「あのね士郎。君が僕の家に来る前にもうひとつ言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」
何でも俺があの火事の現場から助け出されたとき、俺がいた近くにも同じような子供が倒れていたらしい。
そんなことは考えてもいなかったことで、ほかの医師たちもいってなかった事なので興味が湧いた。
だって、歩いても歩いても、捜しても捜しても誰も何もいなかったあの炎の世界の真っ只中に、ほかにも生きている人がいるなんて知らなかったから。
それが俺と同い年ぐらいの子供ならなおさらだった。
「その子もね、僕が引き取る事になったんだけど、体が弱いみたいでちょっと言っておかなくちゃいけないと思ったんだ」
どうやらそいつは聞いたとおりに病弱らしい、でも俺は男の子でも女の子でも仲良く出来ればどっちでも良かった。
小さくて弱い病弱な子を守るというのは、俺にとってはなんだか魅力的に思えたからだ。
それを切嗣に言うと何だか意外そうな顔をして俺を見ると、ポンポンと軽く頭を叩いてきた。
子供のときの俺はいきなり叩かれた事に当然のように猛然と抗議している。
自分の事ながらあまりに幼い行動に苦笑してしまう。
「名前は綾って言うんだよ。綾と書いてリョウと読むんだ」
見慣れない感じだったけど、形や声の響きから何となくその子は女の子だろうと思った。
その時、切嗣の顔はいたずらが成功した子供みたいに、やけに嬉しそうだったのを覚えている。
多分、その通りだったんだろう。
子供時分の俺は素直なものであっさりと切嗣の言葉を信じてしまったわけだが、たいして気にしていなかった。
正確には気にしている余裕がなかった。
一人っ子であった俺には妹が出来るこれからに大きな期待と、微妙な少年心も手伝って緊張していたのだから。
だけどそんな浮ついた気持ちは、病室の前まで来ると一気に吹き飛んだ。
『面会謝絶』
文字にしてみればたったの四文字だけど、その札は何だか大きな壁みたいに見えた。
面会謝絶てことは人と会ってはならないほどに、もしかしたらその子は気分まで重たくなってくるほどの大きな病気か怪我をしているんじゃないかって事だから。
だけど切嗣はそんな事を微塵も感じさせない動作で真っ白な扉を開けたんだ。
それは当たり前だ。その子は重い怪我なんてほとんど治っていたんだから。
通された病室は自分がいたところと違って一人だけだった。
周りはしわぶき一つ立てないほどに静かで、そこだけ夜なんじゃない勝手ぐらいに気配がしなかった。
その子は俺たちが入ってきた事をまるで気にかける様子もなくたった一人でポツンとベッドに腰掛けていた。
窓から緩やかに吹いてくる風に任せるままにされた髪の毛は乱雑に乱れていて、それでも流れるように綺麗。
病院に入院したときに初めて気づいたときと同じように、周り中が怪我だらけで痛いだの、苦しいだの。
呻いて助けを求める人と同じように、右目には眼帯が付けられ、腕や愛のいたるところに包帯が回されていた。
違っていたのは、ソイツは自らの怪我を訴えるでもなく、ただ窓の外を見ていたという事だけだ。
そこに何があるのか、何が見えるのか、たいして重要でもないのか、興味がなさそうな、否、そこには感情の輝きなど欠片もない。
後から限しに聞いたところに寄ると俺はその子を針の穴に糸を通るように凝視していたらしい。
否定していたけれど、確かに俺は目を奪われていた。
覗く横顔はその年代にしては硬すぎるほどの無表情だが、笑えばきっと、とてつもなく可愛らしいほどの綺麗なつくりをしている。
肩口で切りそろえられた髪の毛はそれこそ日本人形みたいに真っ黒で真っ直ぐだけど、所々が歪に短くなっていたり、長くなっていたりしている。
それは、もったいなかった。
きっとあの火事の中で焼けてしまったのだろう。あの火事さえなければさぞかし長くて綺麗な髪の毛だっただろうに。見る事が出来ないのは少し残念だった。
俺はそれから時折、自分の赤茶色で、少しくせっ毛のか身と比べていた事もあって、ちょっとだけ、羨ましいと思ったこともある。
でも、その時の俺にはもっと、ずっと気になる事があったんだ。
それは一つしか見えない左の眸が、真っ黒で、どこも、何も映せない穴倉みたいに深くて狭くて、自分がないみたいな。
俺はあの赤い世界から戻る事が出来たけど、多分この子はまだあの世界に留まったままなんだと思った。
身体は生きていても心が空っぽなんだから何も見えないんだ。
ここが現実なのか、夢の世界なのか。
自分は生きていてここにいるのか、それとも死んでしまってもそこにいるのか。
「世界の境界がすごく曖昧で確固とした自己の意識を認識できない」
切嗣の言いたいことはぜんぜん解らなかったけど、すごく申し訳なさそうにあの子の事を見ていた。
その子はいつまでも風に吹かれて流される葉っぱのままだった。
俺はその子よりも比較的怪我が浅いらしく、すぐにでも退院できたらしい。
親父の家の子供になってからも俺は足繁く通った。
もちろん、あの子のお見舞いに行くために。
だけどあの子はいつまでたっても話す事はなかった。俺がどんなに話しかけても全くの無関心でも、俺は話しかけ続けた。
それは俺とおんなじその子が無性に気になって仕方がなかったからだ。
俺も心が空っぽになってしまったから、なにか惹かれるものがあったのかもしれない。
それに、その子は俺と切嗣、医師の先生以外の人とは会うことが出来なかったのだから。
いつかは話しかけてくれると信じて俺はずっとお見舞いに通っていた。
そしてそれは、唐突に訪れた―――、
「ねえ…」
涼やかな風みたいに、小さくてもそれでも凛とした声。
あれは俺が聞いた初めての声だった。
「なぜ…?」
俺には一体なんにたいして疑問を発しているのか解らなかったし、今でもなにを聞きたかったのか解らない。
どうして生きているのか、なのか。
どうして俺が毎日来ているのか、なのか。
すごく難しい答えなのか、それとも簡単な答えなのか、全然解らなかったから、自分の思ったとおりの事を言う事にしたんだっけ。
「俺はお前の兄貴なんだ。兄貴が見舞いに来るのはおかしいことじゃない」
冷静に子供の頃の自分を見るのは少し恥ずかしいがこれがあのときの俺の答えだ。
何でか偉そうに俺は胸を張ってその子の前に腕を組んで立っていた。
するとその子は意外なものを見たように、少しだけ表情を変えた。
それは、あの時以来初めて世界に興味を持ったのかもしれない。
同時に初めて俺という存在を認識したのかもしれない。
「…………………」
何も言わなかったけれど、初めてその子は俺を見てくれた。
無表情だけど、眸は確かに真っ直ぐ俺を見て、小さく、それでもどこまでも透き通った声を一緒に。
光の加減なのか、逆光の中でその子の眸が微かに瑠璃色に偏光した。
勝手に胸が音を立てて跳ねた。
それはもしかしたら初恋だったのかもしれない。
…その後で、腰が抜けるほどの驚愕の事実を聞かされることになるのだが。
Fate―Code:Fake―
月光を受けて銀灰色に輝く射干玉は長く長く、膝の裏まで届く透ける黒髪。
身に纏う単は翻る外套にも似て、日本人形のような静の佇まいに良く似合っていた。
左手には黒塗りの漆鞘。
右手には刃の半ばから砕け散った銀光を照らし返す日本刀。
その表情は硬く硬く、いささかも動く気配はなく、人形そのものみたいで。
この全てが日本式の武家屋敷でその格好は気味が悪いほどに嵌っていた。
へたりこんだ姿はその背格好とあいまってなんだか艶があると称してもよさげだ。
少しやせぎすな所もあるがそれは体質なので仕方がないだろう。
見かけを重視する大抵の男ならば騙される事請け合いの被写体を前にする状況にあってもおれの感情はそれの方向に揺らぐ事は全くない。
俺がコイツに対して感情が揺らぐとしたら世間の常識から外れた人間だということになってしまう。
進んで一般社会常識から外れたくはない。
確かにパッと見はそこらでは見かけないほどの美少女の容貌を持っているからな、こいつは。
その点でだけは、認めてやってもいいかもしれない。
見渡せば一瞬にして工事中の荒地と化した結構広めの庭。
観賞用の岩は割れ、綺麗に整地されていた地面は所々に穴が開いていてひどい有様。
土蔵に続く石の道筋は見事なまでにバラバラでもはや道として機能する事はなく、むしろ邪魔とさえ思えてしまう。
小さいものから大きなものまで片付けるのに一日は確実に費やさせる事は確実だ。
まるで巨大な台風や雷が荒らしていったみたいに見えるこの光景。
はなはだ情緒に欠けていて頭がくらくらしてきた。
これが嘘偽りないこの家の今の惨状。
正直、魂のそこからため息をつきたくもなるがそれは後で盛大にする事にして、この異常事態は何なのかを知らなければならないだろう。
衛宮の魔術師として、そして何よりこの家の住人として。
住人といえばもう一人の住人であるアイツはどうなっているのか。
ああ、言うまでもないか。
いつもふら〜ぼけ〜としたやつだが今回のはさすがに考えの範疇外だったらしくいつもより輪をかけて放心している。
それは、無理もないことだ。
いきなりあんな出来事に遭遇すれば誰だって普通はそうなるだろう。
家には幸いな事に一度だって泥棒も強盗も入られた事はないし、そもそもの話、戦国時代じゃないんだから槍持った男に襲われるなんて非現実的だ。
そんなのに襲われると普通はそうなるよな。
こいつが普通と違っているのはどこかで見覚えがあるような物騒な日本刀の柄が右手に握られている事か。
当面の危機は去ったというのに、右手は未だ襲われると認識しているのか血が通っていないように真っ白に硬く閉じられていて剥がすのはむしろ危険かもしれないと思えるほど。
それが今の心理状態を如実に表している。
俺は慌てて駆け寄ると声を掛けた。
「おい、大丈夫か」
肩を掴んで揺すってもそいつの目はただぼうと空を見上げているだけで何の反応もありはしない。
ちょっとまて、これは、すごく、昔の事を思い出せてしまって嫌な予感がする。
俺は蒼褪めたままの顔色のそいつをとりあえず屋敷の今に上げて様子を見る事にすると、庭先で俺たちのやり取りをじっと眺めている少女に目を向けた。
小説や映画の中でしかなさそうな中世欧風の戦場での甲冑を身につけ、何かをするでもなくただジッと、変わらない無表情でこっちを眺めている。
その様に少しだけカチンときたが、彼女が俺たちを助けてくれた事は現実に確かな事なのだ。彼女に当たるなんてお門違いもはなはだしい。
味方なのか、敵なのか、良くわからないけれど、礼を言うのは当然のこと。
「その、ありがとう。助けてくれて」
「礼には及びません。それが私のするべきことですから」
なんていって取り付く島もなかった。
こっちがどれだけ礼を言っても彼女はそれには及びませんの一点張りで取り合ってくれない。
この少女、可憐な見た目とは裏腹に結構な頑固者みたい。
それに、するべきことって、まるで俺たちを護ったのが義務みたいな言い方は一体なんだ。
「助けてくれた事には本当に礼を言う。だけど、何者なんだ、お前は?」
確かに助けてくれた事は事実だが、決して気を許してもいけない相手だ。
先程ランサーと呼ばれた騎士から受けた傷は既に塞がっていてその痕跡もない。
鎧さえ復元されているのはどういうことなのか。
そんな考えることさえ思いもつかない常識外れの復元能力は、彼女が人間の範疇から逸脱している事を示している。
しかし此方に害を与える気はないのか興味はなさそうな素振りで泰然としている。
本当に何者なのかこいつは…、いきなり俺の目の前から現れたりすること事態、現実味に欠けている。
「? 何者もなにも、セイバーのサーヴァントです。あなたが呼び出した」
サラリと言う。
しかし、その言葉だけでは俺には全く理解できない。
そもそも―――、
「セイバーのサーヴァント……?」
って、一体なんなんだよ。
「そうです。私のことはセイバーと」
多分それは、自分のことはセイバーと呼んでほしいといっているのだろうが俺の質問とは主旨があっていない。
そもそもだ、どうも会話の根本的な部分がかみ合っていないのだ。
「…俺は士郎。衛宮士郎。この家の人間だ」
気がつけば俺は自己紹介をしていた。
いや、相手が名乗ってきたんだkらこれはこれで正しい礼儀のはずだろ。
自分の事ながら冷静に混乱をきたしているみたいで頭がグルグルする。
ああ、もう本当にわけ解らん。
今日は色々な事がありすぎて脳は情報を巧く処理できずに熱暴走を引き起こしてさえいる。
虎そのものにデフォルメされた藤ね絵が頭の周りを天使よろしく飛び交っているみたいだ。
最後にはバターになって融けてしまった。
ほどよく焼けたパンには蕩けて塗りたくられた藤ねえバターが。
ああ、食べたくないのに、食べなきゃいけない状況。
あ、ほんと、俺、混乱しまくってる。
そんなおぞましい、いっそ神にも逆らう光景を一瞬でも思ってしまった事に深く懺悔しながらセイバーと向かい合う。
なんでも彼女の話だと彼女は俺に呼び出されたサーヴァントであり、剣の英霊である事。
ほかにもサーヴァントは現界?していてそいつらは敵だってこと。
どうやら俺は彼女のマスターとして彼女と契約した事になっているらしい。
そんな記憶などとんとないのだが一体いつしたのだろうか。
困った事に、彼女は俺をシロウと呼んでくるので、頬が赤くなって困る。女の子に名前で呼ばれるのはなれていないのだし。
もう本当に効きなれない単語や意味の解らない言葉だらけで正直ちんぷんかんぷん。
状況の把握はさらに混迷を極める事に俺を追いやってしまった。
「いたっ」
突然、左手に痺れが走った。
見るとそこには刺青にも似た不可思議な文様が浮き出来ていた。
セイバー曰く―――、それこそ、サーヴァントを律するマスターの証の一つ、らしいが、俺にはぴんと来ない。
これは令呪といってサーヴァントへの強制命令権を行使することができる貴重なもの、なのだと。
本当に解らないことだらけで脳細胞が大挙して反乱を起こしそう。
そもそも最初の質問にさえ答えてもらっていないじゃないか。
不意に、彼女の雰囲気が一変した。
「シロウ、傷の治療を」
遠く塀の向こうを見透かすように彼女はそんな事を言った。
ちりょうって治療のことだろうか。
あの治療を俺にしろって言うのだろか…?
俺に出来る事はガーゼをはって包帯を巻く事ぐらいで、民間療法の域を出ないがこの場合、何をして治療をしろといっているのかぐらいは解る。
つまり、彼女は魔術で治療しろと言っているのだろう。
「ちょっと待ってくれ、治療って魔術で治療しとってことだろうけど、あいにく俺にはそんな難しい魔術は使えない。そもそもどうやっていいのか知らない」
セイバーは此方に顔を向けるとわずかに眉をしかめて疑問を呈している。
ああ、それは俺に対する疑問を向けているのだろうが悪いけどこっちも答える術を持っていない。
少しの間だけ彼女とにらみ合うような、見つめあいをした。
「…では、現状のまま臨みましょう。幸いな事に迫り来る外敵程度の圧力ならば、数秒で倒しうる」
セイバーは言い終わる前に颯爽と飛び出して塀を越えて行った。
ランサーと同じようにその跳躍はやはり人間離れしている。
いや、これはもう人間離れしているなんてレベルを超えていてかもしれない。
庭に残された俺はそんな事を考えていてふと思った。
「外敵ってなんだよ、おい」
その意味するところは俺の想像するもので間違いないのだろう。
つまり、またランサーのような『敵』が来たという事。
見掛けは治ったとはいえ、あんな怪我をしたというのに彼女はまた闘うというのか。
それを理解した途端、身体は脳の命令よりも速く全速力で門へと走り出した。
門には大きな閂が掛けられていて扉を塞いでいる。
すぐそばに備え付けられている小口には鍵が取り付けれていて通る事が出来ない。
「クソッ誰がしたんだよ」
自分でした事を棚に上げて毒づいた。
震える指先は焦っていて容易に閂をはずす事を許してはくれない。
だってのに気だけはせいていてますます俺を焦らせてくる。
この門の向こうにはセイバーが倒れているかもしれないってのに、いつまで時間をかけてるつもりだ。
見知らぬ少女でも。
訳の分からない少女でも。
それでも命を助けてくれた少女に違いはない。
彼女の事は全然ちっとも解っていない事だらけだけど、それだけは唯一、確かな事なんだから。
恩さえ返せないなんて、そんなのは駄目だ。
ようやくの事で開いた扉の向こう側は闇夜に閉ざされて目を凝らしても見える箇所はとても少ない。
月は再び群雲に隠れ、視界には薄暗闇色のシルエット。
だけど、気配はする。
それも極近くで、今まさに剣がぶつかり合いそうな。
俺はそっちに向かって再び全速力で走り出しそして。
「なっ!」
それは、一瞬の出来事。
振りかぶられた剣閃は綺麗な扇形を描きながら落とされようとして視認する事も用意ではなく。
ただ、セイバーが学校の工程で見た赤い騎士を人たちの下に斬り伏せようとする所だった。
その向こう側、確かに俺は、見知った顔を垣間見た。
赤い騎士の背に隠れセイバーを呆けたような顔で見詰めているあいつは、間違いなくこの俺、衛宮士郎の知っている人物だった。
セイバーは戸惑う事間なく赤い騎士を切り倒したあと、その人物を『敵』として殺すだろう。
彼女は外敵と言った。
赤い騎士の背に護られる格好のアイツが敵であるのはもはや間違いない。
けれど、そんなことはさせないし、させられない。
誰であろうと俺の前では死なせない、死なせなんてしないんだから………!!!
「止めろ、セイバーッ!!!!!!」
召喚者の求めと叫びに応じて令呪は行使された。
無我夢中で叫んだら、左手の模様が何か熱を発して外に消えて行った。
いかに強大な力を持つサーヴァントであってもこの絶対命令権には逆らう事など出来はしない。
それは剣の英霊セイバーだって例外ではなく。
赤い騎士の頭上に振り下ろされる直前でセイバーの刃はピタリと止められていた。
赤い騎士はあいつを抱えてあっと間合いを離した。
一瞬で二十メートルも離れるような跳躍。
ほとんど低空飛行のようなそれはあの赤い騎士が人間外であることを証明している。
あいつは抱えら得ていて事を何だか不満そうに赤い騎士に話している。
やっぱりどこかで聞き覚えのある声で。それでもなんか違うんじゃないかって思ってた。
だって、口調がおかしい。その、口汚いというか、記憶中枢にでかでかと銘記されているはずのお嬢様然としているアイツとはぜ然違っているし。
「ッ、何をするのですか、マスター。先程も言ったように私以外のサーヴァントは敵なのです。どういうつもりですかッ」
「どういうつもりも、こういうつもりもないだろう。俺には全く状況がつかめていないんだし。それにあいつは知り合いなんだよ。だから、良く解ってもいないのに、何でこんな事になっちゃってるんだよ。どうにか説明して欲しい」
目の前で知り合いが殺されそうになっているのをただ座してみているわけにはいかない。それは当然のことだ。知ってる人ならなおさら。
それを告げるとセイバーは何だか戸惑うような、困ったような表情になった。
あ。
その顔を見て、彼女が悪い人物のはずがないと直感した。
む、と言いよどむ彼女の表情はどこにでもいる少女とそう変わらないものだからだ。
「まったく、一体どういうことかしら、コレ」
それは学校で聞くのと似ていて丁寧、しかし隠しきれない憤怒の感情を覗かせていた。
月影の中から進み出てきたその見慣れない姿。
そこには俺と同じ学校の女物の制服を着た遠坂凛が腰に手を当てて立っていた。
その問いかけにどういった答えを期待されているのか。
その声の正体、頭では解っていたのに理解したくない事。
俺はただ彼女の名前を喉の奥から搾り出す事しか出来なかった。
「遠坂、凛…だよな」
「ええ。私を知っているのなら話は早いわね」
なんて極上の笑顔の奥にとんでもない殺気というか、怒気を含んで笑いかけてきた。
浮かべられた笑顔に背筋が凍るような恐怖を覚えたのは気のせいなのか。
どうしてこんな所にいるのか?
早い話とはなんなのか?
お前の後ろにいる赤い騎士風の男はやっぱりサーヴァントってやつなのか?
そんなことを疑問にさしこまさせる時間も暇もなく、やつはズンズンと屋敷のほうに歩いて行った。
「お、おい、どこに行くつもりだよお前は!」
「どこって、衛宮くんの家だけど?」
それがなに?
俺に向かってそれだけ言うとアイツは振り返ることなく再び歩き出した。
はあ、なんだかまた厄介な事になったな。
で、やっぱり厄介ごとになってしまった。
この時間、屋敷はかつてない異常な顔ぶれが集まっていた。
まず、一応家主の一人である俺。
次に、いつの間にやら俺と契約なんてものをしたらしいセイバー。
サーヴァントというご職業についていらっしゃるそうだ。明らかに変だろう。
そして、問題になるのが俺の同級生であり、何だか偉そうにお茶の到着を待つこの女、遠坂凛だ。顔見知り程度の知人がこの場、この時間に表れるなんて考えられない。
実は彼女も魔術師だったらしく、あの赤い騎士は屋根の上で見張りに付いているのだとか。やはり明らかに変だ。
だがこの集団はある一つの共通項。
皆が皆、常識から外れた者だから、そう考えると可笑しいともいえない。
だからその観点でいくと最も問題となるのがコイツなのだ。
「日本茶でよろしいでしょうか?」
「ええ、構わないわよ。少し長い話になると思うけど贅沢は言わないから、なんでもいいわよ」
「今は丁度紅茶もコーヒーも使い切ってしまったので良かったです。あと苺大福も用意しましたんで、食べてください。甘さは控えめに抑えてあるので日本茶とはよく合うはずです」
自作ですが。
と一応の注意を促しているコイツ。どう考えても本人には裏側の世界に係わり合いはない。
「セイバーもどうぞ」
セイバーにはやはり表情はないが、湯飲みに注がれたお茶から立ち上る湯気をじっと見ている。
名前は衛宮綾。
平仮名で書くとえみやりょう。
絶滅危惧種に指定されている大和撫子みたいな艶やかな黒髪。涼やかで切れ長の眸に硬質的な女の子っぽい容姿とあまり知られていないせいなのか、綾の字をそのままあやと呼んでしまう人が多い。
それが高じて藤村組やご近所の皆様方、商店街の親父さんたちにはアヤちゃんなんて呼ばれている。
別段、アイツもそれを嫌がる素振りは見せていない。むしろ面白がっているというのが本音だろう。
膝裏まで伸びた長すぎる黒髪は一つに結われていて馬の尻尾みたいな形になって揺れている。
肌の色は太陽の光を浴びた事がないんじゃないかってぐらい病的に白く、血色はたいてい悪い。
俺と同じ、切嗣に引き取られたもう一人の子供。
背は俺よりも低く、藤ねえと同じぐらいか少し低いといったところだろうか。
歳は俺と同じ17になるはずなのだがコイツはある理由から成長が遅れて見える事になり、今は15歳ぐらいの外見年齢だ。
パッと見て、セイバーと同じぐらいだろうか。
いつの間にか浴衣から外出用の深い濃紺の振袖っぽい着物に着替えている。
成長期だって言うのにソイツはやせっぽちであまりに華奢な体つきをしている。
そのコイツが遠坂と会話をしている姿なんてちょっと想像がつかなかった。
だって関わり合いなんてちっとも、全く、これっぽっちもないんだから。
コレまでもなかったし、コレかもないはずだったので、両者が一緒にいるのを見るとどうしても違和感が感じられて仕方ない。
そもそも、遠坂が家主に断りもなく家に入って言った最初に一言が―――、
「いきなり二股なんて、成長したね。士郎」
だったし。
その後は、
「どっちが本妻でどっちがお妾さん?」
腕を組むとふむふむと中を見上げて考え込んだら―――、
「桜もいれたら三股。目指せ絶倫王」
本気で泣きそうになりながら黙らせた。
その後の遠坂の怒り来る薄型といったらそりゃもう一瞬にして衛宮士郎インナースペースにおける学校一の優等生、遠坂凛像が崩壊していったほどだ。
この時、セイバーは特に反応を示さなかった。
無表情がデフォルトかと思われた彼女の顔が劇的に変わったのは綾の作った苺大福をほお張ったときだった。
ずいずいと大福を勧める綾に押されたのか困惑した表情で目の前の大福をまじまじと見ていた。
ぱくん。
そんな擬音がとてもよく似合ったその時、彼女のときは凍りついた。
それはランサーの宝具が繰り出されたときよりも彼女を縛り付け、魅了せずにはいられないと思わせるほどの変化だった。
しばらくすると、その顔はあたかも暖かく穏やかな春の陽射しを受ける雪解け水のように蕩けていった。
端から見ると、ちょっと笑えた。
多分、彼女にそんな自覚はないだろう。
彼女の口元に残るほのかな甘み、それでいてしつこくなく、舌の上を転がる苺の風味は見事なまでに餡との競演を果たしている。こんな食感、人生において味わった事などない。なんと繊細でなんと優美な。
それだけが彼女の思考を占めていた。
話しかけても一向に反応を示さないその姿はどこか微笑ましく、あの遠坂だって大福を口にしたときは一瞬ピタリと止まったほどだ。
「綾、そろそろ寝た方がいいんじゃないか?」
「大丈夫だよ士郎。なんだかさっきから調子がいいから」
言外に具合が悪くなるから寝ておけと言ったのだが、それを断るあたり、本当に調子がいいのだろう。
コイツは自分の身体の事をよく把握している。無理だと判断したら潔く俺のいうことを聞いてくれる。そこの所だけは信頼できる。
「む、僕お邪魔?むふり」
むふり言うな。
目の奥で笑いながら何かよからぬ事を考えている者がここに一人。
藤ねえにも似てきたのかもしれない。…コレは大問題だ。
いや、問題って言うなら昔っからコイツに施された教育の方がよっぽど問題だろう。
「どうなの衛宮くん。私としては別にこの子がいても構わないのだけれど」
遠坂はこちらの家の事情を聞いているみたいだ。
普通、魔術師の家はその長子が魔術を継ぐ事になっている。
魔術を継がない子供はどうなるかというと別にどうにもならない。
極普通の家庭のごく普通の子供として育てられ、魔術の存在などは一切の片鱗も伝えられないのが暗黙の掟となっている。
魔術師は血と歴史を積み重ねていくものだ。
普遍的に魔術を教えるのではなく魔術の才能がある子供に継がせたほうが魔法に至る可能性が高くなる。
断っておくと、魔術と魔法は同じ意味ではない。
魔術とは現代の技術で再現可能な事象を神秘で実行していること、魔法とは現代の技術ではどうやっても実行不可能な事象の事である。
ま、そういった理由から魔術を継ぐ事が出来る子供はたいていが一人という事になっている。
しかし、衛宮家にはそんな事情は存在しない。
もともと俺たちは切嗣の実の子供ではないから魔術刻印を継ぐ事は出来ないし養子になったときに親父の口から親父の口から堂々と「魔法使いなんだ」と教えてもらったのだ。
魔術を習う事に関して綾は全くといっていいほどの興味を示さなかった。
俺だけが切嗣に魔術を教えてくれと拝み倒した末にやっと初歩の初歩だけ教えてもらえる事になったのだ。
あの時、綾は俺に「よかったね」なんて言ってきてこれっぽっちも気にしていなかった。
まあ、今ではアイツが魔術を受けるなんてしなかった理由が解っているのだが。
当時、切嗣はふらりと出かけて行っては何ヶ月も帰ってこない事はざらだったし、長いときは半年も帰ってこなかった。
俺といえば切嗣みたいになるんだって子供の頃から修行の真似事や子供同士の喧嘩の仲裁や人助けをしていた。
ようするに、家には家事をする人間がまったくいなかったって事だ。
残念な事に藤ねえはこの方面では全く役に立たないし、俺も何だかんだで割と大変な家事をするのは好きじゃなかった。
擦り傷や切り傷で傷塗れになるまで遊んで帰ってみれば食卓には出来た手のご飯が用意されてるなんて不思議にも思わなかったがアイツがその頃より前から、養子になってからずっと食事を作り続けていたんだ。
初めは切嗣にやってみないかと言われてからだったが、どうやらその才能は藤ね絵なんか足元にも及ばないほどの適正があったらしく、一年もたったころには花嫁修業している女の人と比べても遜色ないほどになっていた。
今では店を出してもいいぐらいの腕前になっていると思う。
その成果ご近所のお手伝いさんや商店街に出没する奥さま方との井戸端会議の輪にもすんなり加わって料理談義に花を咲かせていたりしている。その趣味が高じてバイトをしている俺よりも……。
いや、これは思い出すと少し悲しくなる。
閑話休題。
そういった多忙な事情があったから綾は魔術を習わなかった。
と言っても綾が魔術を習うなんて言い出したら親父も俺も絶対に止めただろう。
生まれつきかどうかは知らないが身体の弱いアイツには魔術の習得なんて不可能だろう。
毎回やるたびに死にかける魔術なんて絶対にやらせるわけにはいかない。
「別に話しても構わないぞ。コイツは俺が魔術師だってこと知ってるから、聞かれても問題はない」
そういったら遠坂はなにか変な事を聞いたような顔になった。ソレがなんなのかは俺には解らない。
「…そう、でもこう寒々しいと話も出来ないわね」
遠坂は立ち上がるとバラバラに砕け散ったガラス片のところまで歩いていくと薄く指を切って血を振り掛けた。
それは一帯どんな魔術によるものなのか、ガラスはカチリカチリとビデオの巻き戻しみたいに組み合わさって言って元通りになってしまった。まるでパズルだ。開いた口が塞がらない。
「すごいな…」
思わず口から出た本音は偽りのない感想だが遠坂にとってはよほど意外な事だったみたいで「は?」なんて言ってピタリと止まってしまった。
…あ、なにか余計なこと言ったか?
すると遠坂はがーと俺の魔術師としての知識や技量を怒涛の勢いであれこれと聞きまくってきた。その内容は俺がどんな魔術を使えるのかとか五代要素だとか回路のパスだとか専門用語ばっかりでまたもやちんぷんかんぷんだ。
一通りの尋問が終わると心底から呆れたようにため息を吐かれてしまった。
む、何だか遠坂の視線が突き刺さるようにひしひしとこちらを見ていて痛い…。
ちなみに俺だって毎日必死になって欠かさずやってきたのだからそれなりの、その、なんだ、自負というか何と言うか…。
う、考えれば考えるほど深みに嵌ってしまう気がする。
こちらをじと〜と睨んでいるんだか解らない視線で遠坂が俺を見ていた。
「はぁ、確かめるまでもなかったけど本当に素人なのね、衛宮くん」
むむ、あれだけ修練をやってきて初歩中の初歩すら出来ないのが自分的にも辛いのだが言い返せる要素がない。
「まったく、どうしてこんな素人がセイバーのマスターに選ばれてるってのよ。可笑しいじゃないの。納得がいかないわ。…ふん、そんなでも一応魔術師なんだから今の状況ぐらいは当然知ってるんでしょうね?」
確認というよりも断定的な口調だったが当然のことながら俺には一切合財今の状況に理解を示す事は全くの不可能であり、遠坂が言う状況はきっと異常事態のことなのだろうが、内容は解らない。あ、微妙に混乱してるな、俺…。
「…その埴輪みたいな顔を見る限り、なんにも知らないみたいね。ああもう、仕方ない。いい、つまりはね―――」
埴輪みたいな顔をしてるというのは結構ひどい言い草だって思ったけど、反論しようという気が起きなかったのはきっとその表現が的確だと自分でも思っていたからだった。
遠坂の話を要約すると、冬木の土地ではあのなんでも願いをかなえるという逸話で有名な聖杯を巡っての魔術師同士で戦争をする聖杯戦争が幾度かあったらしい。
サーヴァントを用いて7人のマスターは他のマスターを打ち倒すことによって聖杯が与えられる事になり、自身の望みをかなえてもらう。
俺は何の偶然か黙々と大福をほお張っているサーヴァント中最高の英霊であるセイバーのマスターに選ばれたらしい。
遠坂はその事に色々と文句をつけてきたけど俺にはどうしようもない。どうしてセイバーが表れたのかは話を聞いても解らないからだ。そもそもサーヴァントを呼び出すのはちゃんとした召喚儀式に沿って手順を踏まえるものらしいから。その工程のなかった俺にどうやって答えたらいいのか。
なんだか話があまりに大きくなりすぎてて把握しきれない。信じられそうもないことだが実際に俺たちはサーヴァントに襲われているので信じないわけにはいかない。
遠坂から聞いた話で聞き捨てならないのは聖杯戦争とは魔術師達によって行われる合法的な殺し合いの場だってことだ。
どうしてそんな悪趣味な事を始めたのか。聖杯なんてものが欲しければ皆で分けてしまえばいいのに。
腕を組んで考えていると今までじーっと話に耳を傾けていた綾が勉強熱心な小学生みたいにいきなり手を上げた。
「凛先生。質問があるんですけど」
「何かしら、綾さん」
…遠坂、もしかしたら結構ノリがいいのかな。
「英霊とは現在かこの英雄と呼ばれた人間だと言われましたが、それって本物ってことですね。では、先程僕を殺しかけた人は本物のクー・フーリンになるのですか?」
「クー・フーリンって誰だったけ」
記憶にはちゃんとあるのだがどんな人間であったかまでは思い出せない。俺はつい口に出してしまっていた。
「クー・フーリンはアイルランドの大英雄。太陽神ルーの子孫にして子供のときからこの子は英雄になると予言されていた人物で隣国コナハトの女王メイヴとは何度も闘ってる。武術と魔術に優れ、影の国のスカサハから呪いの魔槍ゲイ・ボルクを下賜されてなども祖国を救ってる。でも彼の旧友でありライバルだったフェルグスの魔剣カラドボルクには敗退しているわけだし、無敵の超人だったわけじゃないよ。アイルランドではフィンと並んで有名だね。ま、こんなとこ」
「………」
「………」
「………ゴクリ…。ズズッ」
居間は奇妙な沈黙に包まれていた(セイバー除く)。
「…まあその通りよ。よく知ってるわね、アイルランドの神話なんて。クー・フーリンは日本じゃあまり知られてないけれど、ケルトの神話では最高の知名度の英雄になるわね」
なんと言うか、俺も魔術師柄そこそこ神話を知ってるが。
「なんだってお前がそんなこと知ってるんだよ」
「桜がよくこんな本を読んでたりするからね。僕も読んでみたのさ。北欧神話なんて結構面白いと思うよ。笑い話が多くて」
ああ、それだったら納得できるな。
桜も綾と同じで外に出て活発に遊ぶというよりは家の中で静かに本を読んでいる事が多くて、きっとその時にさっきみたいな神話を含めた色々な話をしているに違いない。
う〜ん、それにしても桜がそんな本を読んでいたなんて意外だな。こっそり料理の本を読んでいたのは見た事があるけど。わりあい有名な小説だけにとどまらなかったのか。
知らない事って多いものだな。同年代だし、仲がいいから俺の知らない事も共有してるのかもしれないな。
「それで、本物なんですね?」
「…英霊は人間のイメージを基盤にして現れるから大なり小なり想像が含まれているのは否めないから本人そのものとはいえないけれど、それでも本物である事に違いはないわ」
「…それは、奇蹟体験だね」
そう言うと綾はゆるゆると視線をセイバーに移すとなんだか熱っぽい目で見詰めて激固定させた。
セイバーは変わることなく無表情のままで綾の視線を受け止めている。その光景はなんだか野良の猫同士がにらみ合っているようにも感じられて縄張り争いっぽい情景だ。
なんだかいつもよりふやけ気味の目は今にもレーザーを速射せんとビシビシとセイバーに向かって放射されている。何を考えているのかあまり予想できない綾の思考回路はきっと変な事をたくらんでいるのだろう。
不意に立ち上がると部屋から出て行ってしまった。わからん。
けれど、まあそれはあいつの持ち味だから変だと否定することでもないし出来る事でもない。
なんだかんだと言ってもこの時間帯に俺たち以外の人と接する事は久しぶりであるからしてやっぱり嬉しいのかもしれない。
だからその元気な様子を久しぶりに見る事が出来るのは喜ばしいわけで、はっきりとした原因は分からないが俺にとっても嬉しいのだ。
「あの子、いつもああなの?だとしたら毎日が変な一日を過ごせそうね。衛宮くんの家は」
「うんにゃ、普段はもっと大人しいし、だいたい騒がしいのは藤ねえの方だ。いつも変なやつだけど今日は輪をかけて変な気が……」
ちょっと待て。
いつもはもっと大人しいだって?
俺は自分で答えた台詞に深い疑問を覚えずにはいられなかった。
藤ねえの陰に隠れて見えないけれど、アイツもそうとうの、いや、最高純度のトラブルメーカーだったはずだ。
振り返って中学のときを思い出してみろ。
俺がどれだけ苦労した事があったのか、両手足の指だけじゃ全然足りてないだろうが。
中でも最悪に災悪だったのは京都のとある有名な重要文化財を超えた国宝級のお寺から飛び降り気分ってどういうものかとかくだらないことを論じていたらリアルダイブを敢行したい気分になったとかぬかすから見張ってたら案の定、夜に抜け出して、ご丁寧にも厳重に警備された寺院の中に忍びこもうと真っ黒な格好と化してまるで有名怪盗の三代目と化していた所を俺が銭形のとっつぁんになって現行犯になる前に捕まえられたのはいいが地元に強い勢力を張るヤッチャンのロリコン組頭になんの因果か気に入られた綾が今度は神戸系のちっちゃい幼児大好きなお爺さんの家出した孫に似ているだとかわけの解らん理由で仁義無き争いの火蓋は落とされて京都大抗争にまで陥ってしまって、三大新聞の三面ネタにまでなってしまっているのだ。俺たちの名前は出なかったけど、関係があったとのことでうちの中学はもう京都出入無期限禁止指定校になってしまったというとんでもない狂気と狂騒の沙汰を引き起こした事があったじゃないか。
あれはかなりホームランな不運で、そもそもの原因は綾だったが、しばらくはしおらくして大人しくしてたが、俺だってなんのお咎めも無しで済ますつもりも更々なかったのでゴメンナサイと書で五千ほど綺麗に清書させたが。それ以外の行為など論外である。もちろん終わるまでは家から一歩も出さなかった。あれはかなり堪えたらしい。夢でゴメンナサイとエンドレスリピートされる舞台劇を見続けたらしいから。
つまりは、本人は意識的にも無意識的にもトラブル体質であり、同じ方向性を持った人間を呼び込むような迷惑極まりない厄介な性癖があるのだ。最初のはするつもりはなかったとか弁解しているが変装までして行った手前、無理がある。けれどそれだけだったら俺が止めれば良いだけだからまだ大丈夫なのだが。トラブルを呼び寄せる星の下に生まれたのか、トラブルがトラブルを呼び、そのトラブルがまたトラブルを呼ぶという連鎖的悪循環を生み出してしまうのだ。
むにゃむにゃと衛宮士郎回顧録にやや冷や汗を書きながら浸っているとカラリと音を立ててふすまが開く。綾が戻ってきたのだ。
その手には何だか方形をした大き目の白い紙、商標用語で言うところの色紙が一枚ほど。
色紙とは和歌・俳句などを書き付ける四角な厚手の紙。
これが正しい意味合いだが、現代での色紙の抗議は誰もが知っているように多くは有名人などの名前を書いてもらい記念にして飾って置く、または大事にしまっておく。ということをする。
まさかこの莫迦者………。
「て・が・た。ちょうだい」
なんだそりゃ。思わずひっくり返ってしまいそうになったじゃないか。
確かにセイバーがどんな人であれ、歴史上の有名人である事に違いはないのだろうが。しかし、なんで手形になるかな。色紙っていったらサインだろう。いや、突っ込みどころが違う。さっき殺されかけたばかりだってのに、どうしてこうアホなことが出来るのか。
珍しいほどに紳士のこもった目で直訴していて、セイバーも戸惑い、困惑、うろたえ気味で綾を見ているだけだ。
そして空気を読むことは出来ても空気に自分を馴染ませないヤツはずいずいずずいとセイバーに迫るのだった。
「あの子、大丈夫なのかしら…」
「………………………」
綾に迫られてうろたえているセイバーを横目に俺は遠坂の一言にそっとしかし深く深く同意していた。
結局、セイバーは諭して手形を諦めさせるより言う事に従った方が簡単に事が終わるのでペタンと手形を押した。その大きさはあの槍の男を退けるほどの剣の腕を持つとは思えないほどに女の子の手だった。
「あの、凛さん。赤い人にもお茶を差し上げても良いでしょうか?」
「赤い人?あ、ああ、アーチャー?別にどっちでもいいけど、あいつ、受け取らないかもしれないわよ」
「構わないんですね?それじゃ、行ってきます」
アイツにとって、アーチャ−というサーヴァントは赤い人、らしい。
赤い人。この単語には遠坂も気を抜かれたらしく、腰に両手を当てて仰々しくため息を吐いている。類似した性格とは会ったことがないのかもしれない。
よほど嬉しかったのか大事そうに色紙を胸に抱えてゆらゆらと部屋に帰って言った。眠いのか多少足元が危ない。
なんだか、セイバーも遠坂もペースを乱されぎみだ。
気の毒だが気にいれられてしまったのかもしれない。
「さてと、あの子がいない間に話を進めましょう。さっきから話が脱線しまくりだし」
お前があいつの話に乗ったから脱線したのも含まれてるのか、遠坂。
それ解ってんのか?
けどそれは言ってはならないような気がしたので黙っておいた。
多分、結構いい判断だったんじゃないかと思うのだがどうか。
その後の遠坂の話は至極真面目なもので、セイバーの現在の状態だとかセイバーは自分の弱点をさらけ出してまで俺に今の状況を知ってもらいたいとか、遠坂が言うには俺はセイバーのマスターに全然相応しくないヘッポコ魔術師だとか。
俺は自分がまだまだ未熟である事を知っているから気にしないけど、普通の人が聞いたらかなり沈む事を平然と言うやつだったのだ、遠坂凛は。
一成、どうやら遠坂の人となりはお前の言ってた通りだったらしい。
未来の柳同寺住職の人間観察眼は確かなもの。迷える人を諭すには必須のスキルを備えているのか。頑張れ一成。
「ま、話せるのはこんな事ね。だいたい私よりもそういう概要に詳しいやつがいるんだから聞きたいことがあるのならソイツに聞いて。それじゃ行きましょうか」
円坂の話だと聖杯戦争をよく知っているやつに会いに行くらしいが、最近は物騒だしこんな夜更けだ。真夜中に出歩くのは感心できる事ではない。
「はぁ、なに言ってるのよ衛宮くんは。いい、私は魔術師であなたも一応だけど魔術師。それに加えて、私たちにはサーヴァントって最高のボディガードがついてるんだからそんな心配は意味がないわよ。それともなに、衛宮くんが私たちを守るって言うの?」
む、言われてみればそうだったのだが。
いや、しかしな、遠坂もセイバーも女の子だしさ。それに、セイバーに守ってもらうってのも…。
「シロウ。私もその案には賛成します。あなたは魔術師としてもマスターとしても知識が足りなさ過ぎる。其処に行って聖杯戦争の概要を聞くのもよいことだと思いますが?」
うぐ。セイバーも歯に衣着せぬ物言いだ。
でも彼女の視線は俺の身を案じる穏やかなものだ。あまり表情がないので彼女がどんな性格なのかわからなかったが、その真っ直ぐに俺を見る眸は信じられるものだと断言できる。
それに、彼女の言っていることは真実であり、正しい事でもある。
確かに俺は、魔術師として未熟だし、マスターなんてわけのわからないモノをこのまま続けていく事も出来るわけがない。
聖杯戦争について詳しい説明を聞くということは絶対に必要だ。このまま状況に流され続けているばかりじゃないけない。それによって後戻りできなくなっても、自分で選んだ道を進んでいく方が絶対にいいはずだ。
「分かった。行く」
「そう、時間もないし、速く行きましょう。隣町の言峰教会って知ってる?この戦いの監視役がいるエセ神父の居所よ」
なぜだか遠坂は俺を見るとにやりと笑った。
あ、アレは絶対になにか良からぬことをたくらんでいる含み笑いだ。ここにきて遠坂凛のイメージは完全に崩壊していた。
俺たちは早速出かけるために玄関まで行ったのだがそこで問題があることにはたと気がついた。問題とは言うまでも泣くセイバーの格好だ。
こんな鎧姿で夜中に巡業中の方々につかまれば一発で職質される事請け合いの姿なのだ。どうしてこのままで外に出ることが出来る。
「なあ、セイバー。その鎧どうにかならないか?」
「どうにかとは私に鎧を脱げといっているのですか?しかし、私はサーヴァントであり、いつどこで敵に遭うか分かりません。故に、それに頷く事は出来ません」
俺がどれほどいってもセイバーは鎧を抜いてくれそうにない。縁坂はじっと見ているだけで助けてはくれないようだ。仕方がないのであたりを見回して丁度置いてあった雨合羽を渡したら何だか無言でこっちを睨んでいるような気がしないことも、ない。
「それじゃセイバーが怒るのも無理ないね、士郎」
背後から声がしたので振り向くとなにが楽しいのか綾がクスクスと笑いながらコートを差し出してきた。
値段の高そうな真っ赤なコートはかなり派手目でこいつには似合いそうもない。いや、似合うのかもしれないが雰囲気が正反対な感じだ。ああ、でも遠坂には絶対に似合うだろうな。なんか赤っぽいし、遠坂。
細部に至るまで精密なデザインを施され、全体的にババッと「こんなに高いコートを着ているのよわたくし、さあ道を譲りなさいな庶民の皆様方。オーッホッホッホ」な感じのお金持ちの奥様方が好んで着そうな服である。
「雨も降ってないのに雨合羽はないと思う。しかも黄色じゃどっちにしたって職質される事間違いないよ。カテゴリー的には変質者のあたりで」
むむ、客観的な立場にになって考えてみるとそうかもしれない。普通は雨も降ってないのに雨合羽、しかも夜目にも目立つ黄色では確かに怪しさ爆発だ。いったい俺はどういう基準で黄色の雨合羽なんて選んだんだろうか。初めからコイツに借りればよかった事なのに。
もしあのままセイバーが黄色の合羽を着ていったらと考えると背筋が薄ら寒くなってくるのは気のせいだろうか。タイミングよく表れてくれて助かった。セイバーも微妙に不機嫌そうだったし。
「でもお前。こんなの持ってたっけか。どう見ても完全にお前の趣味じゃないだろ」
「お爺さまに貰った。プレゼントだって」
ははあ、じいさんはコイツにだだ甘だからな。
どれぐらい甘いかって言うと砂糖をふんだんに使った極同級に甘いザッハトルテよりも甘くて蕩けそうなぐらい。
かくいう俺もバイクの改造とかで結構な額の小遣いを貰っているのだが。
綾がじいさんと一緒にいるところを客観的に見ると心優しい祖父とその大切な孫には決して見えない。どっちかっていうと四谷怪談や雨月物語が相応しい形容だ。
しかし…物はもっと選んでから渡そうぜ、藤村雷画。その審美眼はちょっといただけない。
「好きに使っていいよ」
「ありがとう、綾。この恩は決して」
なんて大げさな言葉でセイバーは綾に礼を言った。
遠坂は微妙な視線で綾を見ている。もしかしたら遠坂も貸して欲しいのだろうかあのコート。
「じゃ、行ってくる」
「ん、どれくらいに帰ってくるわけ?」
「なあ遠坂。どれぐらいかかるんだ、その教会までは」
「え、ああうん。教会まではだいたい歩いて一時間ぐらいかかるかな」
なんだか遠坂は俺と綾のやり取りを難しい顔つきで見ていた。変なことしてたか、俺たち…?それともやっぱりコート貸して欲しいのか?
「話にかかる時間はどれぐらいだ?」
「さあね、分からないけど夜明け前には帰れると思うけど、話し次第じゃもっとかかるかもしれないわね」
「朝ご飯はどうしようか、作っとこうか?」
む…。
「いや、いい。明日は朝を抜いて昼と一緒にしよう。俺が作るからお前はもう寝とけ。だいぶ遅いだろ。きついんじゃないのか?」
「ん〜そうかも。頭が重いし。そんじゃお休み。怪我しないように気をつけて。凛さんもセイバーもお休みなさい」
「あ、うん。おやすみ」
「はぁ、おやすみなさい」
お前は子供か。いや、子供なんだけど。
ヘロッと笑って手を振る姿はどこか病気なんだってぐらいに翳りの一つもなかった。
「行ってらっしゃーい」
玄関が閉まる瞬間に言われた小さな言葉は不思議と耳に残った。
夜の街路は暗く、出歩く人影などこの時間帯では見えるはずもない。
物音一つなく、静寂そのままに静まり返った街は魔術師たちの殺し合いである聖杯戦争なんてものが行われている事を知った今となってはどことなく不気味に見えてくる。
ちらりと視線を横に向けるとそこには遠坂凛の姿がある。瞳はただ真っ直ぐ、夜の闇に向かって見据えられて、思わずどきりとしてしまうほどに澄んでいる。
こんな異常事態でなかったら絶対に赤面してしまいそうな状況。
後ろにはセイバーが鎧の上に雷画プレゼンツの厚手のコートを羽織ってカツカツと着いて来ている。鎧はコートの下に隠れて今はあまり見えない。正直、セイバーにはあまりにあっていないコートだが雨合羽よりも断然マシだろう。
しばらく無言のままに歩いていくと、冬木市を二分する未遠川に出る。
未遠川は深山町と新都の境目であり、冬木大橋によって繋がれている。
深山町は古くからの町並みを残す珍しい場所であり、俺の家もこちら側にある。一成の住んでいる柳同寺やよく使っている商店街。俺たちが通う穂群原学園も深山町にある。
逆に新都の方は近代的で10年前からの大開発によって発展してきた。流通の中心であり、冬木から外に出るにはたいていは冬木駅を利用したりする。俺がバイトをしているコペンハーゲンや他の所だってその多くが新都に会ったりしている。
遠坂はあまり新都に来ないのか地元人ならアレもが知っているような近道を知らなかったみたいだ。それを指摘したらへぇなんて以外にも感心されて少しドギマギしてしまった。
そんな事に気をとられていたからだろう。遠坂の唐突な言葉に喉元が詰まったのは。
「綺麗な子だったわね。あの子…」
はん?と目の前が白黒するほど変てこな問いかけだった。
ナニヲ言ってイるノダロウカ遠坂ハ………。
あの子ドコノ子此処のコよ。驚き桃の木世界不思議南総里見八犬伝。
ああ、俺なに言ってんだろうな。
あの子の名詞は間違いなく綾を指しているのだろうが、いきなりナニを言い出しているのだろうか。確かに外見的には文句なしにいいとは思うけど、もう少しアレな性格がなければな。
…性格さえ良かったらなんなんだ。しっかりしろ、衛宮士郎。
「い、いきなりなにを言い出してるんだ遠坂は。確かに外面はいいと思うけど中身は全然だぞ、全然。もうこれ以上ないってぐらいに灰色だ。意地も悪いし」
「全然って、あれだけのお菓子を作れたんだから料理はかなり上手じゃない。それに、見ず知らずの私にも細やかに気を使うし、あの子があなたに意地が悪いのは裏返してみるとあなたを信頼しているって事に他ならないでしょ」
う、そう臆面もなく信頼されてるとか言われると少し照れる。気を使ってるのはきっとあいつなりに状況を把握するために落ち着こうとした結果なのかもしれない。
小さい頃は火事全般であいつの世話になりっぱなしだっただけに強くは反論できない。俺が知ってるだけでももう10年は続けてやっているわけだら、大学に入って一人暮らしの修行をしている人に比べれば段違いにレベルが高いのだろうけど。
俺もちょこちょこ手伝うようになってからそれなりに経つけど、まだまだアイツには及ばない。
なんでそんな話題を喋ったのかと思って隣を見て見ると、遠坂の視線は話題とは全然別の場所を見ているようだった。どこか遠い情景を見ているようでもあり、不思議とそれを訊ねることは出来なかった。なぜ綾の事でそんな目をするのか。けれど俺は遠坂についてなにも知らないから答えなど分かるはずもない。
「そうですシロウ。リョウの作ったあのイチゴダイフクなるモノは今まで知る事のなかった食の奥深さを私に教えてくれました。まさか小さな菓子程度であのような食感があるとは思いもしなかった。一緒に出された飲料はまるで自然の緑に包まれているほどの薫りを運び、常在戦場であるにも拘らず心を置き忘れてしまうほどの衝撃が走り抜けました」
…なんだろう、無表情のくせにセイバーの言葉には何かしらの鬱積した念がこもっているみたいに怨怨としていて少し怖い。心底感心しているようでありながら愚痴のようにも聞こえた。
ぶつぶつと独り言を続けているセイバーは放って置いた方がよさそうだ。なんか関わると呪詛が身体に纏わりついてきそうだから。
「…ねぇ、衛宮くん。あの子、ちょっと不思議なところない?」
「不思議って、あいつはいつも不思議って言うか、変って言うか、自分のスタンスを崩さない究極のマイペースだけど」
「そうじゃなくて、例えば子供の頃幽霊を信じていたタイプじゃないの?」
なんだってそんな質問になるんだろうか。遠坂の言葉は全然訳が分からない。話に前後の繋がりがないせいだ。あいつが不思議そうなら幽霊を信じるタイプの話になってしまうのか。
いや、でも、確かにあいつはこれ以上の素材はないだろうってぐらいの霊媒体質っぽい外見をしている。
子供の頃、小学生とか、仲の良い友人同士で必ず一回は君は幽霊がいるとかのたわいない話をするだろう。その時は確か「いてもいいんじゃない。悪ささえしなければ」とかいてもオッケーな感じだった。
だから信じているというのはちょっと違う。ようするに、いてもいなくてもどっちでもいいって解釈なんだと思うけど。いたらいたらですんなりと受け入れるだろう。流石にのの〜んとし過ぎている気もするが。
「う〜ん、親父が魔術師だったから、信じているって訳じゃないけど、いてもおかしくないと考えてはいたと思うけど…」
語尾がはっきりしてないのは自分でもあまりよく分からないからだ。どう言っていいのかハッキリしない。
「…そう」
色のない眸でこっちを見られる。
遠坂はそれだけで答えを返すと俺の先を黙って歩いて行った。
遠坂の言う教会は新都の郊外の高台に会った。長い上り坂にはポツリポツリと民家がある。歩道に飾られている木々は枯葉の一つもない。足元を照らしているのはポツポツと設置された薄暗い街灯だけで頼りない。
その途中、教会の真横には昔に冬木の土地に移住してきた外人埋葬墓所。薄暗い夜のしたではいっそう不気味に見えて、今にもなにかが飛び出してきそうな感じさえする。
風にざわめく背の高い樹木、目覚めを待つ草花もなぜだか枯れて見えてしまう。真夜中だからなのか、それともすぐ側に墓地があるからなのか、そこはかとなく薄ら寒い気配が漂って神域のはずが禍々しい。
この教会は知っている。高台の教会だ。
俺たちがもし親父に引き取られなかったら行く事になっていたはずの場所だ。もしそうなっていたら今の俺はどうしていただろうか。見も知らぬ人たちに引き取られて魔術師とは全く縁のない場所で暮らしていたのは間違いないことだけど。
感傷的な気分になってしまった。だからこんな事を考えてしまったのだろう。
俺たちや引取り手の見つかった子供たちはここから出て行くことになったのだが、里親の見つからなかった子供はいったいどうなったのだろう、と。
ふと、そんなことを疑問に思った。
「シロウ、教会につきましたよ。シロウ?」
セイバーの声に気がついてみる取れはいつの間にか教会の入り口にまで来ていたみたいだ。あの長くて広い広場を全く気づかずに此処までくるとはさすがに気が抜けすぎている。
外から見える教会は真夜中でもかすかに明かりをつけているみたいでステンドグラスから蛍みたいに綺麗な光が小さく灯っている。様々な模様はキリスト教系の絵柄で光透けて荘厳さをかもし出している。
足を進めて気がついた。セイバーは教会の入り口から動こうとしていない。どうかしたのだろうか。
どうやらセイバーは礼拝堂の中には入らないらしく、ここに残るようだ。
まあ、確かに教会の中で敵に教われるなんて罰当たりもいいところだけど、そういうことはセイバーは徹底していると思っていたので教会の中まで来るだろうと勝手に考えていた。遠坂が目でせかしているのでそれを追求するのはやめておいた。
門扉をぎぃっと開けると目に飛び込んできたのは祈りを捧げるべき祭壇とたくさんの祈りをするための席だ。次いで見えたのが日曜や休日には信者を集めてミサでも開いて賛美歌でも演奏するのだろうオルガン。
ここの神父を務める人物はなくなった親御さんの跡を継いだ、若いがどうしてなかなかの好人物らしいとおばさんネットワークで綾から聞いた事がある。
それも人づてなのだが噂は煙のないところに立たないものであり、逆説的に煙があるから噂が立ったということで評判も大なり小なり正しいのだろう。
聞くところによると何とその神父は遠坂の10年来の知人でしかも魔術の兄弟子らしい。
通常、教会の人間が魔術を扱う事は禁止されている。
そんなの当たり前だ。
教会において魔術を扱う人間とは即ち悪魔と契約した魔女に他ならない。そしてキリスト教会の魔女に対する迫害は魔女狩りの歴史を少しでも知っているものなら常軌を逸していると言ってもそれが誇張ではない事が分かるだろう。
魔女狩りが最も流行した14世紀には少しでも魔女の噂を立てられたものは悪名打開裁判に掛けられることになり、数々の惨たらしい拷問によってほとんどが処刑されている。
聖堂教会において奇蹟を執行するのが許されるのは選ばれた聖者のみ、神秘はすべからく教会の手によって管理されるのが適当。これが彼らの主張だ。
当然のように魔術を隠匿する魔術協会とは折り合いがとてつもなく悪い。「一応の並行は取れているもののいつ崩れ去って殺し合いが始まってもおかしくないほどの絶妙に物騒極まりない関係だ」と切嗣は言っていた。「あの連中とは関わらない方がいい」とも。
「それで、ここの神父の名前はなんていうんだ?俺は噂だけでしかここを聞いた事がないからあんまり詳しい事しらないんだ」
「どんな人間か知りたいのなら会ったほうが早いわ。名前は言峰綺礼。父さんの教え子でね。神父らしからぬ神父。出来れば顔を会わせたくないぐらいのやつだから気をつけて」
遠坂、仮にも兄弟子に向かって出来れば顔をあわせたくないだなんて、いったいどんな人間なんだろうか。その言峰綺礼ってヤツは。あの遠坂が会いたくないだなんて言ってるぐらいだから相当の捩れた人間なのかもしれないぞ。
かつんかつんと俺たちの足音が聖堂に響く。
「綺礼!いるんでしょっ。出てきなさい!」
まるでこれから一戦交えるみたいな呼び声だった。
すると、カツンともう一つ、足音が聞こえた。
「大声で呼ばなくても聞こえているぞ、凛」
まるで幽霊が出てきたみたいに祭壇の後ろからすぅと大きな影が、静かな聖職者の持つ特有の威圧を纏わせながらゆっくりと出てきた。
「ようやく来たかと思えば見慣れぬ客を連れてきたな。まさか懺悔をしに来たわけでもないようだが、彼が七人目か」
「そう。なんの間違いで選ばれたのか分からないけどね。魔術師として本当に素人以外の何者でもないから。聖杯戦争について、あんたから説明してあげて」
「ふむ。なるほど。お前が私に頼みごとをするなど、相当のもののようだな。君には感謝してもし足りないな、少年」
重々しく頷くと言峰という神父は静かにこちらを値踏みするように見てきた。
「紹介が遅れたな。凛から聞いているかもしれないが私の名は言峰綺礼。この教会の神父を務めている傍ら聖杯戦争の監視役もしている」
いつのまにか、俺の足は言峰から逃れるように後ろに退いていた。
いつのまにか、俺の目は言峰から逃れたいように、注視していた。
いつのまにか、俺の拳は言峰から逃れなければと、握られていた。
…変だ。この男が持つ雰囲気は確かに人を無意味に威圧させるものではあるが、前にするだけで身体に重力がかかったみたいになっている。
言峰はカツンと俺に歩み寄りまるで卑貌しているかのように見下ろしてくる。その視線には呪力があるのか俺だけじゃなく周りの空気さえも土塊に凝固したように感じられる。
「少年…」
この男の目は神職を務めるにも係わらず、底が濁って見えない奇怪な色をしている。俺に対してなんの興味もない失せた色彩は泥に塗れているが如く。
声は職務柄なのか重たく、託宣を承った神官と同じで己の世界だけが廻っているのだと宣言しているように。
「名は…?」
審判を受ける咎人に罪状を叩きつけるが如く、己を定義する最たるモノを唱えよと。
「衛宮、士郎」
声に出された己の名は頼りない小船みたいに小さくとも、ここで黙れば負けてしまうとまで錯覚を覚える奇妙なやり取り。丹田に力を込めて、呼吸に合わせて問いかけに返す。
「えみや…しろう…?」
男の口の端がかすかに震えて喜びに歪んだ。
ぞくん、と背筋の皮膚に百足が這い回って肉を貪られたような、奇形の感触は悪寒と共に俺を見下ろす神父から発せられている。
真っ黒い泥に塗りたくられた色のない眸が、まるで蛇の如く、毒々しい見えない刃を持って、なんて禍々しく、なんて不気味な―――
教会での言峰との話は総じて不快に終わった。
言峰は苦手であり、相性が悪いというか、人間的のも誉められたやつじゃないと思う。大体あいつの言う事はいちいち人の神経を逆立てているものが多いし小ばかにされているような気がしてならない。それにあの威圧感と顔で迫られたら誰だって足を退かずにはいられないと思う。
教会前の広大な広場はずっと向こうの海から吹きつける風によってとても寒く、突き刺すような夜気の冷たさが言峰との会話で蓄積された熱や汗を冷やしてくる。
硬くなった肩をほぐすようにふぅとため息を吐いて空を見上げると変わらぬ月が煌々と夜の大地を照らしている。
「話は終わりましたか、シロウ」
「…終わった。俺が今いる現状もだいたい理解できたと思う。聖杯戦争の事も、マスターの事も。それを知った上で、俺はセイバーに頼みたいことがあるんだ」
「なんでしょうか、この身に出来る事ならば」
セイバーはこっちを穏やかに見守るような視線で見ていた。その眸はどこまでも真っ直ぐで、ただただ俺をじっと見ている。
よし、これで踏ん切りはついた。
この聖杯戦争に不安を感じないわけじゃない。
もしかしたら自分が死ぬかもしれないという恐怖もある。
でも、それでも、目の前の少女となら、この真っ暗で一寸先も見通せない聖杯戦争も駆け抜けていけるんじゃないかと、そう思った。
「俺は未熟な魔術師だけど、色々と迷惑かけると思うけど、自分の意志で選んだんだ。だから、力を貸して欲しいんだ。セイバー」
「既に私は貴方の剣となると誓った身。貴方に令呪がある限り、我が剣にかけて御身は守護しましょう」
セイバーの物言いはなんだか時代がかっていたけど、眸に宿る思いは真摯で実直、それがなんだか今まで見てきたセイバー像にぴったりだと思って少しくすぐったかった。
「じゃ、握手。これからよろしくって事で」
右手をにぎにぎとセイバーに差し出した。セイバーは目の前に出された手がなんなのか一瞬分からないようにホケッとしていたけど、おずおずと右手を重ねてきた。
ずっと外にいたせいか、その手は冷たくなっていた。あんなに激しい戦いをする少女だけど、やっぱり女の子なわけで、その手の平は柔らかくて温かく、心が触れ合えたような気がした。
ふと、視線を感じるとそこには遠坂がこちらを呆れた目で見ていた。赤い騎士も腰に手を当てて遠坂の後ろに立っていた。
ババッと手を離したセイバーと俺。その様はまるで磁石の同極同士が反発したみたいに。
心臓がばくばくと音をたてて顔は発熱してるみたいに真っ赤になっているだろう。全身の血が流れに逆らって顔に集まってくる。
「ふ〜ん。あなたたちずいぶんと楽しい事やってるのね。見てるこっちが思わず微笑を誘われるぐらい。でも人前で堂々とやるなんて恥ずかしくないの?」
俺自身が強く感じている事をコイツは情け容赦なく攻めてきやがった。このあくまめ。しかもニヤと口元を吊り上げながら確信犯的に言ったのだ。なんて性質の悪い。
「あ、なんだったら私たちもやってみましょうか、ねえアーチャー?」
「冗談はよせ。あのようなこと、逆立ちしても私には出来ん」
「そうよね。少なくともあんな恥ずかしい真似は私たちには絶対的に出来ないものね」
まるで鬼の首とったみたいにニヤニヤ笑いを張り付けている。
ぐぐ、言いたい放題だがなにか反論したらそれこそ隙を見せるだけのような気がする。やってる時は恥ずかしくないのに客観的に指摘されると恥ずかしいのはなぜだろうか。
「ま、そんなことできるのも今だけだろうから、せいぜい楽しんでみなさい。ここから別れれば私たちは敵同士だから周りに気をつけることね。もう誰かがあなたを助けるなんてないんだから」
急に真面目な顔に戻っての一言は意味がよく解らなかった。
「私たちは敵同士。衛宮くんがどれだけ闘いたくないといっても私はあなたと戦うことになるし、貴方もマスターになる事を承諾したのなら私とは戦わなければいけないの」
「なんでさ。俺は遠坂と喧嘩なんてするつもりないぞ」
「はぁ、あれだけ綺礼に言われてもぜんっぜん解ってない…」
遠坂はふぅと重そうにため息をつくとがっくりと肩を落とした。なんだかその意味不明の反応は傷つくものがあると思うのだが。
「凛」
すると後ろで事態の成り行きを見ていた赤い騎士が遠坂に話しかけた。
「このマヌケ同然のマスターは障害になりはしないがサーヴァントは別だ。どんながマスターであっても単体のみで見れば強力で優れている事に違いはない。今のうちに叩いておかなければ後々厄介な事になるのは必定だ。ゆえに凛、サーヴァントである私はマスターである君に目の前の敵を速やかに討つことを提案するが?」
なんて言ってこっちに対して身構えた。
アイツの言葉は確かに真実だろうがなんだか無性に腹が立ってくる。俺を貶している内容が悪意に塗装されているせいかもしれない。
けれど反論を出す前にズイッとセイバーが俺を押しのけてしまったからそれが叶う事はなかった。
「いい提案ですねアーチャー。私としても先程の戦闘は不本意だった。この広大な広場は決着をつけるにはいい場所だ。今すぐにでも先の続きをしても構わない。結果は変わらぬだろうがな」
「は、不本意なのはこちらの方だ。あの時お前が令呪によって止められずとも避ける法などいくらでもあった。まさかあのようなやり取りで優劣を計ったとしたのなら早計だと思うが?」
「ふ、それが早計かどうかは己が身を以って知るがいい」
そうして二人は対峙した。セイバーはばっと雨合羽を脱ぎ捨てて、アーチャーはだらりと両手を下ろして対照的に。
なんだかこっちを置いてけぼりにしていてついていけない。
「ちょっと待ってくれセイバー」
「ちょっと待ちなさいアーチャー」
同時に発された声は同じ意味を持っていた。意味は結構喧嘩っ早かったサーヴァントを嗜めるものである。
「あのなセイバー。遠坂は経緯がどうであれ、聖杯戦争について色々と教えてくれた。右も左も分からない俺に助言してくれてここまで連れてきてくれたって事で恩を感じているんだ。だからってわけじゃないけど、今ここで遠坂と戦うなんて駄目だ。いつかどうしても戦うときが来たとしても、それはもっとちゃんとした場所で、お互いが納得ずくでだ。恩を返さないまま不義理みたいなことしたくない」
「…しかし、アーチャーはマスターを侮辱した。騎士にとって己が仕える主君を侮辱されて黙っているなど言語道断。それでも構わないというのですかあなたは」
「ああ。アーチャーが俺をどう思っていようが構いやしない。だいたいあんなやつにどう思われていようが気にするだけ無駄だろ」
「…解りました。マスターがそう言うのであれば、私は退きます」
「さんきゅーセイバー」
よかった。セイバーってどっかの誰かと同じで一度言い出したらなにがあっても絶対に聞かないような融通のない性格だとばっかり思っていたから。少しだけ表情に不満の色が出ているけれど、それは俺の事を気遣っての事なので悪い気はしなかった。
こっちは一段落したのでいいが向こうの方はどうなっているのだろうかと見てみるとなにやら遠坂が激しく怒鳴っている。対するアーチャーは皮肉げな笑みを浮かべて肩を竦めてかぶりを振っている。どこか作為的なその仕草はどこか演技くさく道化めいていたがやつには似合っていた。それがまたなんとなく腹が立ってくるのであるが。
どうやら向こうもなんとか落ち着いたようで遠坂は肩を怒らせながらも話をまとめたようだ。その後ろではアーチャーがぶつくさと文句を言っている。
「…ふぅ、凛。君は優秀な魔術師だが少し甘いな。わざわざ目の前に御しやすい相手がいるというのに見逃すとはな。確かに衛宮士郎ていどの相手であればいつでもしとめることが出来ようが…」
「なに、まだ私の決定に文句があるって言うの?だったらはっきり言っておきなさい。聞くかどうかは分からないけれどね」
「いや、ない。私は君をマスターとして認め、君のサーヴァントである事を誓った身だ。これ以上は凛の意向にも逆らう事にもなるのでね、私としてもそれは避けたい。なにか用が出来たら呼ぶのだな。それまで私は消えておく」
赤い騎士アーチャーは最後にこれみよがしとばかりにため息をしくさりながら姿を消していった。いきなり姿を消したという事は霊体になったのだろう。ただ見えないだけで今も遠坂のすぐ側にいるのだ。
「じゃあ、そういうことだから。次に遭ったら出来同士。死にたくなかったらなるべく外出は控える事ね。あなたじゃ一歩外に出ただけで殺されそうだから」
ふんと最後に忠告だか貶しだか判断できない言葉を長い髪を翻し、遠坂は歩き出してしまった。
「ちょっと待ってくれ遠坂」
「なに、まだ聞きたい事でもあるの?それなら教会に戻って綺礼にでも聞きなさい。私よりもアイツの方が暇だろうから。これでも忙しいのよ、他のマスターでも捜して一人二人倒さなきゃ気が済まないし。今日は余分な事をしちゃったから時間がなくなっちゃったし」
いや、そんな事を言いたいために呼びとめたんじゃない。
遠坂は俺とは年期も違う本物の魔術師で、俺に今起こっていることを説明したり、ここに連れて来たことも、はっきり言えば全て意味のないことだ。だけど遠坂はその意味のない余分な事をしてしまっている。それは衛宮士郎というなにも知らない無知な人間に現状を把握させるためだけにしたことだ。俺がどんな道を選ぶ事になろうともそれは本人しだいだが、そこに至る道を手探りすることさえ出来なかったのだから。
普通の魔術師ならばそんな未熟なマスターを格好の獲物として真っ先に殺しにかかるだろうが遠坂は違った。むしろ手を差し伸べてあくまで公平に、一人の人間としてこの先をどうするかを選ばせた。それは、本当に余分な事で、余計な事以外の何物でもない事なんだ。
そう考えると、なんだか心の奥がストンと洗濯されたみたいになった。それなら俺は絶対に礼を言うべきで、感謝をするべきなんだと。精一杯の念を持って。
「いろいろありがとう。俺、右も左も分からなかったけど、遠坂のおかげでなんとかやっていけそうな気がしてきたから。だから、礼を言うんだ。ありがとうって」
「は―――」
眉をひそめてなんだか驚いたみたいにこっちを見てくる。
「うん。遠坂と戦うことになるかもしれないってことも解ってるけど、できれば遠坂とは戦いたくない。俺、遠坂みたいな気持ちのいいやつは好きだから」
「な、あ、あんたねぇ…」
それきり口を開け閉めしてから遠坂は一切黙った。俺としては当然のことを言ったつもりで変なこと言った覚えはないんだけど。
広場に吹く風は冷たくて強くても、さっき思ったことは忘れないだろう。
遠坂凛って女の子がいいやつなんだって事は。
「なんかよく分かんないけど、あんたはもう帰るんでしょ。ならさっさと帰んなさい。あの子が心配してるでしょうし。とりあえず、ここまで連れて来たのは私だから、下の分かれ道までは面倒見るわよ」
本当、いいやつだな。さっきちょこっと知り合った赤の他人のことまで考えてるなんて。
クルリと髪を靡かせてながら鮮やかに反転した遠坂はずんずんと歩き出した。坂の下まで降りてしまえば俺たちは敵同士になってしまうのだろうけど、やっぱり戦いたくないな、なんて思ってしまうの悪い事だろうか。
遠坂が自分たちは必然の敵対関係だと言ったのだからもう変えることは出来ないだろう。なにしろ余計な事を余計な事と知っていてもそれを実行したやつだ。その意志は容易く曲げる事は出来ないし、そもそも曲げられない。
それでも、さっきのあの心地よさは清涼の風みたいだったから、もう少しだけ感じていたいと思うのだ。
先行した遠坂を追う形で俺とセイバーが後に続く。会話はないけど、俺だけが感じている気持ちかもしれないけど、沈黙は痛くも辛くもなかった。
だが、それは―――。
「あれ、もう帰っちゃうの。二人とも」
幼い声。坂の上。風の切れ目に
語りかける声は影絵の町を舞台にした妖精のものなのか。歌うように軽やかに、これから一緒に踊りませんかと錯覚すらさせる。
空からは切れ切れの雲間にこちらを見下ろす月が、うっすらと浮かび上がる少女の幻想を照らし出す。
その傍らに、ありえてはならない、死を撒き散らす巨躯なる鬼を従えて。
ズグン―――――心臓が高鳴る。
ズグン―――――呼吸が乱れる。
ズグン―――――眩暈が起きる。
月光を受けて銀灰色に輝く白銀は長く長く、風に揺れる狭間に透ける銀髪。
身に纏うコートは羽ばたく羽にも見えて、妖精人形みたいな容貌によく似合っていた。
背後に従うは漆黒巌の巨鬼。
闇夜に灯る眸は薄紅色。自然界に発現するはずのない色はまさにこの世のものではない。
その表情は楽しげに、嬉しげに、けれどいささかも動く気配はなく、ただただ薄笑みを浮かべるだけ。
まるで本当の人形みたいに。
どうして、なんで、ここに、おれは、だれが、おまえは、だれを、ほんとうに。
「こんばんはお兄ちゃん。ちゃんと呼べたんだね」
その声に、おれの正気は取り戻されていた。
ちらりと傍らのセイバーを見て少女はそんな事を言った。
既にセイバーは臨戦態勢に入っている。表情には怖れも慄きもなく、ただ眼前の敵を排除する意志に満ちている。
「バーサーカー…」
呻く声は遠坂のものだった。
油断なく少女と巨人を睨みつけていても感じ取れる絶望感は拭えない。
バーサーカー。それはこの聖杯戦争において呼び出されるサーヴァントの一体。狂える戦士となりて破壊を撒き散らす恐怖の権化。
その名の通り、アレは狂える者だ。ただ突っ立っているだけだというのにその圧力は常人ならば圧死しかねない。
俺だってあの巨躯から放たれる圧倒的な死の気配を感じ取れているのだから遠坂の方は言うまでもないだろう。そう、あの遠坂でさえ巨人から感じられる重力のような死の予感に圧されているのだ。
しかし、今日俺の知った遠坂凛はこれぐらいで絶望し、抵抗する事を諦めてしまう柔なヤツじゃない。その証拠に眸には鋭い気力が溢れ、これから起こるであろう闘争に備えて少女の動作を見過ごすまいと睨み見据えている。
「アーチャー。あれは正直、図抜けてるわ。真正面からじゃ絶対に勝てない。貴方は貴方の本来の戦い方でやってちょうだい」
「了解した。だが守りはどうする。並みのサーヴァントでもあれの一撃は防げんぞ。それほどまでの威圧だ。サーヴァントでそれなのだから君では防げようはずもない」
「大丈夫。こっちには並じゃないのがいる。凌ぐだけならなんとかなる」
それだけで分かったのか、アーチャーの気配は頷くとさっと霧散した。
「今日は挨拶をしに来たの。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。聖杯を貰い受けるのはアインツベルンの義務だから」
以後、お見知りおきをと行儀よくスカートの裾をつまんでちょこんとお辞儀した。
アインツベルンと少女は言った。その言葉、遠坂も心当たりがあるのか小さく反応した。俺も、聞き覚えがあった。どうしてその言葉が今ここで出てくるのか。それは、間桐の臓硯氏が言っていた言葉ではなかったか。
だが、俺が一番、目を奪われていたのはそんな事ではない。そんなことではない。そんなことではない!
そう、それよりもその動作、どうしてそんなに。
銀色の長い髪の毛。
少しだけ赤みがかかった大きな眸。
妖精の唄のように澄んだ声。
俺は少女が自己紹介している間、ずっとそんなことを考えていた。
幻影が現実のものとして捉えられ、俺には少女がよく知る誰かの雰囲気そのままだと。
そう、どうしてそれほどまでに、似ているのかと。
「やっちゃえバーサーカー。今日は挨拶だけだから手加減してあげてね」
少女は満足そうに、歌うように、踊るように異形の鬼に向かって命令を下した。
背後の巌の塊は彼女の声に応じてゆっくりと動き出した。
その身体中に、圧倒的な破壊の暴力と死の匂いを漂わせて。
巨大な重圧を伴って飛び降りてくる様はまさしく石岩怒涛のがけ崩れ。違うのは崩れるような脆さなど塵芥もない正真正銘の暴力の化身としてのあらぶる姿。
まるで隕石が落下してきたのかと錯覚させるのはバーサーカーがまさしく巌そのものだからか。
黒い砲丸は黒い榴弾と化して直線に突進してくる!
「シロウ、下がって…!」
飛び出す姿は対照的に銀色の鋼と刃金を携えて疾風のように。
バーサーカーは自身と同じ色をした斧剣を膂力任せに振り絞る。
セイバーのような小柄な少女にどうしてそれを防ぐ事が出来ようか。身長差など考えるのも馬鹿らしい。いわんや体重などもってのほか。あの体格差の前ではランサーの時のようにはいかないのは明白だ。
音速を超えているのか剣を振る後にその音が聞こえてくる気さえしてくる。
「グッ…!」
なんとかという形容が相応しい姿で斧剣を相殺たが勢いは殺しきれず、そのままに坂の上まで一気に吹き飛ばされた。
「アーチャー、援護!」
遠坂の命令にあわせて上空から飛来するのは銀線の矢。その速度はもはや弾丸以上か。バーサーカーには剣を戻す暇など与えられず、またアーチャーもそんな暇を与えるほどに余裕があるわけではないだろう。
矢は狙い誤ることなく突き刺さる。
その直前――ー。
大気が荒ぶる鬼神に恐れ、震え、怯えた。
突き刺さる矢をなんら気にすることなく黒の鬼神は吼え猛り、来る闘争の喜びに身を任せる。
信じられない。アーチャーの矢は全て直撃だったはずだ。なのにあれは全くの無傷だ。あれだけの矢を打ち落としたわけでも掻い潜ったわけでもないのに無傷とは悪夢でしかありえない。
「うそ! あの攻撃でダメージを受けていない!?」
遠坂も驚愕を表情に浮かばせながら目の前で展開される事態を目に焼き付ける。
そのままバーサーカーはセイバーに再び迫らんと黒い暴風となって駆け始める。
冗談じゃない。こんなのとやり合ったらいくらセイバーでも殺されてしまう。
けれど、剣を握りなおし、再び構えるセイバー。その眸が、一瞬だけ、俺と合った。その目がなにを言っているのかは解らない。
雄たけびを上げる鬼神はセイバーに剣を叩きつけ、またしてもセイバーは吹き飛ばされた。だが、今度はそのままでは終わらない。唸りを上げて迫る大剣を渾身の力で弾き飛ばす。
「――――――――」
その姿に、息を呑む。
あの巨体とは比べるべくもない小さな体躯、だれが見てもそうと解るほどの体格の不利。それをものともせずに立ち向かう姿に、見惚れるほか、なかった。
火薬の炸裂の如き音は二人の剣が打ち合う爆破の音色だ。バーサーカーの剣が力で攻めてくるならばセイバーは速さと技で対抗する。
その一瞬の、攻防の隙間。またもや銀の光が闇夜を切り裂いて巨大な力を射し穿つ。今度は眼球、関節の節目、頚動脈。その三点を狙っての乱れ矢。相手がどんなものであろうと人間と同じ構造をしているのなら確かにそれは弱点となりうる。
ガガガンと削岩じみた矢はたしかにバーサーカーを怯ませたのだろう。そして、その瞬間を見逃すセイバーではない。
「―――終わりだ………!」
ギュンとしたから掬い上げる斬撃が狙うは巨躯の肉体の首筋。どんなサーヴァントであろうとも首を落とされては世界に繋がれない。
不可視の剣が破壊の権化すら薙ぎ払わんと風さえ断ち切って切り捨てる。
「■■■■■■■■■■■■!!!」
どんな相手であろうとこの剣閃はかわせないと確信した。
けれど、アレは俺の常識など、セイバーを、遠坂を嘲笑うが如く。
かわすこともなく、自身の肉体のみで、その鉄塊をもって弾き飛ばしたのだ。
「……………っ!?」
彼女が叩き込んだ衝撃はそのまま彼女に全て返ることになり、勢いあまってバーサーカーから吹き飛ばされる。ぐるん、と中空にて体勢を直すセイバーだがそのような隙、あの狂戦士が見過ごすはずがない。
さらなる雄たけびを上げ、セイバーを殺しにかかる黒い暴風。
渦巻く暴力を掻き消そうとする幾つもの銀光。
だがあの巨人にとって台風の前の微風にすぎないそれでは突進の一部でも力を削ぐことは出来ない。
構うことなく振りかぶられる大剣はまさにセイバーを仕留めるものだ。
だが彼女は微塵もうろたえることなく、自身に下ろされる圧殺の一撃をそのままに。
真正面から、斬りあわせた。
再び、今度は吹き飛ばされるのが生易しいほどの、空を撃ちぬく弾丸めいた速度で、視界から外れ、荒地へと叩き込まれた。
あれは、どうしようもないほど、絶望的な一撃だ。俺から見ても、どこからみてもどうしようもないほどに。
まだ闘争を欲しているのか巨人は巨躯を轟かせながら荒地へと疾駆していった。
「アーチャー追って。衛宮くん。セイバーがアレを引き離したなら逃げたほうがいい。あのガキ、本気で私たちを殺すつもりだから。少し経ったら教会に行きなさい。いいわね」
そう言い残して、遠坂も坂を走り始め、あっという間に消えてしまった。
俺は、どうするんだ。遠坂は逃げた方がいいと言ってきた。だけど、本当に俺は逃げてしまうのか?セイバーが戦っていたというのに、俺だけが逃げてもいいのか?遠坂だってバーサーカーを追っているというのに、俺だけが。
あの絶望の塊みたいな巨人にはどんな攻撃も通用していない。それはセイバーの剣だろうとアーチャーの弓矢だって同じ事だった。二人の持つ武具と力を持ってさえ、傷一つ付けられなかった相手だ。なら、ここで逃げ出しても、それは普通の事じゃないのか?
その考えを殴り飛ばして前を向いた。
冗談じゃない。冗談じゃなかった。俺は、衛宮士郎は進んで聖杯戦争に参加したんだ。あの時思ったじゃないか。セイバーと一緒なら、なにがあっても大丈夫だと。ここで逃げてしまえばそれはセイバーを見捨て、自分さえ裏切るという事になるんだぞ。遠坂だって、迷うことなくアイツの後を追って行った。なのに、俺だけが逃げ出すだって?ふざけるなっ。いつからそんな下らない事を考えるようになった!衛宮士郎っ!
結論は容易く俺の身体を後押しした。
差し出した手と、差し出された手があった。聖緑の眸は信用と信頼を―――。
俺だって、お前を信用して信頼した。
差し伸べられた手と、それを握った俺の手。鳶色の眸は逃げたほうが得だと―――。
それは、お前だってそうだろうが。
『士郎は、士郎らしくしていけばいいさ』
記憶の底から引き上げられる、俺を支えてくる声。
そう、俺は俺らしくしていけばいい。
なら、どうするかは、決まっているじゃないか!
俺が言ったところで何かが出来るのかわからないけれど駆け出した。あの荒地に向かって。なにも出来なくても見届けることは出来るはずだから
だっと荒地に駆け込む、そこには想像通りにセイバーを切り伏せ、今まさに遠坂を始末しようとする巨人の姿が―――。
なかった。
それどころか俺の予想とは全然違った方向に向かいつつあるのを俺は阿呆みたいに突っ立って見ていた。
「ちょっとあんた。なにボケッと突っ立てんのよ。そこにいたら巻き添えになるかもしれないでしょ!」
がーっと怒鳴り声を上げて遠坂が俺の手を引っ張って木陰に連れて行った。俺はされるがままにぼんやりと目の前で繰り広げられる戦いを見ていた。
砕け散る巨大な石塊は乱立する墓場の石碑。
薙ぎ払われる旋風はそれこそ当たれば簡単に命を消し去る魔風だ。
無造作に振るわれる巨人の大剣はまるでバターか何かのように容易く重く硬い石を削り取っていく。咆哮をあげるバーサーカーに変わりはない。先程までと同じように圧倒的な破壊を撒き散らしているだけだ。
そう、変わったのはセイバーの方だ。
不規則に飛び交う石礫はまるで彼女を避けていくかのように、巨人の周りを飛び回っている。それはまるで、王を守る軽騎兵みたいに。
例え容易く破られるような守護方陣であろうと守りは守りに違いない。戦場を掛ける少女騎士には一寸の隙間でもそれは絶対の防護となる。
バーサーカーの攻撃は尽く空を切り、セイバーは確実にバーサーカーを翻弄するまでになっていた。ちょうどさっきの構図とは逆になっている。
あれほどまでに差があると思われた彼らの溝はこの場に来て逆転している。小柄なセイバーは障害物を障害物と認識してないみたいに自由に動き回る事が出来るがあれほどの巨体を持つバーサーカーには邪魔しかない。
コンマ以下の遅れであっても動作に支障が出るのはバーサーカーであっても同じらしい。そして、セイバーがそこを見逃すことなんてあるわけがない。
「あのバーサーカーをここまで翻弄できるなんて…」
遠坂の声は繰り広げられている戦いに気を取られていて覇気がなかった。けどそれは俺も同じ事。あんな破壊の巨人を、絶望を前にして冷静に戦えるセイバーを凄いとか強い思う以上に、なんて尊いのだろうと、思っていたのだ。
勝機などまるで見出せなかったのにここに来てセイバーの動きはさらに煌きを増している。
「彼女、始めからここを交戦点に決めていたみたいね。吹き飛ばされたのはわざとか…」
「本当か?」
「当たり前でしょ。運良く吹き飛ばされた先がこんなセイバーのために用意されたみたいな場所だなんて出来すぎてる。機動性に優れるセイバーにとっては絶好の空間だもの」
何気なく歩いて進んでいた時でもセイバーはそんな事を考えていたのか…。俺は漠然とこの先を考えていただけでちっともこんな事を考えていなかった。
「でも、状況は相変わらずバーサーカーに有利ね」
「ああ。セイバーの剣が効かないんじゃどうしようもない。バーサーカーだって単調な攻撃の繰り返しをするはずがない。そのうちセイバーは捕まる」
そう、セイバーだって体力に限界はあるだろう。なのにバーサーカーにはまるで攻撃が効いているように見えない。交わし続けるセイバーと、交わさなくてもダメージのないバーサーカーでは明らかにセイバーが不利だ。
「そこまで分かってるのになんで逃げないのよあんたは。待ってる人がいるんでしょうに」
「綾のことか?あいつなら俺が逃げ出した事を知ったら絞め殺してくるぞ。一度決めた事をすぐに撤回するとは何事かって」
「…人は見かけによらないのね」
「逃げた方がいいっていったのは遠坂なのに遠坂だって逃げてないじゃないか。女の子が逃げてないのになんで俺だけが逃げ出さなきゃいけないんだ。冗談じゃないぞ、そんなの」
前時代的だろうとなんだろうと言われようと、そこだけは譲ってはいけないラインだと思う。男は女の子が傍にいる場合、逃げてはいかんのだ。
「…衛宮くんって早死にするわね。逃げてもらわないと意味がないじゃない」
ほっといてくれ。俺もそんな気がしているんだから。
戦況は膠着している。セイバーは相変わらず鋭い動きでバーサーカーを翻弄し続けている。言葉だけならセイバーに有利そうな状況だがそれとは反対に彼女は追い詰められている。バーサーカ―に対して有効打が見出せない限り彼女の劣勢は変わる事はない。
ここにいると、自分の無力さが恨めしくなってくる。こんな戦いに首を突っ込めば即死するのは想像するまでもない。セイバーがあの時俺を見たのは上手く逃げてくれと言う合図だったのだろうがそんな事は出来やしない。彼女と一緒に戦っていくと誓ったのだ。だから、ここにこうしている。
だけど、それは、これ以上どうにもする事が出来ない事を雄弁に物語っている事でもある。出来る事ならあの間に入って行ってなにか手助けしてやりたい。しかし、そんな手段はないからこうしているのが最善なのだという事はよく分かっている。俺が出て行くことは何よりも彼女の負担になる。
不甲斐無さに歯噛みする。セイバーはランサーとも戦って傷を負ってしまっているのに、俺は彼女の傷を癒す事も出来やしない。
「そういえばアーチャーはどうしたんだ。あいつならあの状況でも割って入れるだろ」
「どうって、そんなの…」
セイバーとバーサーカーの戦いを観察するように解説していた遠坂が不意に宙に目を投げ出した。
その先に、どうしてか、見えるはずのない、赤い人影が、研ぎ澄まされた殺意を、戦場に向けて放とうとしている。
「は…? その場から離れろ? いったい、あんたなにするつもり…」
遠坂の言葉は最後まで聞くことはなかった。
どうしてかって、あの殺意の塊の方向は決してバーサーカーという猛威だけに向けられているわけではないのがありありと伝わってくるからだ。
背筋を駆け上る悪寒の原因は超高速でバーサーカーと打ち合いを続けているセイバーにも放たれているのだ。
「離れろっ、セイバー!」
何者も介在できないあの戦場に向かって駆けた。
俺が行った所で無駄死にしかならないかもしれない。バーサーカーの近くに寄るだなんて考えただけで怖気がする。だけど、走らずにはいられなかった。アーチャーが構えているのはヤツの名を顕す射殺すモノでありソレに番えられているのは矢ではなく、もっと危険極まりない何かだ。
「っ、―――マスター!?」
驚愕する顔には信じられない形が浮かんでいる。俺が死しかない戦場に足を踏み入れた事が文字通り信じられないのだろう。だが、このままではセイバーがどうにかなるのは確実な未来と断定してもいい。アーチャーはなにか途轍もない事をしでかそうとしている。
「なにを―――っ!?」
と、言いかけてセイバーの言葉はピタリと止まった。俺の見ている方向から矢の如き殺意が大気に乗って伝わってきているからだ。
眸が細く睨まれる。その先にはいまにもこちらを打ち抜かんとする赤い弓兵の姿がある。
「こっちだ。すぐにこの場を離れるんだ!!!」
死ぬとか生きるとかは全く頭に浮かばなかった。今はただ目の前の少女に危険を知らせるのが精一杯で―――。
伸ばした手をつかまれた。そのままグイと引っ張られて中空をほとんど滑空するように動いて聞く周りの景色。セイバーが即座に危険性を看破してその場を離脱したのだ。しかし、あの狂戦士がそのような隙、見逃すはずがない!
動く黒い鋼の塊は俺たちを追撃しようとして―――止まる。もし、バーサーカーに表情というものがあるのならそれは恐らく驚愕に類するものであろう。あの、圧倒的な『力』の塊が背後を振り返るほどにとんでもない威力を秘めた矢が放たれようとしている!
流れていく時間の中で俺はあいつを見る。
数百メートルは離れているのにどうしてか鮮明に視えてしまう。番えられた矢は矢とは呼べない。その形状は刺突の装飾剣のよう。塚から螺旋を描いた刀身はまるで童話か御伽噺に出てくる一角獣の角みたいで。
どうしてかどくんと胸が一際高く、鼓動する。
感覚がひどく引き絞られていく。あいつの弓矢と連動しているみたいで不快だ。セイバーに手を引かれている感覚は遠くなっていくのにアーチャーの動きにだけは一部も見逃さないとばかりに注視している。俺の意識を総動員しても引き剥がせそうにない。
ただ、ゆっくりと動くアーチャーをじっと見ていた。
―――そして、異形の“矢”が放たれた。
俺もセイバーも離脱しきれていなかった。まともに爆風が背後から迫る様子はまるで死神と協奏しているよう。逃げ回る俺たちを今にも飲み込まんとする焔の波。
「―――くぅ!!!」
揺れる大地。
暴力の熱風。
白熱する光。
破壊の威に辺りの全てが吹き飛んだ。
耐え切れずに浮き上がらせられ、地面に受身も取る事が出来ずに叩きつけられる。どうにかセイバーを下に組み伏せて亀のように丸くなった。破砕した土や石、木々の欠片が鋭い刃となって俺たちに降りかかるのを少しでも少なくしようとした結果がこの状態を選択した。
抱えるように手を頭上に回す。運が良かったのか悪いのか、ちょうど右手になにかが突き刺さった。途端に血の匂いが鼻元まで垂れ下がってくる。
あまりの爆発音に耳が馬鹿になったようでキィンとした硬質の硝子細工。指先で弾いた時を停止したらこんな風になるだろうか。音によって生じた振動によってか頭の中でオーケストラでも開催されたようにガンガンと頭痛がする。
息を呑む声。
「―――嘘だろ」
呆然とした声に力はもはやない。
出鱈目な一撃は出鱈目な威力をもって出鱈目な惨状を造り上げている。ちょっと前まで墓地だったそこはもはや墓地の墓場だ。個人を葬るための墓こそが綺麗さっぱり葬り去られてしまっている。
被害の中心であった場所には擂鉢上のクレーターが穿たれ、元の形など残っているものはないはずであった。そう、ないはずだった。
そんな出鱈目の一撃を受けてなお、狂った戦士は健在であった。
以前となんら変わることのない異形はその場でただ一人立ち尽くし、周囲を卑下するかのように微動だにしない。
「あはは、なかなか楽しかったね。今夜は。喜劇を作ってくれたアーチャーに免じて見逃してあげる」
銀色の少女が何処からとも声をあげる。
俺も遠坂もセイバーも何も言えない。確かに、この状況では見逃されているとしか言いようがないからだ。あの一撃をまともに受けてバーサーカーには傷一つないのだから。
「ずっとずっと待ち続けてた。この為だけに待ち続けてた。すぐに終わってしまってはつまらないものね。戻りましょうバーサーカー。城に帰るわ」
黒い巌が炎の中で影を揺らがせる。
こちらに興味を失ったように巨人は動き出す。
「…どういうつもり?」
「言ったでしょう。ゲームはすぐに終わってはつまらない。だから、まだ生かしておいてあげる。もっともっと楽しませてくれるまで」
巨人がのっそりと動くさまは先ほどまでの戦闘が嘘のようにずんぐりとしていた。その巨大な姿の傍らに銀色の少女が表れ出でる。
「それじゃあまたね。おにいちゃん。今度会うときはもっと一緒に遊びましょう」
後ろを向いて炎の向こう側へと去っていった。
火の燃え広がる音だけがやけに耳についている。まるで、まるで十年前を再現したみたいで悪寒が速やかに身体を洗脳していく。
「―――お怪我はありませんかマスター」
「…とりあえずは、大丈夫、かな」
そう言いながらも全身からとめどなく流れ落ちる脂汗は俺から立ち上がる気力も奪い取っていく。まるで血がゆっくりと逆流しているみたい。
目の前の現実がふら付いているよう。景色は明瞭なのに感覚は曖昧でどうにもこうにもはっきりとしない。俺だけ全身の運動が他の皆よりも後れてしまっているように感じてしまう。
それは、なんのせいなのか。
背中に細かい石変や木片が突き刺さっているせいか。目の前でアーチャーの矢とも呼べない歪な剣が雨細工みたいに溶けていったことか。それとも炎に炙られる墓場が十年前を忠実に模写している事か。それとも、あの少女に幻影を見た所為なのか。
…身体中が震え出してきた。腰を下ろしたままの格好なのに俺は震え出している。
唐突に意識が薄くなっていって俺は懐かしい生誕を意識する。正確には、生まれ変わる前の、衛宮士郎でなかった頃の最も古い記憶の終わりであり衛宮士郎の最も新しい記憶の始まり。焔の降りしきる火災の傷跡の中で、黒い杯を背にしたソレはいったいなんだったのかと幻想し―――思い出せない記憶のそこに俺は沈んでいった。
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