灰色に縁取られたブラウン管。

流されるはセピア色に染められきった部屋。

涼風にさらされるカーテンは銀幕のよう。

スポットライトに照らされている役者はたった二人。

昔の親父ともう一人は小さな子供だ。

俺はその様子を観客として見ている。

「いいかい、これから順番に親指、人差し指、中指、薬指、小指だよ」

親父は幼い子供の小さな手を取ると一つ一つ指を指しながらそれが何であるかを教えている。

真白い清潔な布団の上には日本人形のように整然な佇まいを見せる子供の姿があった。

肩口まで伸びた黒髪はゆるゆると風に揺れ、瞳は一時たりとも動くことはないそれはある種の超然さを持っていた。

しかし、それは、人としての感情の一切が感じられない人形そのものだ。

よく出来た人形は無表情無感動無感情でおよそ情動というものが欠落しているのではないだろうか。

綺麗な黒髪も、愛らしい黒瞳も生きる躍動がなければ硝子で出来た脆い彫刻に過ぎない。

「君も握ってごらん。僕の後に続いて」

だが子供は全てが抜け落ちた無感の瞳で親父のすることを見つめているだけで自らを動かすことはない。

切嗣は困ったような悲しい笑みを浮かべるともう一度、その行為を続けていった。

いったどれほどそれを繰り返していっただろう。

外の光景は既に朝から夕方に切り替わり、物悲しい夕日が彼らを照らし出すまでになっていた。

しかして親父が待ち望んでいたときは不意に訪れるのであった。

「これが「親指………」」

さすがに疲れが滲んできた切嗣の声に被さって小さな、吹けば消えてしまうような、耳を澄ましていてもよほど注意していないと聞き取れない声が発せられた。

目を丸くしてそれを見ていた切嗣はすぐに調子を取り戻すと次の指、人差し指を指して聞いた。

「じゃあ、これは何かな?」

「………人差し指……」

「うん、うん、そうだよ。この指が人差し指なんだ」

見てるこっちが嬉しくなるほど、我が事のように喜びながら親父は期待に満ちた目を子供に向けている。

反応することさえ稀だった子がこちらに応えようとしているのだ。

親父も、それを俯瞰して見ている俺も手に汗握るようにして見守っている。

「親指…、人差し指…、中指…、薬指…、小指……」

ゆっくりと時間をかけて、だが確実に子供はそれを言い切った。

その途端、親父はその子供の頭を抱き寄せて髪が乱れるのも構わずにワシワシと撫でている。

俺も夢の世界を見ているのだと知りつつも喝采を上げたい気分になった。

子供は自分が何をされているのかも関心を寄せずにただ切嗣の顔をじっと見ていた。

「じゃあもう一度…」

今度は切嗣の左手を子供の左手の上に乗せる。

「これは?」

「小指…」

まずは小指を…。

「これは?」

「薬指…」

次に薬指…。

「これは?」

「中指…」

中指を折り曲げる。

「これは?」

「人差し指…」

そうして人差し指を折り曲げ…。

「「…親指…」」

二人の声が重なって小さな手は大きな手にしっかりと握られた。

「…これでやっと自己紹介が出来るね。僕の名前は衛宮切嗣。君の父親だよ」

満足げに、嬉しそうに、悲しそうに、とても優しい目で子供を見た。

それから唐突に、ガラガラッと病室の扉が開けられた。

まったく、何を考えているのか仮にも病院の、しかも病人の病室にいきなり乱入するなんて・・・。

切嗣も仕方なさげに苦笑いしているし。

突然出てきたあの小さな赤毛の子は間違いない。

夢の中だというのに思わずため息をついてしまいそうになる。

子供だとは言え、もうちょっと分別ってモノを考えろよ。

我が事ながら、場所をわきまえろ。一応病人の部屋だぞ。

「そして、君の名前は綾。君は今日から衛宮綾…」

衛宮綾。

それが人形のような子供の名前だった。

Fate―Code:Fake―

長い夢を見ていたような気がする。

実際、ぼんやりと浮かんでくる光景は過去にあった出来事だ。

自分の見てきた人生をそのまま凝縮して一気に流したみたいな感じ。

おぼろげだけど、脳に焼きついたみたいに離れない思い出だけが残っている。

あの人形みたいな子供は、間違えるはずもない。

今では考えられないほどに無感情、無関心、無表情だったあの頃。

惨劇の被害なのか、その状態から一歩進むだけで長い時間が掛かった。

切嗣は魔術師だが精神に働きかける魔術など修めていなかったし知らなかった。

魔術協会とは縁がない親父は昔に知り合った医者を頼ってどうしたらいいのかを聞いていって根気良く治療に付き合った。

魔術を知っていようと、できる事とできない事は、厳然として世界にある。

よくない考えだ…。

背筋を伸ばして昨日、というよりもここ最近に蓄積した疲れを取ろうとしたけどあまり上手くはいかなかった。

どれだけ疲れていようと定刻どおりに起きるのも考えもんだ。

えいやっ、と気合を入れて俺を誘惑する布団からの離脱を図った。

ふすまを開けて廊下に出るとシンとしていてまだ誰も起きている気配がしない。

人の気配のない屋敷は冬の大気にさらされ続けているのでとても冷たく、木目調の床には刺さるような冷たさが宿っている。

俺の部屋の隣にはセイバーが眠っている。

昨日、すったもんだの一悶着あった挙句に綾が出した折衷案だった。

始めはマスターの安全のためだと言って譲らなかったのだがそれでは俺の睡眠が満足にいかなくなってしまう。

そもそもセイバーは女の子なんだから男と一緒の部屋で寝るのはちょっと道義的にまずいのではないかと思う。

俺もセイバーもどっとも譲らなかったから結局は第三者である綾が決めることになった。

それでもまだ納得しかねるものがあったのだが、それ以上話し合いを続けても平行線なのは分かりきっていたので妥協したのだ。

その際に「二人とも子供みたいだなぁ」と一番子供っぽいのに母親みたいに笑われてしまったのが一番悔しかった。

多分、セイバーも俺と同じだろう。

急に無口になったらと思ったらあてがわれた部屋に引っ込んでいったし。

あれを意気消沈というのだろうか。

ふすまの前に言ったらセイバーがこの中で眠っているのだということを想像してしまった。

寝顔がどうとか、寝言とか言うのだろうかという年頃の青少年なら当たり前のように考えてしまうそれを慌てて吹き飛ばすと洗面所へと向かった。

なにをするにおいても顔ぐらいは洗うべきだろう。人として。

居間と直結している台所には桜の姿はない。

臓硯さんからはただの風邪だと聞いたがやっぱり心配になってしまうのは仕方がないことだ。

今日も見舞いに行ってみようか・・・。

いやしかし、何度も無理矢理押しかけるのもなんだかな

さて、と一息ついたところで今日の朝食を作ることにしようか。

やっぱり和食にするべきだな。

ここで綾なら日本人はアジアでも屈指のお米族とか言うのだろうが。

だとしたら完璧西洋人であるセイバーはどうするのだろうか。

まあとにかく、朝食を作るか。

とにもかくにまずは和食を和食たらしめるものは絶対的に米が必要だろう。

ということでまずは米を研がなければ…。

冬の水は冷たく、米を研ぐ手はその冷たさに凍り付いていくように感じるのだが直にそれにも慣れた。

こんなところでアインシュタインの特殊相対性理論が実践されているのである。

人間は慣れる生物であると言ったのは誰だったか・・・。

ドストエフスキーだったけ。ニーチェだったか?書斎においてある本棚のどこかにその言葉が眠っているはずだが。

それはさておき、米が炊き上がるまでにやっておくべきことは・・・。

昨日とっておいただし汁で味噌汁を・・・。

それから昨日あまったゴボウときんぴらで・・・。

刻んで刻んで・・・。

そうして俺の朝は平穏に何事もなく過ぎて行った。

嵐のような朝食とはまさにアレだろう。

主な原因はやっぱり藤ねえでいつまでたっても来る気配がないので先に俺とセイバーは朝食を食べていたのだが終了間際に来たと思ったら文字通りに食べ物を流し込むと暴風の如く食卓を荒らしながら去って行った。

なにやら朝連に遅刻するかもしれないのでママチャリで冬の空を駆け抜けて行った。

登校している生徒たちに見られる姿はまさしく前門の虎に校門の虎だろう。

そして静かな食卓を荒らされたセイバーさんは見た目には分かりにくいが静かに静かに憤慨されていた。

だって、あとちょっとで箸が真ん中から折れそうなぐらいに握り締められていたし。

ちょっと、いや、かなり怖かったかな。うん、セイバーは飯時に注意すべきだ。

後片付けを済ませると後はやることがない、精々が教科書やノートを確かめるぐらいなので、不景気な朝のニュースを見ていると、とんとん拍子に時間は進んで問題が提起された。

「すまないけど、セイバーは家にいてくれ。セイバーが一緒にいると生徒も騒ぎ出すし、色々と人目につく。それに学校でいきなり襲われるようなことはないと思うんだ」

弓道部があれだけ騒いだのだから連れて行くわけにはいかない。だいたい今日は平日だし。昨日は休日だったからまだ良かったのだが。

予想はしていたけれどセイバーは納得してくれない。目が抗議の色を宿している。

セイバーは俺よりも背が低いから睨む場合は必然的に上目遣いになるはずだが何故だが見下ろされている。

もしやこれが下目遣い?

「学校ですか。こんな時でも学校に行こうという心がけは素晴らしいと思いますが、今はそれよりも大切な事があるのではないのですか?」

「大丈夫だって。いくら魔術師って言っても学校みたいな人目につく場所じゃ目立つことはそうそう出来ないあろ。それに昨日はセイバーだって安全だって言ってたじゃないか」

「それは、そうですが。ただ一応という言葉が冠につきます。それにあの場所はほとんど凛の工房と貸している。彼女とて魔術師ならば機会が巡って来たのなら士郎の令呪を奪うことも考えられる」

「―――それは、多分、大丈夫だと、思うけどな」

喋っていくうちに言葉尻が小さくなっていく。

学校が遠坂の工房と言ってもアイツはそんなことをするような奴には見えない。

長年協会の魔術師として過ごしてきたのなら規則っていうのを破ってまでするとは思えないし。

俺が知っている範囲での遠坂像は無関係な人間を襲うような人格とはほど遠い気がするんだけど。

とはいえ、セイバーがこっちの身を案じてくれているのも解るし。

「それに、危険だと思ったらセイバーにも伝わるんだろう?そんなことになったら駆けつけれくれればいいんだけど」

しばらくじっとこっちを見ていたセイバーだったがしばらくするとふぅとため息を吐いた。

「…いいですか士郎。その身に何か起こると判断したのなら迷わず令呪を使い私を喚んで下さい。令呪のバックアップがあるのなら空間を跳躍して士郎のもとに跳ぶことも可能でしょう。くれぐれも一人でサーヴァントと相対するなどと考えないで下さい。」

空間を跳ぶって・・・、そんな非常識な。

ああ、いや、この場合、非常識なのは魔術ではなく、魔法になるか。

しかし、空間跳躍なんてほとんど魔法じゃないか。

すごいな、令呪って。

これは冷静に状況を判断してから使用しなければいけないな。

「それともし凛がいたとしても不注意に声をかけないで下さい」

・・・う、なんだかセイバーこっちを睨んでいるような気がする。

「わかった。そんな状況にならないように気をつけるよ。日が落ちてくるまでには帰ってくると思う。あとセイバーには頼みたいことが…」

「おはよ〜」

と言いかけたところで奥のほうから綾がのっそりと表れた。

目をしきりにこすりながら、まだ着替えもしていないらしく、長い髪の毛をやや引きずり気味にのそのそ歩いている。

「おはようございます」

「じゃ、アイツよろしく。そういうことで頼んだぞ、セイバーッ」

言いたいことだけを言って後はターッと走り出す。なんだかこんな頼み如したら真顔で起こられそうな気がするし。綾の面倒を見てやってくれなんて。

「いってらっしゃ〜い」

寝起きらしい間の伸びた声と。

綾に気をとられたセイバーがあっと声を出す前に玄関から風のように走り出した。

風を肩で切って全速力。たーっと交差点まで来た俺は立ち止まって息を整えた。さすがに家から走ってくると疲れて息も上がる。

なんか言いたいことだけ言って来ちゃったけど、あの二人は上手くやってくれるだろうか。帰ったりしたら暴風雨が吹き荒れてたりして。

セイバーはなにごとにつけても頑固そうだから、なにごとにつけてもいい加減な綾と仲良くやっていけるのかちょっと心配だったり。いくら仲良くなったとしてもあいつもまだ猫かぶりだし。

そこはかとなく心配の種を蒔いてしまったことに後ろ髪引かれながら学校への道を歩いて行くのだった。

校門に着いたらやたらに変な、甘い薫りがしているような気がした。気のせいか身体までだるくなってきたような感じさえする。

そうなると学園へと向かう生徒達の様子も一様にどこかハッキリしていないみたいなぼんやりとしいるように見えてきてしまう。

変だな。さっきは確かに花蜜っぽい感じのにおいがしたと思ったんだけど。

「やぁ衛宮」

自分で思ったことに首をかしげているとなんか、こっちもかなり変な感じになっている慎二がいた。いつもより陽気になっていてどうしたんだろうか。いいことでもあったのだろうか。

「どうしたんだ慎二。機嫌がよさそうだけどなんか良い事でもあったのか?」

「ん?そうだな。いいことはないけど、これから起きるかもしれないんだ。なんだかずっと曇っていた空が晴れてきた気分でさ。教えてあげることは出来ないけど、この気分をお前にも味わってもらいたくってさ」

「なんかよくわかんないけど、いいことがあるってのはやっぱりいいことだと思うぞ。よかったじゃないか」

「だろ?やっぱり衛宮ならそういってくれると思ったよ。ま、お前はこんな気分になることはないかもしれないけど、せいぜい想像して楽しんでくれよ」

なんて意味のつかめない事を言いながら慎二は、気分よさげに校舎へと歩いて行ったのだった。

いったいなんだったんだろうか。昔から気分屋だってのは知ってたけど、今日のははっきり言って度を越しているぐらいに機嫌がよさそうだった。

狐につまされた感じってのはこういうことなのかな、と考えながら俺も慎二の後を追って校舎の中へと入って行った。

言いたいことの肝心な部分を言わずに学校へ向かった士郎だが残されたセイバーは何をして欲しいのかが想像できなかった。

一緒にいるのは片手に満たない日数でしかないので直感が優れていても迷う。

いつまでも悩んでいてもしょうがないのでとりあえずは屋敷のもう一人の住人である綾の側にいようと思った。

サーヴァントであるから戦いのない時間は暇であるのだし、することもないのでということだ。

もう昼時になるがこの時間帯は実に静かでまるで隔離された結界みたいな気分になる。

事実、結界を張ってはいたがそれは他を拒絶するようなものではなく、誰かが来たということを告げるものでしかないのでただの錯覚である。

とはいえ、誰かが屋敷にやって来るということはない。

この辺りは昔ながらの武家屋敷で一軒一軒がとてつもなく広い。

人の世の喧騒などとは縁が遠く離れたような気になるので隔離された感覚がするのだ。

加えて、若者は学校に行っているか働きに行っているのが普通であるからして近所にいるのはお年寄りばかりということになる。

その間、綾は何をしているのかというと、掃除をしていた。

もちろん、毎日毎日このだだっ広い屋敷を隅から隅まで掃除しているわけではないので簡単なものである。

簡単なものではあるのだが一部屋一部屋が広いので時間が掛かることになる。しかも別棟まで入れると小さな旅館に匹敵する。これを一人でするには夕方まで掛かってしまうのだ。

そこで綾が目を付けた、もしくは目に止まったのがセイバーだった。

一人でも戦力が増えればそれだけ掃除が終わるのが早くなるのだし、セイバーにも手伝ってもらおう。

「セイバー、ちょっと掃除手伝ってよ」

「…は?」

「だから、掃除。部屋を綺麗にしましょうってことだよ」

そんな事は分かっている。王様だったといっても掃除の単語ぐらいは知っている。

「…いえ、私はそんな事のためにこの家にいるわけではないのですが」

そう答えるとガガーンと何やら衝撃を受けたようによろめく綾。とても演技くさい。

もちろんセイバーの目にもそう映った。悪いが三流以下だ。

「そんな、セイバーは僕だけにこの家の全部を掃除しろっていうの?協力して庭を掃除したあの煌く友情はどこに?」

この世の終わりだとでも言いたげだがいかんせん演技くさい。多分、本人もそれを承知でしているのだろう。

付け加えると、煌く友情を構築したかどうかはよく分からない。

しかし、襷をかけて腕まくりして割烹着を着て三角巾をつけて掃除用武装の綾を見ているとなんだか手伝わなければならないような気がしてくる。これに箒と塵取りとはたきが加わると完全体に進化する。

一応、年嵩は自分よりも遥かに年下であるが家主の一人でもあるし。

「いえ、その…」

返事を渋っていたらいつの間にか中年おばちゃんよろしく強引に掃除機を任せられていた。

そんなわけでセイバーは「これからよろしく」と断られるのを微塵も予想していない綾の目に負けて掃除機をかけていた。

ただ、掃除をしている間はふんわりしている割に厳しい監督がいたので余計な考えをすることもなく、掃除機の掛け方などのレクチャーを受けていた。

サーヴァントの存在意義はそんなものではないのだがなんだか断るのも悪いような気がしたので仕方なく手伝ったのだが、これがまた気にしないような意外と細かいとこまで指導されていた

ともあれ、別にやらなくてもいい事を一生懸命に打ち込むその姿はどこにでもいるような少女と変わりなかった。

律儀である。

そんなことも終わってお茶で一息入れてすることがなくなったら暇になった。

縁側で何をするでもなくぼーっとしてると横合いからこれは誰だといった姿が声をかけた。

「セイバー暇?」

セイバーよりもセーバーと呼ぶ思わず気の抜かれてしまう声。

振り向くとそこには剣道着に酷似した衣装に着替えた綾が日本刀を左手に携えて立っていた。

一瞬誰だか判断できなかったのだがこの家の住人で自分を知っているのは二人だが残っているのは一人しかいない。

見間違いようがないのだが見間違えてしまうような格好である。

思い出したようにその名を呼んだ。

「リョウ、ですよね」

セイバーが確かめるように綾をそう呼んだのも無理はないことで、格好の所為なのかその姿はちょっといつもの綾とは一味違う引き締まった雰囲気があった。

もともとがもともとであるので知れたものではあるが、どことなくキリッとした雰囲気があるような、ないような・・・。ううむ、一体どっちなのか。

確かに暇ではあるので引っかかる部分があるものの最高のサ−ヴァントであるところのセイバーは素直に頷いた。

「僕はこれから道場に行って鍛錬だけど、セイバーはどうする?お腹減ったなら戸棚に作って置いたサンドウィッチがあるけど・・・」

指差した先には色とりどりのサンドが高く積まれていた。

卵、ハムエッグ、サラダ、ツナマヨネーズ、カツとまあオーソドックスなラインナップである。

パンの間から中身の具が零れ落ちそうになっている。

ちょっとパンが焼けいてる辺りは面倒くさがらずに作った証拠か。

「セイバーも、行く?」

行く?の部分で鳩みたいに小首をかしげた。

あの具をケチらずにふんだんに使ってあるサンドウィッチにはかなり、すごく、とても心惹かれるものがあったのだが、闘う者として綾が何をするのか興味もあったので今現在暇である所のセイバーはそちらのほうに同意した。

すると綾はほこほこと屈託なく嬉しそうに笑うのでなんとなく気恥ずかしい気分になるセイバーであった。

「そ、そういえば士郎は私に何かを頼むようなことを言っていたのですが、全てを言い終わる前に出て行ってしまったのです。あなたは士郎が何を言いたかったのかわかりますか?」

綾は少し考え込む振りをしたかと思うとなんだか困ったような嬉しいような半々の笑顔を浮かべて右手で髪の毛の先っぽをいじくった。

「多分だけど、僕のことを気にかけて欲しいって言いたかったんだと思うよ。ここの辺りは昼時ともなると幽霊屋敷みたいに静まり返るし、大抵は一人で過ごしているからね。士郎もそれを気にかけてるみたいだし」

過保護だよねとも小さく呟いた。

その響きには兄の気遣いに感謝するのと遠慮するのが同居している。

なるほど。たしかにこの屋敷はあまりに外に開け放たれていて現実問題としては綾のようないかにも病弱ですといった人が一人でいるにはあまりに心細すぎる。加えて、ここは広大な敷地を持った屋敷であるし、いかにもお金持ってるんです。盗むならぜひ御利用の程をとお願いしているようである。おまけに住人はホエホエしていて荒事にはあまりに向いていない高値で売り飛ばせそうな容姿を持っていることだし、人間の欲を全て埋められそうな物件である。

具体的には盗人よりも強面の強盗さんたちが大挙して押しかけてきそうな屋敷なのである。しかし、加藤ではなく怪盗の三代目は現れるようなことはないだろう。誰だ加藤。

「士郎ってばいつも自分のことより他人のことを優先するんだよ。それが桜や姉さんならいいけど全くの赤の他人まで気を回すのはどうかと思うし、そのせいでいつも損してるのが腹立たしい」

セイバーとしてはそんな家庭の状況に何を言えばいいのかわからないのだ。

当たり前である。いかにサーヴァントが戦闘における達人だとしても一般家庭の問題にまでは頭が回るわけがないのである。

やけに浅黒い顔色を持つ主婦の味方にして昼時の支配者。おもいっきりみのさんでもない限りは。

分かるのは綾が士郎を心配しているということだけ。

それが分かるのは綾の声に裏表がなさ過ぎるせいだ。

「だから昔っからそんな士郎をちょうきょ・・・、修正してるんだけどイマイチ効果が上がらない。腹立たしいといえば何を頼まれてもイエスしか言わない日本人的士郎も腹立たしいけど、悪意を持って士郎を利用する奴らが一番腹立たしい」

一部分聞き捨てならない、可憐な唇からは似合わない台詞が出てきたのだがその気持ちは何となくわかる。誰だって自分の親しい人が他人によっていように利用されているとしたら腹も立ってくるだろう。それが自分の兄ならなおさらだ。

「とにかく士郎はもーねーなんて言うか、他人の幸せを持って是非とする、なんて水戸黄門じゃないんだからさ。それにいい歳した男の子でしょう。だから、自分を安売りしてるみたいで気に入らない。例えて言うなら鳥胸腿切り身ワンパック188円ぐらいの超安物。もっとどっしりと構えて欲しいっちゃ欲しいけどさ。とにかくね、いらんこと頼まれたり任されたりしてね。自分の時間が全然ないの。馬鹿みたいに」

水戸黄門というのがなんなのかは理解できないが、まるで子供と代わらない素直な感情表現だがその言葉に秘められたどえらい心配度の高さに微笑ましい思いを感じるセイバー。

自分にはあまり縁のない家族的な雰囲気は上手く馴染めそうにないけれど、それでも和やかな気分になるのはどうしようもないこと。

そんな雰囲気に当てられてしまったのか何とわなしに聞いていた。

「リョウはシロウのことが好きなのですね?」

「うん、好きだよ」

あっけらかんとした顔には羞恥など欠片もない。あるのはそんな事は当たり前、何でそんなこと聞くのといった超然とした表情で返す言葉を失ってしまったセイバー。

ただ、即決即答、子供のように装飾のないその言葉に弦が弾かれるように心に触れてきたのも事実。

己の側には声を大にしてそんな事を言う人間はいなかった。

気づけば声を小さく漏らして笑っていた。

笑うことの極端に少なかった人生だったがまさかこんな他愛もないことで笑わされるとは思ってもみなかった。

「やっぱり笑ってたほうがいいよね。笑う門には福来るってね」

うんうんと頷く綾もふくふく笑っている。

黒髪と金髪の異質な組み合わせだけれど二人して笑いながら道場に向かって行った。

「暇になっちゃったね」

「そうですね」

縁側でお茶を啜る年寄りのような若者が二人。

道場での鍛錬を終えて昼ごはんを食べてしまったらすることがなくなってしまったセイバー。

サーヴァントの本分は戦いであるのでこうしてまったりする事などほとんどないはずである。

だからなのか、妙なむずがゆさとホッと緊張の糸が途切れる居心地がいいような、悪いような、どっちつかずの心持。

加えて、隣でお気楽太平楽に茶を啜る人物ののほほんとした雰囲気もあることだし、さて、これから何をしたらばいいものか。

シロウの言いたいことは恐らく今の状況で合っているのだろうが本当にこのままボーっとしていて良いのだろうか。リョウといるのはそれほど苦にはならないが、さりとてシロウが帰って来るまですることもないというのは・・・。

生真面目な性格のセイバーには今現在の手持ち無沙汰な感覚はどうにも性に合っていない。

基本的に彼女は一心に何かに打ち込むことを好むのだ。

聖杯戦争の真っ只中にセイバーいうのにマスターである少年は学校などに行っているし、ううむ、どうにも危なっかしい彼女のマスターを心配して悩むのもこれで何度目か。

凛は生粋の魔術師だ。士郎が学校になど行ってしまえばやはり敵対象としてみるだろう。それにマスターである士郎は魔術師に似つかわしくない気性の持ち主でいらぬ戦いはしないとまで言っていることだし、それでは他のマスターやサーヴァントと出会ってしまったらあっという間に殺されてしまうやもしれぬ。ここは命に背いてでも学校へと赴くべきか・・・。聖杯を得るためではなく、魔術師の戦いに人を巻き込まないために戦うというのは、とにかく人を助けたいと言うのは・・・。

先程から難しい顔をしているセイバーを綾は大変興味深そうな顔で見ている。

無表情気味だったセイバーがころころと百面相するのが楽しいのだ。

「セイバーは士郎がマスターだと不安、困るかな?」

それは、唐突だが心中を正確に読み取られた問いだった。

「――――――――――――」

その、予想もしていなかった問いにつまる。

「―――確かに、不安がないといったら嘘になります。彼は魔術師らしからぬ魔術師です。どんな願いでも叶えられる聖杯を得ることなど考えずにサーヴァントである私が聖杯を欲しているから戦いに勝つと言った。己の為にではなく、私が望むからという理由で、です」

この身はサーヴァントであると言うのにやけに饒舌に話している。

それは綾の持っている独特の、何かを話させる雰囲気の所為だ。

「・・・いずれ、士郎は後悔するのではないのかと思います」

それは、自らにも良く分かっていないことではあったのだが。

「・・・セイバーは後悔するのを駄目だと思ってるのかな?」

その答えに虚を疲れたセイバーがそれはどういうことかと問い返そうとしたのだが。

「じゃ、そろそろ行きましょうか」

よっこらせと年寄りじみた言葉と共に立ち上がる綾に封殺された。

しかし突然のことについていけないのはセイバーだ。

「セイバーを見てるのも面白いけど、ずっと考える人みたいだと頭がショートするでしょう」

考える人とはアレだ。

世界的有名彫刻で洋式便所に座ったような形のやつだが右手の肘が左膝のほうにおいてあるという製作者の捩れた性格と意図が見え隠れしている。

彫像に喩えられたセイバーは面白くもないだろうがそれでも返答するのが礼儀である。

「どこに行こうというのですか。恐らくですが私は士郎にあなたの事を頼まれています。夜ではないとはいえ、外に出るのはあまり良くありません。それにあなたは体が悪いと聞いています」

「大丈夫だよ。ここ最近は調子が良いから。それにセイバーは士郎が心配なんでしょう?だったらここで悩んでるよりも行ったほうが良いに決まってるよ」

「しかし、シロウは私のマスターです。マスターの命に逆らえば力が衰えることになる。現在の私たちの状況を鑑みるにそれは上手くない」

「士郎がセイバーに頼んだのは僕のことでしょ。だから問題ない」

「は・・・?」

「だから、士郎はセイバーに僕と一緒にいて欲しいって言おうとしたんだから、僕が行く場所にもついてくるのは当然のことになるわけで」

いいたいことを言うと綾はセイバーに背を向けて自分の部屋に向かって歩き出した。

何が当然なのかというのはセイバーにも予想できたがそれは余りにも・・・。

つまり、学校に行きましょうと・・・?

人、それを屁理屈と言う。

呆れたといわんばかりにセイバーはため息をついた。

小学生並みの理論展開である。

家の戸締りはどこも完璧。

地震雷火事親父に火の用心。

人気がないので盗人さんも狙いを付けてしまうかもしれないがその時はその時だ。

最後に門を内側から閂で閉めて、側扉から出る。

黒のコートをきっちりと前まで止めて、ブラックジーンズに黒ブーツの徹頭徹尾で黒人間。

コートについた黒いベルトがゆらゆら揺れる。

舞台裏の黒子でもやれそうだ。

男っぽい格好だがケロケロした何にも考えていなさそうな笑顔が服装にそぐわない。

「それじゃー、行ってきます」

そのやる気のない延びた声を聞いていたセイバーだったがじっとこっちを見つめているのに気づいた。

一体なんなのだろうか・・・。

正直、綾と言う人間の性格がイマイチよく分からないのである。水のような風のような・・・、とにかく掴みがたい人格像なのだ。

そういえば、確か過去にこれと似たような人物がいたような・・・。

「ほらほら、セイバーもどうぞ」

それは誰であったかと思い起こそうとしたら合いの手が入ってきて現実に帰ってきた。

その笑顔も誰かに通じるところがあると再び過去に戻ろうとしてもにこやかに笑う綾がズイッと迫ってきたので中断せざるをえなかった。

勧められるものなのかどうか知らないがとにかく行ってきますと言って欲しいらしい。

まあいいかと思いつつセイバーも出発の挨拶をいかにも慣れていませんといった感じでぎこちなくする。

青緑の眸が形容しがたい色を発して揺れた。

「…行って、来ます」

チラリと綾を見ると満足したように頷いた。

再びセイバーに戸惑いの色が浮かんで消えた。

衛宮邸から学校までの道のりはそう長く掛かるものではない。

士郎の授業が全て終わるとしても、今行ったのでは校門で待ちぼうけと言うことになるのでどっかプラプラと回っていくことにいつの間にかなっていた。

セイバーとしては待ちぼうけでも良かったが暇は嫌だと綾がわがままこいたからだ。

会話の主導権を握られるのは構わないが何故だか綾には逆らいがたい雰囲気があるためにいつのまにかそうなっていたのだ。

ううむ、とその理由を考えるセイバーだが思い当たることはない。

綾の持つ雰囲気は必ずしもセイバーにとっては居心地のいいものではないが、何故だか奇妙な親近感を感じるのである。

その理由の答えは喉まで出掛かっているような、そうでないような、とてももどかしい物。

曖昧にするのは好きではないのだが、とりあえず保留しておくことにした。

衛宮家から少し歩くと柳同寺と学校方面への交差点に出るのだがここはもう一つの道へ行こう。

「夕飯の素敵なイノセンスが思いつくかもしれないからね、何か美味しいものがあるかもしれないし」と嘯く。

とりあえず歩き出したのは商店街の方向だった。

時間を潰すのはどこでも良かったがその提案に少し心惹かれたのはセイバーの秘密だ。

とにかく行き先が出来たのだからそこに向かって二人は歩き出し始めた。

「ここの商店街は僕たちが小さい頃から馴染みでおまけしてくれるいい場所」

「欠点らしい欠点と言えば娯楽施設がないことかな。だからここらで見かける学生はほとんどが買い食いなんだ。飲食店は個性的なのが揃っていてレベルは高いと思うよ」

「僕たちも何か食べる?何かつまもうか?」

何故だか綾は楽しそうに間断なくセイバーに話しかけている。

「あ、いえ・・・」

返事に窮しているセイバーだったがその時前方から近づいてくる女性に気づいてさっと警戒を強める。

明らかにこちらを不審げに見ているのはもしや私がサーヴァントだと気づいたからか。

約5メートル。魔力は纏っていないが何者かの走狗かも知れない可能性が在るので注意は必要。

もし何者かの刺客であるのなら排除する。

そう考えて気合を入れたのだがそれはいらぬ杞憂に終わった。

「ああ、やっぱり綾ちゃんじゃあないか」

見た目四十代の女性がパッと表情を明るく改めると綾に話しかけてきたのだから。

敵でもなんでもない綾の知り合いだったのか。

「あれ、山内のおばさん」

「いつも和服だから気づかなかったよ。やっぱり洋服も良く似合うねえ・・・」

どうやら綾はいつもならば和服を着ているらしい。

だから彼女は訝しげな目でこちらを見ていたのかとセイバーは納得する。

「ありがとうございます」

にこやかに礼を言う綾だったがその小母さんとの話を口切にして二人を遠巻きに見ていた商店街を歩く人々がわらわらと近寄ってくる。

平日なので当たり前だが大人しかおらず、子供の姿はない。

これほどの大人が一人の子供にいっせいに近寄ってくるのはちょっと引くものがあるだろうとセイバーは綾を見ていたのだが本人は気にすることなく突っ立っている。それにちょっと感心した。

「綾ちゃん、うちに寄ってみてくんねえか。いい野菜が入ってきてだな、今夜辺りの夕食にどうだい」

「ありがとー。じゃあ帰りにでも窺ってみますねー」

「綾ちゃんも士郎くんも成長期だからな。特に綾ちゃんは細いからな。もっと食って栄養つけなきゃ駄目だぜ」

ワッハッハッハと互いに笑いあう商店街の人たち。

「その場合、もちろんまけてくれるよね。五反田さん?」

綾が冗談っぽくクスリと笑うとますます大きくなる声。

「へへ、綾ちゃんに言われちゃまけねえわけにゃいかねえな」

「鼻の下のびてんぞ」

「うっさい」

照れ隠しのためか赤くなった鼻の頭を掻く五反田さんをからかってダッハッハッハーと皆して笑う。

「それより綾ちゃん。そっちの子は誰なの。始めて見る顔だけれど・・・」

最初に綾に話しかけてきた山内さんがセイバーのほうを見ながら言った。

それを皮切りにして他のみんなの目もセイバーに向く。

ちらりと横目で見ると綾はどうしようかと悩むこともなくこう言った。

「家族です」

ザワッと周囲がざわめいた。ザワワである。むろん涯でも沖縄民謡でもない。

何を言ってるのかと綾を見るが本人はいたってのんのんのんと微笑んでいるだけである。

「ってぇことはもしや士郎くんのかい?」

「そうだったら僕も嬉しかったんですけど、残念ながら違います。父さんの親戚なんです」

その簡潔な説明でへぇそうなんだと納得した皆はそれ以上追及することをやめた。

衛宮家は複雑な事情がるとなんとなく知っていたからだ。

小さい頃から子供の二人ずれで歩く光景を見続けていたら自然とそうなのだと認識したのだ。

それなのに、いや、それだからかマイルドなコーヒーを飲んだみたいに味のある顔つきになっている。

「よかったなぁ綾ちゃん」

ここにいる全員がそれなりの年輪を刻んだものであるのでその満願を込めた言葉はなんだか含蓄がこもっているように聞こえる。

それに対する綾の返事はこうだった。

「・・・はい」

何のこともなく、少しだけ頬を赤く染めて微笑みながら俯いた。

だが彼女、セイバーはその微笑に、何故か違和感を覚えてならなかった。

いつかどこかで、見せられたような、見たことがあるような、強烈な印象を持ったそれは―――

確かに、あったことなのに、なんなのか分からない。

その珍しい、と言うよりも初めてなリアクションはハートブレイクショットにも似て皆様方にクリティカルヒットした。

年齢層の高い方々のズキュンドキュン胸打つである。

味があってコクがある、まろやかな違いの分かる大人たち。

ともあれ、話の全てに置いてけぼりのセイバーにはどう反応していいか迷う出来事であった。

商店街から抜けると時間はもう三時になろうとしている。

「・・・あなたは人々に慕われているのですね」

学園への道に向けて歩き始めた二人だったがふとセイバーが綾を見ながら話しかけたのだ。

「みんな人がいいんだ。変わった人たちが多いけど根は性善説なのかね」

年寄りくさい物言いをする。

そんな事はないだろうと思う。

さきほど集まってきた人々はどうみても綾に対して好意的な視線であったのだし、そもそも嫌いだと言うのならば話しかけてなどこない。

おまけに次に来たときはおまけをしてくれるとまで言ってきたのだから好まれていると言うことに間違いはない。

それも大多数に。

何をしたのかは窺い知ることは出来なかったがその雰囲気が彼らに好まれたのかもしれない。

日常を象徴するようなほどよい暖かさは現在を生きる人々にとっての癒しとなるからだ。

また、セイバーから見ても綾は周囲を優しくさせてしまうような、懐かしい日を思い出させるような。

家庭的な雰囲気がそこにいるだけであるのである。

非日常が日常となる魔術師や超越種、この世に在らざる存在にとっては望んでも得られない時間を与えてくれる空気を纏っている。

穏やかで和やか。

雪解けの陽射しを髣髴とさせる優しい微笑み。

そしてそれは、セイバーにとっても苦手であるが忌避すできものではない。

ひどく、穏やかな表情を浮かべている自分を意外に思う。

戦いのさなかにあるというのに微笑みさえ形作る己は、それほど悪い気がしなかった。

今俺が何をしているのかと問われれば「君よ俺で分かれと」と怒鳴るしかない。

「考えるんじゃない、感じるんだ」とかふざけた返答をされたら殴る、殴る、殴るの乱舞だ。おいらにゃ獣の血が流れてる―――。

ああ、頭に浮かぶこと全てがニュータイプ的に刹那に流れてファラウェイな気分。五感、フルに、広がるパノラマ。

なんか俺、あいつに毒されてないだろうか。そんなことを考えている余裕などないというのに。

とにもかくにも背後の物騒な破壊音に恐れ慄きながら遮蔽物の無い銃弾の飛び交う廊下をこけそうになりながら駆け抜ける。

背中から迫る圧力は精神的にも物理的にも即死効果判定があってあらゆる意味で洒落になっていない。

黒い弾丸めいた魔力の塊は正しく銃弾並の大きさで俺に向かって飛んできている。

「ぬあ〜〜〜〜〜っ!!!」

それを何とか横っ飛びで間一髪ながらも避けると壁がブスブスと脅威的な音を立てて放置された秋刀魚のように焦げて煙を上げている。

ザザザと血の気が引いていくと共に背後からはゴゴゴとj○j○的効果音が竜巻の如く迫ってくる。

「狙ってるんだからちゃんと黙って当たりなさいよっ!!!」

竜巻の発生源が暴言を吐きつつ俺の後を追ってきてる。

「誰が、黙って、当てられるかーーーっ!!!」

冷静に考えなくてもこんな拳銃じみた威力を持つのには誰だって当たりたくはない。

後ろを振り返れば尋常でないほどにひどい有様をさらしていることだろう。

近距離ショットガンみたいな弾痕がそこしかこに穿たれているであろうこと請け合いだ。

ほとんど勘だけでそれを避けると教室に飛び込んだ。

何しろ相手は弾丸みたいなガンド撃ち、真っ直ぐに駆けるだけでは確実に当たってしまう。今まで避けられたことがほとんど奇蹟みたいなものだ。

通常のガンド撃ちならば相手を指差して簡易的な呪いをかけ、体調を崩したり悪くしたりするだけなのだが生ライブで撃たれているのは正しく弾丸だ。

正直、その魔力の編み方や威力は尊敬してしまうほどのものだが今は状況が状況だから喜べない。

というか、ぜんぜん有り難くない。むしろ率先して遠慮したい。

しかもそれを為しているのがあの遠坂凛だってことには。

「止まらないとほんとに撃つわよっ!!!」

「撃ってんじゃないかっ!!!」

問答無用で撃ってきたことを棚に上げてそんな警告をしているが俺はおろかこの状況ではだれも止まるわけがない。

あ、マフィアに追われている人間の気持ちが少しわかった気がする。これが警察ではないところに俺の心情が簡潔且つ端的に籠められている。

ガラッと教室の扉を開けると特殊部隊のように容赦なく殲滅。

Search & Destory。

和訳 見敵必殺也。

「本気かおまえはっ。そんなのが当たったら人間って死んでしまう生き物なんだぞっ!」

「うるさいっ。士郎が避けなければいいんじゃない。どうだっていいからとにかく当たりなさいっ!」

うわ、言ってること滅茶苦茶だ。

なんて自分本位な台詞だ。

遠坂が入ってくるのと同時に俺も教室を一足飛びに出る。

「逃げるなって言ってるでしょう、往生際の悪い!」

「まだまだ往生なんてしたくないっ!」

まだ若い身空なんだから、精一杯生きてもいないんだから。

耳元をかする恐怖をあおると共に目に映る黒い道筋。

続いてばきゅんばきゅんと日本国では聞くことなど皆無のはずで出来ない物々しい音。

うわっ、今今、今わき腹かすって股下潜り抜けたぞ。

うひ〜、こめかみにかすりそ〜〜〜っ!

銃弾の雨をなんとか掻い潜りながら階段を飛び降りて再び全速力で走り出す。

「ちっ、うろちょろとよく逃げるっ」

そんな遠坂の声が聞こえたのだが俺は構わず廊下を駆け抜けた。

一つ階を降りたら遠坂からの追撃はなくなったのかガンドはいつしか無くなっていた。

「はっ――――はぁ、は、あ」

暴れる心臓を押さえつけて後ろを見て見ると姿は無く、このまま次の階段まで行って一階に降りてしまえば多分遠坂も無茶はしないはず―――

「そこっ!!!」

「っく!!!」

条件反射のようにその場を飛び退くとガンドが三発打ち込まれるのをかわした。

遠坂は俺とは逆に三階の廊下を走って行って二階と繋ぐ場所まで来たのか。

判断を間違えた。あのまま一階まで降りるべきだったか。

即座に身体を反転してさっき走ってきた廊下を逆に走り始める。

間髪いれずにまた向かって来た。

「いい加減しつこいぞ、遠坂。こっちは丸腰で逃げてるんだからちょっとは遠慮ってものをしろー!」

「あなたが当たりさえしたら終わるんだから神妙にしてなさい…!」

くそっ。

学校に行く前に注意されたセイバーの言う通りになってしまっているじゃないか。

結構生きるか死ぬかの瀬戸際のはずなのだがセイバーは今何してるんだ。

それは、どこかの小さな公園で、どれほど小さく消え入るような声であろうとはっきりと届く一人の歌い手の小さな小さな独唱会。

夢を見ているかのように、曖昧で不確かなそれは。

歌声を聞いてしまえば誰もが己を懐古せずにはいられない、そんな歌声を。

彼女は目を見開いて、驚きながら、落ち着いて、聞き惚れていた。見惚れていた。

かつて白都の王宮にて開かれた華やかな催事に招かれたどんな吟遊詩人よりも心を穿つその音色。

悲しく涙を流すその声は物語を包み込むように優しく穏やか。

歌い手はまるで幻想世界から誘われ眠りにつくかのように。

世界には己という意識しか存在していないかのように。

現と夢の境界でまどろみの刻を詠みながら。

瑠璃に煌く眸は見えない涙を流している。

水のように、風のように、雪のように、夢のように、消えてしまいそうなほどに儚くも、それでいて確固とした存在感を放ちながら謡うその姿。

どこの誰とも知れぬ、報われぬままに逝った、どこにでもあるような、ある一人の英雄哀歌。

あっちもあっちで何かイベントが発生しているような。

ああ、なんかちょっと立て込んでそうな風景画が見えたぞ。

とかなんとか考えているうちにガンドはさらに威力を増して俺を追って来ていた。

さっきまでは銃弾だったのが今は拳並みに大きくなっていていただけない。

先程は本当は手加減していたのか、それともこちらの逃走に激したのか、とにかく威力が増したと言うことは俺にとっては歓迎できないことだ。

これは絶対に警察に通報されるほどに昇華されている。

「おまえな、日本は法治国家なんだぞ、西部開拓時代じゃないんだからそんなパンパンパンパン撃っていいと思っているのかっ!!!」

「あったまきた。この期に及んでまだそんな緩い台詞が言えるなんて信じられない。どんな頭の構造してるのかしら。ああもうほんっと頭にきたわ…!」

なんて空恐ろしい言葉と共にガンドの数を増やす遠坂凛。

反復して頭にきたといったからには本当に頭にきているのだろう。

その証拠にガンドはもはや拳銃と言うよりもマシンガンといったほうが相応しくガトリングの咆哮さえ轟いてきたみたいに―――

「うおーーーーーーっ!!!」

教室の入り口に滑り込んで危機を凌いだのだがのんびりしている暇はない。

付け加えると思考するよりも前に身体を動かさなければ。

前へ前へと足を運んで行って―――

角を遮蔽にして飛び出しつつ緩急をつけながらジグザグに走って少しでも当たりにくくする。

その間にもヒュンヒュン砲丸が飛んでくるのを冷や汗を通り越した汗を流しながらなんとかやり過ごし―――

もうちょっとで階段に届くっ!

届くっ!

届くっ!!

届いたっ!!!

「どおりゃっ!!!」

「しまったっ!!!」

気合一発。

一っ跳びで段を抜かして踊り場に膝をつくとそのままもう一度飛ぶとそのまま一階に着地する。

その普段は絶対にやらないような超難易度の軽業は俺の脚に著しい負担を強いてくるがそのままで止まってしまってほんとに人生も終わりかねない。

だから、俺は言うことを聞かない膝を押さえ込んで無理矢理横っ飛びして一回の廊下を走り抜けて―――

「嘘だろ・・・」

やっと抜け出た先は分厚い鉄板に塞がれた。

どうしようもないとはこの事か、一秒だって無駄に出来る時間はないってのに普段は開け放たれている裏口は鍵を掛けられて閉められていた。

目の前が暗転して真っ暗になっていく。

「はぁ、ほんとてこずらせてくれたわね・・・」

「遠坂・・・」

振り返ればそこには色のない眸をした魔術師遠坂凛が悠然と立っていた。

左手からは服の下からでも分かる魔術刻印の光が呼吸しているみたいに明滅を繰り返している。

西日が入り込む窓は破ることぐらい簡単に出来るがその隙を逃すようなやつではない。

加えて結界が張られたためか薄い膜みたいなものに覆われている。

しかしそれ以外に周りを見渡しても逃げられそうな場所はどこにもない。

逃げ場もないし、武器もないし、ついでに言えば今日の俺は運もない。

だから運良く人が来るということもありえないだろう。

ここに留まっているのは即ち死地へのカウントダウンに他ならない。

「衛宮くん、あなたどうしてここに来たの?次に出会ったときは敵だってあの時はっきり言ったはずだけど。それともあれだけじゃ分からなかったのかしら?」

翳した手には魔力が集まっていて弾丸を形作ろうとしている。

かつん、と一歩前に進む。

「もっと徹底的に言ってやるべきだったわね。いえ、それだけでも生ぬるいかもしれないわ。やっぱりあの時に令呪を取っておくべきだったのよ。そうしていたらこんな事にはならなかったのだし」

どうしようもなくて、一歩足が引いた。

遠坂が前に進むたびに後ろに引いていく俺の足。

繰り返していくと必然的に壁にぶつかる。

ごうんという音が俺には文字通りの行き止まりの標識。

心臓は爆発しそうなほど高鳴っていて足は疲れではなく死への恐怖に向かって震えている。

だけど、どうして遠坂は。

「もう一度聞くわ。どうしてあなたはここに来たの?」

いらだたしげに、こっちを睨んでいて。

「何故?」

すぐにでも俺を殺さなかった?

遠坂ほどの力があれば、俺を殺すことぐらい造作もなかったはずなのに、それをしようとせずにこうして俺を追い詰めている。

一体どんな理由でこんなことをしているのか。

遠坂には俺から降伏の言葉を引き出してもさほどメリットはないだろうに。

そもそもそんなことを聞くこと事態が可笑しいのではないだろうか。

余分な事をそぎ落として令呪を奪うぐらいのことをしてくるはずではないだろうか。

「俺は・・・」

何かを答えようと口を開き、遠坂と目を合わせ―――

「ふせろッ、遠坂ッ!!!」

「え…!?」

既に言うことを聞かなくなっている足に無理矢理命令を押し通し、床を思いっきり蹴って右腕を翳した。

途中、俺の怒声に驚いたのか立ちすくんでいる遠坂を左手で押しのけるとその場で立つ。

どすん、という音をどこか人事みたいに聞きながら流れ出てきた血を見ている。

制服や包帯での防護など全く意味を為さずに突き破られたそれは、予想するまでもなくとんでもなく痛かった。

どれぐらい痛いかと言うと、複雑骨折が開放骨折しているぐらいに痛いのだろう。

なにせ骨を突き破って神経などがもろに露出しているのだ。もしかしたら動かなくなるぐらいの傷かもしれない。

だがこれぐらいで痛いなど泣き言を言ってはいられない。

この程度の痛みなんて俺はしょっちゅう見てきたはずだろう。

狭くて暗い部屋の中、細い身体を掻き抱きながら血反吐を吐いてのた打ち回るあの光景。

咽かえる鉄の匂いの中、涙さえ見せずに耐える姿。

漏れ聴こえる苦鳴をただ立ち聞くことしかできないあの悔しさ。

俺は何度も見てきたはずだろう。

アイツが痛いなどと零した事がないのにアイツを支えていかなきゃいけない俺が、そんなことを言えるわけがないじゃないか。

「ちょ、衛宮く、腕、血が…っ!!!」

「大丈夫だ。見た目はひどいけど、それほどでもない」

「何言ってんのよっ!腕に杭が突き刺さってるのよっ!!痛くないわけないでしょっ!!!」

焦っている遠坂を見ると逆に傷の程度が解ってきたのだが今はそれどころじゃない。

どう見てもその手の嗜好の好きそうな棘つき極太の針は長い鎖に繋がれて今は俺の右腕と直結。

ナイフ、と言うよりもその形状は杭に近い。

柄の部分が頑丈な鉄刺に覆われていてさらにその下に鎖が連なっていて階段から延びている。

考えるまでもなく市販されているようなものでもない。

犯罪大国アメリカだってこんな奇妙な得物は造らないだろう。

まだ無事な左手で引き抜こうとしたのだが意外なほどに抵抗を示して容易に抜けない。

「あ、ずっ・・・!」

「ちょっと待って衛宮くん。そんなんでいきなり抜いたら出血過多で死んじゃうわ。ゆっくり、少しずつ・・・っ!」

「そんなこと悠長なことしてられないだろう。こんなものがついてちゃ満足に動けもしない。遠坂、手伝ってくれ」

そう、悠長なことはしていられない。

鎖はピンと張ってまるで俺を挑発するように少しずつ引き寄せいてるのだ。

この力。その気になればきっと俺の全体重をかけたとしても容易く引き寄せる事が可能だろう。

頭にくるけれど、そんな安い挑発に乗るわけにはいかない。

何を考えてまどろっこしい事をしているのかは知らないが、俺を殺すつもりはないのか。

どちらにしても、そのままの状態になっているわけにもいかない。

「手伝えって、一体何をっ!」

「これを抜くのを手伝ってくれってことだ。今サーヴァントに襲われたらひとたまりもないだろ。その前に手枷になってるコイツを無くしてたほうがいい。だから、頼む」

「…ああもう、分かったわよ。これを抜けってんでしょ。いいわよ。分かったわよっ!」

なんだか逆プチ切れ気味みたいでご立腹みたいだがその方が焦っているよりもいい。

俺の左手の上から両手に添えるように重ねると杭を思いっきり引っ張った。

「いくわよ。1・2・3ッ!!!」

グッッハッ・・・。

とんでもない痛みだ。

神経を貫いている鉄の棒を無理矢理引き抜こうと言うのだからその痛みと言えば常軌を逸してる。

自分の中身が見えるというのはとんでもなく気味の悪いことでさらに血の匂いが辺りに広がっていく。

「〜〜〜〜〜〜〜ッが・・・!!!」

「抜けたッ・・・!」

ゴポリと流れる血だけが鮮明。

放り投げるとまるで蛇を思わせる姿態でジャラジャラ音を立てながら上の階へと引き摺られていった。

危うい怪我をすると動作のための感覚はなくなって体感できるのはただ熱いだけだということ。

いや、実際には右腕の熱が急速に下がっていくことによる比較か。

そんなことはどうでもいい。

今はとにかく、サーヴァントを追わなければ・・・。

「ちょっと。どこ行くのよっ!」

グェッ!?く、苦しい。

立ち上がって走り出そうとしたら遠坂に首根っこを掴まれて襟が締まった。

「どこって、サーヴァントを探しに・・・」

「何莫迦なこと言ってんのよっ!そんなことよりもまず止血するほうが先でしょうっ!!止血するものはある?早く出しなさいっ!!!右手も出すのよっ!!!!」

遠坂は俺の返事も聞かずにかがみ込むと恐らく遠坂のものであろうハンカチを出すと穴の開いた部分に何やらぶつぶつと呟きながら巻き出した。

元々赤いハンカチは滲みだしてくる血によってさらに赤く染められてしまった。

自分の腕も制服も血に汚れるのもいとわずに手当てをしてくれる遠坂凛、その姿は。

こんな時だって言うのに俺はなんてぼんやりしてるんだろう。

痛みさえ覚えそうなその横顔。

傷ついたのは遠坂ではなく俺だというのに。

俺の右手にハンカチを巻いて手当てをしてくれている遠坂凛の横顔はとても必死でとても綺麗で。

とても尊く思えて見惚れていた。

「これじゃ足りない。衛宮くんハンカチ持ってる?」

俺を見る視線も真っ直ぐ真摯で、無言のままにハンカチを差し出した。

鳥の羽の模様があしらってある青いそれを重ねると、血はすぐさま染みて青紫へと変色する。

「敵は私に任せてここでじっとしていなさい。簡易的なものだけど、とりあえずの止血はしたわ。後は動かさずに私の家まで行くことが出来ればいいんだけど、そうはさせてはくれないか・・・」

颯爽と立ち上がり、上の階を睨みつけると階段に向かって走り出した。

というか、俺もいつまで見惚れてるつもりだよ

遠坂はここでじっとしていろと言ったけれどそんなことできるはずがない。

右手がひどい状態であることに変わりはないが止血は出来た。遠坂は階上に上がって行ったのだから俺もすぐに後追わないと―――

と、その前にしなきゃいけないことがある。

急いでそれを済ませると剰運動で明日は使用不能確実の足に鞭打って急いで階段を登っていった。

階段を登って二階に上がると遠坂の姿はなかった。やばいと思ったのもつかの間、俺はあの必死になって俺の手を見てくれた姿を捜し始めた。

廊下の向こう側には遠坂の姿はなく、そこから推測して恐らくどれかの教室にいるのだろうと検討をつけると一番近い教室から覗き始めた。

こうしている間にも遠坂がサーヴァントに襲われているかもしれない、既に殺されてしまっているかもしれないと思うといてもたってもいられなかったが、こんな時、一番危険なのは物事を余計な想像から判断して決め付けることだということを俺は知っている。だから冷静に、何があっても取り乱さないように注意深く教室を覗いていく。

くそ、遠坂には大きな借りが出来てしまったってのに何かあったら返すことも出来ないじゃないか。

そんなのはとにかく駄目だ。何が駄目って何でも駄目なんだ。

遠坂の姿は端から2番目の教室でじっと何かを睨みつけながら立っていた。

そのナニか。足元に転がる見えにくい影。

力なくグッタリと四肢を投げ出して動く様子など皆無。

遠坂が睨みつけたままじっと動きもしないそのナニかとは、多分、ここの生徒の事なのだ。

それも恐らく聖杯戦争という馬鹿げたゲームに巻き込まれてしまった、まったく関係のない犠牲者。

何の意味もなく、何も知らずに、ただそこにいたというだけで犠牲になってしまったヒト。

目の前が真っ白になって、その後に、あの赤い光景を思い出した。吐き気がするほど真っ赤に染まった記憶の光景は今でも鮮明に思い出せてしまう。燃え上がる建物が空を焦がす。ナニかの焼ける嫌な臭いさえ蘇ってきそう。垂れ込める暗雲は俺達を押しつぶしそうで―――、

思い出すな。そんな事を振り返っても意味がないだろう。

今は過去の出来事に浸っていていい場面じゃないんだから。

「おい、遠坂ッ」

声をかけるとビクリと背が跳ねる。遠坂が何を考えていたのかは知らないけれど、悪いがそれを続けてもらっていては困る。だってこの人は死んでいるって訳じゃないんだから。ちゃんと息もしてるし、僅かだけど胸が上下に動いているのが何よりの証拠。俺が出来ることは何もないのだ、遠坂に頼るしかない。

「え、衛宮くん。なんで・・・」

「ああ、俺のことは後回しでいい。とにかく、この人をどうにかしよう。目立った外傷はないけどいったいどうなんだ。ただ単に気絶してるだけなのか?」

遠坂はえっと喉を詰まらせるとそれまで突っ立っていたのが嘘みたいに迅速に動き出した。

「・・・目立つ外傷は、特に見当たらないけど」

倒れている生徒を丁寧にだが細心の注意をして調べているとポツリとそんな言葉を漏らした。

さっきと同じ、見ているこっちが痛くなってくる横顔。

それは、つい最近、見たような、ことが、ある、気がして。

いつ、だったったけ。

それよりも、それも気になる事は確かだが、けど、ってそんな限の悪いところで止められると気になって仕方がない。

最悪の可能性はなさそうだがなにか、何事もはっきりさせたそうな遠坂が言葉を止めると、それが尋常なことではないように聞こえてくる。

「おい、なにがどうなって、けどなんだよ?」

「ちょっと黙ってて、こういうときは、そう、落ち着いて―――」

自分に言い聞かせるように小さく呟く。

悔しいが俺にはそれを知る術がない。

民間医療だって怪しいのにこれが魔術だったら手に負えない。

「血が、足りてない。応急の処置はこの場で出来るから、死ぬなんてことはない。けど、後遺症があるかもしれない。これは、血を吸われてる。相手がなんだか特定するのは難しいけど、吸血種らしいわね。感染することはなさそうね」

「で、どうなんだ。やっぱこういう場合、救急車なのか?それとも魔術協会のネットワークでもあるのか?」

「綺礼に電話して、教会に運んでもらうわ。こんな時でしか使えないんだからこき使ってやるわよ」

倒れた生徒が症状があらかた分かったからか遠坂の言葉にはもう動揺はない。動揺はない。言ったように言峰神父をこき使う気満々のはず。

安心した。遠坂が大丈夫だって言ったんなら絶対に大丈夫だと思える。

けれど―――、

その横顔はあまりに痛くて、胸が締め付けられるほどに。そんな顔をされると、俺は―――。

立ち上がって学校に備え付けの電話まで走っていこうとしたところで―――

「動かない方が賢明です」

黒い影が忽然と表れ、その行く手を遮る。

黒一色のその影。それは長い紫色の髪を持ち、黒い衣服を身に纏い、手にはさきほど遠坂を殺そうとし、俺を刺し貫いたあの杭をだらりと揺らした女。

それだけじゃない。何よりも異様なのはあの目隠しのような物。奇怪な目隠しは蜘蛛のように張り付いてまるで何かを隠すために付けられているよう。

なんて魔力の塊。

人間離れした美しさは血の毒々しさと混ざって現実感がまるでない。

「ッ、サーヴァントッ!!!」

直前に立ち塞がった黒い影から慌てて距離をとる遠坂は一速で俺の隣まで跳ぶとそれに大して身構えた。

「なかなか機敏に動ますねあなたは。あと少し遅ければその首を叩き落していたでしょう」

淡々と遠坂の首をはねると口にしたサーヴァントは惜しむでもなくこちらを見ている。

俺はおろか遠坂さえ動く事が出来ないのか微動だにしないままにその姿を睨んでいる。

睨んでいるといってもあちら側はこっちの事なんてまるで歯牙にもかけていなさそうで、その態度はいつでも俺達を殺す事ができるのだといっているように見える。

事実、その通りなのだろう。

相手がどんなサーヴァントであれ『普通』に考えるならば魔術師だって敵う相手ではないとセイバーにも言われた。

俺も肯定しよう、全くその通りだ。

アイツが表れたとき、俺は反応する事さえ出来なかった。それは俺の生殺与奪の権利は奪われている事の証左だ。

ただ、なんで遠坂がここまで下がってきているのかが分からない。

コイツにはアーチャーのサーヴァントがいるはずなのだが、もしかして―――、

「おい、遠坂」

「なによ、つまんないことだったらぶっ殺すわよ」

なかなかにTPOに合った台詞を吐いてくれる遠坂凛。こんな時だって言うのにその声には焦りの欠片もない。まったく、頼もしいのやら怖がればいいのかどっちなのか。

「お前、アーチャーはどうした」

「…家に帰ってもらった」

ああ、やっぱり。

そもそも遠坂があの時、目の前のサーヴァントに襲われた時にアーチャーが出てこなかったこと事態が変だったのだ。

サーヴァントはマスターがいなければ現界していることが出来ない。もちろんそれはあくまで通論であってマスターがいなくなっても己の魔力が続く限りは活動可能なのだろうけど、マスターが危機にさらされているのに出てこないのはおかしい。

…呆れた。

「なんでさ?」

「あなた一人程度なら私だけで十分仕留められる。わざわざアーチャーの手を借りる事もないわ」

いや、確かにその通りだろうけど、なんで家に帰すとかするかな。

そのせいでこんな目に遭うの予想できなかったのだろうか。

「どうして家に帰したりするんだよ。そのせいで危険な目に遭うとか考えなかったのか?」

「あなたがさっさとガンドに当たってたら手早く済んでたのよ。そもそも、あなただってセイバー連れてきてないじゃないッ」

なんか物凄い責任転嫁された気がする。さっさと当たっていればとはどういう了見だ。

「セイバーはアーチャーみたいに霊体になれないんだから連れて来れるわけない。俺はアーチャー家に帰したお前がこんな目に遭った事を言ってるんだッ!」

「は、それを言うならなんであなたはのこのこ学校になんて来てるのよッ!そのせいでこんな目に遭ってるんじゃないッ!死にたくなければ家で大人しくしてなさいって言ったでしょうがッ!あなた見かけたときあやうく魔力暴発しそうになったわよッ!」

「じゃあなんだって遠坂も学校に来てんだよ。遠坂だって来てるんだから俺が行ってもいいだろうが。第一、聖杯戦争がどうなもんだってなんで俺が生活リズムをかえにゃならんのだッ!」

「あなた、あれだけ言ったのに何にもわかってないのね。いい、聖杯戦争ってのはね、衛宮くんが考えも及ばないぐらいの殺し合いなのッ。あなたみたいな平和ボケしてる人間が真っ先に死んでいくのッ!!!」

「だからって死ぬとは限らないだろうがッ!!!」

「いいえ、絶対に衛宮くんは死ぬッ。現に死にそうになってるじゃないッ!!!」

「断言するなッ。お前だってそうだろう、俺だけが死にそうなわけじゃないだろうがッ!!!」

気づけば顔と顔をつき合わせて言い合いしている俺達がいた。

そんな事してる場合じゃないのに遠坂の言葉にいちいち反応して言い返してる。

俺だけじゃない。遠坂だっていつでも殺されそうな状況だっていうのは変わらないだろうに、なんでアーチャーと離れてしまったのかこいつは。

そもそも危険度で言ったら俺よりも魔術師然としてる遠坂の方がサーヴァントを自分から離すことの危険を知っているはずなのに、そんなこと言われてしまうとつい口が出てしまうじゃないか。

「ああもう、ああいえばこう言うわねあなたはっ!」

「遠坂だって似たようなもんじゃないかッ!」

「あなた方、今は言い争っている場合ではないのではないですか?」

その声に触発されてザザッとサーヴァントに向き合う俺達。

なんで敵にそんな事を言われなければならないのか分からないが確かにその通りだ。

不毛な言い合いはピタリと止まって再び緊迫した雰囲気が教室に満ちてきた。

倒れている生徒が掃除に使ったのかは分からないが床に転がっている箒を拾う。貧弱そうだがこれでも武器にはなる。

そっと手を伸ばしそれを手に取るが正体不明のサーヴァントはかすかにこっちに首を回しただけで咎めるような事はしない。

掃除用具なんか武器にもならないと思ったのか、それとも俺が何をしようとも無意味だと思っているのか分からないが得物は確保できた。

俺ならこの箒を鉄の棒以上に固く強化することが可能だ。鉄の棒がサーヴァントに効果があるかは微妙だがないよりまし。心配はその強化自体が成功するかどうかだ。

気を落ち着け、丹田に力を込めろ。

やる事はいつもと同じはず、その工程に何ら変わりはない。

失敗する事など考えるな、よくないことを思えばそれは本当になると聞いた。ならその反対はなんになる。答えは簡単。失敗の反対は成功。

これより俺は一個の魔術回路となる。

余計な雑念は払われる様にこそぎ落とされ、目は敵に見据えられたまま、神経が作り変えられる感覚。

氷柱が脊髄に詰め込まれ麻痺しそうな感覚はそのまま魔術行使の回路へと背筋を伝わり這い回る。

箒の材質を即座に読み取り、継ぎ接ぎだらけの柱に異なる力を流し込み、補強する。

その一連の動作。驚くほどに軽やかにまるで鳥が空を飛ぶように当たり前。

今が今でなければそれこそ自分でも驚嘆したいぐらいにあっさりと強化の魔術は成功してしまった。

「ほう、抵抗するつもりなのですね」

黒い女は俺が手に取った箒を見るとうっすらと微笑んだ。

その余裕の笑みはまぎれもなく真実に裏打ちされたもの。俺を嬲るつもりかどうか知らないが、こっちだって大人しくしているわけには行かない。

「一言忠告しておきますが、令呪など使わぬほうが身のためです。使う素振りを見せた瞬間に殺傷してあげますから」

む、と遠坂が気づかないぐらい小さく身じろぎした。俺もそれを考えていただけに動揺するが俺には令呪の使い方が解らない。肝心な事をセイバーに聞くの忘れているじゃないか。

「ふん、何を考えてるのか知らないけど、私たちをどうして生かしてるのか疑問ね。今なら簡単に殺す事が出来るわよ。それこそ何の苦労もなく」

確かにそれは俺も疑問に思っていた。

こいつが刺客だというのならなんでさっさと殺して令呪を奪わないのか。

最初に現れた時だって殺そうと思えば俺達を一息で殺せたはずなのに。

「さあ、私はマスターの命に従っているだけですから。それを知る必要はありません」

「遠坂、マスターって・・・」

「ええ、元々学校にはマスターがもう一人いるのよ。だから私はそいつが誰だか探るために学校に来たってわけ。伊達や酔狂で学校に来たわけじゃないの」

こんな時だってのに遠坂は俺が学校に来たことをちくちく責めてくる。

あ、ちょっと頭にきたぞ、今の。

頭にきてるのに、頭にきてるけど笑ってしまう。

どこまでも強気な姿勢が遠坂凛を形作っているものだと少し理解出来てしまったからだろうか。

「ちょっとなに笑ってんの?」

眼前のサーヴァントから気をはずす事はないが不服そうに横目で睨むのも遠坂凛。

いや、ほんと、遠坂って意外性の塊だ。

外見はお嬢様然としているけどその中身たるや古代中国は三国一の無双にも匹敵するんじゃないだろうか。

こんな状況なのにそうやって出来る胆力とかすごいと思うぞ。つられておもわずこっちの緊張感さえ薄れてくるじゃないか。

「いや、遠坂がすごいなって思っただけだから」

「む・・・」

遠坂が誉められたのか貶されたのか分からないように唸ったけれど、今のはまちがいなく誉めたんだぞ。

納得がいかないようだがこんな問答を続けているわけにもいかないので視線をサーヴァントに戻す遠坂。

「で、あなたのマスター、私たちが無抵抗なのをいいことに何がしたいわけ?」

「はい、そちらの少年が私と戦っていただきます」

「「は?」」

俺と遠坂の声が疑問になって重なった。

よりによって俺と戦えって一体どういうことだ?俺は指名される覚えはないぞ。

試したいのか、嬲りたいのか。

ありを殺すように踏み潰していくのか、それとも毒で殺すようにじわじわといたぶりたいのか。

なんにせよ、提案されたのだから断れない。

「ちょっと衛宮くん。そんな提案に乗ることないわよ。確実に死ぬ事になるわよ」

「いやでもさ、これって提案じゃなくて命令じゃないか。ここで断ったら死ぬ事になるぞ」

「む・・・」

遠坂も解っていたのかその先を言いよどむ。

なんにせよ、この崖っぷちでは言うとおりに従うしか生き残る道はない。

「手助けしてもらっても構いませんよ、所詮は人間とサーヴァントですから」

「何が人間とサーヴァントですから、よ。それを言うならサーヴァント同士で闘うのがセオリーじゃない。それとも何、あなた、自分より弱い存在としか戦えないわけッ!?」

敵は薄く笑うだけで何も答えない。

遠坂は相手を貫き射抜く魔術師の目で黒い女を見据えて文句をつく。

「いい、衛宮くん。勝とうなんて考えないで生き延びることだけ考えなさい。アーチャーを呼んだから、あと少し経てば絶対に助かる」

小声で俺にだけ聴こえるようにアドバイスまでしてくれてる。そこまでしてくれる理由はよく解らないけど、その様子を見ていたら何だか嬉しくなってきて。

「なあ遠坂。もしかして心配してくれてるのか」

「べ、別に心配なんてしてないわ。だ、大体なんで私があなたの心配しなきゃいけないわけ?敵同士よ、私たち」

ああ、それはよく解ってる。

本気で俺を魔術で撃ってきた遠坂だから俺はまぎれもなく敵として認識されているのだろう。

だけど、その敵である俺がこうしてサーヴァントと戦うなんて出鱈目なことになって本気で真っ直ぐに憤っている。

遠坂はサーヴァントという存在と闘う事になる勝敗への不公平さに腹を立てているのだろう。

人間とサーヴァントが戦って勝つなんてことはセイバーにも言われたけど間違いなく不可能だ。

それは二つの存在の力関係の天秤が大きく片方に傾いているからだ。それも圧倒的に。

存在レベルからして桁違いのそれを覆すには何か大きな要素と裏技がなければ駄目なのだろうが今の俺には半端な強化の魔術しかない。

だけど―――、

「知ってる。からかっただけ」

見るからにカチンときたのか遠坂はいつも学校で見るよりも表情が豊かでいいと思う。

少なくとも俺はその方が好きだ。

「あなた、後で覚えてなさいよ」

なんて背筋が寒くなるような怨念の篭もった言葉で送り出してくれた。

プイと顔を背けてしまうその仕草が楽しくて。

ああ、なんだか知らないが、それを予想すると恐ろしいやら何やらで、生きる活力が沸いてくるみたいじゃないか。

「ん、覚えとく。俺はこんな所で死ぬわけにはいかないからな」

さっきの言葉は俺にとっては図らずも激励になってしまった。

あんな言葉が激励になってしまうあたり、傍目からなら俺たちは一体全体どんな風に見えるのかちょっと考えて、また笑った。

うん、やっぱり遠坂って意外性の塊だ。

突き放すような言動と所作でわかりにくいけど、その芯はきっと真っ直ぐに空へ屹立する大樹のような。そんな気がする。

「よし、遠坂。元気になったみたいだな」

「え?」

うん、気合も入ったし、あとは相手の望み道理に闘うだけだ。

こんな馬鹿げた状況。もちろん死ぬことは怖く目の前の存在への恐怖もある、しかし、それよりも強くあるのは絶対に死ねないという思いが溢れそうなほどに。

人間、どうしようもない場面に追い込まれたら複雑な感情なんて吹き飛んでしまう。元々複雑な事を考えるのは苦手だ。後はただ己が思うままに。

「…あなたは、私のマスターとは違いますね。追い詰められてもそのように毅然としてあることができる。誉めて差し上げます」

「…そりゃどうも」

机の合間を縫って少し中央よりに移動する。

日頃学生達が勉強に使う机は整頓され並んでいるが移動するにはむしろ邪魔。

相手は一足飛びで俺のもとまで駆け寄る事が可能だろう。床は綺麗に磨かれていてゴミ一つだってない。

これなら万に一つも躓いて転げるような醜態をさらす事もないだろう。

風もないのに紫の髪がわずかに間を持って浮き上がる、それはきっと行動開始の合図のはず。

「…これはマスターの指示外ですが、あなたの勇敢さに免じて名乗りましょう。私はライダーのサーヴァント。この意味をよく考えてください」

…自分からどんなサーヴァントかを名乗るのは正直、以外だった。

だってこいつがあの生徒の血を吸ったやつなのだろうから。そんなことを言われると、どう返していいか解らなくなる。

ライダーのサーヴァント。

セイバーは能力よりもスキルや宝具で闘うテクニカルなタイプのサーヴァントだって言ってたけど、その意味を考えろとはどういうことなのか。ライダーという名は伊達ではないだろう、何かに乗って攻撃してくるのか。

サーヴァントにとって、教室の入り口から窓際までの距離なんてないに等しいはず。窓から蹴落とされでもしたらそれだけで勝負は終わりだ。

そんなことを考えて前に少し進んだ一瞬、気が離れたその時ッ!

黒い影は地面を縫うように低空飛行で此方に近づき、その短刀は逆袈裟の軌跡を描いて俺の喉元へと迫り来るッ!

なんとかその一撃を強化した箒の柄で払う事が出来たけど、それはあからさまに攻撃部位がわかったからに過ぎない。

次にどこに来るか予測する事さえ不可能。

だというのに、俺は二撃目、横合いからの一閃から連続しての回し蹴りを連続して防いでかわした。

ヒュン、と耳元を掠めていく風きり音をそのままに俺は柄を振りかぶり気合と共に振り下ろす。

それぐらいかわせない筈がないライダーにはもちろん当たらない。

本来、俺が攻撃に転じる事なんて考えられない事だ。何故なら俺とライダーの戦力彼我は子供と大人、アライグマと灰色熊ぐらいにある。その戦力差はどうやったってひっくり返る事はない。

遠坂の魔術のおかげか切り結ばれる短刀を弾くと麻痺同然の右手の感覚が蘇ってきた。さっきまで左手で扱っていたから利き手の感覚が戻ってくるのは素直に嬉しい。

持ってる箒は見ようによってはまるで不恰好な鉾か薙刀のようにも見える。

先端の部分が重なって重くなっているので重心は少し先に集中し、あまり力を込めなくても勢いがついてくれる。

右手で柄の部分を転がして間合いを短くしたり長くしたりできるのが薙刀の長所だ。

加えて、狭い部屋の中で振り回すために刃の部分は小さめで、室内戦闘に適した無駄のない形。

ライダーが飛び回るために整頓された机は乱れに乱れ、すでに木っ端と化しているのも少なくはない。椅子は蹴散らされて床一面に廃棄されているよう。茜色の光が差し込んでくるせいか寂しい墓場さえ連想される。

そうして何度目かの攻防を終えて、解った事は、解らないということだ。

何が解らないって、どうしてライダーはそんな単調な攻撃を繰り返しているのかって言う事だ。

目が慣れたのかライダーの攻撃はその尽くが心臓と喉の二点の急所狙いのみと見切る事が出来るようになった。始めから攻撃する場所が解っていて、しかもその数が二つだというのなら、それならば俺でも防ぐことぐらいできる。

一端離れた後に再び突撃して攻める。間に蹴撃や掌底などがあるもののそのパターンそのものは変わらない。

と―――、

さきほどまでの攻防の軋みによるものか、強化によって鉄にまで鍛えられた箒は真ん中から真っ二つに折れてしまった。

その途端、魔力は途切れ箒はただの木屑に変わる。

死んだ箒をよみがえらして強化する事など出来ない。慌てて床に転がった机か椅子だかの鉄の棒を二本拾い上げると魔力を通し、鋼鉄と化した。

この間、2秒。

「…?」

どういう事なのか。

ライダーは先程の致命的なまでの隙を見逃して悠然と立っていた。その距離、およそ8メートル。届かないわけがないのにじっと突っ立ったままなのはどういうことか。

「ふむ、このままではいけませんね。少し、力を出します。気をつけてください」

そんな不可解な言葉を聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った後。

さっきまでの単調な攻撃嘘みたいに素早い動きでこちらに跳んで来るッ!

両手の短刀は蛇みたいに鎖をくねらせながら放たれる。その速度、ちょっと前までのとは比べ物にならない。視認する事はおろかいつ跳んできたのかさえ解らない。

当たるわけには行かない。右の棒で合わせようと身体をひねりながらライダーの左の杭を迎撃。

まぐれあたりかこの際どうでもいい、問題なのは手首が付け根から持っていかれるほどの衝撃があるということだ。これを何度もされたら間違いなく腕が吹き飛ぶ。

冗談じゃない。手抜きもいいとこ。

攻撃部位も変更されたのか腹や足になんどか斬撃が与えられ、その度に肉が削り取られていく。

頭、心臓、喉を固めるようにして両の鉄で護る。

杭という形をしている所為か、短刀自体の殺傷能力は刺突にさえ気をつければ即死はない。だが、こうして外側からじわりじわりと殺ぎ取られていく感覚は鳥に啄ばまれるようで不快以外の何者でもない。

「こ、の―――」

闇雲に振り回した棒は掠ることすらなく空を切った。それでもライダーを少しでも退ける効果はあったのか短刀が止んだ。

開けた視界にはライダーの姿はない。

そんな馬鹿な。

ここは教室なんて狭い空間でライダーが隠れることが出来る場所なんてあるはずが―――、

「上ッ!!!」

その声を疑うことなく信じ、棒を交差する。

ガギンと重たくも鋭い音が頭を攪拌して響いていく。耳元で起きた音は鼓膜を強力に刺激したのか少しだけ世界が止んだ。

…どういう理屈だ、それ。

音色を取り戻したとき、見上げる姿は信じられないことに天上に張り付いていた。地球の重力法則に逆らうように天井に手足をついた姿はまるで巣を張った蜘蛛みたいで。

あの声がなければ俺は頭頂から直接脳を抉られて死んでいただろう。

「よく防ぎました」

驚いているのかライダーは微妙に感情を覗かせる声でそんな事を言った。

「では、もう少し速度を上げます」

もう少し速度を上げようがなんだろうが、俺がすることに変わりはない。もとより俺には防ぐ事しか出来ないんだから。

だからって、これはないだろう。

ライダーはさっきまでの奇襲めいた突撃はやめて変わりに八方からの多角攻撃へと切り替えていった。

その速度、軌道さえ辿ることが出来ない。

俺は必死になって教室を自在に飛び交うライダーをいなしながら背を壁に預けて両の手を強く握る。

勝負になんてまるでならない。

息は荒く、心臓は猛り狂ったみたいに暴れて血液の循環が下り坂になったようじレッドアラートを鳴らす。

警告めいたそれはこの体の限界を告げるのと同じだ。

それなりに鍛えてきたつもりだが、こんな事が繰り返されていると耐えられるはずもない。

頭にくる。ライダーのマスターはこの状況をどこかで見ていて無様に這いつくばっている俺を笑っているのだろうか。

人がこうして死ぬのを免れるのに必死になっているのを―――。

「驚きました。あなたは魔術師であるというのに私の攻撃を防いでいる。ただの鉄の棒に変わりはないというのに、素晴らしい」

もう上を見上げるのさえ億劫になってきて、それでも負けられなくて。

「では、そろそろ終わりにして差し上げましょう」

そんな言葉が、かろうじて聞き取れて―――、

「ッ!!!」

硬い刃金と刃金が食い合う甲高い音が聞こえた。

続けて―――、

「Gehe rasch und genau!!!」

緑色の閃光がライダーに向かって雷撃じみた速さで炸裂した。

直撃は避けたが余波でやられて衝撃波によって吹き飛ぶライダーは軽業師のように宙でくるりと姿勢を整えると綺麗に着地した。

「引きなさい。この場は見逃します」

声は聞きなれていないが気分良く、自然の音のようにするりと俺の中に入ってくる。しかし、声は怒りに震え、眼前の敵を睨み、隙あらばそれこそ切り伏せようと。今はそれよりも大事なことがあると。

「ちょっと衛宮くん平気?!」

知ってて平気かなんて聞いてくるくせにこっちの状態を知らないみたいに怒鳴り声。

だけどその怒鳴り声は真摯に俺を気遣っていて、必死さが伝わってくるように。

「…なんとか」

絞り出した声はか細くて俺の声じゃないみたいに聞こえる。

ああ、視覚が暗転する。

くらり、と身体の平衡感覚がずれてきて、ここ数日ですっかり仲良くなった感覚が俺を包み込み―――、

「マスター、気をしっかり持ってください。シロウッ!」

「衛宮くんッ、なに考えてんのか知らないけど、あんた死ぬ気ッ!!!」

…頭を揺するな。血液が逆流してきて噴き出しそう。

よく漫画とか小説とかで気を失いそうなときに頭を揺する場面ってあるけど、あれってほんと、気持ちがわるい、な―――

こんな怪我して帰ったらアイツにぶん殴られ―――。

………………………。

……………。

…。

歌。

歌が、暗闇の向こう側から聞こえてくる。

『―――くきこ――――らかな―声』

小さな頃から聞き続けてきた、聞くことが出来たあの柔らかい歌声。

どこか哀しそうで、だけど優しく。

『―――くちい―――草――歌―』

まどろみの世界に暖かく響く音色はまるで春の雪解け。

それはそのまま歌い手の心を表しているように。

『澄み―――――く――のさ――の―』

いつか、誰かが言ってたっけ。

“歌はありのままの己を曝け出す、歌声を偽るとはそれすなわち自らを偽ることだ”と。

『―――る―節――期待―た―――――おさえ』

誰かが教えたわけでもなく、誰かが勧めたわけでもない。

気づいたら、歌っていた。

『―ど――に――れてそっと―――しめた――』

それが全くの自然である事のように、当然の如く歌っていた。

俺も親父も喜んでたっけ。一番喜んでたのは藤ねえだったが。

『花―――木――――しに歩いて―――』

何も欲することなく、何も望む事のなかったアイツが、初めて自分から行った事。

なにがきっかけで、歌いだしたのかは知らない。

『――た両――――――――い―――てきそう』

歌が己を表すというのなら、この響きは間違いなくアイツ自身のもの。

偽りないアイツの表現方法。

『―り返――――な―――頬―――る―風と木―――』

最近はあまり聞く機会がなかったけど、久しぶりに聞くその声は懐かしく穏やかで、まだ親父が生きていた頃の大切な思い出を。

どこか痛くて、それでも暖かい。それは嘘も偽りもない、正真正銘の―――

パチリとシャッターを切ったみたいに意識が覚醒した。

目覚めはひどく落ち着いていて、眠気などまったくない。

そのはずなのに目を覚ますのがもったいなくて、目蓋は閉じられたままにしていた。

ひどく清々しいが、何かが欠落してしまったよう。

例えて言うなら楽しくて待ちに待った映画を見終わったあとの虚脱感のようなものだろうか。

どこか、寂しく。どこか、哀しい。けれど、満たされていて。

あやふやな感覚がもどかしくて目を覚ますのを嫌うだなんて、まるで子供のよう。

そんなことを考えて苦笑する。もう何もかもを幸せに受諾するままの幼年期はとうに過ぎ去った昔の事だっていうのに、心の片隅にはしっかりとそれが残っている。

夢を見る事が出来る子供は際限のない幸せを享受することができるけど、夢から覚めてしまった子供は可能性の限界に気づいてしまう。

狭い己の世界から抜け出して、広い他の世界を見る事によって現実を理解してしまうのだ。

どうやっても、なにをやっても自分が手にする事は出来ないと、悟っていく事で大人への階段を登っていく。

だけど、そんなのは嫌だ。

それが運命だと受け入れるのは嫌だ。

どうしようもないこと、しょうがないよと、順次に諦めにされるなんて嫌だ。

だってそれは―――、

運命なんて最初から決まっていて、ヒトなんてちっぽけな存在がどう抗っても意味がないという事だから。

もし、そうやって抵抗する事さえ意味のないことなら、あの苦しみも、悲しみも、ただの現象に成り下がる。

痛くて、泣きたくて、それでも耐えてきた時間さえ無意味になるというのなら、俺はきっと、許せなくなるから。

「起きてるのならちゃんと起きなさい。いつまでもそうやって寝ていられるとちょっと困るのだけど」

耳元でこの一日で印象に残ったNo.1の声がした。

感覚が活動を開始した途端―――、

「ッ……!!!」

まるでダンプカーに撥ねられたのと同じぐらいに全身が砕かれたんじゃないかと錯覚するほどの痛みが襲ってきた。

四肢は痙攣し、脳にはザクンザクンと畳針が痛覚を捻り捩じり、突き刺し抉る。

神経が燃えているみたいな感じまでして、ひどく熱くて嫌な汗が吹き出てくる。動かす事さえ苦痛になって震えが止まらない。

意識が目覚めた事で心臓の動きも活発になり、血流はまるで大雨の後の洪水だ。

大動脈から大静脈への血液の流れは衛宮士郎という河を氾濫して皮を突き破ろうとして。

どうしようもなくて自分の身体を掻き毟ろうとしても、腕を動かす事さえ不可能だ。腕を動かす肉と骨に欠陥でもあるのか言う事を聞かずに脳の命令に反発してくる。

痛い。

痛い痛い。

痛い痛い痛い。

痛い痛い痛い痛い。

痛い痛い痛い痛い痛い。

けれど、それよりなにより不快なのはこの熱だ。

身体中の神経回路を駆け巡る熱はずたずたに切り刻まれた肉体を一刻も早く回復させようと怒鳴り声を上げている。

熱が熱を生み出し、それが積み重なってさらに膨大な熱を吐き出す悪循環。

冷却器なんて便利なものがついていないこの身体にはソレはある種、致命的だ。自分でもどうしようも出来ない溜まった熱を吐き出す部位もないのならいったいどうしたらいい。

ペタリと額に冷たい何かが添えられた瞬間―――、今までの熱が嘘みたいに吸い取られていった。

不愉快以外の何者でもなかった熱はほどよい運動をしたあとの心地よい熱に変換され、膨大な血の巡りは落ち着きを取り戻し始めている。

「は、は、痛ぅ」

呼吸を落ち着け、全身の状態は漣のように穏やか。

次に、目を開いたらドアップでセイバーが俺の額に手を当てているではないか。

今度は別の意味で血液の流れがひどくなった。

ちょっと、待て。

なにゆえセイバーが俺の目の前まで近づいていて、ベッドに乗り出してまで俺の額に手を当てているのですか?

あまつさえセイバーの匂いまでしてきて、それはまちがいなく女の子の匂いで。

セイバーが女の子だって事は、重々分かっていたことだけど、俺の中でのセイバーのイメージはある意味、仲間みたいなもので、そこに性別とかなるべく考えないようにしていたのだけど、これは反則、だって今俺動けないしどうしたらここからいい匂いがだけど―――。

ああもう俺の脳内血管破裂しないだろうか。

「気づきましたか。シロウ」

だけど、セイバーの落ち着いた声を聞いたら血の流れも感化されたのか落ち着いてくれて、なんとか平常地に戻る。

けど、顔の赤みはどうしようもないだろう。

「ああうん、なんとか、大丈夫」

「そうですか。それは、良かった」

…また、顔が赤くなっているだろうな。

そんなに安堵された顔を見せられると、嬉しい半面非常に困る。

「てか、セイバー。なにしてる?」

「ちょっと試したいことがあったのよ」

これまた近くから俺を全覚醒させた声が聞こえてきた。

首を鞭打って曲げてみるとそこには椅子に座ってこっちをじっと観察している遠坂凛が。

その視線は真っ直ぐにこちらに向けられていてさっきの俺とセイバーのやり取りを観察するように、こと細かく。

もういいです。今日はどれだけでも赤くなってやる。

「試したいことってなにさ?」

「ええ、士郎とセイバーの契約の所為で魔力が士郎のほうに流れていってそれが治癒に繋がってるんじゃないかと思ったのよ。だから試してもらったの。けど変よね。一番ひどい右腕は綺麗に完治してるのに他の部位は治りかけだなんて。士郎って右腕に何か仕込んでるの?」

なにって、なに?

それってきっと年代物が神秘になった何かの装身具のことだろうか。

あいにくそんなものを右手に埋め込んだ記憶はない。

「ない」

「じゃ、セイバーはどうなの。士郎に魔力吸い取られてない?」

「シロウに接触を試みてみましたが、私のほうに変わりはありません。魔力が減ったという事もないですし、なんらかの異常が発生した様子はありません」

吸い取られた、とか。なんかヒトを吸引機みたいに言って欲しくないのだけど。

「む、じゃあヒトの再生能力の限界を超えたときだけ起動する魔術式なのかしら。いえ、何もないところから持ってくるなんて、そんな復元レベルの魔術なんてあるわけないし。それとも再生に特化した限定礼装?でもそんな強力な装身具を持ってるわけないわね。強力な礼装はそれ自体に大きな魔力を内包しているから。バーサーカーと戦ったときにも穴が開いたはずなのに次の日にはもう塞がっていたし。興味あるわね、解剖したいぐらい」

解剖って…。

「凛。それでシロウの容態はどうなのでしょう。シロウになんらかの秘密があるというのは私にもわかりますが、今はそれを考えるよりも怪我の状態の方が気になる。命に関わるようならば私は……」

「…………………」

「むむ、こんな吃驚人間、私だって見た事ないわよ。結論から言うと命に関わるような怪我じゃないわ。もともと致命的な場所に怪我したわけじゃないし。心配したのは失血死だけだったから。表面上だけなら私でも何とか治せたし。ライダーの攻撃、致死する場所は全部防いでたんだからシロウの危機回避能力は魔術師として大きなものね」

吃驚人間…。

「そうですか。礼を言います。凛。正直、私だけではマスターを助けることが出来なかった」

「…………………」

「べ、別に助けたわけじゃないわ。ただあそこで死なれちゃ気分が悪くなるだけよ。私と士郎に横槍を入れてきたのはあいつらなんだから、それが気に入らないだけよ」

なんか、セイバーと遠坂、仲良くなってるな。

それは歓迎していいことだと思うけど、その、なんていうかさ。

あっちの黒い雰囲気背負った椅子に座ってこっちをじっと見詰めて、いや、睨みつけてる視線は…。

まさしく極寒のシベリア凍土すら融けそうな怒りを秘めた、透徹した青い炎にも似て。

遠坂、セイバー、お前たちはさっきから異様なプレッシャーをあますことなく放ち続けてるそれに気づいてないのか。

視線が、視線が突き刺さる。それこそ、精神的にマジ痛いほど。

「あなたの兄は無事に意識を回復したわ。あんな怪我してたのにケロッとしてる」

と、遠坂。お前、ほんと勇気あるな。あの状態のあいつに話しかけるなんて。

「そうですよ、綾。あなたが一番心配していたのだから、あなたはシロウの家族なのです。一番初めに声を掛ける権利があります」

せ、セイバーも、微笑みながらそんな言葉を掛けるんじゃない。

それを契機に綾は椅子から威厳たっぷり優雅に立ち上がり、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で歩み寄ってくる。

猫の肉球もついていないのに足音がしないのは日頃は隠してる本当の姿ということ。忘れるほどに、揺れている。

それが綾の怒りの深度を表している事からも今回のは相当に怒っていらっしゃる。

そのままストンとベッドに腰掛けるとジッと、綺麗な漆黒の目をそらさずに、こっちの内面を見透かすように。

「…………………」

「…………………」

見詰め合ったままで声も出せやしない。遠坂もセイバーもこれからの成り行きがどうなるのか見ているだけ。

多分、こういう場面にありがちな家族の話をするのだろうと思っているのだろう。

「…士郎」

「なんだよ」

ここで目をそらしてはいけない。目をそらしたりなんかしたら、それこそ軽蔑と失望の対象になる。

「僕が言いたい事なら解ってるでしょ」

確認ではなく、断定の口調は平坦だがそれゆえに苛烈。

ああ、解ってる。お前が言いたいことぐらい嫌ってぐらい解ってる。

だってこれは小さな頃から何か大きなことがあるたびに続けられてきた一種の儀式みたいなものだから。

だから俺は目を離さない。離したりなんかするもんか。

そんなことをしたら本気で殺されかねない。

俺がコイツを解ろうとしてるように、コイツも俺を解ろうとしてくれているのだろうから。それこそずっと昔から。

「「…………………」」

自分では解らないけど、何十分もたったみたいな不思議な感覚は申し訳なさとありがたさが同居して。

それはきっと、幸福な事なのだろうと思う。

仕事が出来ても、力があっても、何でもできるような人間でも、心配してくれる人がいないというのは、きっとすごく、寂しい事だろうから。

「怪我、したね」

「ああ、したな」

「たくさん、したね」

「ああ、たくさん、したな」

「これで何度目かはもう忘れちゃったけど、自分を犠牲にしてでも助ける。なんて馬鹿げた事を、思ってはないよね」

その問いに、こくりと頷く。―――だってそれは、冒涜だから。

「腕を、見せて」

促されるままに包帯でぐるぐる巻きにされた右手を両手で包み込むようにする。穴が開いて血だらけだった手はもうどこにも怪我の痕跡は見当たらない。けれど、普通ならばもう一生使えないほどの大怪我だったのだ。だから、綾はこう言うのだろう。

「いい士郎。手っていうのは人の身体の中で一番よく使う部分。けれどその反面一度失くしてしまえば出来る事は極端に少なくなってしまう。だから、士郎の手はもっと自分自身のために使うべきなんだって解ってる?失くしてしまえば戻らないんだ。それを理解していて、そうしたの?本当に、それは士郎の想い」

もう一度、こくりと頷く。―――あの時俺を突き動かしたのは、他の誰でもない俺自身の想いだから。

綾は俺を心配していれくれるからこう言ってくれるのだろう。もうずっと昔から、命にかかわるような怪我をしたときでさえも、こうやって静かに聞いてくる。一度失くしたものは二度と戻らないのを承知して、後悔しないのかと。

「はぁ。まったくもう、士郎は士郎だよねぇ」

ため息を一つつくすいと立ち上がって綾は立って部屋から出て行った。

「あれ?」

遠坂はなんだかちょっとうろたえていて、あれが家族のやり取りなのかと思っていたのか、多分もうちょっと続くんじゃないかと思っていたのだろうけど。

それが少しおかしくて痛む筋組織が震えて引き攣った。

「その、あれだけでいいの。なにか他に言う事があったんじゃないの?」

「いや、俺たちはあれでいい。俺が何かしようとするとアイツは心配するけど、止めるような事はしない。けど、俺もアイツが何かしようとすると心配するけど、止めない」

ようするに、意地の張り合いなんだ。

俺は俺で意地を張るタイプだし、アイツも何だかんだで譲れない場所は絶対に引かないから。

どっちもそうなってしまうなら、支えていってみようと。心配してやきもきするぐらいなら、いっその事、全力で応援してみようと。

こじれてしまうよりも、そうした方がいいんじゃないかって、言ってきたっけ。いや、言わせてしまったのか。

一人で出来ないなら、二人でやってみようって。

子供っぽいくせに時々妙に大人っぽい綾は、たった一人でがむしゃらに走り続けていた俺を支えてくれていたから。

だから俺はこう言うんだ。

「これが俺たちのやり方だ」

セイバーも、遠坂も納得いってなさそうな顔してるけど、昔からこうだったので今更変えようもなく。

俺は笑ってそう言った。

ソレに対する遠坂の返答はこうだった。

「変な人ね」

オヒ。

それはないだろう。

「で、遠坂。ここはどこなんだ」

「私の家だけど?」

な、なんで遠坂の家に居るんだよ。

落ち着いて見渡してみると衛宮の屋敷とは正反対の内装をしていてなんだか赤い印象が強い。

「でもいいのか、俺をその、遠坂の家に連れてきて」

「なに言ってんの。いくらあなたの再生能力が桁はずれてるていても傷が治っただけじゃどうしようもない事があるでしょ」

それは、とてもありがたいことだけど。

俺たちは、その、敵同士だし。

もちろん始めから闘いたくなかったし、遠坂って女の子の一端を知ってしまった俺としてはなおさら戦いにくくなってしまったのだが。

まあそれよりなにより、言っておかなきゃいけないことがあるだろ。

「すまん、迷惑かけた。それと、助けてくれてありがとう」

「…ふん、迷惑かけたって思ってるなら最初から迷惑かけないようにして欲しかったわ」

そんなこと言われてもな…。

俺は無我夢中だったんだし、こんなに傷を負ってしまったけど精一杯やったつもりなんだけどな。

「ちょっと、そこで困った顔しないでよ。なんだかわたしが悪いみたいじゃない」

悪いって思ってたのか。いやでも、そこで遠坂が悪いって思ったって事はようするに、遠坂ってそういうやつなんだな、やっぱり。

「士郎が悪いわけないじゃない。サーヴァントっていう規格外の存在と戦ってだけでも信じられないのに無事に生きてるんだもの。何だかんだ言ったってライダーからの致命傷を防いでたんだし」

ライダーから致命傷を受けなかった、か。

俺はその事に疑問しか感じないのだが。

「それなんだけどさ、俺にはどうにもライダーが本気でやってたように思えない。俺がライダーの攻撃を防げたのもナイフが来る場所が解ってたからだし。そりゃ最後のほうは全然だったけど」

「…変な話ね。そうするとライダーは一体なにがしたかったのかしら。たしかにあれだけ動きが速かったのなら士郎を殺す事ぐらい片手間で出来るはずなのに」

その通りだ。

俺にはどうやってもあの速度に対応する事が出来なかったのだ。しかもあの狭い空間ではライダーの思うがままにされることになる。八面から繰り出される攻撃をどうやって凌げというのか。俺がやったように壁際に背を預けても結局は翻弄されてしまったし。

う〜む、と首を捻って考え込む俺と遠坂。

「シロウ、それは考える土台が違う。ライダーはあくまでマスターの意図に従ったまで。あなたを指名した、その事に何らかの意図があるのでしょう」

…セイバー、ずっと黙ってたからなにしてるかと思った。

「あら、セイバーあの子と一緒に行ったんじゃなかったの?」

「もう夜遅いので寝ると、シロウの所に戻っていてくれと言われましたので」

「え、あの子どこで寝てるわけ?」

「はい、リビングのソファで」

待て。

寝るって綾がだろ。何でアイツが遠坂の家で寝る事になるのだろうか。

「ふ〜ん、あの子、見るからに繊細そうな感じだけど、意外とそうでもないのか」

藤ねえの座を継ぐほど、注連縄並のぶっとい神経の持ち主だぞ綾は。繊細なんて感覚あるのかどうかも怪しいだろう。

ああ違う。今はそんな事に突っ込んでる場合じゃないだろ。

「てか、何であいつが寝るんだ」

「もう三時になるわね。あなたが倒れたときから数えると約10時間。あの子が世間一般に不良と定義されている子なら起きていてもおかしくないけど?」

「馬鹿いうな。天然っぽく見えてもわりあいしっかりしてるぞアイツは。間違っても不良になんかならない」

多少天然の気がないでもないが、お馬鹿であっても愚かではない。加えて藤ねえの趣味全快でややずれた庶民的純粋培養だし。もし世間一般に不良と称される人間が不純な目的でアイツと接触持とうとしたら抜けば血を見ずにはいられないあの妖刀が黙っていない。

「士郎の回答も多分にずれてる気がするけど、良い子が寝るのは当たり前の時刻なの」

良い子…。その表現には納得しかねるものがあるが。

確かにそれなら寝てもおかしくないな。活動限界時刻が12時までと決まっているみたいに寝るから、夜更かしできないタイプで安心だ。とすると、それに逆らっていたのか。

「て、違う。ここ遠坂の家だろ。その、いいのか。俺たち一応敵同士なのに…」

「一応、じゃなくて、私と士郎は正真正銘の敵よ。ライダーのことがなかったら決着ついてたわ。だけど、今は休戦。どこの誰だか知らないけど、いきなり横槍入れてくるなんて気に入らないわ。しかも私の学校でなんて」

学校は遠坂の工房みたいな場所でもあるから好き勝手に暴れられたのは気に入らないだろう。

でも、多分、他にも理由があるのだろうと思う。

あの倒れた生徒、その様子を辛そうに見ていた遠坂の横顔。それを思い出すと、俺はなんだか胸の辺りがもやもやしてくる。

「そういうわけで、とりあえずの休戦よ。あなたの怪我が治ってからにしましょう」

なんて言ってにっこり笑ったのだ。

そんな風に目の前で微笑まれると、正常な男の子としての俺は困ってしまう。

またまた自分の顔に血が流れていくのをどうする事も出来なくて。

「セイバーはどうする?士郎と一緒に寝る?」

「いえ、この洋館ならばどんなサーヴァントが襲ってこようと無駄足になる。今日ぐらいは一人でゆっくり眠り、疲れを取ってもらう」

「そう、じゃああの子と一緒でいい?」

「はい、そうしてください。綾は一人にしておくとなにをしでかすか解りませんから…」

「そうね、説明してなかったけど家の中を勝手にうろつかれると迷子になるかもしれないしね」

なんていいながら二人とも部屋を出て行ってしまった。

なし崩し的に遠坂の家に泊まる事になっていて、そこにはもちろん俺の意見なんて挟む余地はなかった。

「はぁ…」

ため息は軽いのか重いのか、それとも両方なのか複雑だ。

…非常事態にでもならなかったらまずありえないことだけど、男の子はこんなときでも女の子、それも遠坂凛の家に泊まる事になってしまって胸はドキドキと高鳴る。

それでも身体は正直に疲れと倦怠感を訴えてきて。

あれだけ眠ったというのに、いつのまにか俺は、目蓋を瞑れば暗闇に沈みこむように、再び眠りに落ちていくその直前―――、

ライダーの頭上からの一撃を防ぐ事が出来たのは、遠坂の声があったから。

明日、朝起きたら礼を言わなくちゃと。

ぼやけ始めて落ちる瞬間に思い出した。
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