初めて見る光景。

頭上には空を舐めるように燃え上がる紅蓮天蓋の炎。

揺ら揺らと舞踏を鳴らす陽炎。

立ち昇る奏者たる不知火。

大地には墓標のように突き刺さった無数の剣。

打ち捨てられた鋼の卒塔婆。

発条仕掛けの錆び付いた鉄の螺子。

ゆっくりゆっくり…ぎこちなく軋みながら廻っている。

木霊する音は荒れ果てた世界の名残か。

異様な光景を前にして、やはりなんの感情も湧かない自分は異常なのか。

それとも異常など見慣れてしまったゆえの異常だろうか。

だとしても、どうとでもいいことだ。

そんな事に意味はなく勝ちもなく全てが無為な事に変わりなどない。

自分がこれまで見せられてきたものと同様に決して干渉することなど出来ないのだから。

出来る事は、こうして舞台劇を見る観客と同じく世界を俯瞰する事だけ。

鉄の匂いを孕む錆び付いた風が吹き付ける。

目に見える風景からは大地に突き刺さったままの夥しいまでの武具が使われることなく錆び付き朽ちてゆく。

啼いているのか。哭いているのか。

どちらにせよ、それは悲しい事ではないのかと反問して見る。

主に使われぬままに朽ち逝く武具たちの嘆きの声は…音のない世界にあってなお痛烈に語りかけてくる。私を使えと。

しかし得られる確たる答えなど存在しない。結局はその思考を放棄した。

考えた所で己に関わりのないことなのだろうし、無駄な事なのだ。どうせこの世界は…。

景色は急激な様変わり。

一片にして世界は塗り替えられ、その中心に一人の男が虚空を見上げていた。

両の手に無骨な一対の剣を捧げ、笑っていた。

なにがあったのか、なんの為に笑っているのか、なにを笑っているのか。

ソレを知った所でここでは意味のないことだ。無価値でしかない。なぜならそう―――この世界は終わってしまっているのだから。

だからこれは彼の英雄幻想であったもの。

何か生じた物であろうと常にソレを目指して実現しようとして。

歪んでいる事さえ気づこうともせずに目に見える全てをすくおうと血に濡れていった愚かな男は。

人々が幸せであるようにと己が純粋な願いを叶える為に血を流す。

…なんて報われない。なんて己のない綺麗な願いだったのだろうか。愚かなほどひたむきに進んだ未来の果てがアレでは報われない。

目に見える人たちを救ってはその笑顔に助けられ支えられて願いを新たに胸に秘めて再び歩き出す。たとえその先に裏切りが待っていようと。

そうして、彼は英雄なんかになってしまった。

英雄と呼ばれたかったわけでもない。英雄になりたかったわけでもない。

単純に、人々を理不尽と不条理から救うには英雄の比類なき力が必要になったから、英雄を求めた。

人の手で世界の定めた運命を覆す奇蹟と呼ばれる現象を起こすには人以上の力が必要だったから。

彼は愚かなほどに純粋で偽らなかった。

世界の道筋を捻じ曲げる為に世界に自分を差し出した。この上なく、出鱈目で理不尽で不条理そのものと…契約を結んでしまった。

そこまでして追い求める物がいったいなんだったのか。

そこまでして護りたいモノはいったいなんだったのか。

救ったはずの笑顔の群衆の裏切りにさえなんの感情も抱かずにただ、受け入れて。

そうして血と死の怨嗟に彩られた剣の丘にただ一人で辿り着いてしまった愚者。

仲間と呼ばれた人。恋人と呼ばれた人。誰一人として彼を理解するものはなく。彼もまた理解を求めようとはしなかった。

戦い続けたその終局はあっけないほど簡単に終息してしまった。裏切りと裏切りと裏切りに刺し貫かれてしまった。

なのに、彼は誰も憎まなかった。当然のことと受け止めるだけで。

この男は誰よりも愚かだった。なぜならば、男は最も救うべき人物を救わぬままに、笑って逝ってしまったのだから。

それが、許せなかった。

それが、赦せなかった。

男が自らを省みない事も赦せないのならば、誰一人だって彼に気づこうともしなかったのが、赦せなかった。

だから、その結末に手を伸ばす―――下らない物語を書き換える為に―――。

Fate−Code:Fake−

「ッッッ!?」

何か良くない夢を見て飛び起きた。

かすかな頭痛。

全身から汗が流れ落ちて吹くに絡みつくのはなんとも不快な感覚だ。

ばくんばくんと上下する胸を押さえて呼吸を整えようとした。

今の夢はなんだったのだろうと一人ごちる。

殺気まで見ていたはずの夢は今もう眠りの彼方へと消えてしまいそう。

突き立てられた剣の群。揺れる炎の群。

二つが起点となって沈んだ記憶を揺り起こそうとする。

ぼんやりとした景色は掴めそうで掴めないもどかしい感覚を残して完全に消滅した。

はぁと一息つくと窓からは陽射しが既にかなり高い所まで上っていてそれをじっと見ていた。

この部屋には見事なまでになにもないので正確な時間を知る事さえ出来ない。

時計もないので時間は自分で推測するしかないのだ。

するとなにやら傍でなにかの気配がする。

くい、と視線を流して見るとそこには物体Xと思わしき生物がいた。

「ゥワッ」

先ほどとはまた違った悲鳴だがこれはこれでニュアンスが合っているので正しい用法のはず。

そこでは何やら不気味な物体が打ち上げられた若布か昆布みたいにグデッとして上下に揺れていた。

大きさは比べ物にならないのだが…新種のクラゲかなんかだろうか?陸上でもクラゲが出没するのは嫌だな。

寝起きの頭ではシナプスとニューロンが繋がっていないのか余り上手く働いてくれない。

物体はこちらが生きているのに気づいたのかモゾモゾと動き始めるとのっそりと浮かび上がったようにも見える。

ああ、俺は今から捕食されるんだなぁ…。

そんな事を頭の隅っこで考えていた。

あ、黒いなにかが光った。

「…士郎?」

この物体はおしゃべり機能もついているらしい。

中を浮かぶようなシルエットはクラゲよりも架空の火星人に近い。

キャトルミューティレーション。

アメリカの片田舎で腹をくり貫かれた乳牛の映像が浮かんだ。

「士郎!」

飛び掛ってくる宇宙人x。

俺はこのまま全身落ちと腸をくり貫かれて穴だらけにされた挙句標本としてホルマリン漬けにされてしまうのか。

ああ、助けてK林さん。出動だM○R!!!

ゴキッ!

「あがッ!」

その一撃は俺を覚醒させるのに十分な破壊力を持っていた。

首筋にいい感じでめり込んだ体重を乗せる重い体当たりは俺の意識を刈り取る寸前でクールダウン。あと少しで昇天する所だった。

ふわりとした甘くていい薫りが俺の鼻に届いた。

まるで女の子のようなその薫りは俺の意識を掻っ攫うのに十分なわけで。

セイバーだろうか。

いや、そんなの考えられない。

それじゃ遠坂?

それこそ日本が空手チョップで割れるぐらいにありえない。

でもそうなると、俺に抱きついているのは誰なんだろうというわけで。

いやしかし健全な男子として女性と接近してあまつさえ抱きしめられている状態は好むべき事体であり…。

って、違うだろ!!!

「ま、マジで離れろこの馬鹿大戯け者!」

かなり必死になってこのふざけたヤツを振り払った。

そのままビョンとばね仕掛けの返るみたいに窓際まで飛び退くと頭がガツンと壁に激突。

「くぉ〜〜〜」

思わず高等部を抑えてしまうほどの痛みはいい動きを下いた事を示しているが慰めにはならない。

正直、めちゃめちゃ痛い。

あいつは目を丸くしてきょとーんとしていたらいきなりけろけろ笑い出した。

「…なにがおかしい、綾」

ああ、自分でもかなり変になっているなと思う。

心臓は驚きで踊っていて、あまつさえこの頬の熱はどうにもごまかしが効かないほどに熱くなっている。

衛宮士郎一生の不覚物だ。よりにもよってこんな得体の知れないヤツに動揺してしまった事実は俺に首を括れと自己申告してくる。今すぐに変態の烙印を禊がねば!海よりも深く懺悔しやがれ!

「いやはや、起きたと思ったらばね運動とは豪快だね」

「いやいや、わけわからん」

「いやはや、見世物としては一発芸に属する。初見だから面白かったよ」

「いやいや、まじで痛いんだって」

とりあえずの会話は噛み合っているようで噛み合っていなかった。

これは俺のに地上における通過儀礼みたいなもので、それが良かったのか、あえて身体の不調と呼ぶが、とにかく治まってくれたようだ。

「腕、大丈夫? 痛いでしょう?」

腕…?

あ、そういえば、あの時腕に石か木の破片が突き刺さったような気がした。

右腕に視線を落とすと包帯でグルグル巻きにされてあった。

「大丈夫みたいだな。ちゃんと動くし感覚もあるぞ」

どうでもいいがそうやって右腕を何度もさするのはやめて欲しい。

気持ちはいいがこそばゆいし、むずむずしてくるので。

で―――。

「身体のほうも平気みたいだね。すぐに凛さん呼んでくるよ」

すっくと立ち上がるとにこやかに歩き出した。

はぁと一息つくともう一度、ゴロンと布団に横になって天井を見上げた。

「おはよう、衛宮くん。大事がなくて何よりだったわね」

その声にビクッと身体が反応した。

「……なんで遠坂?」

とたんに目元が険しくなる遠坂凛。

なんで遠坂がここにいるのだろうか。ここは深山町の衛宮家であり、遠坂なんて学校のアイドルがいるはずがないのだが。

しかも俺の部屋になぜ?

ああでもさっき綾が遠坂を呼んでくるとか言ってたような、言わなかったような。分からないままにとりあえず名前を呼んでみた。

「混乱してると子悪いんだけど、早めに説明させてもらうわね。あなたは昨日のこと覚えてる? 教会の帰りで敵マスターの一人であるアインツベルンに会ったこと」

全然悪そうに見えないが状況を把握するのは大切な事だ。

…アインツベルン。確か、あの銀髪の少女の事だったと思う。そして、桜の祖父である間桐蔵硯が俺に対していった言葉。どうして、彼女の名を知っていたのか。

「彼女のサーヴァントであるバーサーカーがセイバーと戦っているうちにあなたは飛び出していったのよ。その後にアーチャーの一撃がバーサーカーに決まって何とか追い返せたんだけどね。その後であなたは倒れたのよ」

これで終わりと遠坂は締めくくった。

記憶が細部までハッキリしているわけじゃないけど、確かに俺はセイバーに駆け寄った。なぜだかはるか遠くにいるはずのアーチャーの姿が見えて、セイバーにまで攻撃しようとしていたからカッとなって走り出した。…思い出したら腹が立ってきた。あの野郎…。

「…追い返せた?」

何気なく放たれた言葉には嘘が混じっていた。

「ぐ…。あのガキ。言いたい放題で見逃してあげるだなんて。なにが今度あったらもっと遊びましょう、よ…!」

ぎりり…とはを噛み締めて悔しがる我が学園の誇るパーフェクトアイドル遠坂凛は険しい顔つきでここにはいない誰かを睨んでいる。その先にはイリヤスフィールと云う銀色の少女が映っているのだろう。

追い返したなんて表現は正確ではない。正しくはあの少女が言ったとおりに“見逃してもらった”が正解。セイバーの剣でもアーチャーの矢でもさしたるダメージのなかったバーサーカーを前にしては悔しいが見逃してもらったというべきでしかない。

「つまり、遠坂は倒れた俺をここまで運んでくれた」

「その通りよ。なんだ、ちゃんと覚えてるじゃない」

意外そうに告げた。

…人の事を何だと思っているのだろう。

「あれからどれぐらい経ったんだ?」

「半日って所ね。あの子に感謝しなさいよ。運び込まれたあなたを見て血相をかえてずっと見てたんだから」

ああ、そうなんだ。

綾はずっと俺を見ていたのか。なんだかいつもと逆だな。

「警告しておくけど、死にたくなければすぐに教会に行って保護を求めなさい。生半な知識を持っているあなたじゃ完全に役に立たないから。それじゃ、これで本当に最後だから」

なんて言って遠坂は背を向けて歩き出そうとした。

でも、別れる前に言っておかなきゃいけないことがある。敵であるとはっきり宣言した遠坂がここまで連れてきてくれたこと。その時に令呪を奪わなかった事。俺に、手を貸してくれたこと。その一つ一つに礼を言わないと、義理が立たないし、それより何より俺が遠坂凛に礼を言いたい。

「その、色々と、本当にありがとう」

驚くようにこっちを振り向くと形容しがたい表情になって、はぁと軽いんだか重いんだかよく分からないため息をつくと―――。

「ほんと、心の贅肉ね」

なんて意味不明の言葉を言って去って行った。

よいしょ、と掛け声を上げて腰を立ち上げる。後でちょっとジジ臭いなと思ったのは誰にもいえない秘密だ。

なにはともあれ、まずは現状の把握が最優先事項。

なにしろ三原色に染められた俺の人生の中でも過去最高に激動の一日だったし。

ちょっと考えられないほど起きたことが濃密過ぎて、思い返すだけで脳みそがパンクしそうだから、頭の中で上手く情報が処理できてない。

昨日の俺は、まずランサーに殺されかけた。この時点で既にまともじゃいられない。狂騒度は過去最高値を振り切っている。軽く殺されかけたことは合ってもあそこま殺されかけたことはない。でもなんでか助かって、もう一度ランサーに襲われて、死にそうになった間際にセイバーが出てきて、と思ったら次は遠坂にアーチャーが出てきて教会に言って聖杯戦争なんてたちの悪いゲームの説明を受けて、その帰りにあの少女とバーサーカーにあって戦ったわけだけど、俺は気絶してしまったわけだ。

…うん、自分でまとめておいてなんだが物の見事に全然理解できない言葉の羅列だ。

これを誰かに聞かせたら映画の見すぎといわれておしまいだろう。いや、酷ければ精神病院に連れて行かれるかもしれない。

聖杯戦争…。魔術師同士の命をかけたゲーム。

聖杯なんて実在しているのなら、魔術師はそれこそ腹をすかせたライオンみたいになるだろう。そして現実に聖杯は冬木にあってどんな非道な方法を使おうと聖杯を手に入れようとする輩が必ずいるはず。聖杯を手するためには何でもやるという事。目的のためには手段を選んだり当たりするつもりもないということ。つまり、なにも知らない人を巻き込んでも一向に気にしない連中がいるのと同じこと。

俺がこのろくでもない戦争に参加するのは無意味な被害をなくすこと。いや、なくさなければならないのだ。衛宮士郎が衛宮切嗣を目指して生きているのなら、必ずやり遂げなければならない事なのだから。

なんの罪もない人を聖杯戦争から遠ざける事。そう、なんの関係もない、傷つけられる意味も理由もない守られるべき人々から。災厄を取り除く。親父はもういない。けれども俺はいる。親父ならするだろう事を俺がする。

そのためには―――

「セイバーに話を聞かないとな…」

セイバーの姿を探して廊下へと踏み出した。

で、どこに行ってしまったんだろうね、セイバーさんは。

屋敷の中は全部探した。居間にはいない。もちろん空き部屋にもいない。もしやと思って土蔵や道場にも行ってみたがどこにもいない。

どこにいたって目立つ彼女を見つける事が出来ないなんてある筈がないんだけど。

ウロウロと屋敷内をあてもなく彷徨った。

しかし、無駄に広いよな。この屋敷は。俺と綾と藤ねえ以外はほとんど使っていないんだからそうなるのは仕方のないことなんだけど。古い屋敷だったから改装に改装を重ねてグルグルと家屋の中を行き来できる変な造りになってしまった。

セイバーを探しながら歩いていると向こうのほうからパタパタと遅くもなく速くもなく。かと言って音を立てるようなそれでもない足音が聞こえてくる。だが、無遠慮だ。

このあっちこっちを動き回る足音の持ち主は二人しかいないが、現在その姉とも呼べる人物はたぶん学校の方に行って部活指導中だろう。だから答えはもう一人の方になるわけで。

「なあ綾。セイバーどこにいるか知らないか?」

「庭隅」

答えるとさっさと玄関に行ってしまった。なんなんだろうと思いつつ俺も後に続く。

その理由を暗惨たる気分で眺めている。

昨日あれほど荒れ果ててしまった我が家の庭の模様替え…と呼ぶにはいささか語弊があるが、あえてそう言わせて貰いたい。

俺たちが心魂籠めて掃除を繰り返して春夏秋冬それぞれの趣深さを誇っていたはずの我が家の庭は二日前と比べたら怪獣大決戦の跡地とそう変わらない。

ゴ○ラ対モ○ラ対メカゴ○ラみたいな東京大決戦後の封地だ。

地面はボコボコで小学生が入り込んで悪戯を仕掛けられたみたいに落とし穴だらけだったり、あちらこちらで土がめくれたりひっくり返ったりで酷い有様だ。

丹精込めて育てるはずだった盆栽がひっくり返って半ばから折れたりで無残な有様を晒している。綾が悲嘆に暮れる姿が想像される。

幸いと言えばまだ始めて間もなかった事だが時間が全てと言うわけでもない。こちら側が魂を込めてあげれば植物にも命が宿るとかときおり大真面目で言ったりするやつだからだ。

まだ切嗣が生きていた頃、業者さんに頼んで運んでもらった四季の情緒に深みを与える大岩は四散して火山の後みたいだ。

「手伝ってくれてありがとうセイバー。もういいから中に入ったら?」

「いえ、これは私がした事。私が率先して片付けなければなりません。自身に課した義務とも言えます」

「そっか。じゃ、遠慮なく。こっちに来て手伝って。ちょっと一人じゃ無理そうだし」

砕けた岩の前でかがんでいる姿はまるで猫と象だ。

あれは自らの筋肉を誇示して翔を取るようなご職業についている人でないと無理だろう。ワセリンも塗ってないのに体がいつもてかてかしてる人みたいな。

だって言うのにセイバーはむんと腕まくりをして気合を入れるとひょいと配剤置場と貸した庭の片隅へと持って行くのだった。

あんぐりと口を開けて呆けた顔してるだろうな俺。だってセイバーは女の小出し、腕だって俺なんかよりも比べ物にならないほど細いのだし。

「すっごセイバー」

「いえ、これは魔術回路に魔力を行き渡らせているからです。そうしたら誰だって出来る事ですよ」

いや、それは無理だろうセイバー。えっへんと小さく胸を張って少しだけ誇らしげだ。なんだか俺が寝ている間にこの二人は随分と打ち解けたらしい。それは素直に良い事だ。

「はい。これで終わりです。中に入ってお茶にしよっか」

「はい。それはとてもとても楽しみだ」

俺は痴呆のようにボケッと突っ立って見ていた。

ただ…セイバーの顔が無表情なくせにそれはそれは嬉しそうで嬉しそうでたまらないといった風情が滲み出ていたのが強烈に焼きついた。

綾のお古の割烹着を着ていたけど。

セイバーと綾はそれぞれに着替えたみたいだ。

セイバーは見慣れない白と青でまとめられた清楚で彼女らしい服装。

なんでも遠坂からとりあえず貰ったらしい。綾のではサイズが合わなかったようで着てほしい服があったのにとぶちぶち残念がっていた。

なにからなにまで遠坂には頭が下がる思いだ。感謝大。

綾は雷画の影響かなにか、それとも趣味の時代劇かぶれが出たのか。好んで和服を着ている。今来ているのは藍染め紬だ。

掃除が一段落したらお茶の時間だとセイバーと約束したらしく、テーブルにはお茶請けが出されていた。

中には商店街に出没する屋台。江戸前屋のどら焼が入っていた。なんでも安価で餡が多いため、穂群原学園のカロリーを消費する若者からは絶大な支持を得ているそうな。ちなみに桜の好物はここの鯛焼きである。

ベースをソレにして最高の素材と十年の知識と経験とあと得体の知れないなにかその他諸の暗黒物質ダークマターと…。綾が騙るには愛情156%を混ぜ合わせた曰く付きの至高の一品がででーんと鎮座ましましていた。

衛宮家では野生の虎がよく出没してしまうので茶菓子などは普段は冷蔵庫の野菜室の奥にひた隠しされている。デザートや肉以外には目も向けない肉食獣には盲点どころか頭にも浮かぶ事がなく、そこに隠してからの勝率は全勝だ。人類の知恵が野生の勘を凌駕した証左だ。

味の保障がされている一品をセイバーが本当に美味しそうにほお張っていた。金髪の美少女が目を瞑りながら、そして無表情のうちにどことなく至福っぽくどら焼をほお張る姿はなんともアレだが…。

「あ〜セイバー、幸せそうなところ悪いんだが」

セイバーはゆっくりと目を開けてジロリとこちらを見た。

う…もしやお怒りですか? なんだか暗に邪魔をしてまでなんですかと抗議されている気分がしてくる。しかし、ここは心を鬼にしてでも訊かなければならない場面だぞ。

「あのさ、英霊は誰だって願いをかなえる為に聖杯を手にいれたい。だからサーヴァントになるんだったな」

「……その、通りですシロウ。私たちは基本的に聖杯の召喚に応じて呼び出され、マスターと契約する事で仕えることになります。聖杯戦争にマスターを勝利させる事で、その見返りに望みを叶える事が出来るのです」

むぐむぐとどら焼を飲み込んでから喋り出すセイバー。

「だとすればやっぱりセイバーにも叶えたい願いがあるんだよな?」

「当然でしょう。でなければ私たちは現界などしません」

そりゃそうだ。英霊が呼び出されて人間に仕えるのはマスターのためじゃなくて自信の願いを叶えるためなんだ。だからこそ、人間に使役されている。そうでなければ最強のゴーストライナーである英霊がここにこうしているわけがない。

「あのさ、真名は教えられないって言ってたけど」

「はい。私たち英霊は過去に存在していました。有名な英霊であればあるほど力は強くなりますが同時に弱点も強く曝け出す事になります。名を知られれれば当然、弱点を知られることでしょう。あの場には凛がいましたから」

そうか。過去に存在したのなら名を明かす事はつまり小隊を明かすと同時に弱点の存在を知られてしまう事に繋がるのか。

「提案があるのですが、私の真名はマスターにも知られたくはありません。あなたは少し無防備すぎる。そこに漬け込まれるおそれもあります」

「わかった。セイバーがそういうのなら、そうなんだろうな」

「……本当にいいのですか?」

「セイバーが言ったことだろ。それに、俺もそう思う。俺がセイバーの真名を知って敵にそれが知られるとセイバーが怪我するかもしれないじゃないか。そんなの、絶対嫌だぞ」

「……そう、ですか」

意外そうにセイバーは言ってくる。普通の魔術師だったら躍起になって聞くのかもしれない。だけどセイバーに危惧は当たってる。そんな事になってセイバーに迷惑をかけるなんて認められない。

「宝具ってなんなんだ。あのランサーの槍も宝具に当たるのか?」

「はい、ランサー。此度はクー・フーリンですが。英霊の持つ宝具はそれ自体が優れた武具ですが、その真の力は真名を唱えられた時点で露わになるのです。彼の槍も真名を口にした後に力を顕現させたでしょう」

確かに、あの槍は真名を解放されるまでは普通の槍に見えた。だけど真名を口にされた後は冗談じゃないぐらいの魔力が満ちて奇怪な槍に変わったんだ。

「ねえ。それって必殺技みたいなものかな。ほらスーパー○ボット大戦でも主役級のロボットにはあるじゃない。なにか一つが」

綾の例えはちょっとマニアックだがまあそんな物と考えてもいいのかもしれない。つまりはMAP兵器の事だろう。宇宙を切り裂くイデ○ンソードとか…。

「いや、必殺技とは違います。技とは己自身を鍛え昇華させ、その末に会得した自己の成果ですから。宝具とは武器に過ぎませんがその威力はあなたの言う必殺の技と同様、通常攻撃とは桁違いの域になるでしょう」

返答するセイバー。適当に聞いただけの事を律儀に返すとは…セイバーって生真面目なんだな。

「つまり、その宝具に必殺技が付与されているってことなんだ?」

「そうですね。そのように考えてもらっても構いません」

ふ〜ん、と分かったんだか分からないんだかどっちつかずの返事である。しかし、なんとなくだが俺にも宝具の事は理解できた。つまり、彼らサーヴァントにとって必殺の切り札って事だ。

「それでさ、マスターやサーヴァントの見分けかたってないのか? このままじゃいつ教われるか分かったもんじゃないんだけど。ランサーだってあれだけ大きな魔力を持ってたのに直前に現れるまでどこにいるか全然気づかなかった」

「…それは恐らくランサーが霊体と化していたからでしょう。霊体となる事で外界との接触を可能な限り絶つことによって存在を感知できなくしたのです。それと、マスターの持つ令呪は令呪に反応します。ですからマスター同士が出会えばその瞬間に分かるでしょう」

「そうなのか」

ちょっと安心した。少なくともなんの気配もないところからいきなり殺されるなんてことはないわけだ。

「しかし、令呪は魔力を持って発動するものである為に魔術回路を閉じていた場合、その人物がマスターである事を見破るのは酷く困難です」

ええ〜と。それってもしかしなくとも魔術が発動してから令呪の気配が解るってことだろうか。俺には他の魔術師を普通に感知するなんて出来ない。学校にいた遠坂だって魔術師と知らなかったんだから。だとしたらかなりやばいのは言うまでもない。

「サーヴァントは近くにいるサーヴァントを察知する事が出来ます。私はセイバーのクラスゆえにそれほど知覚範囲に長けているわけではありません。サーヴァントの中ではきゃスターの気配察知能力はずば抜けています」

まいったな。話を総合してみると、俺は魔術師として半人前だから余り役に立たない。だからセイバーは英霊としての力を完全に発揮できるわけでもない。俺たちは現時点でどう行動していくか考える前に手詰まりになっていないだろうか。敵を見つけて初めて俺たちは行動の基準を決める事が出来る。

「それで、これからどうしますか?」

どうするってこれからの事を話したいのだろうが、生憎と俺たちの置かれている状況は悪くて厳しい。セイバーの魔力限界の事もあるし、問題は山積みなのだ。

「今の所は動けないな。闇雲に動いた所で何か得られると思えないし、昨日の娘の事もあるし」

「娘、とはイリヤスフィールの事ですか?」

イリヤスフィール・うんたら・なんたらかんたらなんて長ったらしい名前だったっけ。…全然憶えてないな。

「ああ。あの娘を見たとき、どこかであったような気がしたんだ。それがどこかは、よく分からないのだが」

「それは…」

セイバーは一瞬だけ何かを考え込む仕草をした。何か思い当たる事でもあるのかそれとも自分の中で推論を組み立てているのか。すぐに消えてしまったけど。

「それに俺は無意味な戦いはしたくないぞ」

「無意味…とはどういうことですか?」

セイバーの眸が細まる。この火目の前で虚言を繕う者はいないだろう。それほど峻厳な眸であった。

「もちろん、相手が向かってくるなら戦うさ。命のやり取りになる事も覚悟している。けどそれは聖杯を悪事に使うやつ等を止めるためであって守るための戦いだ。意味なく人を傷つける真似はごめんだ」

「…それは、聖杯を手に入れなくてもいいということですか?」

「聖杯を手に入れるために戦うわけじゃない。自分の願いは自分の手と足で叶えるものだと思うし、叶わない事なんて今の所はないから。結果として聖杯が手に入ることになる」

「聖杯は意思あるものだ。自らを得るに相応しい資格を持つものに表れる。そのための聖杯戦争です」

「意思を持つっても最終的には勝者の前に表れるんだろ。なら、結果的には同じなんじゃないのか」

あれ…。なにか、いまの言葉に言い知れようのない違和感を感じた。

…確か、サーヴァントが現界するためには聖杯の力が必要で、もうサーヴァントは現界していて。それなら、すでに聖杯はあるということではないのだろうか。…わざわざ殺し合いをする意味はなんだ?

聖杯に意思がある。選定するもの。資格の有り無しは聖杯が取り決める…。なんだろう。違和感が大きくなってきた。どこか、不合理が生じているような気がするのだが…。

なおもセイバーは何か言いたそうに口ごもっている。これまでに見てきたセイバー像なら言っておくべき事はズバッというと思ったのだが。

「あのさ」

高まってきた緊張感を和らげるようなタイミングで綾が口を挟んできた。

「なんだよ」

「なんですか」

俺とセイバーの同時の睨みにもきつい口調にも引いた様子はない。いつものおちゃらけた顔じゃなくて真面目な表情をしていた。

「これまでの話をまとめると、士郎が戦うのは聖杯を悪いやつに渡さない為であって弱者を…つまり一般人を関わらせない事。セイバーにはどうしても叶えたい願いがあって、それを叶える為には聖杯を手に入れなければならない」

これであってる?とぼんやり宙を見ながら続けた。

「士郎はマスターとして未熟なだけでなく、魔術師としても未熟なわけでしょう。セイバーの魔力供給ってのはあまり上手くいってなくて、戦うたびに魔力は減っていく。戦わないのは一つの手であることに違いはない。セイバーはどうしても戦わなければならない理由があるの?」

「いえ、それは、ありませんが…」

「じゃ、聞こう。セイバーは士郎を殺すつもり?」

その質問に俺もセイバーも動きを止めた。無表情でセイバーを見る綾はどこか冷たい雰囲気があって容易に話しかけることができない。セイバーも身を止めて綾を見ている。

「…そんなつもりは、ありません」

セイバーの声が低くなって部屋に響いた。冗談やなにかを言っている空気ではない。セイバーは怒っている。俺を殺すつもりかという言葉に対して。

「つもりはなくても結果的にそうなるかもしれないと言う事。セイバーがいても士郎に危険は降りかかる。その時、絶対に士郎を助けられる保証なんてないでしょう。セイバーがどれほど強くてもこの世に絶対なんて言葉が証明された事なんてないのだから。そこには自信も誇りも関係ない。厳然とした現実だけがある」

「おい、綾」

この言い方に我慢できなくなって口を挟んだ。綾は俺の意思を無視して話をしようとしている。それは、どこかおかしいことだ。いつもなら俺の意思を聞いてから話すはずなのに。

「士郎は黙ってなさい。今は僕と彼女が話をしている。言いたいことなら後で聞いてあげる。こっちも聞きたいことがある」

一瞥もしないでセイバーを静かに見つめる姿は…昔を思い出させる。

「いいかいセイバー。君は自分の身勝手な都合と理由で士郎を巻き込んだ。まあ、巻き込まれていなければ士郎は死んでいるんだからいいんだけど。その事を理解していて、君はここにいるのかな。悪いけど、この時点ではセイバーよりも士郎の方が大切だから」

「お前は言いすぎだ。俺が戦う事を選んだんだからセイバーを責めるな。俺が決めて、俺が言ったんだ。これから一緒に戦っていこうって」

無表情で俺を見た後、セイバーを再び見る。

「どうなの、セイバー」

「はい。分かっています。私の願いを叶えるためには、あなたの大切な人を奪いかねない事を。ですが、私には私の譲れない願いがある。そのために、私は今ここにいるのです。それは、知ってもらいたい」

「犠牲になるのを承知の上で?」

目を瞑って、静かな佇まい。そして、はい…と頷いた。

しばらく黙って、セイバーをじーっと、穴が開くほど見ていた綾だが…急に表情を柔らかくして微笑んだ。この瞬間、きっと綾はセイバーをセイバーとして認めたのだろう。

「よろしい。君を衛宮の客分として迎えます。どうぞ終結までの間、ごゆるりとご滞在ください」

ぺこりと、正座のまま、しかも和服だからどこかの旅館みたいにも見える。セイバーもじっと真剣な顔をして綾を見ていたが…。

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

こちらも、ぺこりと返礼したのであった。

…まあ、なにはともあれ、綾がセイバーを認めてくれたってことで、いいのか…な?

こうなれば綾はセイバーがなにをしようと彼女の自由意志ということで許容するだろう。自分の認めたものに対しては懐が広くなりすぎるから。

「さて、お次は…?」

「う…」

ジロリと俺を見据える黒い眸。鋭く尖った様子はいつもとは180度ほど方向転換している。

「シロウの番ですが…さて、どうして戦うなんて事を選択したのかな?」

口調は緩やかだがその裏には虚言など許さない、ついたら一生月のない夜に付けねらわれそうな刺々しい物が混ざっている。

「それは…この戦いに関係のない人を巻き込ませないためだ。それに、聖杯を悪用したりするやつ等なんかに渡せないだろ。もしそうなったらどんな災厄が起きるか分かったもんじゃない」

「つまり、士郎はどこの馬の骨とも分からない見知らぬ不特定多数の誰かを助けたいって思ったから?」

植物の棘どころかバスケットボール並みの馬鹿でかい鉄球にこれまたアイスピック並みの鋭い針が剣山みたいに生えた言葉だった。

「…ああ「うそつき」

「……っ」

氷のような声音に身を竦ませる。眸はかつてないほど冷たく冷え切って俺を見下すように感じてしまう。間髪いれずの返答は、俺の陳腐な自尊心を貫いた。

「10年一緒にいるんだから、士郎の歪んでる場所なんてとっくに知ってる。それでも嘘を吐いたのはセイバーがいるから?それなら許しますけど、自分を誤魔化すためだったら容赦しない。天獄の任侠道−ワインディングロード−…にご案内するよ?」

「…いや、だって馬鹿正直に言っちゃうと兄としての威厳が…」

「そんなモノはとっくに磨り減って独活にも劣ります。…ま、今回は異性に自分の恥部を知られるのが恥ずかしいからって事みたいですけど。自分自身に対して偽るなんて恥ずかしい真似は止めなさい。漢度が落ちる」

漢度はどうでもいいが、確かに自分自身に対して偽りやごまかしをするほど情けない事ない。俺は、それをする所だった。セイバーが女の子じゃなかったらしていたかもしれない。非情に危なかった。

まったく…兄の威厳なんか気取っても意味がないことなんてとっくに知っているのに。

確かに俺は嘘を吐いた。俺が救いたいのはどこの誰とも知らない見知らぬ誰かではなく…俺自身を助けたいだけなんだ。

この身は誰かの為にならなければならない。あの焔の中で生き残ってしまった俺には、彼らの受けるはずだった幸せを享受してはいけなくて、常に誰かの幸せを求めていかなければならないって。そう、俺が助けたいのは、誰かの為に何かをしているんだって思い込もうとする俺自身。

「すまん」

「別にいいけどね。見栄を張るのは男の子の常だから。自分が本当はなにを思っているのか気づいているのならいいよ。気づかない振りは許さないけど」

こいつは俺に対して容赦しない。気づきたくない事、気づいてはいけない事。それらを常に真正面にして対峙しろと言い続ける。ある意味では毎日が山篭りで樋熊と戦って伝説を作るようなものだ。自分の闇に、正面から挑んで打ち倒してほしいと、ぶん殴ってほしいと無言で示すから。

決して強要はしないそれはゆとり教育ではなく、自分の意思でして欲しいからだと思う。そもそも人に強要されて挑んだ所でボロボロになってゴミくずのようになるだけで。大切なのは、自分の意思で闇に挑む事。例え勝てなくても挑んだ事には意味があるはずだから。

「でさ、生き残る算段はあるわけ。あの青い人を見る限り、出鱈目な人ばっかりみたいだけど」

「安心しろ。ここにいるセイバーはその中でも特に出鱈目だ。昨日なんか2倍はある大男に怯みもしないで勇敢に戦ったんだぞ。お前にも見せたかったぞ」

「シロウ。その言い方はでは多少私が物騒な人間であるように聞こえるのですが?」

「あ、いや。訂正する。セイバーはサーヴァントの中でも最も優秀らしくて、それお証明するように強く猛々しく戦ってくれたんだ」

「猛々しい、という表現が気に入りました」

「あはは。面白いコンビだよね二人。意外に息あってるし。うんうん、仲良き事は美しき哉」

なんて、最後にはいつものどこか穏やかで暢気な会話になってしまっていた。

俺もセイバーも綾も、みんながみんな、少しだけ笑っていて。とてもいい気分になるような、和やかな空気だった。

作戦会議という名の弾紹介が一段落した後、俺たちは昼食を取っていた。

結局、これからの方針は昼間は屋敷にいて夜には外に打って出る無難な案が可決された。セイバーは昼からでも外を回りたかったみたいだが。俺の身の安全と、セイバーの魔力消費のことを考えるとこうなった。

既に時刻が真昼を過ぎてた。もちろん朝食を抜いてしまっているのでかなり腹が減っていたのだが、今日も綾に作ってもらうわけにはいかない。

今の綾を見ると信じられないかもしれないが、コイツは本来病弱以外の何者でもないのだから。まあ桜と違って俺が作ると言ってもにこにこと嬉しそうに微笑むので説得しなくていいので楽なのだが。

俺の料理の師匠である綾にはいまだ及ばないが、この年代の他の男子よりも上手である自信はある。なぜなら師匠自らの手ほどきを受けて失敗したらそれこそ容赦なく油に掛かっていたフライパンで叩かれたりおろし金で身をすられそうになったりで、結構な苦労の末に今の俺がある。

つまり、一般的な家庭料理のレベルには届いていると思っている。

ちなみに、綾は和食だろうが洋食だろうが中華だろうがどれでもいける。いつも家の中でなにをしているかと思えば料理を作ったりして暇をつぶしているらしい。そりゃ腕も上がるわけだ。以前、未開地域の食事に手を出して見たこともない虫やら生物としての外側を持っていない何かを材料にして怪しい黒魔術的な儀式っぽい食事を出された事があるが、そういうのを除けば店に出しても恥ずかしくないと思っている。

本人が言うには10年そこらで店が出せるかべらぼうめー!らしい。本職の人間はそれはもう鮮やかに頂点を極めている…。だとさ。

桜も綾に教えてもらったりしていて洋食は完全に追い抜かれて和食も危ない所まで迫られている。これも二人の仲がよろしくて料理談合などをしているからだろう。一人よりも二人原理である。

「セイバー。気になったんだけど食事って意味あるのか?」

「そうですね。私たちは元来魔力を糧にして活動していますから、基本的には取る必要はありません。しかし、私は―――」

そうでした。

不完全な召喚の生で俺とセイバーとの魔力提供はごくごく微弱らしい。霊体になる事も出来ないのでこうして実体化しているだけで魔力を消費していく事になる。

魔力の消耗は睡眠を取る事で妨げる事が出来るらしいが補充までは万全と行かないのだ。そして唯一の魔力の供給源が食事になるらしい。その回復量は数字に表すとぎりぎり一の位を超えないぐらい。戦闘における消耗度が100はいってるからほんとうに微々たる物だ。だが、そんなのでもとった方がいいに決まっている。

「それでさ、魔力の補充に美味しさって関係あるのか?」

そりゃまあ食物を加工したのなら消化にはいいけどさ。

それを聞いたセイバーは…。

「え?」

なんて瓢箪から実ではなく馬がでてきたみたいにとても驚いてこっちを見詰めてきた。なにを言っているのか分からないといった風情だ。

どうしたんだろう。右手にある箸を上手に扱って、左手が添えられた茶碗の中から白米を掬っていたってのに。

訊ねたこっちの方が吃驚するぐらいにセイバーは硬直している。まるで蝋人形館に展示されている蝋人形。何か変なこと聞いたのだろうか。

「あ、当たり前ではないですか! いいですか、そもそも食物とは自然の真名に満ち溢れているものであり、その最高の素材を持って、最高の技術を持って、芸術にまで高められた数々の料理には決して莫迦に出来ない複雑に混ぜられた高密な魔力が含まれているのです。それを口にするということはまるで魔力の螺旋が身体を走り抜けるように全身に行き渡っていきあたかも翼をはためかす如く、我が身は天に昇る心地になり雲を突き破ってなお勢い止まる事を知らず、果ては天空にて瞬く星々の彼方に届かんとするほど――――――――――」

延々と続いて聞く云々の嵐…。

いや、びっくりした。俺も綾もほんとにびっくりしてセイバーを呆けて見詰めていた。なにが吃驚したってあのセイバーが怒鳴らんばかりにガァーッと機関銃のように喋り出したのだ。そりゃ万年のお気楽を自認する綾だって驚くぞ。

セイバーは得々と自己理論で固められた料理評論を終えるとやけに清々しい顔をしてこちらを見た。そのとたん、音を立てるぐらいに茹で上がっていった。きっとさっきの自分を思い出しのだ。

あまり感情的になる事のない彼女があれほどの昂りを見せたのは初めてではないだろうか。しかもそれが料理評論だってことは…。うん、予想できなかった。

「…コホン。つまり、美味しければ美味しいほどいいのです」

なんて強引に、すごくワザとらしく話を打ち切った。

なんにせよ。美味しい料理はいいものだ。

我が家にはこの年で満貫全席まで作れちゃう。それどころか三倍満。いや、役満全席さえ作ってしまう料理の侠者がいるのだ。学校でもご近所でも味の保障はついているから安心…しかし安全ではない。

なんだか今までの緊張しっぱなしの反動がでたのか俺たちはみんながみんな、手に手に湯飲みを持ってお茶なんぞを暢気に啜っている。

なんて平凡でいつもどおりの日常の光景なんだろう。これで聖杯戦争なんて物騒な事この上ないのがあるなんて信じられない。その具現たるセイバーもお茶を飲んでいる姿からは戦う姿が連想できない。

俺が見ている正解の表側はこんなにものどかなのにその裏では聖杯戦争なんて馬鹿げた事が起きている。見え方、捉え方が本の少しずれるだけで世界は色をかえてしまうんだって事を、俺は知っているはずなのにどこかに置き忘れていたのかもしれない。

この目に映る平和そのものの光景こそが、守られなければならないものなんだろう。なんてことを一人思ったのだった。

と―――。

ドンピンシャンBOMB!!!

なんて奇妙で微妙に計かな電話のベルが鳴り始めた。

「む」

眉を顰めて綾を見る。こくりと頷くと台所の方へパタパタと歩いて行った。

以心伝心。阿吽の呼吸。

無言の裡に相手に考えを伝える長年の技。つまりは単なる慣れである。

セイバーは俺たちについてこれるはずがないので突然動き始めた俺たちにきょとんとしている。この麗らかな冬の日曜のお昼ちょっと過ぎ。ちょうど昼食を取り終えて眠くなろうという狙ったタイミング。

脳裏に思い浮かんだのは藤村組に飼われている獰猛で知られる冬木の虎しかおるまい。電話を取る時ガーッと天空に吼える姿が目に浮かんだ。

「はいもしもし衛宮ですけど」

「Hi,お姉ちゃんデース!!」

ああ、なんて発音。あんたそれでも英語教師なのか。それ以前になんでインチキ外国人風味なんだろう。

「お姉ちゃんなんて知り合いはいません。電話帳を調べなおして三途の川を渡って閻魔帳に載ってる名前を改竄してから掛け直して下さい」

「フジムラサンチノオネチャンデース!!!」

さらに似非外国人化が進んでしまった。

藤村産地なのだろうか。それはそれで誤植ではないので良かったりもする。歩いて三分も掛からない場所だが。

「……用件は分かっているので、あんまり部員に迷惑をかけてはいけない」

「ティーチャーイッショケンメイガンバテマース!オナーカヘターヨヘターヨヘターヨ!!スシーテンプラテッカドン!!!」

「あー、解った。今すぐ用意させるから騒がしくしないで大人しく待ってるんだぞ」

たぶん生成だから一番大変なんだぞって言いたいんだろうな。弓道部員は結構多いから顧問に掛かる負担もそれなりに重くなる。だけど藤ねえ、大変なのは部員のみんなも同じ。何処かの虎を押さえるのに必死になっているだから。

そんなこと言った所で冬木の虎と称される藤村大河が大人しくするなんて欠片も思っちゃいないのだが。

「アリガトアルーワタシマテルアルヨー」

最後には日本産中国科香港風マフィアになってしまっていた。

なんていい加減な二十五歳。あんなんでも教師が務まる辺り、日本国家の人材不足は相当のものなのか。もっとバリッとした教師…は葛木みたいなのだから止めとくとして、うむ、しかし、そうなると藤ねえみたいな教師もいた方がいいのか…。バランスが絶妙。

…実際の藤ねえは責任感溢れる素晴らしいかは置いとくとして、見事な教師なのだが…。その片鱗は衛宮家では一切見られない。いつも喰っちゃ寝てを繰り返している動物園の虎みたいに地堕落を繰り返している。

がちゃんと勢いよく叩きつけられたのか受話器はそのままツーツーと味気ない音を発するだけ。一騎に日常の営みに強制退去させられた気分。

寿司も天麩羅も作ることができるがいかんせん時間が掛かりすぎる。しかし、藤ねえは綾の料理なら文句は言わないので俺としては気が楽だ。

「出来タヨー。少シ待テテアルー」

こっちもマフィア!?

なんて馬鹿なことは言ってないで俺は玄関にこれから挑むミッションに臨むべくモチベーションを高めながら用意するのであった。

学校指定の地味な運動靴を履く。隣ではセイバーがキュッと靴紐を結んでいる。うん、見事な蝶結びだ。

廊下からラララなんて軽妙な歌声とともにくるくると回りながらなぞの似非中華風が現れた。

「ゆうしゃしろうよ。ふっかつしたとらまじんたいがをとめるべくこれをもっていくのじゃ」

ここで俺がいいえを選択するともう一度言葉を繰り返すつもりだろう。それは何処かのゲームに出てくる肯定の返事をしなければ永遠に続く禅問答。だから俺は素直に頷く。

「…ちっ」

あからさまな舌打ちを無視する。

「…作戦名は虎虎虎。本作戦の成功を祈る」

藤ねえ用特大サイズの中がぎっしり詰まったお弁当を持たされた。えみやしろうは、おべんとうを、てにいれた。

「ちゃらら〜」

陳腐でいてそれでいて懐かしさ大爆発のメロディが聞こえてくるようだ。俺は意気揚々と大地と言う名の大海原へ航海の第一歩を踏み出そうとしていた。まさしく王さまに魔王を懲らしめてくれと頼まれ、支度金で100ゴールド手渡された所だ。100ゴールドで魔王が倒せるかという抗議は黙殺しろ。

「で、セイバーさん?」

チラリと目をやり、恐る恐る声をかける。台本は読めているのだが俺にとってその展開は好ましいものではない。

「マスターを守ることこそ我が使命。どうしてシロウ一人を危険な外へ行かせましょうか」

…なんだかセイバーも空気に中てられたのか変になっている。

藤ねえと綾の持つスキル…恐るべきは摩訶不思議空間なのか。それともあの言葉遣いに催眠効果でもあるのか。

「昼真っからそうそう仕掛けてはこないだろう。魔術師は夜に行動するものなんだろ。もしそれで大事になったら協会の方がソイツを処罰しにくるんだから滅多な事はありはしないって」

「滅多な事があるかもしれないからこそ私が行かねばならないのです」

「自分の身ぐらい自分で守る。大丈夫だって」

これはまるで仲間に入れなければ先に進めない無限ループ。つまりは年甲斐もなくゆうしゃを夢見る道端のじいさんと同じ現象だ。

何とかセイバーを留めようとしていたら敵の援軍が来てしまった。

「本当に自分を守れると思っているの。士郎は?」

それは俺を莫迦にしている意味ではなく、俺が本気でそう思っているのかを静かに聞く声だった。

…そんな風にして言われると、とてもじゃないがサーヴァントに襲われて自分が無事であるなどど口には出来ない。魔術師として未熟だろうが習熟していようが、サーヴァントの前では関係ない。あの戦闘能力の前では硝子以下となる。というか、人間である以上は英霊に勝つ術はないのではないだろうか。

「ごめん、付いて来て下さい。セイバーさん」

「ふむ。シロウはリョウの言うことなら聞くのですね。今度から頼み事はリョウに任せましょう」

なんて聞き捨てならない事をセイバーはいった。

「それと、好みはサーヴァントなれば常にマスターの傍に控えるのは当然のこと。もちろん寝食ともにいなければなりません」

え゛っ!!?

寝食ともにって…それってずっと一緒にいるってことか!?

「ば、ばか! そんなこと出来るわけないだろばかっ!」

ボッと全身が発火したみたいに熱くなった。

実際にも汗を掻いているだろう。背中には運動をしたわけでもないのに嫌な感じの汗が流れていた。

むっ、と俺を見上げてくるセイバーには結構な威圧感があってジリジリと後退を余儀なくされていた。

「莫迦とはなんですか莫迦とは。私はシロウの安全を第一に思って言っているのですよ」

ああ、それは解ってる。解っているんだがそれじゃセイバーが危ないというか、俺の理性が危ないというか。

「と、とにかく駄目だ。魔力の事もあるからセイバーは部屋で休んでろ!」

こうなったらもう勢いに任せてガーッと言いまくるしかあるまい。

「リョウ、先ほどからシロウの言葉は不明瞭で理解しがたい。論理的に不合理だ。いったいなにを言いたいのでしょうか」

まろおんと、不気味に、ニタ〜ニタ〜と嗤うソイツに聞くのだけは止めて欲しかった。だってそいつは余すことなく俺の本心をセイバーに伝えてしまうのだろうから。ああもう、なんて不運。

「それはねセイバー、君が可愛い女の子だからあんなに士郎は焦っているアル」

なんてこの上ない笑顔であいつは滅茶苦茶楽しそうに嬉しそうに衛宮士郎の心理をセイバーに伝えてくれやがったよ。

うわ、体が沸騰したみたいに熱い。

気がつけばセイバーの反応をまともに見えれない打ちに俺は外に向かって走り出してしまっていた。

あの灰色の子虎め。家に帰ったら憶えてろ。いや、あれは虎よりも妖怪狐の類だ。

「あ!」

セイバーの声が聞こえた気がした振り向く事はしなかった。

「二人とも行ったか…。さてさて、こちらもこちらで後片付けと準備をせねばねー。ミッション開始。作戦名はシスター…なんにしよう」

はぁ、まったくもって情けない。恥ずかしいの境地にはいったからって逃げ出すなんて、ガキみたいな反応がさらにそれを煽る。

とにかく、これだけ走ったんだからかセイバーも追ってこないだろうと思っていたのに、なぜかトコトコなんて足音が俺の後ろに等間隔でついてきている。

振り返って確かめるまでもない。この微量な魔力の流れはセイバー意外には感じる事が出来ないのだから。異様なプレッシャーが俺の背中をチクチクと刺激する。

何か対抗策は内科と辺りを見回したときに気づいた。

ミッションを成功させるのに必要不可欠な要素…お弁当。俺は猛獣の怒りを鎮めるためのレアアイテムさえ忘れて走っていたのだ。

諦めて、くるりと振り向いた。

「どうしたのですか、シロウ」

その声がどこかしら勝ち誇っているように聞こえたのは気のせいだろうか。それとも俺の被害妄想か。

「その、セイバーさん」

はい、と答えるセイバーさん。

「あの、お弁当は…」

「もちろんこの手に預かっていますよ。それも、中身は揺れ動く事はなく無事なままです」

うぐ。

それは俺がもしお弁当を盛ったまま突っ走っていたらという事を例えているのか。シェイクされて中身がグッチャングッチャンになった弁当箱ほど悲しい物はない。それを藤ねえに差し出したりなんてしたら…恐ろしい。

セイバーは一度決めたら簡単に考えを返るやつじゃな一歩医師、何より弁当箱がセイバーの手の内にある。どう考えても俺に正気はないだろう。

しばしの間、にらみ合うような見詰めあうような空白。その間に黒塗りのジャガーが音を立てながら俺たちを追い抜いていった。

「負けた。もうこうなったら最後まで行ってしまおう。セイバーは親父の親戚で、親父を頼って日本に来たってことでいいか?」

「はい。それでシロウの都合がいいのなら」

「はぁ、じゃその線で」

遅かれ早かれ藤ねえや桜にはどうせ会う事になるのだからこれをいい機会だと思うことにして気分を一新しよう。そう考え直して、開き直って徒も言うが俺は再び歩き出したのだった。

学校までの道のりを無言でてくてくと歩いて行く。隣には金髪碧眼の少女。昨日までは、今もだけどちょっと想像しがたい光景だ。こうやって俺がセイバーと学校への道を歩いているなんて。

そもそもこうやって誰かと学校へ行くのなんて桜を除くともう随分と久しぶりだ。隣に一緒に歩く誰かがいるというのは、なんだかそれだけで楽しくなってくるような気分になる。

ちら、とセイバーを横目でみて見ると動悸が早くなった。ごたごた続きだったからあんまり意識していなかったけど、セイバーは思わずハッとしてしまうほどの美人さんなのだ。だからこうして並んで歩いているとその、どうも意識してしまうと言うかなんと言うかな。

「シロウ」

「うあっ」

セイバーの事を考えていたら急に声をかけられて吃驚してしまった。

「な、なんだよ」

「気をつけてください。何者かに後をつけられています」

「え、つけられてるって、もしかして……」

「其処までは判別できません。ですが、敵マスターだと思われるのならサーヴァントの気配が感じ取れるはずですが…」

シロウはと眸で問いかけてきた。相手が何者か知らないけど少なくとも令呪に反応はない。俺は首を横に振った。

「殺気とか敵意とかしないのか?」

セイバーは俺なんかよりもよっぽどその類の気配を感じ取る能力に優れている。そのセイバーさえ分からないのなら相手はとんでもない魔術師なのかそれとも―――。

「「いえ、敵意もなにも感じられません。恐らくこれはあなたの私事です。何か心当たりはありませんか?」

心当たりはありませんかと問われてもそんなのあるはずがありません。

誰かから恨みを買うような真似はした憶えはないし口論だってない。慎二は…もしこれが慎二であるとしたら姿を見せているはずだし、藤ねえは今頃弓道部員に無理無茶無謀な要求突きつけてるだろうし。

…本当に誰だ?

「相手は敵じゃないんだな?」

「断言します。純粋にこちらの後をつけているだけです」

そうと分かれば話は早い。俺はセイバーの手を掴むと足早に横道に入って行った。

「シロウ?」

「誰だか知らないが気になるじゃないか。その顔、拝ませてもらおう」

俺とセイバーは曲がり角で物陰に身を潜めると相手が来るのを待った。

作戦は単純明快にして誰でも実行可能だ。相手が来るタイミングを見計らって角から飛び出すというもの。時間が決まれば首を獲ったも同然。昔、綾がストーカーの被害に遭った時に使った技だ。

戦術名称は『曲がり角からコンニチワ』だ!

なんだか藤ねえや綾のネーミングセンスが移ったみたいだが気にしない。気にしたら俺は堕ちるとこまで堕ちるだろう。

ちょうど陽射しが翳って暗がりになっている場所には言っていたら隣の暖かくて柔らかい何かから声がした。

「シロウ。少し向こう側によってください。ここはいささか狭い」

女の子らしい感触と一緒に熱の篭った声。見ればセイバーが眉を顰めてこちらに身を寄せてきたではないか。

「うわわわわー!!!」

血液は瞬時に沸騰逆流して脳にまで達する。俺の意思とは関係なく身体が道路に飛び出した。

「わわ」

柔らかいなにかにぶつかった。ばたりと倒れる音。同時にふわりと漂う甘い薫り。女の子とも男の子ともつかない成長途中の中性的な声が聞こえた。

「ご、ごめん。大丈夫か?」

慌てて手を差し伸べたらやわらかくて冷たい手がぎゅっとこっちを握ってきた。その感触にまたまた焦った。

なぜならその手の先には黒檀みたいな長い髪を一つにまとめてサラリと肩口に流したここらでは見かけない美少女で、俺が通う穂群原学園の制服を着ていて、こけた拍子にスカートがめくれたのか真っ白い足が少しだけ見えてしまっているのだ。

ああなにを言っているのか俺の頭も真っ白に茹だっている。

女の子は俺の来も知らずにこっちに薄く微笑みかけてきた。

どこか翳った微笑は背筋に寒気ともつかない表現不能な感覚と強烈な既視感を植え付け、ぞっとするほどに大人びていた。同じ高校生とは思えない透明な微笑は俗世から隔離された雰囲気がある。

玲瓏。

セイバーや遠坂とは違った綺麗さだと思う。喩えてみるなら、雪月夜に咲く一輪挿しみたいな感じ。

「大丈夫でしたか?どこかお怪我をなさったのではありませんか?」

うわ、なんだか落ち着いた物腰で年上っぽい対応だ。藤ねえにもぜひ見習ってもらいたいものだ。深窓のご令嬢って感じではない。どちらかというと…深山から降りてきた仙人って方がしっくりくる。

「怪我は…ないようです。その制服は…」

「な、なんですか…?」

口調は平坦で薄い感情しかない。向こうにしたら普通なんだろうけど気おされる。

「あなた様は穂群原学園の方とお見受けしました失礼を承知でお頼みしたい事があるのです。わたくし、急遽こちらがたに転校する事が決まりまして、恥ずかしながら未だ道順を覚えていないのです。不躾ではありますが、もしお連れの方がご迷惑ではないのでしたらご案内願えないでしょうか?」

彼女は本当に申しわけなさそうにセイバーを見ると俺に視線を戻した。

…む、困っている人を見捨てるなんて出来ない。出来なのだがなんとなくセイバーの反応が気になったりして。

「いいかなセイバー」

「いいもなにも、断る理由がありません。彼女は困っているのでしょう。ならば助けてあげるのが当然ではありませんか。私たちのほかに彼女を助ける事が出来る人はいません」

あれ? 俺の予想とはまた違った展開だ。もう少し警戒すると思ったんだけどなぜか前面賛成だった。

すると彼女は魔術師でもなんでもなく本当にただの一般人なのか。俺たちをつけてきたのが彼女だとしたら学園への道が分からなかっただけだろうし。

「あ、俺は衛宮士郎。こっちはセイバー」

「わたくしは彩と申します。道中どうぞよしなに。士郎様、セイバー様」

…様って、そんな時代錯誤な。やっぱりあんまり人のいない所から来たのだろうか。最近とんと見かけなくなった和風美人である。

サラリと思いもよらなかった呼び方をされて再び顔に赤みが指すのを抑えきれない。

「それと、大路にいきなり飛び出すのは危ないのでお止めになられた方がよろしいかと思われます」

表情が微笑みながらなので冗談なのか本気なのか…。いや、それはどっちでもいい。なぜなら、まるで聞き分けのない小学生をあやす様に窘められた言葉を言われた士郎くんは亀のように縮こまるしかないのだから。…うう、恥ずかしい。

新たに増えた一人を加えて学園への道を行く。

俺はセイバーと彩さんから三歩ほど進んだ所を歩いていた。

どうしてかっていうと…、あの二人の間に入って歩くなんて大それたことは出来ないし、そうでなくても二人が二人とも目立ちすぎるからだ。

さっきから老若男女のわけ隔てなく、通行人の全てが振り返って見てる。セイバーが太陽の光を受ける華だとしたら彩さんは冷たい月の花みたいだ。

パッと見たら全然印象の違う二人だが…どうしてかそれほどおかしいことじゃないと思える。

原因は多分、彩さんの持つ雰囲気にあるんだろう。端然とした佇まいは一見してこの上なく冷たい印象を持ってしまうが浮かぶ柔らかい微笑と眸がそれを打ち消している。それを通り越して周囲の全てを受け入れてしまうような風情さえある。だからだろう。

セイバーも同年代の女の子だからなのかいつの間にか仲がよくなっている。普段はしないような微笑さえ浮かべているのだからその程が知れよう。二人とも話すほうではないみたいだけど、間にある空気はどことなく穏やかさが感じられる。

学園に向かう長い坂道を登りきるとようやく学園に到着した。

この時点で俺はもうグッタリしている。さっきからジロジロと見られていたので視線疲れしてしまった。さらにこの後、あの野生と化した大虎を相手にする事を考えると鬱が入る。

弓道部員たちには悪いが虎は桜か美綴に任せてさっさと一成の所にでも顔を出してみよう。

と、その前に―――。

「つきましたよ、彩さん」

「ここが、穂群原学園……」

彩さんの声にはどこか感慨深げな趣がある。

俺は転校なんてした経験がないから想像でしかないけど、これから自分が通う事になる学校を見たら誰だってこんな風になるのかもしれないな。

「俺たちこれから弓道部に行くんだけど、彩さんは職員室ですか?」

「弓道部…。わたくしも興味があります。はなはだご迷惑をおかけして申し訳ないのですが、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

うわ、そんな低姿勢で言われるとよろしいわけありませんなんて言える筈もなく、本当に申しわけなさそうにされるとなんでかすっごい罪悪感がしてくる。

しかし、彩さんを弓道部に案内するのか…。

俺の脳内では猛り狂う鬼虎になにか言いたそうにこちらをじっと見る桜。絶対に詳しい事情を追求してくるであろう美綴に雲霞の如く群がってくる部員たち。

それを想像すると思わず足が鈍くなった。

しかし、チラと視線を向けるとそこには何の疑問もなくついてくる二人。はぁと重いため息をついたとしても誰も俺を責める事など出来やしないったらしないのだ。

そもそも、これがセイバー一人であっても結果は同じなのだろうし。

よし、と気合を入れると虎の水場へと乗り込んでいった。

ただ、セイバーが言う所。学校は魔力の残滓が強いらしい。まあ、それはどうやら遠坂のもののようで余り気にすることはないと結論を下した。

「あ、やっと来たな。藤村専属料理人一号」

弓道部の入り口には知人にして弓道部主将である美綴綾子が餌の到着を今か今かと待ちわびていた。しかし俺には藤ねえ専属料理人になった記憶などこれっぽっちもない。あとで詳しく問い詰める事が必要だろうか。

「お疲れ様だな。猛獣を鎮めるための餌が今到着した」

セイバーから弁当箱を入れた布袋を受け取って差し出す。

「お、今日は三段か。豪勢にいったな。衛宮は細かい料理なんかがほんと上手だよね。一つぐらい摘まんでいい?」

「それは藤ねえに聞いてくれ。俺が許可を下したらとんでもない報復されそうだから。それと今日は俺が作ったけじゃないから」

これはたぶん、昨日の残り物を手早くパパッと見栄えよく詰め込んだだけの物。昨日は夜も食べなかったし。それだけでも大変なのだがそれが三段重箱になっているあたり,藤ねえの機嫌具合も声から判断したのかもしれない。

「それってもしかして噂の…」

その後になにが続くのかは大変興味深いが同時に聞きたくもない矛盾した噂なのだ。

美綴はなにを考えているのか中を除いただけで受け取らなかった。じっとこっちを見ているだけで弓道場へは行かない。なんだってんだろう。

「早く行きなよ」

「………………」

それは俺に弓道場の中に入れと命令しているのか。

「その心は?」

「さっさと藤村先生に弁当手渡してご機嫌とってこいって言ってんの。部員たちじゃもう抑えきれないんだから」

なんて恐ろしい事をさらりと言うんだ。分かっていたがやっぱりこいつってばとんでもない。それは俺に生贄になれと言っていることと同じだ。

腕を汲んだまま右でだけを動かしてクイと親指を入り口向けた。まるで死刑執行のサインに見えるのは気のせいなのか。

……まあ、顔ぐらい出しておかないと後で藤ねえの逆襲があるかもしれないし…少しぐらいならいいかな。

なぜか言い訳をしつつこそこそとは言っていこうと持ったらガシッと美綴に方を掴まれた。ぎりぎりと肩に指が食い込んでくる。

「その前に聞きたいことが」

聞くよな、やっぱり。俺も聞きたくなる。

「あまりその話題には触れて欲しくないのだが…」

うん、心の底から思うよ。

「いや、聞かない訳にはいかない。どうせこのまま言っても部員たちが騒ぎまくるのも変わらない。それならここで聞いてもいいだろう?」

ちくしょう、そっとしておいてくれよ。

しかし、考えようによっては美綴には事情を話しておいた方がいいかもしれない。こいつは面倒見もいいから新入部員になるかもしれない素材がここにいるから。いやしかし、根掘り葉掘り利かれるのも気が進まない。そもそもなんて答えていいのか分からない。

俺が考え込んでいると美綴は近寄ってきて耳元に口を寄せた。

「あのさ、タイプは違うけど二人ともすっごい美人だけど、どういう知り合い? かたっぽここの制服着てるけど見かけない顔じゃない」

まじで緊張しきった声。この穂群原学園要注意人物上位三位に入る美綴がそんなに緊張するほどの相手なのか。

いまさらながらそんな事実に気づいてチラリと二人を見る。どっちも無表情で事態の成り行きを見守っている。

どういう知り合いと聞かれても俺にも答えようがほどんどない。セイバーの事を正直に話すなんて論外だし、彩さんにしたって曲がり角でぶつかったなんて下手な嘘よりも嘘らしい。

あ〜う〜と悩んだ挙句。

「正直、俺にも答えづらい。その辺の事を察してくれると大いに助かる」

なんて実に都合にいい答えを返した。

「…分かった。なにやら複雑な事情がありそうな感じだし、聞かないことにしておくよ。その代わり…」

「承知した。虎の相手は任せろ」

うむ、なんて頷いて美綴は道場の入り口をくぐって行ったのだった。

俺もかつてないほどに緊張しながら入っていく。二人は並んでついてきていた。

「どうかなされましたか、士郎さま?」

彩さんが心配げに俺を見ている。う、些細な事でも心配してくれる人がいるってのはいい事だ。特にこれからの事を思うと。

「……士郎さま?」

「いや違うぞ美綴。これは彩さんの呼び方であって別に変な意味はないぞ」

「心配事があるのならば私に言ってください。そのためにも私という存在はあるのです」

「……私がある?」

「全然違うぞ美綴。これはセイバーの過剰な心配が言わせているのであって、変な意味は全くないから」

「……あたしはなにも言ってないんだけどね」

「………………………」

なんか、針の筵?

「美綴さま。士郎さまはこの地に不慣れなわたくしを、それも見ず知らずの他人を案内してくださったのです。放っておくのが浮世の常ですのに。誠に義に厚い御方ですわ」

「ま、まあ、衛宮はそういうヤツだから」

おお、あの美綴がなんて返答したらいいのか迷っている。かくいう俺もいきなり義に厚いとか言われて照れと戸惑いしかない。今時そんな言いかたしないぞ。

「あなた様も、とても清い御霊をお持ちですわ。美綴さまに御多幸を願います」

「……………そ、そう」

彩さんは美綴を見て会釈を浮かべる。なぜか頬を赤らめる美綴綾子。相手の視線に後ずさりする美綴なんて今後一切見る機会に恵まれないだろう。

「…あの子、かなり変わってるな」

「否定は出来んが同性の笑みを見て赤くなるお前も変わってると思う」

「お前はあの笑みを見てなんにも感じないのか。かなり強烈だぞ。同性異性の関係なく惹きつける類の微笑だぞあれは。なんていうか、人間に精霊が混じったみたいだ」

まあ、それっぽい外見をしてはいるが…俺だって最初に綾さんを見たときは千人みたいだと思ったのだし。美綴に言われてしげしげと彩さんを見る。なるほど確かに…仙人よりも精霊っていった方がいいかもしれない。

ふと、目が合う。柔らかく微笑まれた。まるで歳の離れた姉が弟や妹に向ける限りない優しさと包容力の宿った眸。この微笑みは…なんか言わなきゃならない気分に強制的にされる。だけどなにを喋っていいのか分からなくなるから焦る。つつーと汗がこめかみを流れる。

「たしかに、強烈だ…」

「だろ」

頷きあう俺たちだった。

道場の中は混沌としていた。まるで戦場の衛生班みたいに慌しく怒号と激が走っている。魑魅魍魎の阿鼻叫喚。地獄絵図みたい。主な原因は虎の咆哮にあるのだが。

一年生はほぼ一年も経てば藤ねえの横暴にだってなれると言ってもやっぱりまだ耐久力の面で問題がある。二年と比べると疲労の度合いが激しい。

道場の外から聞こえてくる声に耳を傾けていると弓道部は今日も激しくやっている…。と表現されるがそもそも弓道には鋭さはあってもやかましい激しさはない。一度この中に入れば擾乱具合がよく分かろうというもの。

正直、関わりたくない雰囲気がそこしかこに煙のように蔓延していて近づきたくない。が、美綴から交換条件としてしっかり虎の相手をする事を引き受けてしまっているのでこのままというわけにも行かないのだ。

「オネチャンハオナカガヘターヨ!!!」

ガーッと天井をぶち破らんと吼える虎に自ら近づくのは自殺行為以外の何者でもない。機を窺って重箱を吊り下げないとこちらが殺られてしまう。

「藤村先生。落ち着いてください!」

「そうです。もうまもなく、まもなく生贄が到着しますので今しばらくのご辛抱を!」

おいおい、その生贄ってのは俺のことかよ。ちらりと美綴を見たら絶妙なタイミングで逸らされてしまった。くそう。俺だって進んで生贄になりたいわけじゃないのに。この惨状を前にして足が鈍るのは無理らしからぬ事。ほら、セイバーも呆れてこっちを見ているじゃないか。

ん、セイバーだけ?

さらりと黒髪をなびかせて彩さんがこっちに歩いてきた。

「お貸しくださいませ」

なんて簡潔な一言で俺の手からかなり重たい重箱を奪って行ったのだった。

呆然として見ていることしか出来ない俺。彩さんは軋むはずの板張りの床なのに音も立てないで颯爽と髪を揺らせながらなんにも気負うことなく微笑を浮かべたままで雄叫びを上げる藤ねえに注目を集めながら近づくと―――。

「ご所望になられていた小料理ですわ。お姉さま」

なんて、絶句する俺たちをよそに変わらぬままの微笑を浮かべたまま、藤ねえの前に差し出した。

常に流動するはずの時間の流れは確かに止まった。あれほど騒がしかったのに誰もが口を閉じざるをえなかった。一瞬だけ世界が灰色のストップモーションみたいになった後で……。

「ありがとー今日はなにかなー」

「ごめんなさい。昨日の残り物なのです」

「それでもいいわよぅ。初めて綾ちゃんがここまで来てくれたんだからお姉ちゃんは感激しちゃってるのだー」

「それはわたくしも嬉しいですわ」

はーーーーーーーーーーーーーー?

え、あえ、うえ、なにが、起きているのか…。現実感がまるでない。俺はおろか弓道場の全てにおいてなにが起きているのかも分からずに停滞してしまっている。セイバーだけはこの中でも無表情が変わることがない。

完璧な静寂。そして巻き起こる、絶叫! スクリ−ム! スクリーム! スクリーム! 最終絶叫計画!!!

「「「「「「「「「「ウオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」」」」」」」」」」

あ、地震。

地震と勘違いするほどの砲撃がどかんと弓道場どころか学校全体に対して発射されて命中。しばらくは耳が馬鹿になって使えなくなってしまうほどの声量。奥の方がキーンと鳴っていてくらくらしてくる。でもセイバーは耳を押さえていたので無事らしい。

「お、お、お姉さまだって!」

「わたくしってどこのお嬢さま!?」

「あんな綺麗な人が藤村先生の妹!!!」

喧々諤々悲喜交々。その中にあって件の姉妹と噂される二人は周囲そっちのけで重箱から弁当を摘んでいる有様だ。しかし訳が分からないのは俺も同じこと。

「あの、彩さん?」

「はい、なにかご用命でしょうか士郎さま?」

クルリと優雅に重さを感じさせない舞踏の彩嬢。

再び轟く有象無象の魂の絶叫。

「士郎さまだと! こんちくしょー!」

「てめえ、衛宮! あんちくしょー!」

「衛宮くんって、そんな人だったのね」

「…お、お姉さまとお慕いしたいです」

なにがこんちくしょーでどこがあんちくしょーなのかはさっぱり分からないが、とりあえず黙れ男子一同。

そんな蔑むような目で俺を見ないでくれ女子一同。心が痛くなる。そんな人とはどんな人なのか。想像するだに恐ろしい。

それと、新しい趣味に目覚めてしまうような危ない君は退場しなさい。遅いかもしれないが。

どういうことなのか自分の中でまだ整理がついていないんだから、少し、いやかなり静かにして欲しい。頼みの美綴も壁際で呆然としてるしどうしようもないなこれ。

「シロウ」

セイバーが耳を押さえながら近づいてきた。無表情のままなのでちょっとお間抜けだ。

好都合。セイバーには聞きたいことがある。

「セイバー、彩さんって藤ねえの血縁なんだろうか」

「それは私には分かりません。そもそもフジネエとは誰ですか?」

「彩さんってあんな人だったのか?」

「それも私には判別が出来ません。ハッキリしているのはアヤはアヤではなくリョウだということです」

ああ、やっぱりな。なんとなくどこかで見かけたことがあるような気がしてたんだよ、畜生め。

そんな事を思ってふにゃりと気が抜けてしまった。なにからなにまであいつの演技農地だってことだよな。お兄ちゃんは完璧に騙されてしまったぞ、こんのどちくしょうめが。

なんて事を冷静に考えている場合ではなく、俺の中には消防車が何台でかかっても消せない憤怒の炎が燃え上がっていた。消防車ってところが微妙だ…。

ずんずんと歩いていくと彩改め綾の側まで行って腕を掴むと強引に弓道場の外まで走り出した。

「お前は何を考えているんだ!この大逆転式直下型大莫迦がっ!!!」

綾の肩をガシッと掴んで怒鳴りあげた。わしわしと揺らすたびにガックンガックンと首が揺れてついでに髪の毛もワサワサ揺れる。

「しろ、ちょ、いた、くる!」

「おまけになんだその格好はーッ!」

綾が何か言ったような気がしたのだが今の俺はそれを聞けるほど冷静な状態ではないのだ。

「だか、ら、はなッ!」

「鼻がどうした! かゆいのかーッ!」

「ちがっ、だ、はな…!」

「ちゃんとしゃべれーッ!」

なおもそのままゆすぶり続けていくとそのうち綾から抵抗がなくなってきた。その手は俺の両腕にもたれかかって時折痙攣したようにびくんびくんと動いている。

ちょっと待て、痙攣? なにゆえ痙攣?

俺の腕を見ると綾の肩を掴んでいて機械みたいにさかさか動いているではないか。

「シロウ。もうそろそろやめた方がいいと思われますが」

セイバーが遠慮がちに声をかけてきた。表情は困惑して…というよりも気の毒そうに綾を見ている。

「それに、そのままではいずれリョウが気絶してしまいます。さすがにそこまですることはないと思うのですが…」

なに、気絶だって? ちょいと目線を下げてみればそこにはぐったりとした海貞子の姿が。

「うわ!?」

あわてて手を離したらそのまま重力の法則に従ってごんと鈍い音がした。しまったしまった。

「シロウ。何もそこまでしなくともよいのではないですか。確かにあの演技には驚かされましたがそれほどまでに頭にきていたと言うのですか?」

うわ、セイバー。俺を非難してるみたいな目で見てるじゃないか。

「いや違う。これは手違いだ」

とりあえずおざなりな返事を返して抱え起こす。漫画かなんかでよくあるようにペシペシと頬を叩くと「うう」と小さな反応があった。

「士郎さま…わたくしが逝ったら遺骨は庭の柳の下に埋めて欲しい。霊魂だけになっても士郎さまの背後で海月のように漂っていますわ。毎日の世話をよろしくお願いします…」

死ぬとか言うな。お前が言うと正直しゃれにならない響きと重みがあるんだから。それと、そんな背後例に用はないのでそんな気遣いは間違っても必要ありません。まったく持って無用の長物だ。

「身をはったギャグをありがとう。あとスマン。少し熱くなりすぎた」

「ああ…千年の彼方に微笑む士郎さまが見えます…」

「もうええっちゅうねん」

右手を差し出して手を握るとそのまま一気に引き上げた。

パンパンと制服についた土ぼこりを叩き落とすと改めて俺たちに向き直った姿は格好のせいなのかいつもよりさらに女性っぽいがやっぱり綾だった。

「で、最初に質問に戻るぞ。お前は何でここにいるんだ。何でそんな格好をしつつ当然の顔をして学園に入ってきやがったんだ? そもそもどうやって俺たちに追いついた?」

「うむ。楽しそうだったからね。学校での姉さんと桜を見てみたかったし、それにセイバーが学校行ってもいいんなら僕が行ってもかまわないはず。後追いつけたのはセナさんに送ってもらった」

頭…痛くなってきた。

いや、乗せるほうも乗せるほうだが。

セナさんという人は藤村組お抱えの運転手だ。その車の腕前は車種を選ばず、いつでも迅速かつ期限内に目的地に送り届けるその筋では有名らしい凄腕の人。昔はどこぞのサーキットで賞金王の名を欲しい侭にしていたらしいが、何か理由があってその座から退いた後は一介の運び屋として働いていたところを雷画爺さんがスカウトしたらしい。

そんな人を足代わりに使うこいつもこいつだが、許可を出したのは誰だ。いや、そんなやつは決まってるけどな。たぶん俺とセイバーがにらみ合いをしていたときに脇を走り去ったあの黒塗りのジャガーに乗っていたのだろう。

………はぁ。

限りなく気は進まないがセイバーならいてもよくて綾はだめだという理由は今のところ見つけられない。遠坂以外の魔術師の気配もないようだし、こいつの病気も今は形を潜めいていたって健康体みたいだし。

それに、一度冷静になったら弓道部員たちはやっぱり綾だけでなくセイバーのことも気にするだろうし。

「ちなみに、この制服は藤村組有志一同が買ってぜひきてくれと懇願してきたのさ」

ロングスカートのすそをつまんでくるっとその場で回った。

頭…割れてきそう。

そのしぐさは絶対に言いたくはないのだが、知らないやつが見たらきっと見とれるほどに似合っているのだろう。しかし、俺はそれを口に出すわけには断じていかない。そんな調子付かせるようなことは口が裂けても言うわけにはいかないのだ。これ以上の人心被害を広げないためにも。

本当になにを考えているんだ藤村組の連中は。あの組は変体の巣窟なのか。レンガで頭殴られたみたいに物理的な痛みが激しくなってくる。

まあ、そもそも頂上に今もって君臨しているのが、あの、藤村雷画だしな…。

「はぁ。来たんだからもう仕方ないけど、大人しくしてろよ」

「分かってるって。道場にいる間は淑女モードでいくから」

淑女モード…ああ、さっきのお馬鹿な演技。

いかにも分かってなさそうな返事でセイバーの手を握ってにっこりゆったり歩き出していった。

「ちょ、ちょっとリョウ。なにをするのですか!?」

「わたくしにお任せくださいませ。セイバーさま」

やはりセイバーは綾が絡むと調子を崩している。

それがあいつ独特の変な、やんわりと押し付けではないが強引な雰囲気みたいなのに呑まれてしまってついな感じで。

そのまま歩くのだが振り返ってこんな事をのたまった。

「シロウ…」

「なんだよ?」

「ときめいた?」

「……………………」

この大莫迦。ときめいてしまったら本当に変態でしかないのだぞ。

「変態…」

「ちょっとまて、なんで、俺が、お前なんかに、ときめかにゃならんのだ!!!」

この発言に関しては譲れない。これを認めたら人として大事な何かを完全喪失してしまう程の爆発発言になる。爆撃の後に空襲警報が発令されるようなものだ。

「士郎さまって呼んだら赤くなったでしょう」

「あれはだなッ! その! なんだ! 日本男児に連綿と流れる血の呪いだ!」

自分でも言ってて苦しいと思う。確かにあの時はさま付けなんて呼ばれたことがなかったら熱が上がった。言い訳させてもらうなら、呼びなれていないからあせったってことを言わせて欲しい。せめてそれだけは分かって欲しい。

綾は後ろ向きに勝ち誇った笑みを吹かせて歩いて行った。

「信じてくれ…」

跡に残された俺は空っ風に吹かれる風の又三郎になるだけであった。

弓道場に戻ったときは少しだけひそひそと声が聞こえてきたもののそれはむしろ広い空間の中によく響いた。

俺たちが戻ってきたときには美綴の尽力か、それとも藤ねえの叫びの賜物かそれなりに静かになっていた。

それでもやっぱりあの二人が入り口から入ってくるときは多くの視線が注目したりざわついていたりしていたのだが、練習が始まってしばらくすると弓道に限らず武道全般に言えることだが芯として程よく張り詰めた気配がするようになった。

が、俺の心境はそれどころではないのだ。落ち着いてみるなんてのとは程遠い。

セイバーは信用できし信頼もしている。じっと落ち着いて静かに射を見ているさまは剣士の鏡…だ。が、その隣の綾…いやさ彩が伏せ目がちにして周囲に自分の挙動不審を悟られないギリギリであたりに視線を走らせている。落ち着きがないこと甚だしい。

二人は見ていてとても対照的だった。

いつ騒音の元を作り出してこの空間をぶち壊しにするんじゃないかと気が気ではない。少しセイバーを見習えってんだ。ぴんと背筋を張ったきれいな正座は離れてみているこっちまで気を引き締めてしまいそうなのに隣にいてそれはどういうことだ。

あ、セイバーがちょいちょいと袖を引いて窘めてる。

それで少しだけ挙動は収まったのだがしばらくするとまた不審な動きを再開した。

目が合うとにこりと微笑んだのだがそれは俺にとってはニヘラッと少々ゆがんだ笑みに見えた。そしてそれはおそらく正しい認識だろう。ほかのやつは気づかなくても俺から見ればそわそわしていて今にもそこらを歩き回りたい様子に見える。

何かしら行動を起こす前兆なのかセイバーにひそひそと耳打ちした。セイバーも納得したのかコクリと一度うなずいて二人はすっくと立ち上がった。

つられる部員たちの目線。主に男子の視線が動いたのだがそれは特に関係がないことだ。

音もなく静々と歩み寄ってくる二人は注目が集まっても気にも留めていないようだ。

なにを言い出すつもりか知らないが発案者があれなので前もって覚悟をしておかねばならないかもしれない。

「シロウ。この学園を見て回りたいと思うですが、あなたにもついてきてもらいたい」

「は?」

なんだ、そんなことで良かったのか。

「べつにいいけど、なんでさ?」

「この学び舎にマスターにとって危険がないかどうかを確かめることが目的です」

どんなトンでも意見が飛び出してくるかと思いきや比較的、いや、むしろ至極まじめで何か裏があるんじゃないかと勘ぐってしまいそうになったのは秘密だ。

まあ、確かにセイバーの意見にはうなずけるし、そんなことが実際に起これば目も当てられないわけで、俺はその意見に賛成したのだ。

「分かった。でも何もなくても文句は言わないでくれよ」

「なにを言うのです。何もないほうがいいのです」

「そうじゃなくて、つまらなくてもぶーたれるなよって事。そっちの挙動不審人物」

「もちろんですわ。わたくし、士郎さまにはお手数をおかけしません」

ぶーたれそうだな。

案内しながら一成の所にでも顔を出してみるか。もしかすると珍しいものが見られるかもしれないし。

「藤ねえ、ちょっと校舎の方に行って来るから、終わったら帰るぞ」

「分かったー。でも校舎の中でへんなことしちゃだめだぞ」

変なことってなに…突っ込みそうになったのをぐっとこらえる。ここで突っ込んだら漫才に突入する。

俺は一言告げてからよいしょと腰を上げて二人を先に生かせて弓道場を後にした。

関係ない話だが二人が立ち上がると場内の空気も一緒に動くみたいで部員全員の首が一斉に同じ方向を見るってのは少し引くものがあると思うのだがどうか。

そんなことを考えながら二人のあとを追っていった。

日曜日ということもあってやはり校舎の中は部活中の教室を除けばどこにも人影はない。グラウンドや特別教室のざわめきは白塗りの壁や閉じきったガラス窓に遮られて小さくしか聞こえない。

普段は生徒たちでごった返している廊下も人影がなくなれば少しさびしく見える。なんだか感傷的な気分に浸らされてしまう空間。

だが、そうでもなければ俺はこうしてここには来ていなかっただろう。俺の後ろにはいろいろな意味でなにをしても目立ってしまう二人がついてきているのだから。

「で、どんな感じなんだ。恥も外聞もないけど俺はそっち方面じゃ役に立たないと思うぞ」

「…目に映る危険はありません。校舎にもやはり凛の魔力の残滓が見られますが目立つほどのものではないようです。この程度ならば問題はないでしょう」

歩きながら一度うなずくとセイバーは緊張を和らげて少しだけ微笑んだ。

…う、そうやって面と向かって微笑まれるとやはり頬が赤くなってしまうのだ。

セイバーは俺みたいな未熟なマスターのことでも考えてくれるので俺も精一杯セイバーに答えようと思ったのだが、まろおんとこっちを見ている不気味な視線と目が合ってしまったのだ。

「なんだよ」

「少し、嬉しくて」

ふふふと微笑みながら気を引くような言い方をする。どうせ内容はろくでもないことだろうが。

「言いたいことがあるなら言ったほうがいいぞ。そのほうが人体への悪影響は少なくて済むんだ」

「言って…欲しいの、ですか?」

にやりと禍々しく嗤われた。表面上は完璧な笑顔なのに脳と背筋が最大限の危険をかき鳴らしてくるような嗤い方。

「いや、やっぱりいい。言わないでくれ」

「それはとても残念ですわ」

なんて言って再びそこらじゅうをなにを考えているか分からない目で見渡した。

…たぶん、こいつが考えていることは自分にもあったかもしれない高校生活のことだろう。

俺たちは切嗣の養子だから、綾がもともとの持病持ちだったのかは知らない。

ただ、あの火事のときに発見されてから今まで病院みたいな場所に通い続けているにもかかわらず原因は不明。病状はさまざまだが特に多い貧血や眩暈に似たものでこれは日常茶飯事だ。

そのまま倒れると吐血や衰弱も併発したりしてとてもじゃないが見ていられない凄惨さを描き出す。であるのに幾日か経ってしまえば健康そのものといった感じで起き上がってくるのだ。

小さい頃はよく発症していたのだが大きくなるにつれて抵抗組織ができたのかその回数は少なくなっていった。実際に中学に入ってからはほとんど見られなくなってこのまま全快するのだと誰もがみんなそう思っていた。

けど、中学三年の冬に今までにないほどの激しい発熱をしてからは直ったり再発したりを繰り返して酷い時には一週間ぐらいその状態が続いたりした。

綾もこの学園の入学試験に受かったのだが原因不明の病気のせいで医師からの自宅療養の通知。それをコイツは「当然だ」って笑いながら受け止めていたけどやっぱり行きたかった筈。

こいつはいつも俺を困らせてしまうけど、べつに嫌じゃなくてそれは一つの生活になっていたし。いつも笑ってくれていたから、楽しかったと思ってくれているはず。俺も…楽しかったし。

藤ねえと高校に入ったらどんな事をするかとか進路のことを話したりしたこともある。

なのに、理不尽な理由で学校に行けなくなったってのに、黙って受け止めて自分がどうするべきか最善を迷わずに決めた。

本質的に強い人間なのだ。

普段の狂騒じみた性格は後天的なものだ。それを、俺は忘れてはならない。絶対に。

俺はなんとなく横目で見ていたけどなにを考えているのかはやっぱり分からないのであった。

そうこうしているうちに俺の教室についたみたいだ。

「ここが俺の教室だ」

「ここがシロウの教室ですね」

「ここがシロウの教室なんだ」

なぜか俺の言葉に追従していた。セイバーの口調には危険がないかを見るため、綾はどことなく神妙に。

学園の校門から後者を見上げた時の言葉はきっと本心からの物なのだったんだろう。ボケッと中を除いている。

セイバーはツカツカと教室に踏み入り、辺りをグルッと見回してから一つ頷いた。多分だけど、何も危険がないことが分かったからだろう。

俺はセイバーの側まで歩いて行って同じようにぐるりと見回した。

「どうなんだ。危険ってのがあるのか?」

「いえ、私の知覚範囲にはマスターを危機的状況に陥らせるものは感知できない。多少引っかかる物はありますが、これならば安心です」

ふむ、ひとまずは安心といったところか。

「では、次に行きましょう。とりあえずの危険はないということで決して気を抜いていいわけではありませんから」

…セイバーはやる気満々で次の場所へ向かおうとしている。

ふと、入り口のところでじっと天井を見上げている綾に気づいた。その、なにを見ているのか分からない、あるいは焦点の合ってない眸は奇妙だ。

なにを見ているのか俺もつられて見上げてみたそこには少し古びた蛍光灯と変わらない天井模様があるだけだ。

視線を戻すとそこにはさらに蒼褪めた顔した姿があった。こめかみを押さえて頭部にかかる負担を軽減しているみたいだ。

「…いつものやつか?」

「…な、そんなとこ。寝そべらなきゃいけないって程じゃない」

「平気なんだな」

「平気じゃなかったら血反吐はいてのた打ち回ってる」

「…あんまりそういう事を言うな」

「ごめんなさい」

俺は教室の椅子を持ってきて綾を座らせた。セイバーも心配そうに綾の側によってきた。

軽度の貧血や眩暈は日常茶飯事とはいえ、あんだけ元気そうに見えていたから油断していたのかもしれない。俺も本人も。

「顔色が悪い。呼吸も浅い。医者に見せた方がいいのでは?」

「今はへたれだけど、あと少したらいつも通りに愉快な日常のプロデューサーになれるよ」

「…つまり、大丈夫って言いたいんだ」

貧血になっても変わらない。これぐらいの減らず口が叩けるならすぐに治るだろう。首を傾げて唸るセイバーに助言した。

そのまましばらくじっとしているといつも通りの顔色の悪さに戻ってきた。俺とセイバーは黙って立っていた。なにかを言っても役に立つとは思わなかったからだ。

「もう平気。心配かけてごめんなさい」

「なに言ってんだ。いつもの事だろう。謝る事じゃない」

「そりゃそうだけど。礼儀ってことだよ。社交用の」

「社交用をつけては意味がないのではありません。そういうことは思っていても口には出してはいけません」

「そりゃまた失礼」

このように、また能天気な空気が辺りを支配し始めるのだった。だが、それはあくまで表面上のこと。真の底からこいつが賑やかしていない。

落ち込んでるなコイツ。それとも考え事があるのか。それともその両方か。

前者は気にするなと言っても意味がない。自分が病弱なのはどうしようもない事だけど、それを人に見られることが嫌いだと前に言っていた。それは、分かるような気がする。俺も自分が風邪かなにかに罹って面倒を見られている事を心苦しく思っている時に気にするななんて言葉をいわれたらもっと気にしてしまうと思うから。

だから俺はこいつがなにを考えているかを聞いたんだ。

「お前、なに考えてんだ。さっきからえらく神妙じゃないか?」

「……士郎。この学校でなにか変な事あった?」

「それじゃ範囲の絞りようがない。もっと具体性を持たせろ」

「……やっぱりいい。なんか自分でもよく分からない事言ってるし…。なにか合ったような気がしたんだけど…?」

本当によく分かっていないようで言葉は胡乱げ、首を傾げて自分が言っている意味がよく分かっていないようだ。本人にも分からない事が俺に分かるはずもない。

「もう大丈夫なので、次に行きましょう」

「ん…。それはいいが気持ち悪くなったらすぐ言えよ」

「あい分かりました」

こいつ…もしや若年性健忘症じゃなかろうか。などと申告したら想像するだに肉体的にも精神的にもおぞましい報復をされること請け合いの失礼な感想を思ったのだった。

「じゃ、次は生徒会室に行くぞ」

久しぶりに一成と綾の掛け合い漫才が見られるかもしれないし。セイバーがなんとなく次の場所に行きたくて急かしてるみたいだし。

が、誠に遺憾きわまるが生徒会室には一成はいなかった。まあ、いたらいたらでまた騒がしくなるのだ。一成に取っては幸いだったかもしれない。

実は綾と一成は顔見知りで初顔合わせの時に何やら一悶着あったらしくてそれ以来一成は綾のことが苦手なのだ。苦手であるだけで嫌いではないのが見ていて微笑ましいというかな。はっきり言うと、楽しい。

その代わりにいたのが葛木先生。学校一の融通のきかない堅物先生なので部外者を勝手に校内につれている事に対してなにか言われる事を覚悟していたのだが、どうにも歓迎されていたっぽくて一安心。

葛木先生って頑固だけど校則に対しては寛容なのかもしれない。意外な一面を見た感じ。この学園も留学生が来るようになったと、なんだか教師冥利に尽きるみたいな台詞を言ってお墨付きまで貰ったのだ。

「シロウ、先程の人物。素晴らしい呼吸法をしています。いったいどうやって身に着けたのか、とても不思議です」

「呼吸法ってあれか、古武道とか、中国の道教とか日本の神道に伝わってるあれのことか?」

「ひーひーふー…ですわね?」

「それはラマーズ法だ! なにを自信持って告げとるか! 変な茶々いれるな!」

お馬鹿な綾がお馬鹿なボケをかましてくれたのでいい感じに興味の出てきた話がそれた。

「…はい。西洋とは違い東洋の魔術や武術体系では呼吸によって己を外界と内科医に繋げる術があると聞きます。居吹きや息吹とも言いますが、その総称が呼吸法なのです」

セイバーも放置する方向で話を進めてくれる。付き合いのない呆けはただただ虚しい。

「魔術師とは違い、呪文を用いずに自然に魔術回路を形成、体現する。いわば超能力者のようなものです。そうした異能者は大抵が神童、神子として騒がれ、噂される為に惑うの者達に引き取られるのが常ですが、極稀にそうしたものから免れる者もいるのです」

「存じております。天然道士と呼ばれるお方たちですわね?」

お前は漫画の読みすぎだ。現実にそんな風に呼ばれていたら魔術教会や教会は仕事をしていないことになるぞ。

「……表現としてはあれですが、あながち間違ってはいません。彼は呼吸法、その一転のみが人として理想的だった。呼吸法といっても侮る事は出来ません。後天的に習得する事はほぼ不可能ですから」

「じゃあ葛木先生は天才ってやつになるのか?」

「いえ、彼は後天的に呼吸法を身に付けた例外です。ですからどのように身についたのか不思議だと言ってのです」

そういえばそう言ってたっけ。なんだかため息をついて羨ましがってるっぽい。意外な一面だがそれはそれでセイバーの新しい一面を見る事が出来たのでOKなのだ。

「呼吸法」

「どうかしたのですか?」

見れば何やら綾がセイバーに吹き込もうとしているではないか。これは断固として阻止すべき場面だ。思わせぶりな事を言ってセイバーを引き付けようだなんてお天道様が許しても俺が許さないのだ。悪事許すマジ。

「おい綾。セイバーにいい加減な事吹き込むなよ。セイバーもあんまりコイツの言うこと真に受けるなよ。こいつは冗談が大好きだから」

「…それは違いますわ士郎さま。今はとても素晴らしい事を話そうとしていたのです」

じゃ、言ってみろ。けど…。

「ヒーヒーフーとか言うなよ」

「………道教につていは知りませんが、神道なら多少覚えがありますわ。古神道における呼吸法に息吹永世と呼ばれる法があります」

言おうとしてたなこいつ。最初の溜めはそれを示している。隠そうとしても隠し切れるものじゃない。

「肺活量には関係がなく、より多くの酸素を身体に行き渡らせる法で皮膚で呼吸するという想念を持って身体中に気を巡らそうという呼吸です。最終的には全身の未使用細胞に刺激と活性を与える事を目的としているのですわ。これは長息に通じてつまりは長生きという意味を持ちます。調息法としての側面もありますわね」

ふふふと不敵な笑みを浮かべながらまるで教師のように解説する。

む、セイバーが驚いた顔してる。そんな顔をするのはいい傾向だと思う。やっぱり意外性が重要なのか。どう見ても綾はアホにしか見えないから。

「お前はどこでそんな知識を仕入れてくる」

「先生が教えてくれる」

そうかあの人か。あの人なら知っていてもおかしくないだろうけど。あまり変な事を教えないで欲しい。

あの人とは綾の主治医で控えめに表現すると変わった、はっきり言うと真性の変態だ。腕はいい、腕はいいが性格が破綻しているので人として駄目である。

医者のくせに出張とか合って時間がないと零していて綾は平日に診察の為にわざわざ県外まで出かけていくのだ。

そんな事を話していたらいつの間にか既に時刻は夕方。弓道部の練習も終わり、俺たちは藤ねえと一緒に家への帰路を辿っている途中だった。

「でね〜、今日は綾ちゃんが来てくれて部員のみんなも大騒ぎで部活動にも身が入って助かっちゃったのだ〜」

「お役に立てて幸いですわ」

にこやかに会話する不思議な似非姉妹。藤ねえは綾がこんな格好してても言葉遣いが変でも全く動じなかった。流石としか言いようがない。

それにしても、大騒ぎで部活動にも身が入ったって矛盾してないだろうか。

確かに部員は大騒ぎでしたよ。そりゃもう色んな意味でおおわらわだったよ。でも誰がその収拾をつけたって言うんだ。一番大変だったのは俺じゃないか、俺。

その点、セイバーは大人しくて本当に助かった。少しでいいからセイバーの態度を見習って欲しいのだが。

俺たちが弓道場に戻ってから部活動の休憩が始まった途端にこっち、正確にはセイバーと綾に部員が殺到してきて帰るに帰れなくなった。

具体的には―――。

―――君どこの国の人いつごろから日本に北の藤村先生の妹ってほんと俺たちと遊びに行きませんその髪の毛どうやって手入れしてるのお名前をして付き合ってくださいませんか―――

などの質問責めにあって色々と大変だったのだ。

「藤村先生、是非とも妹さんとの結婚を前提にしたお付き合いを」

「交換日記どころか自己紹介すらすっ飛ばす君は太陽に向かって飛んで燃え尽きなさい」

「先生、あの子たちの、く、く、くくく靴下を是非に…!」

「はいはい。そんな変態チックな君は下水に堕ちて汚水を飲み干して全身の穢れを清めてきてね」

「藤村先生。彼女たちの身長体重スリーサイズ及び趣味履歴を憶えておきたいので教えてください。あと髪の毛に着ているもの一式、できれば入浴時の写真も添えて。そうそう声を収めたテープは必須ですね」

「冷静ぶった奥では隠しきれないきしょい興奮を所持するストーカーも真っ青な粘着系のヒキガエルみたいな君は今すぐ悔い改めて頭に油でも齎してこい」

なんだったのだろうあれは。いや、分かっている。分かってはいても余り理解したくない光景である。セイバーに魅了されたり不幸にも綾に汚染されてしまった哀しい連中だ。

どれだけ想いを募らせようと絶対に届く事はない。セイバーは、まあ、本人の意志に任せるが、綾とお付き合いをしたいとぬかす輩は社会的性犯罪者の烙印を押されるしなにより、藤村組の連中が当然のことながら出てくる。

しかし、ああ見てみるとなんとも濃い連中ばかりが名乗りを上げている気がする。二人とももしかしたら不幸なのかもしれない。なんだよ2番目と3番目。いや、一番もまともと言い難いけどさ。そんな危険なやつ等とは進んで付き合いたくはないぞ。

「衛宮、俺たち親友だよな!」

あんまり話したこともないカップラーメンよりも早い出来立てほやほやの生まれたての小鹿なみに震える即席親友が気安く俺の肩を叩いてきた。

「違う」

なんだか生暖かくて気持ちが悪かったので自分でも大人気ないかと思いつつすげなく振り払う。

「そんなこと言わずにさ、あの子たちのこと教えてくれよ」

「知らん」

む、なんだかしらんがムカムカしてきたぞ。

「あんなに綺麗で清楚で料理も上手な女の子と知り合いなんて衛宮はうらやましいなぁ」

どういった幻想を持つのもいいがそれは擬態だ。これ見よがしに擦り寄ってくる輩が一人。どうやらこいつ、藤ねえの絶対食料防衛線を突破して飯に辿り着けたらしい。

「あの金髪の子。なんと端然とした佇まいだ。凛然としてそれでいて気迫があって」

うむ。この騒ぎの中でもセイバーは変わらず孤高を保っているがそれでも俺には分かる。困惑している事が。どうしてこれほど騒いでいるのか理解しかねているご様子。何人かに囲まれて対応に困っている。

だから、話題沸騰中のやつが表面上は見事なほどの微笑で対応していたけど室が変わっていくんだよな。

暗雲に覆われるようにして。

ソレに気づくでもなく話しかける諸君は本当、無駄に元気がよろしい。その元気は変化の最中にあるあいつの前ではむしろ逆効果になること請け合いだぞ。

ぐるりと辺りを見回した後、探し物を見つけたようで。強引にセイバーと群衆の間に入り込むとセイバーの手を引いて歩き出した。

その場に向かっていくと途端にパブロフの犬状態になる男子部員一同。いや、これはハーメルンの笛吹きだ。とつとつと歩いていく綾とセイバーの後ろをアヒルの子よろしくついていく哀れな子羊たち。

「ねえねえ。部活が終わったら新都行こうよ。君と彼女と俺たちで」

「それよりも奢るからさ、そこらの喫茶店で話しでもして親睦を深めようよ」

その内の一人が馴れ馴れしくセイバーの肩に手を触れようとした瞬間にそれは起こった。

瞬きの間に男子生徒Aは動く事も出来なくなっていた。

なぜなら綾の右手にはいつのまにやら握られた箒があって鼻直撃コース1cm手前でちょうどストップしていたからだ。

まず、箒が置いてある場所まで歩いて行って、右足を箒の柄にかけ倒し、左手を鞘に見立てて納刀、瞬時に右手で掴んだらそのまま振り向きざまに居合いじみた横薙ぎの一閃。

哀れな男子生徒は悲鳴とも呻きともつかないくぐもった声をあげると腰が抜けてへたり込んでしまった。

「年頃の乙女に気安く触れるなど言語道断。あなたたちはそれでも男子ですか。誇りの一欠けらも持ちえていないのですか」

なまじ綺麗な顔立ちをしているからさも侮蔑に満ち満ちた表情でそんな事を言われた日にはちょっと立ち直れないかもしれない一言を、冷笑とひとくたに言い下ろすのであった。

そのまま動きの止まった一同を一瞥したら唐突に微笑んで―――。

「あなた方の中で彼女と攣り合いの取れる者はいない。好かれようと努力するのはよいのですが、その前にまず己を磨く努力をなさい。あなた方は未だに原石のまま。どんな宝石も磨かれなければただの石ころです。自己を高めなさい。男子も女子も善き人とはなにかを常に思考し、実行し、実現なさい。さすれば結果は自ずと出てくるでしょう」

赤くなったり青くなったりしている男子生徒も女子生徒も置き去りにして自信満々に告げてセイバーの手を引いて道場の片隅に陣取るととんでもなく綺麗な姿勢で正座をして異様な鋭くて太いプレッシャーを放ちながら部員たちの一挙手一投足を見守るのだった。

「藤ねえ、これも修行の一環。あいつの言ってることは主観だらけだけど間違ってないぞ」

多分。

「そうよねえ。みんなこの頃たるんでたからこれもいい機会。ちょっとだけ我慢してもらっちゃいましょう」

にこにことこの上なく楽しそうに嬉しそうに笑ってすぐさま精神修養に組み込む藤村大河。

なんというか、綾はとてつもなく、訳の分からない思考の持ち主だ。

今回はセイバーという綾にとって好きな人が迷惑そうな顔してたから出てきたんだと思うけど、その後は自分の思っている事を言った。この男女平等というか、圧倒的に女尊男卑な気がする世の中で自分の思う男子像とは如何にを仰ったのだ。

なにかにつけて軽いだけの軽薄現代男子よりもそりゃ綾の言う方が格好いいのだろうけど…。う〜ん、善い人ってのも人それぞれだし。

それにしても随分と見てなかったけど、あの居合いはさらに鋭さを増している。そうでなければランサーの一撃を防ぐ事は出来なかったんだろうけど。見たところ、たとえ箒でやったとしても当たり所が悪ければ殺人罪を問われかねない威力を持っているだろう。

「彼女、剣術かなにかやってるの?」

美綴が静まり返って弓を引く音だけが響く道場の中で俺に近寄って質問してきた。美綴だけはあの鋭い剣筋が見えたのかかなり見抜いているっぽい。

「すごいな。あの太刀筋が見切れたのか?」

「まさか。ただそうだろうと思っただけ」

さすが美綴綾子。伊達に武芸百般に秀でているわけじゃない。

「正式に修めたわけじゃないけど、居合術を少しやってた」

修行というか、やってた期間は本当に短い。加えて、居合道ではなく居合術。英信流だの長谷川流だのしっかりした流派じゃなく、ただどれだけ速く刀を放てるかのみを追求する名無しの剣術。そんなマイナーな事この上ない事をやっていた。

俺が切嗣から剣道、というか竹刀での叩きあいで試合をしていたらいつの頃からか自分もやってみると言い出して、意志薄弱ではなく、意志漂白だった綾が自分から言い出したことだから出来るならやらせてやりたかったけど、身体の弱さはそれを許さなかった。

それからしばらくしたらなにかの時代劇に影響されたのかそれとも漫画か、とにかく居合いをするだなんて言い出して。あの時はなにを考えているんだとか思ったけれど、剣道とか柔道とかの恒常体力のいるスポーツは出来ない事をよく知っていたのだ。

精神修養とかすっ飛ばしていかに人をぶち倒せるかを追求するものなので、ちょっとどころじゃなくおっかない。曰く、手が荒れる直前で止めているらしいが。その辺りがふざけていると思う。

「できるね、彼女」

ニヤリと笑うどことなく物騒な雰囲気の美綴綾子だった。

この日の弓道部はいつにないほど静かで天変地異の前触れかと部活動に汗水流す生徒達に思われたぐらいに集中して練習が行われたのだった。その間、俺は騒ぎの元凶を連れてきてしまったことに対してちょっと申し訳なく思っていた。

すまんみんな。許してくれ。

で、そんな一幕が繰り広げられていた今日の弓道部。場面は戻って帰宅の途中。

「桜さんはどうされたのですか?」

まだ淑女モードとやらを継続している綾である。いい加減に止めてくれ。拒絶反応を抑えるのも一苦労だ。

「う〜ん、お姉ちゃんにも解らないのよ〜。桜ちゃんが休むときはいつだって連絡があるはずなのに今日に限ってなかったのよぅ」

「残念ですわ。桜さんの融資を是非一度拝見させて頂きたいのですのに」

そうなのだ。いつもならば桜は部活を休む時は必ず連絡をするはずなのに今日に限ってはなかったのだ。風邪か、それとも怪我か。どっちにしてもたいしたことがなければいいのだが。

「リョウ。サクラ、とは誰ですか?」

「桜さんは花も恥らい今をときめく女子高生です。士郎さまにとっては学び舎の後輩に当たります。わたくしとは親しくお付き合いをさせて頂いています。平日には屋敷にいらっしゃって朝餉と夕餉を作ってくれるのです。ですが、桜さんにしてみれば色々な理由の一つに過ぎませんが」

「はぁ」

綾が桜のことをセイバーに説明しているみたいだ。とは言っても、実際の桜を知らないセイバーにしてみたら言われても解らない事の方が多いだろう。

それにしても藤ねえがセイバーの事を知ってもなにも言わなかったのには助かった。今だって綾から簡単な紹介を受けただけなのに既に馴染んでいる。藤ねえは昔から綾には甘いから。まるで妹のように可愛がっているしな…。

「しかし、悪鬼の如し鈍さを誇る士郎さまはなにもお気づきになられていませんが」

なにかしら俺の悪口を言っているのか本心を隠しながらも少し覗かせている口調の持ち主は邪悪な性根を持っているだろう。間違いない。でも誰であるとは決して言えない。

「…俺のどこが鈍いって?」

「そういう所が士郎は鈍いんだよ〜」

藤ねえが言ったことに追従するように頷く綾。顔を見合わせてふふんと笑う。なんだか非情に、大変に面白くない。

「それよりも、桜さんは大丈夫なのでしょうか。とても心配なのですけれど」

「そういうところはよく解らないのよ。電話もなかったし、どうして休んだのかも解らないのよぅ」

几帳面な桜が部活を休むのに連絡をしないなんてこれまで一回もなかったはずだ。

「慎二はどうしたんだ? あいつも来てなかったけど」

「間桐くんも来てなかったわね。ご家庭で何か問題があったのかしら」

慎二が部活に来るかどうかは…半々だ。そもそもあいつは副首相だって野に休む時の方が多い。大方、取り巻きの女子と新都の方に遊びに行っているのだろうが。

ふーむ、と唸っていると綾がこちらにさもいい事を思いつきましたって感じの顔で近づいてきた。今度はどんな邪な事を思いついた。

「そうですわね。この場合はバナナが適当では」

「はあ?」

意味不明だし解読不能だった。なんでバナナが出てくる。皮をむいたら答えが出てくるのか。

「あの、リョウ。それでは全く意味が通ってないのですが」

「そんな事ないわよぅ。確かにいい案だわ」

セイバーが突っ込んだのに藤ねえは綾の腹案が理解できているらしい。波長の合うもの同士の交感か。まるでニュータイプのようだ。

きっとまともな思考回路を持つ人間ではずれた感性の持ち主であるこの二人の間隔にはついていけないのだろう。

「士郎さま。ここは恐らく大切なフラグ立ての場面で素晴らしく高感度がアップしますわ。わたくしの心配も解決しますし、士郎さまもウッハウハで言う事ありませんわ」

「そうね。士郎。ここはGOよ。まずGOなのよ。そして獲得するのよ桃源郷を。でも高校生として適切なお付き合いをするのよ。それ以外の事しちゃうなんて絶対に許さないんだから」

なにを言っているのでしょうこのおばか者たちは。

フラグ立てってなんだ。好感度アップってどこの言葉だ。ウッハウハてなんやねん。どこの宗教用語やっちゅうねん。

は、いかん。この二人の世界に付き合ってはたまらない。と、とにかくそれは聞き捨てて。まあ二人が桜の事を心配しているってのは解る。

意外な事に綾は人当たりはいいくせに同年代の友人はほとんどいない。病弱って理由もあるけど自分自身が遠ざけたってのもある。それは俺が魔術師である事を秘密にするためや他人に迷惑をかけまいとする考えなのかもしれない。

だから、同年代の桜は綾にとっては稀少な例外になる。その在り方は親しい友人であり、姉のような妹のような、そんな関係になっている。

ふざけた物言いとは裏腹に心配しているはずだ。自分が病弱なのを棚に上げて桜や藤ねえが怪我とかしたりすると大げさなほどに心配するから。

でもまあ、俺も心配である事に違いはないのでその提案には賛成だ。

「好感度云々はどうでもいいが心配なのは同じだ。桜の家に行くぞ。…藤ねえはどうする?」

「私も行きたいんだけど事情も分かってないのに教師が行って大事になったら桜ちゃんに迷惑が掛かるから止めとく〜」

どんな状態なのか分かってもいないの教師がやって来たら誰かに見られていらない噂が立つかもしれないから俺もそれに賛成。行きたそうな藤ねえだがそう考えると仕方がない。

セイバーは言うまでもないことだが俺についてきた。

ま、ここまで来たら桜にもセイバーの事を紹介しておくべきだ。いつまでも隠し通せることじゃないし、なにより桜にはセイバーがしばらく家にいることを知ってもらうべきだ。

そう考えると俺たちは学校からの帰宅道を外れて間桐邸に向かって歩き出したのだった。

「バナナよりも林檎がよろしいですわよ」

「それはもういい」

「蜜柑よりもメロンの方がポイントは高いはずです、絶対に」

「…………………」

もはや何も言うまい。

つい最近も着たばっかりだが夜の間桐邸には格別の威圧感があると思うのだがどうか。大きな塀で囲まれたその場所はさながら人を拒絶する雰囲気がありありと漂っているよう。

今日は桜の部屋にも慎二の部屋にも明かりがついていない。あちらこちらを見てみても人の気配というものがしない。やっぱり家庭の事情か? 親戚の葬式とか…。

「桜さんは何処へ?」

いずことかいわれても俺にも解らない。むしろ俺が知りたいぐらいだ。

「分からん。いつもなら桜と慎二の部屋の明かりぐらいはついているはずだけど今日はどこも点いてないみたいだな」

俺は桜と慎二の部屋を指差して示した。俺が教えている間も明かりが点く気配はなく、それどころか以前にも増して寒気のするような静寂だけが耳に凍みる。

厭な感じだ。こう静か過ぎると、前に来たときの事を思い出してしまう。

夜の暗がり。

季節外れのかすかな虫の音。

そして―――。

「なにかようがあるのかね、衛宮の」

虫の音にまぎれるように音もなく老人は現れた。ざっと一斉にみんなが振り返る。以前と同じ、小さな身体に得体の知れない威圧感とギョロリとした鋭い眼光。その容貌に、思わず気おされてしまう。

「あ、いえ、俺たちは桜の様子が気になって」

ちょうど老人の事を考えていた事といきなりの登場が重なってどもってしまった。

「ふむ、そうかね。桜のことが気になってのう。それは祖父として礼を言わなければならないことだが、あいにくと桜は出向く事ができんでのう。悪いが今日のところは帰ってくれんか。なに、おぬしが来たことは桜には伝えてやるでのう」

「あの、桜は言った移動したんでしょうか。連絡もなしに部活を休む事はなかったので少し心配になりまして」

そう言うと、老人はかすかに口元を歪ませた。

「なに、心配せんでもいい。ただの風邪じゃ。このところ何かしら疲れておる用での、なにがあったか知らぬが少々や済ませてやろうと思っただけのこと。学び舎に連絡が行かなかったのは単にこちらの手違いじゃ」

「…それだったらいいのですが」

よかった。風邪だったのか。たしかに最近、と言っても二日ぐらい前からだが桜の様子がおかしかったのは事実だ。思えばあれが風邪になる前兆だったのかもしれない。考えてみれば桜には頼りっぱなしだ。少し桜の事も考えろよ、俺。

「時に衛宮の」

桜のことについて反省していたら臓硯氏はそのギョロリとした目をこちらに向けながらなにか聞きたげな声を出した。

「後ろに控えておるのは誰だ。衛宮くんの将来の伴侶か?」

くつくつと笑いながら臓硯氏は老人らしくない笑い声で聞いたきた。

さて、ここで問題になるだが伴侶とはなにか。それすなわち人生のパートナーである。人生のパートナーとはなにか、それすなわち傍らにて生きていく者。つまりは嫁。

な、なにを言っているんだろう、この老人は…。

俺の左右に目をやると綾とセイバーがいる。ようするに、老人はこの二人を、俺にとっての配偶者的存在だと言ったわけだ。

瞬間、ドカンと頭の中に隕石がぶつかってきて反論しようとした口は餌の投下を待つ鯉みたいにパクパク動くだけで正常に機能しない。

「お初にお目にかかります。わたくし、衛宮綾と申します。彼女はわたくしどもの親戚になりますセイバー。桜さんには兄が常日頃からお世話になっております。心より、お礼申し上げますわ」

脳が正常に機能していない俺の代わりに綾が進み出てペコリと頭を下げた。相変わらず外面のいいやつだ。俺なんかよりもこうした時には実に丁寧且つ誠意溢れるような市井に見せかけることが出来る。

そんな失礼な考えをしていたのだが老人は綾の顔を見ると途端に眼光を鋭くし、まるで睨みつけるかのように見詰めた。

視線に珍しくたじろぐ綾。俺だってあの老人に睨まれたら少なからず引くだろう。それを受けてしまっては流石に落ち着くことなど出来ないか。

いったい、なんだってんだ。

そう思い、老人の顔を窺っていると。

「衛宮、綾といったか。お前さん、儂とどこかで会ったことはないかね?」

なんて事を言ってきた。

綾は俺を不思議そうな顔で振り返ると全く心当たりはありません。士郎は?と視線で言ってきた。だから俺も知らないと返す。首を捻っても思い当たる事は全然に。

桜のじいさんにこういうこと言うのもなんだが臓硯氏はあの藤村雷画とタメを張れるような容貌の持ち主だ。一回会っただけでも忘れる事はよほどのことがないと無理。

その証拠に立った一回合っただけの俺もバッチリと想像する事が出来る。全然嬉しくない事実だが。

「いいえ。これまでにお会いしたことはないと思いますわ」

普通はそう考えるだろう。

中学までなら万が一の可能性はあるにしても今は自宅療養であまり遠くまでは用がないと出かけない。近所を出歩くぐらいはするが遠くに買い物とかする時はなるべく他の誰かが一緒について行く。そもそもこっちの方に来る用事なんてない。臓硯氏も普段は奥座敷で過ごしていると言っていた。加えて、祖父と孫ほどに年齢差があるこの二人に面識を持つ機会はありえないと思うのだが。唯一の接点は桜だが、綾のことを知っているのならあんな言い方はしないだろう。

どういうことかといぶかしんでいると老人はなぜだか一人で勝手に納得している模様。

「いや、そうじゃな。変な事を聞いた。儂の勘違いに過ぎん」

いい感じにこっちは置いてけぼりになっている。そのまま老人は俺たちに向かっていいたい事を言うと去って行った。

桜に逢えないのは心残りだが子尾のまま突っ立っていても仕方がないので俺たちは顔を見合して間桐邸を辞して行った。

その帰り道―――。

「シロウ。あの屋敷はなにか妙です。上手く言えませんが、霊的に歪んでいる。いえ、押さえ込まれているのか。とにかく、強い歪みを感じました。それに先程の老人。あれは…奇妙な気配だ。なにかしらの強い圧迫を感じます。あの老人は魔術師ではないのですか?」

セイバーはきっとした表情で唐突にそんな事を言ってきた。

「そんなことあるわけないだろ。なんだって桜の家が魔術師の家なんだよ。それに冬木市に魔術師の家系は一つしかないって親父が言ってたぞ。だからあの人が魔術師だなんてあるわけない」

それに、もう一つの家は既に知っている。なんと言うか、昨日まで衛宮士郎が憧れていたというか、ぶっちゃけると遠坂凛の事なのだが。

あいつが魔術師だなんて思いも寄らない事だったのだがそれによって間桐の家が魔術師なんかであるはずがないことが証明されている。

「それに、あの老人が魔術師で俺の事を知っているなら桜を衛宮の屋敷には近づけさせないだろ。なあ綾」

「ん〜まあそうだろうけど」

引っ掛かった物言いはきっとあの老人との会話を気にしているのだろう。

「セイバーはちょっと真面目すぎるね。もう少し、気楽にしてもいいんじゃない?」

綾にそう言われたセイバーはむっとしたのだが、ふや〜と気の抜ける顔を見るとなんとも形容しがたい表情になった。

たぶん一言二言なにか言い返そうとしたのだ折るがなにを言っても暖簾に腕押し糠に釘みたいな、弾けるというにはふやけすぎ、穏やかというにはアーパーなえが尾の前に沈黙したのか。

そのやり取りを黙ってみていたのだが、言いたいことは俺にもあるぞ。

それはだな、とにかくお前は暢気で気楽過ぎることだぞ。

その正確は常に前向きで見習うべき物があるが、考えがなさ過ぎるのも一寸いただけない。どんなギャンブラーも直感だけでは生きてはいけない。

いつかその考えのなさが今まで以上のとんでもない不幸になって降りかかってくるような気がしてならない。その場合、露払いをするのはやっぱり俺なんだろう…。

ちょっと…いや、かなり…やだな。けど、やんなきゃ駄目だよな。だって、俺がやらなきゃいけないことだし…。
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