をしていたところしかない。

「デザートも作って下しました。大河の手により林檎が大量に余ったとの事でアップルパイなるものも………」

…あとで、聞くことにしよう。

なんだかこれ以上聞いても進展がいないような気がするし…。

その後、セイバーは俺と遠坂が別れるまで得々と林檎ベースの菓子について論じていた。

少々騒がしくもなかなかに体験する事のない貴重な時間を費やしながら俺たちは学園との境目まで着ていた。相変わらず風は強く冷たく鋭く、空気を切り裂くようだがここの集団の周りだけは避けて通り抜けるみたい。

ここで俺と遠坂は別れる事になるのだがその前に聞いておかなければならない事があった。それは昨日の戦闘に巻き込まれてしまった学園の生徒だ。遠坂の早めの手当てによって大事にはならないと太鼓判を押されているがやはり心配になってしまうのだ。

「…昨日の娘なら綺礼の所で治療を受けてから一般の病院に搬送されたはずだけど。なに、士郎そんな所まで気にしてるの?綺礼はあんなでも一応教会の神父なのよ。あなたが一々心配しなくても大丈夫に決まってるわよ。嫌味なやつだけど、腕は確かだし」

なんて素敵な言葉を風に残して遠坂凛は学園への道を三時間目を目指して歩き去って行った。その、歩き去る後姿にもう一度だけ礼を言おうと思った。別に助けなくてもいい、ありていに言えば助ける義務も義理もない俺を助けてくれた事、他にも色々とある。昨日と今日一日で色んな借りが出来てしまっているから。

「遠坂、色々と助かった。ありがとう!」

ピクッと背筋を震わしこちらに振り返ろうとして、動作を止めたままはぁとため息でも吐いてるみたいに肩を落としてそのまま歩いているのが印象的だった。どういう意味なのか解らないけど、なんだか遠坂が困ったような表情になっているのは想像できた。遠坂、俺が礼を言うと決まって眉を寄せるみたいだから。そうして一房になった髪の毛を翻して颯爽と歩いていくのだった。

遠坂を見送りながらとりあえず家に帰って着替えてから教会に行かなくては、とぼんやり考えていた。このままの格好で外をうろついては警察の方々に事情聴取され、あまつ取調室なんて薄暗くってねちっこそうな事この上なさそうな部屋に引っ張られるかもしれないので服を取り替えるために俺たちは一路、衛宮邸に向けて足を勧めたのだった。

途中で振り返ったけれど、もう遠坂凛の姿は坂の上へと消えてしまっていた。誰もいなくなってしまった街路に吹き付ける風はなお冷たく鋭く、追い立てるように吹き付けるのだった。

いつもの服に着替えると俺たちは学園の生徒が搬送されたという教会に行くためにバスに乗っていた。

徒歩で行くと軽く一時間は掛かってしまうので運行手段があるのなら普通は誰もが公共機関を利用する。新都の中だけならどこに行くにしても100円なんて赤字大丈夫だろうかとかいらない心配をしてしまう良心的価格が使用者を増加させている。

今は平日の上、昼前だから休日みたいにつり革にもつかまれないようなすしづめ状態にはならず、ちゃんとそれぞれが座席に座る事が出来る。みんなが大変なのは分かるけど、俺もあれは好きではないので勘弁して欲しい。

セイバーはバスに乗ったことがないのだろうもの珍しげに内部を観察している。セイバーがいつの時代の人なのか知らないけれど、きっとバスなんてガソリン動力の乗り物はなかったのだろう。剣とか鎧とか使っている時点でそれは解るから、きっと馬で遠距離を移動していたに違いない。魔術だったらなにかあるかもしれないがあいにく俺にそんな知識はない。

変わりにあるのは教会になんて用はないのについて来るといってきった綾が目の前にいるという悩みだ。なんでも本人が言うにはこれからそうそう外出も出来なくなるかもしれないから色々と買い込む必要が出てくるから、らしい。

もっともらしさ度はそこそこ高い。だがもっともらしさというのはそれが当然であるからもっともらしいのだ。正論とも言う。正論は正論であるが故に屁理屈やごまかしを述べた所で意味はない。だって誰が判断したって正しい事なのだし。

聖杯戦争なんかしてるからって日常の営みをしないなんてことは出来ない。つまりは時間が経過していくと共に腹は減ってくるものなのである。

現在の我が家の食料状況は災害に備えての非常食しか用意されていないのであり、それらは缶詰や保存食ゆえに賞味期限は長持ちするが味そのものはあまり保障されていない非常食なのだ。これらはあくまで備えだから温かみも感じられなく、時化たバタークッキーの如く味気ない。義理と人情紙風船の如くなりし候。それでは食卓が余りに寂しすぎるでござる。腹が減っては戦が出来ぬという甘言、もとい諺もありますればこれから街に繰り出しましょうではありませんか若人よ、立ち上がり米をその手に掴むのだ。だとさ…。

丸め込まれた気がするのだが、承諾することに渋る俺をこうして真正面から説き伏せた綾は緩くみつあみにされた髪の毛をいじりながら流れる風景を見ていた。騒がしくなるかとも思ったが、こうして静かにしてる分には一向に構わない。そうして、そんな横顔を俺は見ている。

眸はどこを見詰めているのか、動くことはないけれど、垂れ流しのテレビ画面を見ているのと同じで風景そのものを眺めているわけではないのだろう。どこか遠くを見やる視線は自分の思考に向かっているのかもしれない。いきなり聖杯戦争なんて知ってしまったことについてか、それともセイバーについてか、それとも桜についてか、それとも自分自身についてか。いずれにせよ、珍しい事ではある。

コイツは外見が外見だから無表情にしていると本当に人形めいて見える。家族の俺が言うのもなんだが、綾の容姿はまるで神話か何かの御伽噺に出てくる精霊めいて、たまに生まれてくる世界を間違えてきたんじゃないかと思うときがある。セイバーや遠坂だってとびぬけて綺麗だけど、それは太陽の輝きを受けて煌く宝石みたいなものだ。けっして現実から離れたりはしない確固としたモノだから、そこにいると確信する事が出来る。

けれど、綾のは違う。あの美しさは月光の木漏れ日を受けてこそ映える『あちら側』のモノとさえ言える。常日頃から見ている軽躁は周りのためだけじゃなく、ある意味自分をこの世界にとどめるための演技にも見えて、たまに不安になる。目を離してしまえば消えてしまうような陽炎にも似ているからだ。黒子一つだってない病的な白純の肌は死者と見間違えるほど。それとは正反対の艶のある黒純の長髪と眸は生者の意志をそのままに強く輝いていて。黒白の色彩の、生と死の躍動のあまりの差に、『彼岸』の存在であると錯覚してしまう事がある。それが今だった。

夢みたいに霧散してしまいそうだから、俺はそんな時、声をかけて、繋ぎとめようとする。だって、コイツは俺が支えていかなければならないと、初めて会ったその時に、決めたのだから。病気で、身体が弱くって、満足に話すことも出来ない弱者だから、守られるべきで守るべきだって。

「おい、なんでお前は遠坂のリボンなんてしてるんだよ」

ん、と物憂げにゆっくり視線を巡らして眸の色がこちら側に戻ってくる。そのまま胸の辺りで揺れているリボンに向かっていくとくいと持ち上げた。これ?と聞いているのだろう。だから俺はうむと頷いた。

「風が強いから髪の毛が乱れるのは嫌だろうって、貸してくれた。僕は別にいいって言ったんだけど、凛さんが女の子なら身だしなみに気をつけろって。そのまま強引に」

あ。俺とセイバーが話しているときか。あの時は遠坂の隣でなぜかじっとしていたっけ。これで疑問が解けたな。

「しかしお前、それって…」

「そうなんだよね。だからちょっと困った…」

「私は似合っていると思いますが。リョウは女性としてもうすこし自身を着飾ってもよいのではないですか?」

セイバーからそんな言葉が聞けるなんて以外そのものだったが、綾は自分を着飾るなんて滅多な事ではしない。着る服だって原色系ばっかりだし、今だって灰色っぽいコートに黒ジーンズで黒皮のブーツである。あんまり服に興味がないのかというとそうでもない。俺や藤ねえの身だしなみにはきっちりと気をつけるからだ。そこに自分が入っていないだけで。俺もあまり衣料には興味がないし、着たきり雀とたいして違いはない。着る楽しみよりも着飾る楽しみの方が優先されているのだろう。

セイバーの言葉に俺たちは黙って顔を見合わせるだけだった。

「?」

一人、その意味がわからないままに首をかしげるセイバー。その仕草が面白くてちょっと笑った。

「じゃあ、明日学校で遠坂に会ったときにでも返しておく。礼も一緒に言って」

「ん…」

それだけ言って、綾はもう一度外の風景に目を移したのだった。さすがに変だなと思って思わずセイバーを見ると彼女もこっちも見ていた。綾にしてはおとなしすぎる気がしないでもないのだが。まあ、気分家なのでこれぐらいなら稀にあることだし過剰に気にするのもよくないよな。第一、本人がそうとう気まぐれなのだからそういうこともあるだろう。が、やっぱり気になるのはどうしようもない事だ。

「どうしたぼうっとして、何か気になる事でもあるのか?」

「そうですリョウ。あなたがそのような調子ではシロウも気が抜けてしまう。気になる事があれば言った方がいい」

セイバー、どんどん変わってきてる。綾に気を遣う姿に嬉しくなった。が、その言い方には多少ひっかかかる気がしないでもない。

「凛さん。ご家族はどうされたんだろうね…」

自分でも自覚できないぐらいに小さく、胸の奥が風に揺れる砂みたいに揺れた。

今度はセイバーと二人して顔を見合わせた。いきなり遠坂の家族を気にするなんてどういうことだろうか。

遠坂凛は生粋の魔術師のはず。ならばその親も魔術師である事に間違いはないだろう。だがその姿はあの屋敷のどこにもなかった。いかにあの屋敷が結界で守られているとはいえ、内側に入ってしまいさえすればその効果はなくなる。だというのに、姿はおろか気配の残滓さえなかったという事はきっともう、遠坂の両親は亡くなっているのだ。あの広い屋敷には部屋数こそ無数にあるがそのほとんどに使用された痕跡がない。そこから推理される答えはひどく意識を緩慢にさせる。遠坂はきっともうずっと一人で過ごしてきたのだろう。たった一人で、兄弟姉妹もなく。

「………………………」

口を開いて何か喋ろうとしたが開いた所で何を話せばいいと云うのか。きっと遠坂の両親はもう死んでいる。その事はほとんど間違いないだろう。だがそれを話したところで何か利になる事でもあるのか。死んでいる、なんて言葉を口にしてしまえば、ソレが現実に近くにあることをひどく自覚させられてしまうだけではないのか。失われてしまいそうな気がして、ひどく恐ろしくなる。

それに、遠坂の家族が亡くなっている事なんてきっと察しているだろう。我が身を持って死を感じているのが常だった小さい頃から、人に生き死にに関して敏感だったのなら、ソレぐらいの事は察していてしかるべきのはず。

ではなぜ、そんなことを話したのかという疑問が浮上してくる。綾なりに気になる事があって発言したのだという事は解る。だがその発端はなんなのか。どうして家族や生死なんて、俺たちにとっては禁忌であるはずの話をしたのか。

「…なんで、急にそんな事を聞いてきたんだ?」

訊ねる口調は重たくて暗くて自分でも動揺してるなんて事を思った。これじゃ自分の感情を隠してるなんて言えっこない。絶対に気づいているだろう。それは俺がいつも心の中で思っていること、恐れていることだから。気づいていないはずがないのだ。

ドクンと心臓から血が逆しまに流れていくようなゾクリとする不快な感覚が鈍く躍動した。ソレを考えるたびに俺は足元が崩れそうな恐怖を覚える。だってソレは、今の衛宮士郎を構成する要素にとって必要不可欠でありナクナッテしまえば致命的な―――。

「なんか、凛さんってお姉さんみたい感じだったからね。もしかしたら妹さんか、それに近い人がいるのかなって思っただけ」

どこかぼんやりと、寝起きみたいな口調で言ってくる。

「…それは、性格みたいなものじゃないのか。ほら、遠坂ってああ見えてなんか世話好きっぽいし、面倒見もよさそうだし」

我ながらなんか変な事を言ってるような気がする。けれどそれは俺が感じたことをはっきり言っただけだ。だって、別に助けた所で特にもならない、むしろ邪魔にしかならない半人前の魔術師を横槍を入れられたのが気に入らないからって理由で助けたりするやつだし。他にも別に言わなくてもいいことまで言ってしまうようなところもある。あ、しまった。今度はライダーに襲われたときの礼を言うのを忘れていた。昨日はきっちり言っておこうと思ったのに。

ああ、そう考えると、遠坂はあまり魔術師っぽくないような性格なのかもしれないな。まあ、魔術師っぽくない魔術師の俺が言えることでもないのだが。

「…そうだね。それもあるかもしれないね」

だが返ってきた答えはあまり芳しくないものだった。こう抑揚に欠いた返事では納得していないのが丸分かりだ。喜怒哀楽は藤ねえみたいにかなりハッキリしてるからその時の声の調子でどんな感情を持っているのかは大抵判断できるのだ。

どんな理由で納得していないのか知らないが、俺はかなりその答えが真実に近いものだと思っている。

そうこうしているうちにどうやら停車場まで来たようだ。ピンポンとアナウンスが流れてバスから降りる人たちが定期やお金の確認をし始めた。俺も財布を取り出して二人に乗車賃を手渡すと丁度到着したみたいで席を立つ人で狭い通路がもっと狭くなる。

停留所に降りてバスが走り去るのを何となく眺めてから俺たちは教会に向かって歩き出した。

風は真向かいから吹いてきておもわず顔を顰めるほど強く、地面には砂埃やゴミが散乱していて、見上げる雲は目を離したときにはもうその場にはなかった。

そんな事を考えていたからだろう、向こうのほうにも原因があっただろう。俺は絶対に聞いていなければならなかった言葉をきれぎれにしか聞き取る事が出来なかったんだ。だとしてもその意味だけは聞き返すべきだったんだ。

「…僕は鏡だから」

その言葉が己自身の姿を表すものだとこれまでずっと綾が思っていたのだとしたら、絶対に否定しなければならないのだから。
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